主日礼拝

人となった神

「人となった神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章14節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第2章14-18節
・ 讃美歌:

聖霊による処女降誕
 使徒信条の第二の部分に導かれて、聖書のみ言葉に聞いています。第二の部分は、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と始まっています。父なる神の独り子であるイエス・キリストを私たちの主として信じることが、教会の信仰の二つ目の柱なのです。そして第二部はそれに続いて、主イエス・キリストのご生涯を語っていきます。本日からそこに入っていくのです。
 先ず「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」とあります。主イエスの誕生のこと、クリスマスの出来事が見つめられているのです。主イエスは母マリヤ(今の聖書では「マリア」ですのでここからは「マリア」で行きます)から生まれました。マリアはヨセフという人と婚約していましたが、まだ一緒になる前に、聖霊によって身ごもり、主イエスを産んだのです。「聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」とはそのことを語っています。つまりいわゆる「処女降誕」という奇跡です。ルカによる福音書第1章にはマリアへのいわゆる「受胎告知」が語られています。天使がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は偉大な人になり、いと高き神の子と言われる」と告げたのです。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。すると天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言いました。この天使の言葉の通り、男性と関係を持っていないマリアが、聖霊の力によって身ごもり、「聖なる者、神の子」である男の子を産んだのです。マタイによる福音書には、このことが夫となったヨセフの視点から語られています。婚約者であるマリアが、自分と関係していないのに身ごもったことを知ったヨセフは、マリアが自分を裏切ったと思い、もう結婚はできない、縁を切ろうと思ったのです。そのヨセフに天使が現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。この子は自分の民を罪から救う者となる」と告げたのです。そして天使は、このことは預言者が告げていたことの実現である、と語りました。その預言とは、先ほど朗読されたイザヤ書第7章14節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」です。インマヌエルとは、マタイ福音書に語られていますが、「神は我々と共におられる」という意味です。神が私たちと共にいて下さる、その救いを実現する救い主をおとめが産むことをイザヤ書は預言していたのです。つまりそれは神のご計画によること、神のみ心でした。父なる神は、マリアが聖霊によって身ごもって男の子を産むという仕方で、ご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、救いのみ業を実現して下さろうとしておられたのです。ヨセフはこの天使の言葉を聞いて、マリアを妻として迎え入れました。そして「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と語られています。つまりマリアは、処女(おとめ)として主イエスを出産したのです。
 このように、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」ということは、クリスマスの出来事を語っているマタイ、ルカ福音書の両方に語られています。このことは主イエスの誕生について聖書が語っている重要な事柄であって、スルーすることはできないのです。それゆえに使徒信条にもそのことが語られているわけです。しかし私たちはこのことをどう受け止めたらよいのでしょうか。「聖霊による処女降誕」というのは大きな奇跡です。そんなことすぐには信じられない、というのが私たちの正直な思いでしょう。動物の中には、雄と雌との結合なしに子孫が残されていくケースがあることを私たちは知っています。しかし人間においてはそんなことはあり得ない。妊娠、出産は必ず、男女の肉体的関係によって起るのです。マリアが出産したからには、彼女は誰かと肉体的関係を持ったとしか考えられません。ヨセフもそう思ったから、縁を切ろうとしたのです。また主イエスのご生涯の間にも、あれはヨセフの子ではなくて、マリアが罪を犯して生まれた子だと悪口を言っていた人がいたようです。「処女であるマリアが聖霊によって主イエスを産んだ」ということを信じるのは困難なことなのです。

処女降誕の奇跡は何を指し示しているのか
 この「処女降誕」に代表されるように、聖書には私たちがなかなか信じることのできない奇跡がいくつも語られています。それらをどう受け止めるかは、聖書に基づく信仰における一つの大事な課題だと言えます。これらの奇跡を、「このようなことは科学的にどうなのか」と考えている間は、聖書が語っていることを理解することも、正しく受け止めることもできません。聖書に語られている奇跡は、それぞれがある事柄を、さらに言えば神のあるみ心を指し示しているのです。その「事柄」「神のみ心」を読み取ることが大事です。奇跡物語の表面的な内容にひっかかって、「こんなことあり得ない」と思ってしまうことによって、その話が指し示している事柄を見つめることができなくなってしまうとしたらそれは勿体ないことです。以前に、使徒信条の第一部の「天地の造り主なる神を信じる」ということころでも申しましたが、科学が語っているこの宇宙や地球の成り立ちや生物の進化ということと、聖書が語っている神による天地創造の話とは、どちらかが正しくて他方は間違っている、というものではなくて、扱っている事柄が違うのです。その違いを弁えて読むことが大事です。聖書は、聖書が扱っている事柄に即して読まれ、解釈されなければならないのです。そうしてこそ聖書を正しく理解することができるし、そこに語られている真理を知ることができるのです。奇跡の話もそれと同じです。その奇跡が扱い、語っている事柄を理解しなければなりません。本日のことで言えば、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」ということによって聖書は何を語ろうとしているのか、です。それをご一緒に考えていきたいのです。

マリアは罪のない人だった?
 教会はもちろんそのことを昔から考えてきました。「処女降誕」の奇跡は教会の歴史において様々な捉え方がなされ、そこからいくつかの間違った教えが生まれていったのです。具体的にはこの奇跡は、男女の肉体的関係、要するにセックスを汚れたこと、罪とする考え方と結びつけられて捉えられました。神の子であり救い主である主イエスは、性行為という人間の汚れた罪の結果生まれたのではなくて、聖霊によって、肉体関係など持ったことのない処女から生まれた。だから主イエスは聖なる方、罪のない方なのだ。処女降誕の奇跡は、主イエスが清い母から生まれた清い方、罪のない方であることを示している。そういう捉え方がなされたのです。その根本には、性行為は汚れたこと、罪であって、そこから遠ざかるのが清く正しいことだ、という考え方があります。それによれば、性的な欲望を断つ禁欲に、神の前での清さの大切な現れがある、ということになります。そのような清さを持っている人の代表として、主イエスの母マリアが崇拝されるようになったのです。そしてそのようにマリアを崇拝する思いから、マリアは生涯にわたって処女であった、という伝説が生まれました。聖書には、主イエスのきょうだいの存在が語られています。つまり主イエスが生まれた後、ヨセフとマリアの間に生まれた弟妹たちがいたのです。にもかかわらず、マリアを「永遠の処女」として、いわゆる「聖母マリア」として崇拝することがなされていきました。そのことはさらにエスカレートして、マリア自身が、生まれた時から原罪、つまり最初の人間アダムとエバの罪以来人間誰もが生まれつき持っている罪、を持っていなかった、という教えが生まれました。それは「マリアの無原罪懐胎」、つまりマリアはその母の胎内に身ごもられた時から原罪のない清い存在だった、という教えで、カトリック教会の正式な教理となっています。そしてその原罪のないマリアが最高の「聖人」として、神と私たちとの間を執り成してくれる、と考えられるようになったのです。このような「マリア崇拝」は、「処女降誕」という奇跡を、性行為という罪とは無縁だった清い人であるマリアが主イエスを産んだ、という出来事として捉えることから生まれたのです。
 しかし「処女降誕」をこのように捉えるのは、聖書全体から見て正しくはありません。確かに、神のみ心ではなくて自分の思いに従って生きる罪に陥った人間の歩みにおいて、性的な欲望がその罪と深く結びついており、いろいろな問題の原因となっていることは事実です。「十戒」においても、「殺してはならない」に続いて「姦淫してはならない」と語られています。姦淫は殺人と並ぶ大きな罪であり、性的な欲望を制御することは神に従う信仰の歩みにおいて大事なことなのです。しかし聖書は、男女の性的な関係やその欲望それ自体が罪であるとは語っていません。むしろ神が人間を男と女として造って下さり、「産めよ、増えよ」と言って下さったのです。つまり性行為とそれによって子どもが生まれることを神は祝福して下さったのです。そのために神は、一人の男と一人の女が結婚して夫婦となり、向かい合って共に生きていく、という秩序を立てて下さいました。それは、男女の肉体的関係は単なる欲望を満たす行為ではなくて、パートナーとして共に生きる人格的関係の中でこそ祝福されたものとなる、ということです。そこにおいて性的な肉体関係は決して清くない、汚れたことではありません。ですから処女降誕の奇跡を、性行為は汚れた罪だ、主イエスはそういう罪によってではなく、罪のない処女マリアから生まれたのだ、ということとして捉えるのは間違いです。この奇跡は、主イエスの母マリアが罪のない清い人だったことを示そうとしているのではないし、それによって主イエスが罪のない方だったことを示そうとしているのでもありません。

主イエスはまことの神
 それでは、この奇跡は何を示しているのでしょうか。私たちはここから何を読み取ればよいのでしょうか。「主は聖霊によりてやどり」は、母マリアはヨセフという男性によってではなく、聖霊によって主イエスを身ごもった、ということを語っています。つまり、主イエスの誕生において、男性の関与はなかった、それは聖霊のお働きによることだった、ということです。天使はまさにそのことを、マリアとヨセフに告げたのです。つまり処女降誕という奇跡が見つめているのは、性行為があったかなかったかではなくて、主イエスの誕生が男性によることではなくて聖霊によることだった、ということなのです。聖書においては、これは昔の人々の感覚に基づくことですが、男性が人間を代表していました。ですからこれは、主イエスの誕生は人間の力によるのではなく、聖霊の力によることだった、ということです。主イエスは、人間の力や働きによってではなくて、聖霊の力によって、神のみ業によってこの世に生まれたのです。それは主イエスが神の子であられることを意味しています。マリアは聖霊の働きを受け、いと高き神の力に包まれて、神の子、つまりご自身がまことの神である独り子主イエスを産んだのです。処女降誕の奇跡はこのように、主イエスが神であられることを先ず第一に指し示しているのです。

まことの人間として生まれた主イエス
 しかしそれだけではありません。その主イエスは、天から雲に乗って来たのでもなければ、川を流れて来た桃から生まれたのでもなくて、マリアという一人の人間の女性が身ごもって出産したのです。主イエスは私たちと全く同じに、お母さんのお腹から生まれて来たのです。それは主イエスが私たちと同じ一人の人間として生まれ、この世を生きた、ということです。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」ということが指し示している第二のことがこれです。つまり聖霊による処女降誕の奇跡は、主イエスが、まことの神であられる方としてお生まれになったけれども、同時にまことの人間として生まれ、この世を生きて下さったことを指し示しているのです。主イエスはまことの神であられ、同時にまことの人間であられる、このことこそ、処女降誕の出来事が指し示している事柄であり、そこに神のみ心があるのです。そしてこのことこそが奇跡なのです。マリアが肉体関係なしに子どもを産んだということよりも、まことの神である方が、一人の人間の女性から出産されて、私たちと同じ人間としてこの世を生きた、ということの方が、はるかに驚くべき奇跡なのです。使徒信条の第一部に語られていたように、天地の造り主である全能の神と、造られたもの、被造物である人間とは根本的に違うのであって、その間には超えることとできない隔たりがあるのです。その隔たりを神の独り子が乗り越えて、一人の人間としてマリアから生まれ、この世を生きて下さった。処女降誕はこの驚くべき奇跡を語っており、この奇跡を信じるのが教会の信仰だ、と使徒信条は語っているのです。

血と肉を備えた者として
 神の独り子であり、まことの神である主イエスが、マリアから生まれて人間としてこの世を生きて下さった、その奇跡によって神は救いのみ業を行なって下さいました。そのことを語っているいくつかの聖書の箇所を、来週にかけて見ていきたいと思っています。本日は先ず、先ほど朗読されたヘブライ人への手紙第2章14節以下を味わいたいと思います。最初の14節に「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」とあります。「子ら」というのは私たち人間のことです。その私たちが血と肉を備えているので、私たちの救い主である主イエスも同じように血と肉を備える者とされたのです。それがまさに、主イエスがマリアから生まれて私たちと同じ肉体をもって生きる人間となられた、ということです。神の独り子である主イエスが人間となったのは、私たちと同じ人間となることによって、私たちを救って下さるためだったのです。

大祭司となられた主イエス
 私たちの救いのために主イエスはどうして人間とならなければならなかったのか、そのことが17節に語られています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」。神の子である主イエスが私たちと同じ人間にならねばならなかったのは、神の御前で私たちの罪を償う大祭司となって下さるためでした。大祭司は、民を代表して罪の償いのための犠牲をささげるのです。主イエスは、私たちのためのその大祭司となって、私たちの罪の償いをして下さいました。しかも旧約聖書における大祭司は動物を償いの犠牲としてささげたのに対して、主イエスはご自分の血を流し、肉を裂いて十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分の命を私たちの罪の償いのためにささげて下さったのです。つまり本当は私たちが自分で十字架にかかって死んで償いをしなければならないところを、主イエスが代って死んで下さり、償いを成し遂げて下さったので、私たちは罪を赦されて、神の民として生きることができるようになったのです。その救いを成し遂げるために、主イエスは私たちと同じ、血と肉を備えた人間とならねばならなかったのです。

死の支配からの解放
 またこのことは、14節の後半から15節にかけてにおいてはこう語られています。「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。主イエスが私たちと同じ血と肉を備えた人間としてマリアから生まれたのは、ご自分が死ぬことによって私たちを死の支配から解放して下さるためだったのです。人間の生も死も、本来は神がつかさどっておられるものです。神がみ心によって私たちに命を与え、み心によってそれを取り去られるのです。でも人間は、神に従って生きるのをやめ、自分の思い通りに生きようとする罪に陥ったために、神との良い関係を失ってしまいました。神との良い関係を失ったことによって、死は人間にとって、悪魔によって命を奪われる恐しいこととなったのです。だから私たちは死を恐れて生きている、死が私たちの人生を支配しているのです。主イエスが私たちと同じ人間になって下さったのは、ご自分が私たちに代って死ぬことによって、私たちを死の支配から解放して下さるためでした。神の子主イエスが人間となり、私たちのために死んで下さったことによって、死はもはや私たちを神から引き離すものではなくなったのです。罪を赦され、神との良い関係を回復された私たちは、神と共に生き、神のみ手の中で死ぬことができるようになったのです。主イエスが私たちと同じ人間となり、死んで下さったことによって私たちは、死を恐れることから解放されたのです。

試練、苦しみから救って下さるために
 さらに18節には「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」ともあります。血と肉を備えた人間として生まれ、この世を生きて下さった主イエスは、私たちと同じように試練を受けて苦しまれました。試練や苦しみとは無縁でいることができたはずの神の子が、私たちと同じ人間となって試練を受けて苦しみ、そして十字架の死にまで至って下さった。それは、私たちの苦しみを知って下さり、共に苦しんで下さり、そして救って下さるためだったのです。
 神の独り子である主イエスが、聖霊によって処女マリアから生まれ、人間としてこの世を生きて下さったのは、私たちのための大祭司となって、ご自分の命を犠牲にして罪の償いをして下さるためであり、ご自分の死によって私たちを死の支配から解放して下さるためであり、ご自分が試練を受けることによって試練の中にいる私たちを助けて下さるためでした。聖霊による処女降誕の奇跡は、そういう救いを私たちに与えるために、神がご自分の独り子を人間としてこの世に遣わして下さった、その恵みのみ心を指し示しているのです。

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