「まことのぶどうの木」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: イザヤ書 第5章1-7節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章1-10節
・ 讃美歌: 17、196、393
まことのぶどうの木と枝
先ほど朗読された聖書箇所には、非常に良く知られているぶどうの木のたとえが語られています。5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。主イエスは、ご自身をぶどうの木に、そして信仰者たちをぶどうの枝にたとえられたのです。ぶどうの木と枝によって、主イエスと主イエスの救いにあずかる者の関係が描かれているのです。枝は、木が地中から吸い上げる養分を得て、果実を実らせます。枝だけでは果実は実りません。ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、キリストにつながっていなければ実を結ぶことができないというのです。真に神様に祝福された歩みを送ることはできないのです。しかし、もし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は養分を与えられて豊かに実を結びます。5節の後半に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、信仰者は、キリストとしっかりと結びついていれば、豊かに実を結ぶ者とされるのです。このぶどうの木のたとえは、人々に非常に愛されている箇所であると言って良いでしょう。皆様の中にも、この箇所が好きだという方も多いと思います。既に、信仰者とされている方は、誰しも、キリストとの出会いを与えられ、救いにあずかり、それによって生かされているという思いをもっています。キリストの救いの恵みを知らされて、それを知らされる以前と比べて、はるかに生き生きと積極的に喜んで歩むことができるようになったと思う方もあるかもしれません。そのような者にとっては、このぶどうのたとえは、主イエス・キリストと密接に結びついて生きる自らの姿が、非常に良く言い表されていると思うのではないでしょうか。
まことのぶどうの木と農夫
確かに、このぶどうの木のたとえは、主イエスと信仰者の関係をイメージ豊かなたとえによって語っています。しかし、そのために、このたとえによって私たちは、多くの場合、キリストと信仰者の関係にのみ注目してしまいます。しかし、このたとえはそのことだけを見つめているのではありません。1節には次のようにあります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。つまり、このたとえ話は、主イエスがぶどうの木であり、信仰者が枝であるということよりも先に、主イエスがぶどうの木であり、父なる神様が農夫であるということを見つめているのです。主イエスと私たち人間との関係より先に、主イエスと父なる神様との関係を見つめているのです。私たちは、このたとえを読む時、ぶどうの枝はもちろんのこと、ぶどうの木全体を植え、養い、育てておられる神様の働きを忘れてはなりません。主イエスは、ぶどう園を管理する農夫である父なる神様に植えられた木なのです。だからこそ、その木である主イエスに結びついている枝は、真の命の源である神様からの救いをいただき、養われて行くのです。
主イエスは、ここで、ご自身を、ただ「ぶどうの木」とではなく「まことのぶどうの木」とおっしゃっています。つまり、主イエスは、自分こそ、真実なぶどうの木だとおっしゃっているのです。それは、主イエスが、父なる神様に植えられた木であり、信仰者を真の命につながらせる木だからに他なりません。私たちの周りには、ぶどうの木、即ち、私たちが実りを実らせるために養分を与えてくれそうに見えるもの、自分の人生を豊かにしてくれそうなものがたくさんあります。主イエスは、そのような中で、何が真実なのかを見失ってしまう人間に、父なる神様と密接に結びついており、それ故に信仰者が結びつくべき木は誰なのかをはっきりと示しておられるのです。
父なる神様の働き
では、私たちがこのたとえにおいて先ず注目するべき、父なる神様の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節以下で記されていきます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなされる」。ここで、父なる神様の働きが、枝を手入れするものとして、そして、枝、即ち、信仰者は、神様から手入れされるものとして見つめられています。ここで先ず注意したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかどうかということと共に、実を結んでいるかどうかということが重要なことなのです。主イエスが、わたしこそまことのぶどうの木だとおっしゃる時、単純に、キリスト教こそ、救いに至る道だということを言っているのではないのです。即ち、この世には、私たちに人生の実りをもたらしてくれそうな様々な宗教があるけれども、キリスト教を選び取った人は救われるが、他の宗教を選択した人は神様に捨てられ救われないということを示すために、このたとえは語られているのではありません。主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら実りがない、形式的な信仰に陥ってしまう状況が見つめられているのです。
そして、そのような実りがない枝がある状況に対して、農夫である主なる神様が、その枝を取り除き、実を結ぶ枝が豊かな実りを実らせるための手入れをすると言うのです。即ち、父なる神様は、ぶどうの枝を良いものと悪いものを見分け、せんていし、悪いものを取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶようにされるのです。「取り除く」というと非常に厳しい言葉のように思います。自分は、取り除かれる枝なのか、そうではないのかと考えて恐ろしくなってしまいます。確かに、この言葉には、罪を罰せずにはおかれない、神様の峻厳さが現されています。しかし、この言葉から、私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、人間が、取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考える必要はありません。どのような人であっても、一人の人間の内側に、良い実りをもたらさないような要素があるのです。それを、私たちの罪と言っても良いでしょう。父なる神様は、そのような部分を取り除き、私たちが、良い実を結ぶことが出来るように養って下さっているのです。
御言葉によって清くされる
では、父なる神様の手入れは、どのようにしてなされるのでしょうか。続く3節では、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスの御言葉が記されています。ここで信仰者が御言葉によって清くされていることが語られています。この「清くする」という言葉は、2節で農夫が実を結ぶ実の手入れをなさると言う時の「手入れする」という言葉と同じ言葉です。即ち、農夫である父なる神様の手入れは、信仰者が御言葉に聞き、それに生かされるという仕方で実現するのです。神様の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。ここから分かることは、主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるためにせんていするように、私たちが真の実りをもたらすように、わたしたちをせんていするということです。ぶどうに限らず、果実をしっかりと実らせるためには、せんていすることが不可欠です。信仰者も、せんていされることなく、豊かな実りをもたらすことはないのです。つまり、御言葉に聞くと言うことは、私たちの中にある真の実りを実らせない部分が取り除かれて行くことなのです。このことが語られた上で、4節以下で、まことのぶどうの木である主イエスとその枝である信仰者の姿が語られていくのです。主イエスにつながっていることによって、信仰者は、御言葉によってせんていされるという形で、父なる神様の手入れを受け清くされ、豊かな実を結んで行くのです。
御言葉が、私たちをせんていし、清くして行くと言うと、私たちは実感がないかもしれません。それは、私たちが、本当に御言葉に聞き、それによって自らが切り取られて行くことを拒んでいることによるのかもしれません。私たちには、御言葉の自分を切り取ろうとする鋭い部分には耳をふさいで、御言葉の中にある自分にとって都合の悪い部分を切り捨てて行こうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、本来の在り方は、御言葉によって、私たちの悪い部分が切り落とされていくことが大切なのです。
旧約聖書におけるぶどうの木
この、ぶどうの木のたとえは、旧約聖書にも出てきます。本日朗読された旧約聖書、イザヤ書5:1-7も、ぶどう畑が登場します。これは、当時流行していた「ぶどう畑の愛の歌」を替え歌にして、イスラエルの民の姿を歌ったものです。1節の後半から2節の所には次のようにあります。「わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを堀り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。ここには、ぶどう畑が造られ、丁寧に世話をされたにもかかわらず、そこで実ったのは、すっぱいぶどうであったことが歌われています。このたとえにおいて、ぶどうは、イスラエルの民、旧約における神の民です。旧約聖書においてぶどうのたとえが語られる時、共通していることは、神の民が、主なる神様の守りの内にありながらも、そこで実らせるべきぶどうを実らせていないということを示していると言うことです。イスラエルの民は、神の民として、主なる神の救いの約束の中を歩んでいた人々でした。しかし、彼らは、救いの約束にあぐらをかいてしまったのです。そして、自分たちの力で神様の救いを獲得できると考えたのです。そのような中で、新たに御言葉に聞き、御言葉にせんていされて、神様に養われて行くことよりも、人間の業によって神様の救いを得ようとする態度が生まれたのです。そして、人々がお互いのふるまいを見つめ、自分を誇り、他人を裁きながら歩んでいたのです。そこでは、すっぱい実しか実らない、神の民とされていながら、結局、罪に支配され良い実を結んでいないと言う事態が生じたのです。この旧約聖書が語るイスラエルの民の姿勢は、この世で信仰者が陥ってしまう可能性があるものと言わなければならないでしょう。御言葉によって清くされキリスト者とされていながら、絶えずその御言葉に聞き、その前で自らが変えられて行くことがなされなくなってしまったとしたら、それは、真に主の救いにあずかっていると言うことにはなりません。そのような場所では、キリストによる救いにあずかることよりも、人間の良い行いや、人間の立派さが救いの確かさ、信仰生活の実りとして見つめられて行くのです。そのような姿勢の中にこそ、聖書が見つめる人間の罪があるのです。
主イエスの御言葉
主イエスの御言葉は、そのような罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めを迫って来るのです。御言葉と言うのは、ただ、主イエスがお語りになった教えと言うだけでなく、主イエスの言葉、行為、人格、全てを指します。即ち、それは、主イエスが、肉を取って世に来て下さり、十字架にかかって人間の罪を贖い、復活によって、罪のために死の支配の中にあった私たちに命に生きるものにして下さったということです。この主イエスの全人格を通した語りかけを聞く時に、私たちは、神に逆らって立っている、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、自らの中にある、自分の思いにのみ従って生きていこうとする罪を取り除かれて、神様の下に立ち返り、神様の御心に生かされて行くのです。真の赦し、救いを知らされる時、私たちは自らを悔い改め、新しい命に歩み出さずにはいられないのです。もし、この御言葉に接して、その前で悔い改めつつ立ち返って行くことがなされないのであれば、私たちも、罪に支配されたまま、すっぱい実を結び続けることでしょう。それは、丁度、真のぶどうの木に結ばれていない枝の姿です。私たちは、常に、御言葉に聞き、そこから生じる、悔い改めによって、自分自身が変えられていかなくてはならないのです。そのことによって、主なる神が与えて下さる真の命に生きることこそ、私たちの豊かな実りなのです。
このこと以外に、私たちが真の実りを得ることはありません。御言葉によって、変えられて行くことにのみ罪からの解放があるからです。そして、もし御言葉によって清くされることを拒み続けるのであれば、それは、どのような状況にあっても、もはや、主イエスにつながっていないことと同じなのです。6節には、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語られています。主イエスとの交わりから離され、キリストの救いの恵みが及ばない所には、「火に投げ入れられ焼かれてしまう」とあるように、神の裁きが臨むことになるのです。
真の実り
このぶどうのたとえにおいて、父なる神様のことに注目せず、キリストと信仰者の結びつきのみに注目してしまうことがあると申しました。そのように、父の手入れということに注目せずに、私たち自身がキリストに結びついて豊かな実りを与えられると言うことのみを見つめて行く所に生まれるのは、主イエスを自分にとって都合の良い、救い主とし、自分の考える人生の実りのみを求めてしまうと言うことではないでしょうか。私たちは、自分の思い描く人生の実りがあります。それは、この世における成功であったり、充実した豊かな暮らしであったり、人間の清く正しい立派な行いかもしれません。そのような人間の価値観によって考えられる豊かな実りのみが求められる時、キリスト者とされていながら、キリストのことを自分の思いに従わせ、自分の願う範囲で人生を豊かにしてくれる、自己実現の手段としてしまうことも起こって来るのです。
そのような時、御言葉によって自らが切り取られ、変えられることを拒みつつ、むしろ、御言葉の方を自分の都合の良いように、変えてしまうのです。それは、自分が、キリストに結びつくことによってのみ命を得られる枝であることを忘れて、自分こそが、自分の力で養分を吸い上げることが出来る木であるかのように錯覚している態度です。そこでは、キリストの御言葉が、自分の都合に合わせてせんてい出来る枝のようなものになってしまうのです。
しかし、そのように、キリストの御言葉によって自らが手入れをされることを拒み、その限り、キリストと結びつこうとしない時、真の実りは生まれることはありません。即ち、真の赦しと永遠の命に生きる道は閉ざされてしまうのです。それは、ただ充実した歩みを送ることができないと言うようなことではありません。ぶどうの枝は、木につながっていなければ涸れて死んでしまいます。それと同じように、もはや、罪が赦され真の命に生かされて行くことができなくなってしまうのです。私たちの考える実りとは、真の実りではありません。それはせいぜい、自らの努力によって必死に養分を吸い取って、この世の人生を生きている間、その歩みを少しでも良いものにして行こうとするつかの間の豊かさです。私たちは、常に、キリストこそが真の木であり、その御言葉によって、自分自身の方が、主なる神様に手入れをされ、変えられて行かなくてはならないのです。それは、苦しみをも伴うもののように見えるかもしれません。しかし、そのことによってこそ、真の罪の赦しと、キリストによる新しい命と言う本当の実りが与えられていくのです。主なる神様から、真の命に通じる御言葉を与えられ、生かされていくところにこそ、私たちの真の実りがもたらされて行くのです。
終わりに
私たちは、枝であることを忘れて、自分自身が木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分のことを自分で養分を吸い取り、豊かな実りを実らせようとして歩んでいる、自立している一本の木であるかのように考えてしまうのです。そのような中では、かつてのイスラエルの民が陥ったように、実にすっぱい実しか実らせていないのです。私たちは、ただ、自らが枝であることを示されて、木であるキリストにしっかりと結びつくこと、即ち、御言葉によってせんていされ、自分の思いが打ち砕かれて行くことによってこそ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神様は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。キリスト教を信じていない人々にのみ向けられているのではありません。キリストに結びつくことなく、自ら実りを得ようとする、そのような意味で、自分が木であるかのように錯覚してしまう全ての人々に向けられているのです。あなたがたは、自分で良い実りを実らせることが出来ると思うかもしれない、しかし、そうではない、わたしこそぶどうの木だと語られているのです。この御言葉に聞きつつ、御言葉にせんていされ、清められて行くこと。自分の力で神の前に立とうとするのではなく、とうてい神の前に立てない者が、キリストによって生かされていることを知らされ、キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、真の実りが生まれて行くのです。それは人間が考えつくような実りではありません。しかし、私たちの滅び行く命を超えて、真の命に通じて行く、確かな実りなのです。主の御言葉に生かされて、新たな歩みを始めたいと思います。