主日礼拝

十字架の周りの人々

「十字架の周りの人々」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第23章26-43節
・ 讃美歌 ; 304、310、300

 
十字架の周りの人々

 本日は棕櫚の主日と呼ばれる日で、今週は受難週です。今週の金曜日がいわゆる受難日、主イエス・キリストが十字架に架けられて亡くなられた日であり、来週の日曜日が、主の復活の記念日、イースターです。今週私たちは主イエス・キリストの地上のご生涯における最後の一週間を覚え、その苦しみと十字架の死とに特に思いを致しつつ歩むのです。その受難週の主の日の礼拝において、今年は、ルカによる福音書第23章の、主イエスの十字架の場面をご一緒に読むことにしました。来週のイースターには、同じルカ福音書における復活の記事を読みます。先週の礼拝で私たちは使徒言行録を読み終えたわけですが、その使徒言行録と同じ著者によって書かれたルカ福音書が、主イエスの十字架と復活をどのように語っているのかを見ていきたいのです。
 23章の26節から43節を取り上げました。ここには、死刑の判決を受けた主イエスが「されこうべ」と呼ばれる場所まで引いていかれ、十字架にかけられたことが語られています。その主イエスの周りに、何人かの人々が登場しています。十字架の主イエスと関わりを持ったこれらの人々の姿をルカは描いているのです。

嘆き悲しむ婦人たち  

 まず、27~31節に出てくる、嘆き悲しむ婦人たちの姿に焦点を当ててみたいと思います。この婦人たちは、主イエスが十字架に架けられて処刑されようとしていることを嘆き悲しんでいます。つまり彼女らは、主イエスの裁判において「十字架につけろ」と叫んだ人々とは違って、主イエスに何の罪もないこと、むしろ正しい教えを語っていた方であることを認めており、その主イエスが処刑されてしまうことは理不尽なことだと感じて、主イエスに同情し、嘆き悲しんでいるのです。処刑の場へと引かれていく主イエスにとって、このような婦人たちの存在はせめてもの慰めになったのではないか、と私たちは思います。けれども、主イエスはこの婦人たちに対して、私たちのそのような思いとはかけ離れたことを言われました。28節に「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」とあります。私のためではなく、むしろ自分自身のために嘆き悲しめ、とおっしゃったのです。それは、彼女たちに、大きな苦しみ、悲しみが襲いかかってこようとしているからです。29節には、子供のない女性はむしろ幸いだと人々が言う日が来る、とあります。イスラエルにおいては常に、子供が与えられることは大きな祝福、喜びでしたから、これは異常事態です。なぜ子供のない女性がむしろ幸いなのかというと、その日には、子供を持つ女性はより大きな苦しみを味わわなければならないからです。そのようなことが起るのは、国が敵に攻め滅ぼされ、捕虜として連れて行かれてしまうような時です。そのような日、つまりエルサレムが敵に包囲され、滅亡する日が来ることを、主イエスは既に21章20節以下で予告しておられました。そこには、この滅亡は神の怒りによってもたらされると語られていました。エルサレムの人々の罪に対する神様の怒りによって、この町は敵に包囲され、滅亡する。その時あなたがたは、子供などむしろなかった方がよかったと思う程の堪え難い苦しみに遭う。そのことをこそ嘆き悲しめ、と主イエスは言われたのです。この婦人たちは、主イエスが何の罪もないのに十字架につけられてしまうことを気の毒に思い、嘆き、涙を流しています。しかし主イエスはその婦人たちに、あなたがたが本当に嘆き、涙を流すべきであるのは、自分自身の罪と、そのもたらす結果についてなのだ、自分の内にある罪がいかに深刻な問題であり、その結果がどれだけ悲惨な、滅びに至るものであるかをこそあなたがたは見つめる必要があるのだ、と言われたのです。

主イエスの苦しみを思う

 ここに、主イエスの十字架において私たちが何を見つめ、思うべきであるかが教えられています。この受難週に、主イエスの十字架の苦しみと死とを思う時、私たちがなすべきことは、「イエス様は何の罪もないのに捕えられ、死刑の判決を受け、十字架につけられてしまった。さぞつらかっただろう、悲しかっただろう、痛かっただろう」、と同情することでもないし、「イエス様のお受けになった苦しみは私だったらとても耐えられなかっただろう。それなのにイエス様は何の不平も言わず、その苦しみを耐え忍んで下さった。イエス様の愛の何と偉大なことか…」と主イエスをほめたたえることでもないのです。私たちは主イエスの十字架において、自分自身の罪を、その深刻さを、そのもたらす結果の恐ろしさをこそ見つめ、思わなければならないのです。主イエスの十字架は勿論、堪え難い苦しみであり悲しみであり痛みでした。しかしそれは私たちの罪を担って下さったゆえの苦しみであり悲しみであり痛みだったのです。主イエスの苦しみの大きさはそのまま、私たちの罪の大きさなのです。そのことを思わずに、主イエスの苦しみを他人事のように嘆いたり同情したりするのは、全く的外れなことなのです。

キレネ人シモン

 さて、27節以下の、嘆き悲しむ婦人たちのことを先ず見つめましたが、その前の26節には、シモンというキレネ人が、主イエスの十字架を無理矢理背負わされたことが語られていました。この話はマタイ、マルコ、ルカの福音書に共通して記されていますが、ルカはここに一つの言葉を書き加えています。それは、「イエスの後ろから運ばせた」という言葉です。シモンは、十字架を背負って、主イエスの後ろを歩いた、ルカはそのことを特に書き記しているのです。主イエスの後ろを歩く、それは、従っていく、という姿です。シモンは、勿論無理やりにそうさせられたのですが、主イエスの十字架を背負って、主イエスに従って行ったのです。27節以下の婦人たちの姿と比較してみるときに、ルカはここに、信仰者のあるべき姿、主イエスの十字架に対して私たちがどのように応答すべきであるかを語っていると言えます。主イエスの十字架の苦しみへの正しい応答は、あの婦人たちのように、主イエスのために嘆き悲しむことではなくて、このシモンのように、十字架を背負って主イエスの後に従っていくことなのです。主イエスはこの福音書の9章23節で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。「ついて来る」とは、後ろを歩くことです。シモンのしたことはまさにこれです。ルカはシモンを、このみ言葉を実行した人として描いているのです。

自分の十字架を背負う

 ところで主イエスは「自分の十字架を背負って」と言われました。「自分の十字架」とは何なのでしょうか。私たちはよく、自分が味わっている何らかの苦しみのことを、「これが私の十字架だ」と言ったりします。しかし「自分の十字架」は、そのように私たちが勝手に「これが私の十字架だ」と決めるようなものではありません。シモンは、主イエスの十字架を背負ったのです。それが、「自分の十字架を背負う」ことなのです。つまり、私たちが不幸な目に遭ったり、自分の思い通りにならなかったりすることによって味わう苦しみが何でも「自分の十字架」なのではないのです。十字架は主イエスの十字架です。それを私たちも背負うのです。主イエスの十字架、それは何の罪もない主イエスが、私たちの罪を引き受けて、苦しみを受け、死んで下さった十字架です。この主イエスの十字架が自分にも負わされるのです。それは具体的に言えば、人の罪のために苦しみを受けることです。自分は何もしていないのに、人のせいでとんでもない苦しみを背負わされてしまう、そういう十字架です。シモンはまさにそういう十字架を無理矢理背負わされました。彼は主イエスの弟子でも何でもなかったのです。たまたまそこにいただけです。自分と何の関係もない死刑囚の十字架を、彼は背負うはめになったのです。「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。自分がいったい何をしたと言うのか」、シモンはそう思ったことでしょう。自分の十字架を背負うとはこのようなことなのです。それは自分が選びとる苦しみではありません。自分のせいで起ってくる苦しみでもありません。人の罪によって押し付けられる、理不尽な、納得のいかない、どうして自分がこんな苦しみに遭わなければならないのか、という苦しみです。主イエスは何の罪もない方なのに、私たちの罪によって、そういう十字架を背負われたのです。その十字架が私たちにも負わされるのです。そのような十字架を背負って主イエスの後に従っていくことこそ、主イエスの十字架の苦しみへの正しい応答なのです。

救い主との出会い

 シモンは、主イエスの十字架を無理矢理背負わされ、主イエスの後ろを、もはや十字架を担ぐ力もなく、よろめきながら死刑場へと引かれていくその後ろ姿を見つめながら歩きました。この歩みがシモンを変えました。「シモンというキレネ人」という名前が残されているということは、彼が、初代の教会において名を知られた信者だったことを物語っていると思われます。彼は、無理矢理背負わされた主イエスの十字架を担って、主イエスの後ろを、主イエスに従って歩いたことによって、救い主キリストと出会ったのです。自分は何の罪もないのになぜこんな目に遭わなければならないのか、とつぶやく思いが、この歩みの中で変わっていったのです。自分が背負っているこの十字架は、今自分の前をよろめきながら処刑場へと引かれていくこの人が、何の罪もないのに、人の罪を背負って引き受けようとしている十字架なのではないか…。いやそれは誰かの罪ではない。この人が背負い、引き受けて苦しみを受け、死んでいこうとしているのは、この自分の罪のためなのではないか…。今肩に食い込むこの十字架の重みは、他でもない、この人が背負ってくれたこの私の罪の重みなのではないか…。十字架の重みにあえぎつつ、主イエスの後ろ姿を見つめて歩んだこの道において、彼はこのような思いを与えられたのではないでしょうか。いや問題はもはやシモンがどう感じたかではありません。私たちが、人の罪によって背負わされる十字架、いわれのない、納得のいかない、理不尽な苦しみの中で何を感じ、どうするかが問題なのです。そのような苦しみを、自分の十字架として背負って、十字架の主イエスのお姿を見つめつつ、主イエスに従って歩んでいく時にこそ私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死の本当の意味を、そこで主イエスが私たちのために何をして下さったのかを知ることができるのではないでしょうか。自分の十字架を背負って主イエスに従うことの中でこそ私たちは、何の罪もない神様の独り子主イエスが、この自分の罪を背負って、その赦しのために、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことを悟ることができる、シモンの姿はそのことを私たちに語っているのです。

二人の犯罪人

 さて32節以下には、主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人のことが語られています。ルカはこの二人の犯罪人のことを、他の福音書よりも詳しく描いています。特にこの二人が、共に十字架につけられながら、主イエスに対して正反対の態度をとったことを語っているのです。この二人は、十字架の死刑に値するような罪を犯した人々です。そのことは41節の「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」という言葉から分かります。つまり彼らにとって十字架の苦しみは、自分の罪の結果なのです。自業自得なのです。その自分の罪ゆえの苦しみの極みにおいて、彼らは、共に十字架につけられている主イエスと出会ったのです。

自分の罪による苦しみの中で

 私たちは様々な苦しみを体験します。その苦しみの中には、身に覚えのない、自分のせいではない、人の罪によって負わせられる理不尽な苦しみもあります。そのような苦しみが、救い主イエス・キリストとの出会いの機会になることを、シモンの姿を通して今見てきました。しかし私たちの苦しみはそのように身に覚えのない、人の罪によるものばかりではありません。自分の罪の結果としての苦しみ、自分自身に原因がある苦しみ、要するに自業自得の苦しみもあるのです。この二人の犯罪人は、そういう自業自得の苦しみの極みにおいて、主イエスと出会ったのです。私たちが、自分の罪の結果である苦しみの極みにある時、そこに、主イエスが、私たちと共に十字架の苦しみを負いつつ、私たちと出会って下さるのです。

主イエスのとりなしの祈り

 この二人の犯罪人は、十字架の死の苦しみの中で、主イエスと出会い、そのみ言葉を聞きました。それは34節の、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というみ言葉です。このみ言葉は彼らにとって、天地がひっくり返るような衝撃の体験だったと思います。このイエスという人が、今どのような痛みと苦しみの中にあるのかを、彼らは同じ苦しみを体験しつつあるわけでよく知っているのです。この痛み、苦しみ、絶望の中でしかしこの人は、「父よ、彼らをお赦しください」と、自分を十字架につけた人々のために祈っている。その祈りは、「この罪を彼らに負わせないで下さい。私はこの痛みを、苦しみを、絶望を、誰のせいにもせず、自分で背負いますから」ということです。その祈りは彼らの心を激しく揺さぶらずにはいなかったでしょう。彼らは、自分の罪の結果、自業自得の苦しみを受けているのです。それは自分でもよく分かっているのです。しかし彼らの思いの中には、「でも、自分だけが悪いのではない。自分がこんな罪を犯してしまったのは、こういう事情があったからだ。あの人がこんなことをしたからだ、この人があんなことを言ったからだ。この社会が、その中での自分の境遇がこんなだったからだ」と言い訳をし、自分を正当化しようとする思いが渦巻いていたのではないでしょうか。そのことは、私たち自身が、自分に原因のある苦しみの中でいつもしていることだからよく分かります。私たちは、自分が悪いと知りながらも、なお自己弁護し、屁理屈を言います。人のせいにして文句を言います。しかし、主イエスのこの、自分を十字架につける人々のためのとりなしの祈りは、私たちの一切の言い訳を、屁理屈を、人のせいにする思いを打ち砕くのです。そして私たちは知らされます。「自分が何をしているのか知らない」とは、まさにこの私のことだ。自分の罪のための苦しみの中にありながら、なおそれを人のせいにして文句を言ったり、自分だけが悪いんじゃないと言い張ったりする自分は何という愚かなことをしているのか…。そしてそのことに愕然とすると同時に、私たちはもう一つのことをも知らされるのです。今自分が、自分の罪のために受けているその苦しみを共に味わい、自らは何の罪もないのにその苦しみを引き受けておられる主イエスが、その苦しみの中で、愚かで罪深く、自分が何をしているのかも分かっていないこの私のために、この人をお赦しくださいと天の父にとりなし祈って下さっている、ということをです。この主イエスのとりなしの祈りに触れる所に、私たちが新しくされ、神様の救いにあずかる可能性があるのです。

わたしを思い出してください

 この可能性を捉えたのは、二人の犯罪人内の一人だけでした。他の一人は、十字架の上からなお、主イエスに悪口を言い続けたのです。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。この悪口の言葉が、十字架の下で主イエスをあざ笑い、侮辱している人々の言葉と同じであることは興味深いことです。どちらも主イエスに、「自分自身を救え」と言っているのです。十字架の主イエスへの悪口は常にこういう形をとります。自分が苦しんでいない人は、「世の中には苦しんでいる人が沢山いるではないか。キリストは、教会は何をしているのか。もっと力を発揮して自分を救い、そして苦しんでいる人々を救え、そうしたら信じてやる」と言います。また自分が苦しみの中にある人は、「さっさと十字架から降りてきて私のこの苦しみをなんとかしてくれ、そうすれば信じてやる」と言います。どちらも十字架の主イエスを非難し、十字架など何の役にも立たない、さっさとそこから降りてきてもっと実のある救いの業をしろ、と悪口を言うのです。しかし、あのもう一人の犯罪人だけは、十字架の主イエスに別のものを見たのです。彼はもう一人をたしなめ、41節でこう言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。彼は、自分が十字架に架けられるべき罪人であることを認めています。言い訳をしたり、人のせいにしたり、世の中のせいにするのでなく、自分が罪を犯し、その結果としてこの苦しみを受けていることを認めているのです。それは彼が、主イエスのあのとりなしの祈りに触れて変えられたということでしょう。自分は何の罪もないのに、人の罪のための苦しみを背負い、その人の赦しのために祈る主イエスのお姿に触れて、彼は変えられたのです。そして彼は主イエスにこのように願いました。42節。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。彼は、主イエスのあのとりなしの祈りが、自分のための祈りでもあること、自分の罪のゆえの苦しみの中にありながら、なお不平不満を言い、人のせいにしたり、自己弁護をしたり、悪態をついたりするこの愚かな、どうしようもない自分のためにも、主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈って下さっていることを知ったのです。その主イエスにすがることによって、この自分にも、救いが与えられるのではないか、という希望を抱いたのです。あの主イエスのとりなしの祈りによって彼は、自分がどうしようもない罪人であることをはっきりと知らされると同時に、主イエスがその自分のための救い主であられることを知らされ、主イエスの救いを大胆に求める勇気を与えられたのです。
 主イエスは彼に言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。楽園とはどのような所か、などということはもはや問題ではありません。彼は主イエスに、「私を楽園に入れてください」と願ったのではありません。「わたしを思い出してください」と願ったのです。それに対して主イエスが、「あなたは今日わたしと一緒にいる」と約束して下さった、それこそが楽園であり、天国です。彼はこのようにして、自分の罪のゆえの苦しみの極みにおいて、罪人の救い主イエスと出会い、その救いにあずかったのです。

十字架の周りの人々

 主イエスの十字架の周りには、様々な人々がいます。その人々一人一人の姿が、私たちへの問いかけとなっています。あなたは十字架の主イエスの前でどのように歩むのか。主イエスの苦しみと死にどのように反応し、何を思い、見つめていくのか。またそこで自分自身をどのように振り返っていくのか。それらのことをこの人々の姿は私たちに問いかけているのです。主イエスの御苦しみと死とを特に覚えるこの一週間、この人々からの問いかけに真剣に向き合いながら歩みたいと思います。その歩みの中で、十字架の主イエスが私たちのためにもとりなし祈っていて下さる、そのみ言葉を聞くことができるでしょう。

関連記事

TOP