主日礼拝

責任ある言葉

 「責任ある言葉」 牧師 藤掛順一

出エジプト記 第20章7節

マタイによる福音書 第5章33〜37節

責任ある、真実な言葉を語れ

 主イエスがお語りになった「山上の説教」を読み進めています。5章の21節からのところには、主イエスが旧約聖書の律法の教えをとりあげて、それに対して、「しかし、わたしは言っておく」という仕方でお語りになった、律法を深め、完成する教えが記されています。本日の箇所の最初の33節に「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」とあるのが律法の教えです。「偽りの誓いを立てるな」、つまり、本当でないことを「本当です」と誓うな、偽証をするな、ということです。また「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」、つまり一旦主なる神に誓いを立てたなら、それを必ず実行せよ、ということです。この律法の教えに対して主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と言われたのです。それは、誓ったことをもし守れなかったりしたら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということではありません。37節には、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」とあります。この教えは、ヤコブの手紙第5章12節(新約426頁)にも繰り返されています。そこには「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」とあります。誓いを立てるのではなく、「然りは然りとし、否は否としなさい」。つまり主イエスが言っておられるのは、あいまいな、どっちつかずの言葉ではなくて、常にはっきりとした嘘偽りのない言葉を語り、語ったことはちゃんと責任をもって守りなさい、ということです。誓ったからではなくて、常に、責任のある、真実な言葉を語ることを主イエスは求めておられるのです。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法の教えを、主イエスはそのように深め、完成させておられるのです。

主のみ名をみだりに唱えてはならない

 そもそも「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法は何ためにあったのでしょうか。「偽りの誓い」は「偽証」とも言えますから、この教えは律法の中心である十戒の第九の戒め「隣人に関して偽証してはならない」から来ているとも考えられます。しかし「誓い」ということに目を向けるなら、むしろ十戒の第三の戒め、出エジプト記20章7節の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」から来ていると言うことができます。この第三の戒めこそが、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という掟のもとになっているのです。それは、「主の名をみだりに唱える」ことが最もよく起こるのが「誓い」においてだからです。主なる神のみ名を引合いに出して誓うことが行われていました。日本でも、「神仏にかけて」とか「天地神明にかけて」誓うということがあります。人間を越えた、神やそれに類するものを引合いに出して誓うことが世界中でなされているのです。人は何故そういうことをするのでしょうか。誰かが、「天地神明にかけて誓います」と言っている場面を思い浮かべれば分かります。それは、「私の言っていることは嘘ではありません。本当です。信じて下さい」ということです。それは、その人の言っていることが嘘ではないか、という疑いをかけられていることを示しています。ただ「こうです」と言っても信じてもらえないから「天地神明にかけて」と誓うのです。つまり誓いというのは基本的に、人間の言葉があてにならない、信頼できない、という現実を前提としています。当てにならない人間の言葉の信頼性を保証し、疑いを取り除くために誓いがなされるのです。そのために神が持ち出される。それは、誰も証人がいなくても、神がご存じだ、神は私の言葉が真実であることを知っておられる、と言うことによって、自分の言葉が真実だと理解してもらおうということです。つまり誓いにおいて神が持ち出される時に、神は、人間の言葉の真実性を保証する証人とされているのです。そのようにして、人間が神を、自分の主張を人に信じさせるために利用しているのです。十戒の第三の戒めが「主の名をみだりに唱えてはならない」と言っているのはまさにそういうことです。主なる神のみ名をみだりに唱える、というのは、主の名を自分の目的のために利用する、ということなのです。ここから、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法が生まれました。偽りの誓いを主のみ名によって立てるのは、まさに主のみ名を、嘘をまことと言いくるめるために利用することです。それこそ主の名をみだりに唱えることなのです。また、主に対して誓ったことを果たさなければ、それも、主のみ名を自分の偽りのために利用したことになります。だから、主のみ名によって誓うことは、常に本当でなければならないし、必ず実行しなければならない、それがこの律法の趣旨です。つまりこの律法は、単に「嘘をついてはならない」とか「約束は必ず果たせ」という倫理道徳の教えではなくて、主なる神の民として、主のみ名を常に敬い、それを汚すことなく生きるための信仰の教えなのです。

私たちの言葉は全て神の前での言葉

 ところが主イエスはこの律法に対して、「いっさい誓いを立てるな」とおっしゃいました。そもそも「誓い」をするな、と言われたのです。主イエスは何故、何を思ってこのように言われたのでしょうか。34節の後半から36節にかけてには、「これこれにかけて誓ってはならない」という教えが繰り返されています。「天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて」誓うなというのです。当時の人たちはこのように、主なる神のみ名にかけて誓う代わりに、天、地、エルサレム、自分の頭などにかけて誓っていたのでしょう。その思いは、主なる神のみ名にかけて誓うと、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒にひっかかるし、もしそうやって誓ったことを果たせなかったら主のみ名を汚す大きな罪を犯すことになってしまう、しかし主のみ名ではなくて、天とか地とかエルサレムにかけてならば、十戒を破ることにはならないし、万一果たせなくても神を冒涜することにはならないですむだろう、ということです。ここには、人間が、神の掟にしろ、人間の法律にしろ、常に「抜け道」を考える、ということが典型的に表れています。主のみ名によって偽りの誓いをするな、み名によって誓ったことは必ず果たせというのだから、主の名以外のものにかけて誓うなら、そんなに厳密に守らなくてもいいだろう、というのです。私たち人間は、神に対して、いつもこういう抜け道を考えている、あるいは神に従わないことの言い訳を考えているのではないでしょうか。主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、そのような人間の思いを打ち砕いて、抜け道を作らせないため、言い訳をさせないためです。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である」と主は言われました。天とは神の玉座なのだから、天にかけて誓うのは神にかけて誓うのと同じなのです。「地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である」。「地は神の足台である」というのは、神が地を足台として踏みつけておられるということではなくて、地もまた神のものなのだから、地にかけて誓うのも神にかけて誓うのと同じだ、ということです。「エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である」。エルサレムはイスラエルの王の都ですが、イスラエルのまことの王は主なる神です。ですからこの「大王」というのは主なる神のことです。主なる神の都であるエルサレムをさして誓うのも、神にかけて誓うのと同じなのです。ここまでの三つが、ユダヤ人たちがしていた誓いであるのに対して、「あなたの頭にかけて誓ってはならない」というのは、ギリシャ、ローマの人々の誓いの仕方ではないか、とも言われています。ギリシャ人、ローマ人たちは、自分の頭、つまり自分の体の中の一番大切な所にかけて誓ったのです。神にかけて誓うよりも、自分自身にかけて誓う、そこにギリシャ、ローマの、人間を中心とするものの考え方が表れていると言えるかもしれません。そして今日の私たちの社会は、まさにこういう人間を中心とする考え方に満ちています。ですから「自分の頭にかけて、自分自身にかけて」という誓いの方が私たちにはしっくり来るかもしれません。しかしそういう誓いに対して主イエスはこう言われました。「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」。私たちは自分の頭の毛一本すら白くも黒くもできない。それは要するに、あなたがたは自分の体は自分のものだと思っているが、その体のほんの一部ですら、思い通りにできないではないか、あなたがたの体は、神が造り、与え、そして養い導いておられるものだ、健康も病気も、あるいは障碍も、全ては神がみ心によってあなたがたに与えておられるのだ、だから、自分の頭にかけて、自分自身にかけて誓うのも、神にかけて誓うのと同じなのだ、ということです。主イエスはこのようにして、私たちが何にかけて誓っても、それは神にかけて誓っていることになる、と言っておられるのです。ここに挙げられている四つのもの以外のものにかけて誓えば神とは関係なくなる、ということではありません。この世界は神がお造りになった神のものであり、私たちの体も、人生も、私たちのものではあっても、私たちの自由にはならない、神のみ手の内にあるのです。その私たちが、この世界の何を引合いに出して誓おうとも、それは神と無関係ではあり得ないのです。いや、事はもはや誓いということを越えています。誓うとか誓わないではなく、私たちの語る全ての言葉が、神と無関係ではあり得ない。神の前での言葉なのです。神がそれをちゃんと聞いておられ、その言葉が真実であるかどうかを知っておられ、語られた約束が果たされるのかどうかを見ておられるのです。つまり神が、私たちが語った言葉の責任をお問いになるのです。誓った時だけではありません。普段の何げない言葉の一つ一つが、酒の席での言葉なども含めて、全て、神のみ前での言葉なのです。「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの教えはそういうことを語っています。誓いを立てることによって、誓った時の言葉だけを神の前での、責任ある言葉とし、それ以外は神の前での言葉でないから責任を負わなくてよいものとしようとする人間の思いに対して主イエスは、あなたがたの語る言葉は全て、神のみ前での言葉なのだ、と言っておられるのです。

もはや一言も語れない?

 このように主イエスは、私たちが語る全ての言葉が、神のみ前での、責任ある言葉なのだ、と言っておられるのです。しかしそれなら、私たちはもう一言も語れなくなるのではないでしょうか。全ての言葉に神の前での責任が問われるならば、不用意なことは一切語れなくなる、いや、よく考えて語った言葉ですら、後から失敗だった、その通りにできなかったということが多々あるのだから、もう言葉なんか一切語れないということになるでしょう。主イエスはこの教えによって、私たちから言葉を奪おうとしておられるのでしょうか。
私たちの言葉の責任を負って下さった主イエス
 あなたがたの言葉は全て、神のみ前での言葉なのだ、ということを示すために主イエスは、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と言われました。髪の毛一本に象徴される、私たちの生活、人生、体のどんな細かいところまでも全て神のみ手の内にある、だから私たちの語る言葉は全て、神のみ前での言葉なのです。その「髪の毛一本」ということを、主イエスは別の箇所でも語っておられます。この福音書の10章29~31節を読みたいと思います。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。本日のところに語られているのは、私たちは自分の髪の毛一本も思い通りにはできない、ということです。しかしここに語られているのは、あなたがたの父なる神が、あなたがたの髪の毛一本までも数えていて下さる、ということです。数えておられるというのは、知っておられるということであり、それは愛しておられるということです。天の父なる神が、私たちのことを愛して下さっており、その愛によって私たちの髪の毛一本までも数えて下さっているのです。そのことは、私たちの言葉についても言えます。神は、私たちの語る言葉の一つ一つを、愛をもって聞いておられるのです。私たちの語る言葉は全て神の前での言葉だと申しました。それは、神が私たちの言葉の責任を問うために、採点表をもって聞き耳を立てているということではありません。私たちの体を、人生を、日々の生活の全てを、愛によって見守り、導いて下さっている神は、私たちの語る全ての言葉にも、愛をもって耳を傾けて下さっているのです。決して、粗探しをするために聞き耳を立てているのではありません。私たちは、この天の父なる神のみ前で語るのです。「だから、恐れるな」と先程の10章31節にありました。神は、私たちが、神のみ前にあることを恐れて何も語れなくなってしまうことを望んでおられるのではなくて、私たちが、神の愛のもとで、恐れずに、大胆に、語ることを望んでおられるのです。確かに言葉には責任が伴います。言葉によって、私たちは人を傷つけたり、時には殺してしまうこともあります。だから無責任な言葉は慎まなければなりません。言葉によって犯される罪の大きさを意識しなければならないのです。しかしまさにそこにおいて私たちは、神の独り子、主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪を赦して下さったことを覚えなければなりません。主イエスが十字架にかかって苦しみを受け、死んで下さったことによって、私たちに代わって負って下さった罪の中には、私たちが無責任な言葉によって人を傷つけた罪、偽りを語ったり、約束を果たさなかった罪も含まれているのです。それらの罪の全てを主イエスは担って下さり、十字架の死によってそれを赦して下さったのです。つまり主イエスは、私たちの無責任な言葉、偽りの言葉、約束を守ることができなかったこと、それらの言葉の責任を全て引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。

神の愛に応答する、責任ある言葉

 私たちの語る言葉の一つひとつに愛をもって耳を傾け、その責任を全て引き受けて下さる、その愛によって主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」とお語りになったのです。それは、私たちから言葉を奪うためではなく、主イエスが責任を負って下さるから、その愛の中で私たちが、安心して語るためです。主イエス・キリストが最終的な責任を負って下さっていることを信じることによってこそ、私たちは恐れずに、言葉を語っていくことができるのです。そしてそれによって、私たちの語る言葉は、責任ある言葉となっていくのです。責任ある言葉は、神の愛に応答する中でこそ語ることができます。私たちが言葉によって犯す罪を、神の独り子主イエスが全て引き受けて十字架にかかって死んで下さった、その愛をもって神が自分の言葉に耳を傾けておられることを知る時に、私たちの言葉は、自分のことばかりを考えて神をも隣人をも自分の目的のために利用しようとする我儘な言葉から、神の愛に応えて、神と隣人とを愛する言葉へと変えられていくのです。責任ある言葉とは、愛のある言葉です。神の愛のまなざしの中でこそ私たちは、愛のある、責任ある言葉を語ることができるのです。

信仰生活における誓約

 神の愛に応えていくことの中で、私たちは誓いをします。洗礼を受けて信仰者となる時には、父、子、聖霊なる神を信じ、教会員としての務めを果たしていくことを誓約するのです。あるいは教会において、長老や執事に選出され、その任につく時にも、誓約をします。牧師が就任する時にも誓約をします。教会で行われる結婚式の中心は、夫婦となる者たちの結婚の誓約です。教会の営みや私たちの信仰の生活の節々に、このように誓約、誓いがあるのです。それは「一切誓いを立ててはならない」と言われた主イエスの教えに反しているのではありません。教会で行われるこれらの誓約は、私たちが神の愛に応えて、神を信じ、従い、仕える者として生きていくという約束です。主イエスは、私たちが、神の愛に応えてそのような約束をすることを喜んで下さいます。そして私たちも、主イエス・キリストがその約束の最終的な責任を負って下さるので、その愛により頼んで、自分の力ではとうてい負い切ることができないと思われる約束をするのです。洗礼を受けて生涯信仰者として生きていくことも、牧師や長老、執事としての働きを担っていくことも、あるいは神が結び合わせて下さった夫婦として生涯を共に生きていくことも、私たちの力や、私たちの責任感によってできることではありません。私たちと共に歩んで下さり、私たちの言葉の最終的な責任を負って下さる主イエス・キリストの愛の中でこそ、この約束を果していくことができるのです。
神の愛の中で、私たちの言葉は変わっていく
 罪人である私たちは、無責任な、不誠実な言葉によってお互いを傷つけ合っています。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのは、その私たちの言葉の罪の責任を引き受けて下さるためでした。私たちが言葉によって犯している罪も、主イエスの十字架によって神が赦して下さったのです。この神の愛に応える言葉を語っていくことによって、私たちの言葉は、神と隣人とを愛する言葉へと変わっていくのです。主イエスは、私たちの言葉の最終的責任を負いつつ、私たちを見守り、私たちの言葉に静かに耳を傾けておられるのです。

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