主日礼拝

弁護者、真理の霊

「弁護者、真理の霊」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第16章4b-15節
・ 讃美歌:240、346

父なる神のもとに行こうとしている
 アドベントに入ってからも礼拝においてヨハネよる福音書を読み進めており、第16章に入ったところです。ヨハネ福音書のこのあたりは、主イエスの「告別説教」、つまり「別れの説教」と呼ばれています。13章から17章は、主イエスが弟子たちと共にしたいわゆる最後の晩餐の場面です。この晩餐の後、主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられるのです。そのことをはっきりと意識しつつ、主イエスは弟子たちに別れの説教を語っておられます。と言ってもその「別れ」というのは、明日には殺されてしまうのでこれが今生の別れだ、ということではありません。死んでしまうからお別れなのではなくて、主イエスは、十字架の死と復活を経て、もともとそこから来られた、父なる神のもとにお帰りになるのです。最後の晩餐の場面が始まる13章の冒頭の1節にこう語られていました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。この過越祭に主イエスは十字架につけられ、三日目に復活するのです。それによってこの世から父なる神のもとへ移る時がいよいよ来たことを悟った主イエスは、この世に残していく弟子たちをこの上なく愛しつつ最後の晩餐の席に着かれ、弟子たちのこの世におけるこれからの歩みを思いながら別れの説教をお語りになったのです。このことを踏まえれば、本日の箇所の冒頭の4節後半から5節にかけてのところの意味が分かります。そこには、「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、」とあります。「これらのこと」とは、今この別れの説教で語っていることです。これまではあなたがたと一緒にいたので、それを語ってはこなかった。しかし今私は、私をお遣わしになった父なる神のもとに行こうとしている、いよいよその別れの時が来たので、これらのことを語っているのだ、と主イエス言っておられるのです。

悲しみで満たされている弟子たち
 5節後半から6節には、この別れの説教を弟子たちがどのように聞いていたかが示されています。「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。主イエスの別れの説教を聞いた弟子たちは悲しみで満たされました。そのために、主イエスに「どこへ行くのか」を尋ねる者はいなかったのです。悲しみで満たされていることと、どこへ行くのか尋ねないということはどう結びついているのでしょうか。これはつまり、弟子たちの心が「主イエスが自分たちのもとから去って行こうとしており、もう主イエスと共にいることができなくなる」という悲しみに満たされ、主イエスが父なる神のもとに行くことの積極的な意味、それによってもたらされる恵みを見つめることができなくなっている、ということでしょう。十字架の死と復活を経て、主イエスはこの世を去って父なる神のもとに行かれます。それによって弟子たちはもう主イエスのお姿を見ることができなくなり、これまでのように共に歩むことができなくなります。それは確かに悲しいこと、寂しいことです。これまでいつも共にいて支え、守り、導いて下さっていた方がおられなくなり、自分たちだけで歩まなければならなくなるのですから、当然そこには不安や恐れがあります。そういう悲しみに弟子たちは捕えられ、その悲しみしか目に入らなくなっていたのです。

私たちの悲しみ、不安、恐れ
 この悲しみ、不安、恐れは、最後の晩餐の場にいた弟子たちだけではなくて、主イエスが復活して天に昇られた後に誕生し、歩んでいる教会が共通してかかえていることだ、ということをこれまで繰り返しお話ししてきました。つまり私たちも基本的にこの悲しみ、不安、恐れを覚えつつ歩んでいるのです。私たちキリスト信者は、天地の全てを造り支配しておられる神が、独り子主イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活によって救いを実現して下さったこと、その主イエスを信じることによって、私たちは罪を赦されて義とされ、復活と永遠の命の約束を与えられていることを信じています。その救いに感謝し、喜んで生きるのが私たちの信仰です。しかしその救いを実現して下さった救い主イエスは、天に昇り、今は父なる神の右に坐しておられます。つまりこの地上に目に見える姿ではおられないのです。私たちは、復活して永遠の命を生きておられる主イエスをこの目で見ることができません。つまり主イエスが救い主であられることの目に見える証拠はないのであって、私たちは目に見える証拠なしにそれを信じるしかないのです。そのことに私たちは不安や不確かさを感じます。疑おうと思えばいくらでも疑える中で、主イエスによる救いを信じて教会に連なって生きるのはしんどいことでもあります。しかも、先週のところにも語られていたように、その信仰によって世から憎まれ、迫害を受けることすらあるのです。だから私たちは、主イエスが目に見える姿で共にいて下さって、ご自分が救い主であることを誰が見ても分かるように示して下さったらいいのに、と思います。主イエスが去って行ってしまうことに弟子たちが覚えた悲しみ、不安、恐れを私たちも感じているのです。「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。その「あなたがた」は私たちのことでもあるのです。

わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる
 それゆえに、7節のお言葉は、弟子たちに対してのみでなく、私たちに対しても語られている大いなる慰めの言葉です。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。主イエスがこの世を去って父なる神のもとに行かれるのは、私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。つまり、十字架と復活によって救いを実現して下さった主イエスが、天に昇り、父なる神のもとに行かれたこと、それゆえに私たちはもはやこの地上において主イエスのお姿をこの目で見ることはできないこと、主イエスによる救いは見ないで信じるべき事柄であること、これらのことは、悲しむべきことではなくて、私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。

弁護者をあなたがたところに送る
 しかしどうしてそれが私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのでしょうか。主イエスのお姿をこの目で見ることができなくなるので弟子たちの心が悲しみで満たされたのは当然ではないか、と私たちは思います。その私たちに主イエスはここで、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたところに送る」と言って下さっています。父なる神のもとに行った主イエスは、そこから「弁護者」を送って下さるのです。主イエスが父なる神のもとに行ったからこそそのことが起るのであって、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」とも言われています。主イエスが父なる神のもとに行くのは、この弁護者を私たちに遣わして下さるためなのです。この弁護者が送られるので、主イエスが父なる神のもとに行くことは私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのです。

聖霊が来て下さることによって
 主イエスが父なる神のもとから弁護者を遣わして下さるということは既に繰り返し語られてきました。先週読んだ15章26節にも「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とありました。また14章の26節にも「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とありました。さらに14章16節にも「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とありました。これらの箇所から、この弁護者とは誰であり、何をして下さるのかが分かります。この弁護者は、「真理の霊」であり、「聖霊」です。父なる神のもとに行かれた主イエスに代って、聖霊が弟子たちに、信仰者に遣わされるのです。それによって教会がこの世に誕生し、今日まで歩んできたのです。私たちが主イエス・キリストを信じてその救いにあずかり、教会に連なって生きているのは、この聖霊の働きによることです。聖霊が来て下さったことによって、私たちは主イエスを信じ、主イエスの父である神を信じ、神が主イエスによって実現して下さった救いにあずかって生きることができるのです。この聖霊は主イエスが父なる神のもとに行ったことによって遣わされました。もしも復活した主イエスが父なる神のもとに行かずにこの地上にずっとおられたなら、聖霊が遣わされることはなかったのです。そうであったなら、私たちは主イエスをこの目で見ることができたでしょう。しかしその場合には、主イエスは今地球上のどこにおられるのだろうか、ということになります。今度日本に、この横浜に来られるのは何時だろうか、ということになります。つまり主イエスを一生に一度、一目でも見ることができたら幸いだ、ということになるのです。しかし主イエスは父なる神のもとに行って、そこから聖霊を遣わして下さいました。その聖霊が、天におられる主イエスと地上を生きている私たちとを繋いで下さっているのです。聖霊のお働きによって私たちは、目には見えない主イエスといつも繋がっていることができるのです。主イエスというぶどうの木の枝として生きることができるのです。このことこそ、本当に私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことです。主イエスが父なる神のもとに行かれ、そこから聖霊を遣わして下さったことによってこそ、この恵みが実現しているのです。

聖霊は罪を明らかにする
 主イエスが父なる神のもとから送って下さる聖霊がして下さることが本日の箇所の8?11節にはこのように語られています。先ず8節に「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。聖霊は、罪と義と裁きについての真実を明らかにするのです。するとそこには同時に世の誤りがはっきり見えてくるのです。まず罪については9節です。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」とあります。聖霊は、主イエスこそ神の独り子であり救い主であられるという真実を明らかにします。それによって、主イエスを信じることなく拒み、十字架につけて殺した世の誤り、罪がはっきり見えて来るのです。この福音書の3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありました。世は神にこのように愛されながら、その愛を受け入れず、拒んだ。そこに世の罪がはっきりと現れているのです。

聖霊は義を明らかにする
 また10節には「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」とあります。聖書において義は、人間が考える正義ではなくて、神さまとの間に正しい良い関係があることです。私たちは罪によって神さまとの正しい良い関係を失っています。つまり義でなくなっているのですが、神さまは、独り子主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、良い関係を回復して下さっています。義を与えて下さっているのです。その恵みに応えて私たちも、神さまを信頼して、主イエスを、目に見える証拠によってではなくて、見ないで信じて生きるのです。主イエスの十字架と復活による神さまの救いのみ業に私たちが応えて、神を信頼し、見ないで信じる信仰に生きる、そこに、神さまと私たちとの正しい良い関係が、つまり義が打ち立てられるのです。聖霊はこの義を、言い替えれば神の救いを、明らかにします。それが明らかにされるとき、神を信頼せず、神と良い関係にない世の誤り、罪がはっきり見えてくるのです。

聖霊は裁きを明らかにする
 11節には「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」とあります。「この世の支配者」というのは政治的権力を握っている人間のことではありません。神に敵対し、私たちを神のご支配から引き離そうとしている罪の力、サタンのことです。サタンは権力を握っている人間たちを用いて神の独り子主イエスを十字架につけて殺しました。そこではサタンが神に勝利してこの世を支配しているように見えたのです。しかし神は主イエスを復活させ、主イエスは今や天において全能の父なる神の右に座しておられます。この世を本当に支配しているのはサタンではなくて主イエスの父なる神であることが示されたのです。神に逆らってこの世の支配者であろうとしたサタンは最終的に裁かれ、断罪されるのです。聖霊はこの神の裁きを、神の勝利を明らかにします。そこに、サタンに支配されている世の誤りがはっきり現れているのです。

弁護者である聖霊
 ややこしい話になりましたが、要するに、聖霊は主イエスによって実現した神の救いの恵みを明らかにして下さるのです。すると、神の愛による救いを受け入れず、拒んでいる世の罪が同時に明らかにされるのです。聖霊のことが「弁護者」と呼ばれていることの意味がそこに見えてきます。聖霊が来て下さることによって世の罪が明らかになる、それは私たちの罪が、私たちが神と正しい良い関係を持っていないことが明らかになるということです。しかし聖霊はそこで、私たちの弁護者となって下さるのです。確かにこの人は罪人であり、神に背いている者だけれども、この人の罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さり、赦しを与えて下さっている、神さまとこの人との正しい良い関係は主イエスによって既に回復されているのだ、と聖霊が語って下さるのです。つまり聖霊は私たちの罪を明らかにすると同時に、私たちに与えられている主イエスによる救いをも明らかにして下さるのです。「弁護者」と訳されている言葉は元々は「傍らに呼ぶ」という言葉から来ており、「慰める、励ます」などの意味です。この言葉に「弁護する」という意味があるわけではありません。以前の口語訳聖書は「助け主」と訳していました。新共同訳がそれを「弁護者」と訳したのは、聖霊が私たちの罪を明らかにすると同時に、主イエスによってその罪が既に赦されていることをも明らかにして下さることを覚えてのことでしょう。「弁護者」という言葉は、聖霊のお働きの一つの大事な側面を言い表しているのです。

真理を悟らせて下さる聖霊
 13節にも、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。聖霊が来て下さることによってこそ私たちは、神の救いの真理を悟ることができるのです。今私たちはクリスマスに備えるアドベントの時を歩んでいます。神の独り子である主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを喜び祝う時を迎えようとしています。このクリスマスの本当の恵み、そこに示されている神の愛の真理も、聖霊のお働きによってこそ悟ることができるのです。クリスマスの祝福と喜びを私たちにもたらして下さるのも、父なる神のもとに行かれた主イエスから来る聖霊です。「来たれ、聖霊よ」と祈ることによって私たちはクリスマスに備えていくのです。

父と子と聖霊が一体となって
 13節の後半以降には、聖霊が私たちに真理をことごとく悟らせて下さることがどのようにして実現するのかが語られています。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り」とあり、「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」とあります。「父が持っているものはすべて、わたしのものである」と言われており、その「わたしのもの」を聖霊があなたがたに告げるのだ、とあります。これもややこしい話ですが、要するにここには、父なる神と独り子主イエスと聖霊の連携によって私たちに救いが与えられていることが語られているのです。父なる神がその持っているものを全て独り子主イエスに与えて、主イエスをこの世にお遣わしになりました。それが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということであり、クリスマスの恵みです。そのようにしてこの世に遣わされた主イエスの十字架の死と復活によって、「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」という救いが実現したのです。聖霊なる神はその主イエスによる救いの真理を私たちに告げて下さり、私たちにそれを悟らせて下さいます。父なる神と、独り子なる神主イエスと、弁護者、真理の霊である聖霊なる神が、連携して、一体となって、救いを実現し、私たちにそれを悟らせ、その救いに生きる者として下さっているのです。私たちは主イエスのお姿をこの目で見ることはできない中を歩んでいます。そこには確かに不安や恐れがあります。しかし父なる神のもとに行かれた主イエスから遣わされた聖霊が、神による救いの真理を明らかにし、悟らせて下さるので、私たちは目に見える証拠なしに、主イエスによる救いを信じて生きることができるのです。

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