クリスマス礼拝

キリストが世に来られたのは

「キリストが世に来られたのは」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第96編10-13節
・ 新約聖書:テモテへの手紙一 第1章12-17節
・ 讃美歌:255、268、67

世間におけるクリスマスの意味
 本日私はちはクリスマスを喜び祝う主の日の礼拝をささげます。今年は新型コロナウイルスの影響で、24日に行っていた「讃美夕礼拝」をすることができませんので、本日の礼拝が、共に集ってクリスマスを祝う唯一の場です。今年は特別なクリスマスとなっていますが、形はどう変わろうとも、クリスマスを喜び祝う私たちの思いは毎年変わりません。私たちの救い主、神の独り子主イエス・キリストがこの世に生まれて下さったことを感謝し、喜び祝う、それがクリスマスです。
 しかし世の中におけるクリスマスの意味や捉え方は時代によって、また社会の状況によって変わってきています。最近の若い人たちにとっては、クリスマスは恋人と共に過す日のようで、クリスマスを共に過す恋人がいないことを「クリぼっち」と言います。私が毎週楽しみに見ている、今週が最終回のテレビドラマも、要するに主人公の女性がクリスマスをどっちの男性と共に過すのか、という話になっています。そのドラマの主題歌には、クリスマスなんてなければいつもと変わらない夜なのに、と歌われていて、クリスマスがあるばっかりに寂しい思いをしなければならない、とクリスマスが恨まれています。勝手にクリスマスのイメージを作り上げておいて逆恨みしないでよ、と思います。しかしそうかと思えば、今年は新型コロナウイルスの影響によって、クリスマスを一人で過す人が増えており、積極的に「クリぼっち」を選ぶ人が増えているのだそうです。そして一人のクリスマスを楽しむためのいろいろなものが売られているそうです。私たちの知らないところで、世間におけるクリスマスのイメージはコロコロと変化しているのだ、ということを考えさせられています。

私たちにとってのクリスマスの意味
 しかし私たちにとって、教会にとって、クリスマスの意味は常に変わりません。本日の聖書の箇所、テモテへの手紙一の第1章15節に「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」とあります。このことを感謝し、喜び祝うことがクリスマスの意味です。キリストであるイエス、つまり救い主である主イエスがこの世に来られ、神の救いのみ業が始まった、それがクリスマスの出来事でした。主イエスはユダヤのベツレヘムの馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。立派な宮殿で生まれ、ふかふかのベッドに寝かされたのではなくて、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのです。それは、様々な苦しみ悲しみを抱えて生きている私たちのところに、救い主イエス・キリストが来て下さったということです。

罪人を救うために
 この世を生きている私たちは、様々な苦しみ悲しみを抱えています。経済的な苦境に陥ったり、人間関係に苦しんだり、願いが叶わず挫折したり、愛する者を失ったり、今は新型コロナウイルスによる恐れや不安もあります。しかし、人生の最も深い苦しみ悲しみは、私たちに罪があることです。それは私たちがいろいろ悪い事をしているというよりも、自分に命を与え、人生を導いておられる神さまと良い関係を持っていないということです。神さまの愛を知らずに生きていることと言ってもいいでしょう。神さまが愛をもって自分を造り、生かして下さっていることを知らないので、私たちは自分の人生に不満を抱いて苦しむのです。人と自分を見比べて嫉妬したり、恨みを抱いたりするのです。神さまが自分を愛して下さっていることを知らないと、私たちは自分で自分を愛することができません。自分が自分であることを喜びをもって受け入れることができずに、不平不満、嫉妬、怒り、いらだちに満たされてしまうのです。そして自分で自分を愛せていなければ、隣人を愛することもできません。隣人を愛するとは、隣人の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむことですが、自分が不平不満や嫉妬に捕えられていると、隣人の喜びがねたましく感じるし、隣人の悲しみ、不幸に表面では同情しつつ、心の中ではそれを喜んでしまうのです。このように、私たちの心の中の不平不満、嫉妬、怒りから様々な具体的な悪い思いや行いが生まれます。自分のことしか考えない身勝手さに陥り、人を傷つけてしまうことが起ります。そして、人と良い関係を築くことができなくなります。それらのことの根本にあるのは、神さまと良い関係を持っていない、ということなのです。それが聖書で言う罪です。聖書が「人間は皆罪人である」と言っているのは、私たちの誰もが、神さまとの良い関係を失っているために、喜んで生きることができず、人と本当に愛し合うことができなくなっている、ということです。私たちが罪人であることが、この世を生きる中で経験する苦しみや悲しみの根本的な原因なのです。
 その罪人である私たちを救うために、主イエス・キリストが世に来られた、それがクリスマスの出来事です。罪人が救われるとは、失われている神さまとの良い関係が回復されること、神さまが自分を愛しておられることが分かるようになり、自分が自分であることを喜びをもって受け入れ、自分を愛し、隣人をも愛することができるようになることです。要するに、神さまとも隣人とも、良い関係をもって生きていくことができるようになる、それが救いです。この救いをもたらすために、主イエス・キリストはこの世に来て下さったのです。

クリスマスを本当に喜んでいるか?
 15節には、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」とあります。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」、括弧に入っているこの言葉こそがクリスマスの意味です。その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するのだと語られています。それは裏返して言えば、この言葉を真実だと思えず、そのまま受け入れることができないという思いが、この手紙を読んでいる人々の中にも、そして私たちの中にもあるということです。主イエスが、罪人である私たちのための救い主としてこの世に来て下さったことを信じて生きることが私たちの信仰であり、それを信じるところにこそクリスマスの喜び、祝福があります。しかし私たちはこのみ言葉を本当に真実として、そのまま受け入れることがなかなか出来ません。だからクリスマスの本当の喜びを感じることがなかなかできません。私たちがクリスマスに感じている喜びが、実は世間の人々の喜びに引きずられているということもあるのではないでしょうか。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉を真実としてそのまま受け入れ、それをこそ喜んでいるのでなければ、私たちも、「共に過す恋人や家族がいない自分はクリスマスにはかえって寂しい思いをする」という思いに陥ってしまうのです。

罪人の中で最たる者
 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉を真実としてそのまま受け入れ、クリスマスの本当の喜びに満たされていくためには何が必要なのでしょうか。15節後半の言葉がそれを語っています。「わたしは、その罪人の中で最たる者です」とあります。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉を真実としてそのまま受け入れるためには、自分がその罪人の中の最たる者であることを知らなければならないのです。つまり、主イエス・キリストがまさにこの自分を救うために世に来られたことを知ることによってこそ、クリスマスの本当の喜びが分かるようになるのです。「罪人の中の最たる者」というところは、新しい聖書協会共同訳では「罪人の頭」となっています。「最たる者」とか「頭」と訳されている言葉は、元々は「第一の者」という意味です。キリストが救うために世に来て下さった罪人の中の第一の者が自分なのだ、とパウロは言っているのです。彼のこの自覚は、13節に語られている「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るうものでした」ということから来ているのでしょう。パウロは元々は教会を迫害する者、信仰者たちに暴力を振るう者でした。それは教会の信者たちに対して悪い事をしていたと言うよりも、神を冒涜していたのです。神を正しく信じ敬っていなかった、つまり、神さまとの関係が正しくなかったのです。パウロ自身は、自分は神さまを信じて仕えていると思っていました。でもそれは、独り子イエス・キリストによって罪人を救おうとしておられる神さまのみ心とは真逆なことであり、その救いのみ業の妨害だったのです。そのことを振り返って彼は、「私は罪人の中の第一の者だ」と言っているのです。

まず私に
 パウロが「私は罪人の中の最たる者、頭、第一の者だ」と言っているのを読むと私たちは、パウロという人は、罪人であることにおいてすら、自分が一番でないと気が済まないのだろうか、などと思うことがあります。しかしパウロが語っているのは、人と比べて自分が一番だ、ということではありません。次の16節にこうあります。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。罪人であった自分が神の憐れみを受けて救われた、ということがここに語られています。そしてその救いは、「キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになった」ことによって与えられたのです。この中の「まず私に」という言葉に注目したいのです。この「まず」は「第一に」という言葉であり、15節の「最たる者、頭、第一の者」と同じ言葉です。つまりパウロは15節では自分が罪人の中の第一の者だと言っており、16節ではキリストの限りない忍耐による救いがまず第一に自分に与えられた、と言っているのです。この二つのことは呼応していると思います。罪人の中の第一の者である自分は、キリストの限りない忍耐による救いを第一に与えられた者なのです。キリストの限りない忍耐による救いを第一に与えられている自分は罪人の中の第一の者なのです。この「第一に」という言葉でパウロが語ろうとしているのは、人と比べて誰が一番かということではなくて、神のみ業を妨害し、神を冒涜してきた第一の、まさに最悪の罪人である自分が、キリストの限りない忍耐によって第一に神の憐れみを受け、救われたということです。救われるどころか滅ぼされるべきであるこの自分にキリストが限りない忍耐を示して下さった、その救いが他の誰でもないこの自分に与えられた、ということを彼は見つめているのです。つまり「わたしは、その罪人の中で最たる者です」という言葉も、「キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになった」という言葉も、主イエス・キリストの十字架の死による救いが、他の誰でもないこの自分に与えられたことを語っているのです。つまりパウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉を、まさに自分自身の真実として、他の誰でもなく自分に起った出来事としてそのまま受け入れているのです。それによって彼は、クリスマスの本当の喜びに満たされているのです。

他の誰でもなくこの自分が
 私たちがクリスマスの本当の喜びに満たされるために何が必要なのかがここに示されています。私たちも、自分が罪人の中で最たる者、第一の者であることを知らなければならないのです。それは誰かと競うことではありません。自分自身が神さまと良い関係をもって生きているか、神さまが自分を愛して下さっていることが分かっているか、自分も神さまを愛し、自分自身を愛し、自分が自分であることを喜び、そして隣人を自分自身のように愛しているか、そのことを見つめていく時に私たちは、自分が神さまとの正しい良い関係を失っていること、神さまをも、自分自身をも、隣人をも、本当に愛することができていないこと、つまり自分自身がどうしようもない罪人であることを知らされるのです。そしてそこには同時に、そのような罪人である自分を救うために主イエス・キリストが世に来られたこと、この自分に限りない忍耐を示して下さり、自分のために十字架の苦しみと死を負って下さったこと、それによって神の憐れみが自分に与えられ、救われたことも知らされるのです。その時、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉が、他の誰のことでもない、この自分に与えられている真実の救いであることを知ることができます。クリスマスの本当の喜びはそこに与えられるのです。

洗礼を受けることによって
 本日のクリスマス礼拝、11時30分からの二回目の礼拝において、三名の方々が信仰を告白し、洗礼を受けてこの群れに加えられます。信仰を告白するとは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、その罪人とはこの自分のことだと信じて、この言葉をそのまま受け入れることです。するとそこに、主イエス・キリストの限りない忍耐による救いが与えられる、それが洗礼です。洗礼を受けることによって私たちは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉をまさに自分に起った真実の救いと信じて生きる者となるのです。つまりクリスマスの本当の喜びに生きる者となるのです。

人々の手本となる
 パウロは16節の後半において、自分が主イエス・キリストの限りない忍耐による救いにあずかったのは、「わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」と言っています。主イエスによる救いが自分に与えられていることを知った者は、つまり洗礼を受けた信仰者は、人々の手本となるのです。それは人々の模範や目標とされるような立派な人になることではありません。私たちは、神に背き逆らっている罪人の最たる者であり、とうてい救われようのない自分が、ただ主イエス・キリストの限りない忍耐によって、神の憐れみを受けて救われた、その神による救いのサンプルとなるのです。つまり人々は私たちを見て、なんて立派な信仰に生きているのだろうかと感心するのではありません。あの人はどうしようもない罪人ではないか、どうしてあんな人が神さまを信じているとか、神に救われているなどと言えるんだろうか、と思うのです。それにもかかわらず、神さまがあの人を憐れんでくださって、イエス・キリストが十字架にかかって死ぬという限りない忍耐をもってあの人を赦してくださり、永遠の命の希望を与えているようだ。あの人はどうしようもない罪人なのに、イエス・キリストを信じることによって救われた喜びに生きている。私たちはそのことを人々に示して行く「手本」となるのです。つまり私たちは、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉が真実で、そのまま受け入れるに値することを身をもって証しし、伝えていくのです。「キリストはあなたがた罪人を救うために世に来られたのですよ」などといくら語っても人々に伝わることはないでしょう。私たちは、パウロがここでしているように、最悪の罪人であるこの私を救うために、主イエス・キリストがこの世に来て下さって、限りない忍耐をもって十字架にかかって死んで下さった、それによって私は神さまの憐れみを受け、赦されて、神さまと良い関係をもって生きることができるようになった。だから今私は神さまを愛し、自分自身を愛し、隣人を愛して生きることができる。その喜びを証ししていくのです。

クリスマスの喜びは「コロナ禍」の中でも人を生かす
 生まれつきの私たち人間は、神さまとの良い関係を失っているために、苦しみや悲しみ、恐れと不安に捕えられており、喜んで生きることができなくなっています。喜んで生きることができないということは、死を受け入れることもできないということです。神さまとの良い関係を失っている人間にとって、死は深い恐れと絶望をもたらすものでしかありません。その恐れと絶望は、新型コロナウイルスによって今ますます深くなっており、私たちを苦しめています。その私たちを救い、神さまとの良い関係を回復し、私たちが神さまを愛し、自分自身を愛し、隣人を愛して生きることができる者となるために、神の独り子イエス・キリストが世に来て下さいました。それがクリスマスの喜びです。その喜びは「コロナ禍」の中でも人を生かし、死の恐れをも乗り越えさせてくれます。この喜びを、他の誰でもない自分自身のこととして味わい知ることによって私たちは、世の人々にその喜びをもたらす者となることができるのです。

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