「神からの誉れ、人間からの誉れ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章1-10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章36b-43節
・ 讃美歌:7、400
主イエスの歩みのまとめ
本日ご一緒に読む聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第12章36節の後半からです。前回36節の前半までを読みました。36節の途中に段落が設けられ、小見出しがつけられているのです。段落や小見出しは勿論、節も後からつけられたものです。後の人が、ここが切れ目だと考えてつけたのです。36節は、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」という文章がその前の主イエスの言葉を受けていると思われたのでこうなったのでしょう。「これらのこと」は直接には36節前半の主イエスのお言葉を指しており、また「彼ら」とは、それが語られた相手である、34節に出てくる「群衆」です。そのように話が続いているので、ここには段落どころか節の切れ目も置かれなかったのです。しかし最近はここに段落を置いて翻訳することが多くなっています。それには理由があります。それは、「イエスはこれらのことを話してから」の「これらのこと」は、直前の言葉だけを指しているのではなくて、この福音書でこれまで主イエスが語って来られたことの全体を受けていると思われる、ということです。つまり「イエスはこれらのことを話してから」という文は、「人々に語るべきみ言葉を全て語り終えた主イエスは」という意味であり、それを受けて新しい段落がここから始まっている、と考えることができるのです。つまりヨハネ福音書は12章の終わりにおいて、これまでの主イエスの歩みのまとめをしようとしているのです。
身を隠した主イエス
これらのことを話し終えた主イエスは「立ち去って彼らから身を隠された」とあります。人々の前から姿を消したのです。その理由が次の37節に語られています。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」。この文章からも、ヨハネがここでこれまでの主イエスの歩みのまとめをしようとしていることが分かります。主イエスはこれまで、人々の前で「多くのしるし」、つまり奇跡を行って来られました。ヨハネ福音書には七つのしるしが語られており、最後にして最大のしるしが11章の「ラザロの復活」でした。そしてこれらのしるし、奇跡を巡って、主イエスは人々にみ言葉を語ってこられたのです。つまり主イエスはこれまで人々の前で「多くのしるし」をなさり、それをめぐってみ言葉を語ってこられたのです。それらのみ業とみ言葉が全てなされ、語られた結果どうなったか。人々はイエスを信じなかったのです。前回のところに語られていたのも、「人の子は上げられなければならない、上げられる時にこそ多くの人々を自分のもとへ引き寄せる」という主イエスのお言葉、つまり救い主は十字架の死によってこそ救いを実現する、というお言葉を人々が受け入れず、自分たちは、メシアとはこういう方だと教えられてきた、と言ったということでした。このように、主イエスが数々のみ業をなさり、み言葉を語っても、人々は結局主イエスを受け入れず、神からの救い主と信じることはなかったのです。それゆえに主イエスは「立ち去って彼らから身を隠された」のです。次に主イエスが人々の前に姿を現すのは、18章において、捕えられた主イエスがピラトによる裁判において人々の前に引き出される時です。主イエスはそこで十字架の死刑の判決を受け、直ちに処刑が行われるのです。つまり主イエスが人々の前でみ言葉を語ったのは36節前半が最後です。このようにヨハネ福音書はここで、人々の前での主イエスの歩みの終わりを見つめ、そのしめくくりをしているのです。
イザヤの言葉が実現するため
このしめくくりにおいてヨハネは、主イエスが多くのしるし、奇跡をなさり、み言葉を語ってこられたけれども、結局人々が主イエスを信じなかったのは何故なのか、ということを語っています。38節に「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」とあります。人々が主イエスを信じなかったことをヨハネは、イザヤ書の預言の成就と見ているのです。それは「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」という預言です。これはイザヤ書第53章1節からの引用です。預言者はここで、自分たちが神から示されて語り伝えたことを人々が信じようとしない、と語っています。このことが主イエスにおいて起ったのだとヨハネは言っているのです。このイザヤ書53章は、人々に受け入れられず、蔑まれ、見捨てられて殺される「主の僕」のことを語っています。この僕が苦しみを受けたのは、人々の罪を背負って、身代わりになって死んだということであり、その苦しみと死によって人々の罪が赦され、救いが与えられたのだ、とこの53章は語っているのです。それはまさに、神の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、神が私たちの罪を赦し、救いを与えて下さることの預言です。イザヤ書53章は主イエスの十字架の死によって実現する神の救いを預言しているのです。人々は主の僕の語ったことを信じようとせずに軽蔑し、無視し、殺してしまう、というイザヤ書の預言の通りに、人々は主イエスを軽蔑し、無視し、殺してしまった、しかしそのことによって、神による救いが実現したのです。人々が主イエスを信じなかったのはこの神による救いが実現するためだったのだ、とヨハネは語っているのです。
神がかたくなにされた
さらにヨハネは、イザヤ書からもう一つの言葉を引用することによって、このことが起った根本的な理由を語っています。それが40節の「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」です。これは先程共に朗読された、イザヤ書第6章1?10節の最後の10節です。イザヤ書においてこれは主なる神ご自身の言葉として語られており、主語は「わたし」です。ヨハネはそのみ言葉の一部を引用し、最初に「神は」という主語を加えることで、彼らの目を見えなくし、心をかたくなにされたのは誰かを明確にしています。最後の行に「わたしは」という本来の主語が残っていてちぐはぐになっているのはそのためです。神ご自身が人々の目を見えなくし、心をかたくなにされたので、人々は示されたことを見ることができず、語られたことを悟ることができず、つまり主イエスを救い主と信じることができずに、神のもとに立ち帰って救い、癒しを得ることができないのです。人々が主イエスを信じなかった根本的な理由はこれだ、とヨハネは言っています。つまりそれはただ人々が分からず屋だったとか、頑なだったというのではなくて、神ご自身のみ心によって起っていることなのです。
イザヤが見た神の栄光
ヨハネはこの引用について41節で「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と言っています。旧約聖書の預言者イザヤが主イエスの栄光を見た、とはどういうことでしょうか。イザヤ書第6章は、イザヤが主なる神と出会い、預言者として立てられ、遣わされたことを語っています。6章1節にあるように、イザヤは主なる神の神殿で、高く天にある御座に主が座しておられるのを見たのです。セラフィムという主の天使が飛び交いつつ、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」という賛美を歌い交わしているのを聞いたのです。その声によって神殿の入口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされたと4節にあります。つまりイザヤは、主なる神の栄光を見たのです。それは素晴らしい体験と言うよりも、5節で彼が「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言っているように、もう自分は滅びるしかない、という体験でした。神の栄光の前に、汚れた罪人である私たち人間は立ち得ません。滅ぼされるしかないのです。しかし天使が祭壇の炭火を彼の口に触れさせて、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言しました。イザヤは神による罪の赦し、清めを受けたのです。このことによって彼は、神の求めに応えて預言者として立つことができたのです。つまりイザヤは、神の栄光を見たことによって、自分が罪のゆえに滅びるしかない者であることを示されると同時に、神による罪の赦しによって預言者として立てられたのです。このことを受けてヨハネは、イザヤはイエスの栄光を見た、と言っているのです。イザヤが見た神の栄光、それによって預言者とされた栄光は、実は主イエスの栄光だったのだ、とヨハネは言っているのです。どうしてそんなことが言えるのか。それは、神の栄光を見たことによって預言者として遣わされたイザヤが、主イエスと同じ体験をしたからです。それが40節の、神ご自身が人々の目を見えなくし、心をかたくなにされたので、彼らは預言者の語ることを受け入れず、信じない、ということです。イザヤ書6章には、主による罪の赦しを受けたイザヤが、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という主の呼びかけに「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応えて預言者となったことが語られています。そのようにして預言者となったイザヤに主が語られた最初のみ言葉が9、10節なのです。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」。主なる神によって預言者として立てられ、遣わされたイザヤがみ言葉を語る。しかし彼が語れば語るほど人々の目は暗くなり、耳は鈍くなるので、聞いたことを理解できず、信じることができず、悔い改めて癒されることがないのです。神ご自身のみ心によってそういうことが起るのです。私たちはこの主のお言葉を読むと、それならいったいイザヤは何のために預言者として立てられたのか、神ご自身が人々の心をかたくなになさり、聞いても悟らないなら無意味であり、遣わされても全く無駄骨ではないか、これではイザヤが気の毒だ、と思います。しかしこのことはまさに、神が独り子主イエスをこの世に遣わして下さったことにおいて起ったことなのです。神の子である主イエスが、多くのしるしを行い、み言葉を語っても、人々は信じない、目が見えなくなり、心がかたくなになっているので、悟ることができず、立ち帰ることができないのです。それでは独り子主イエスが遣わされても全く無駄骨ではないか。まさにそのように思えることが起っているのだ、とヨハネは語っているのです。イザヤが見た神の栄光はそういう意味で主イエスの栄光です。その栄光によって遣わされたイザヤの言葉を人々が受け入れなかったように、神の栄光に輝く独り子主イエスが人間として遣わされたのを、人々は受け入れずに拒み、十字架につけて殺してしまったのです。
神の救いのみ業
しかしイザヤ書が語っているのは、神の栄光が人々のかたくなな心に跳ね返されて挫折し、目的を実現できなかった、ということではありません。人々の心がかたくななのも、神がそうしておられるのであって、そのことを通して、神は人間の思いの及ばない仕方で救いのみ業を実現なさるのです。それがあの53章の「主の僕」です。人々に軽蔑され、受け入れられず見捨てられて殺されるこの僕こそ、人々の罪を自らの身に背負って死ぬことによって罪の赦しをもたらす救い主なのです。人々の心をかたくなになさる神は、そのことを通して、この救いを実現して下さるのだ、とイザヤ書は語っているのです。主イエスにおいても同じことが起っています。と言うよりも、イザヤ書が語っているこの主の僕による救いは、主イエス・キリストの十字架による救いの預言だったのです。イザヤが自らの体験を通して証しした神の救いのみ心が、主イエスにおいて、人々が主イエスのみ業を見、み言葉を聞いても信じることなく、十字架につけて殺してしまったことにおいて実現したのです。
ヨハネ福音書はここで、主イエスが人々の前でなさったみ業と語られたみ言葉のしめくくりとして、人々がイエスを信じなかったことを語っています。それでは主イエスのこれまでの活動は全て無駄だったのかというと、実はそうではなくて、それは神のみ心によることであり、このことを通して、神の深い救いのみ心が実現したのです。ヨハネはそのことを、イザヤ書の預言に基づいて語っているのです。
人間の可能性によってではなく
私たちがここから示されるのは、神による救いは、私たちが教えを聞いて理解し、納得して信じることによって得られるのではない、ということです。私たちが理解して信じることによって救いが得られるなら、その救いは私たちが自分の力で得るものとなります。しかし救いはそのようにして実現することはないのです。私たちは神の言葉を理解することも悟ることもできません。私たちの目は見えなくなっており、耳は聞こえなくなっており、心はかたくなになっているのです。だから私たちの中には、救いを得る可能性などないのです。しかも神がそのようにしておられるのです。それは、私たちの中の何らかの可能性によってではなくて、ただご自身の恵みのみ心と力とによって、私たちの思いも及ばない不思議な仕方で救いを実現し、与えて下さるためです。それが主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いです。神はその救いをイザヤ書において預言し、それを主イエスにおいて実現して下さったのです。神による救いは、私たちが理解し納得して信じることによってではなくて、私たちが受け入れず、軽蔑し、見捨てた主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って死んで下さり、復活して下さったことによって、神の恵みとして与えられているのです。
神からの誉れ、人間からの誉れ
本日の箇所にはさらに42、43節があります。ユダヤ人の議員の中にもイエスを信じた人々が多くいたが、会堂から追放されるのを恐れて、信仰を公に言い表さなかった、と語られています。この福音書の9章22節に、ユダヤ人たちが、イエスをメシアであると公に言い表す者はユダヤ人の会堂から追放すると決めていた、と語られていました。そこを読んだ時にも申しましたが、これは主イエスの地上のご生涯の間のことではなくて、この福音書が書かれた紀元1世紀末の教会の置かれた状況です。イエスをメシア、つまり救い主と信じるキリスト教徒はユダヤ人の共同体から追放する、という迫害が始まっていたのです。議員に代表される、ユダヤ人たちの間で社会的地位を得ている人々の中にも、主イエスを心の中では信じていた人々がいたけれども、共同体から追放されるのを恐れて、信仰を公に言い表さなかったのです。ヨハネは43節でそのような人々のことを「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と言っています。ここは直訳すると「彼らは神の栄光よりも人間の栄光の方を愛した」となります。心の中でだけ信じている彼らは、神の栄光よりも人間の栄光を愛しているのであって、それでは本当に救いにあずかることはできない、と言われているのです。
このことは41節までのところとどう結びつくのでしょうか。41節までに語られていたのは、私たち人間は、主イエスのみ業やみ言葉を聞いても、結局それを受け入れず、信じない者なのだということです。主イエスのご生涯においてそのことが明らかになったのです。その現実の中で、神が、主イエスの十字架と復活による救いを実現して下さったのです。つまり私たちの救いは、頑なな思いを捨てて素直に主イエスを信じれば救われる、というような、私たちの中の「信じる可能性」によって実現するのではなくて、神が、その独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さり、独り子主イエスの十字架と復活によって、罪人である私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さった、その神の愛によってのみ与えられるのです。だから、私たちがみ言葉を理解できないとか、主イエスによる救いを素直に信じることができないというようなことは、救いの妨げには全くなりません。頑なに神を拒んでいる人間の現実の中で、それをも用いて、神は主イエスの十字架と復活による救いを実現して下さったのです。その救いにあずかるために求められていることはただ一つです。それは自分の中の可能性を見つめることをやめて、神が私たちのために実現して下さったことのみを見つめることです。それが、人間の栄光ではなく神の栄光を愛することです。神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活によって永遠の命の約束を与えて下さった、そこに、主イエスによって実現した神の栄光があります。この神の栄光をこそ見つめ、求めていくところに、救いは与えられるのです。人間の誉れや栄光は、私たちが獲得して自分のものにできる人間の可能性です。私たちは自分の可能性に頼り、自分が獲得して持っているものを誉れとして、それをお互いに比べ合って誇ったり妬んだりしています。その自分の栄光が失われることを恐れています。そのような人間の栄光を見つめ、愛し、求めているところには救いはありません。主イエスによって実現した神の栄光をこそ愛し、求めることによって私たちは、神に愛されている喜びと平安の中で、神と人とを愛して生きることができるのです。信仰による救いは、人間の栄光よりも神の栄光を愛するところにこそ与えられるのです。