主日礼拝

あなたは神の子です

「あなたは神の子です」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第4章1-7節
・ 讃美歌:12、455

クリスマスから最も離れた主の日に
 6月最後の主の日を迎えました。主日礼拝を再開して三回目の主の日です。先週からは、求道者や他教会の方々と共に守る礼拝を再開することができました。三回に分散しての礼拝であり色々な制約の中にありますが、感染対策をしつつ主の日の礼拝が再び途切れることなく続けられるよう願わずにはいられません。6月最後の主の日と申しました。ですから本日は、教会の暦ではクリスマスから最も離れた主の日と言うことができます。私たちは冬の寒い季節にクリスマスを迎えますから、この梅雨の蒸し暑い季節にクリスマスを想い起こすことは、ほとんどないかもしれません。しかしだからといって私たちにとってクリスマスの出来事は、いわゆるクリスマスシーズンにだけ想い起こせば良いということではないのです。神の独り子が人となって私たちのところに来てくださった。このクリスマスの出来事の恵みを主の日ごとに想い起こし、その恵みに感謝しつつ歩んでいきたいと思います。このことに気づかされるとき、クリスマスの出来事について語っている本日の聖書箇所は季節外れなどではなく、今日、私たちが耳を傾けるのにふさわしい箇所だと言えるのではないでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙4章4、5節にはこのようにありました。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」ここには、私たちが親しんでいるクリスマスの物語はありません。ヨセフやマリア、羊飼いや博士や天使たち、あるいは飼い葉桶も出てきません。しかしこのたった二節のみ言葉に、クリスマスの出来事が凝縮されています。クリスマスとはどのような出来事で、なんのための出来事なのか、それらのことが語られているのです。

未成年の相続人のたとえ
 このことを語るためにパウロは、まず本日の箇所の冒頭で未成年の相続人のたとえを用いています。パウロは1、2節でこのように言っています。「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。」このたとえにおいては、おそらく相続人の父親の死が前提とされています。父親が死ぬと、相続人は父親の遺産を相続しますが、相続人が未成年である場合は後見人や管理人の監督の下に置かれ、全財産を相続しても父親が定めた時までそれを自由にすることができないのです。このたとえを用いてパウロが見つめていることに目を向ける前に、このたとえは完璧ではないことに注意しておく必要があります。例えば父親は、父なる神さまのたとえですが、先ほど申したように、このたとえにおいては父親の死が前提とされています。しかしこのことからパウロが、父なる神さまの死を前提としていたと考えるのは、まったくの誤りです。あるいは3章29節と4章1節では「相続人」という言葉の使い方にも食い違いがあります。4章1節において未成年とは、キリストが来る前の人間のたとえであり、それにもかかわらずその未成年が「相続人」と言われています。しかし3章29節においては、キリストが来た後、洗礼によってキリストと結ばれ、「キリストのもの」とされた人間が「相続人」と言われていたのです。
 このように未成年の相続人のたとえは不十分であると言えます。しかしそれにもかかわらずパウロは、このたとえによってガラテヤ教会の人たちに、そして私たちに大切なことを伝えようとしているのです。1節で「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく」と言われていましたが、「僕」と訳された言葉は「奴隷」という言葉です。つまり未成年の相続人は、後見人や管理人に監督され、相続した財産を自由にできないという点で、奴隷と変わらないと言われているのです。このたとえからパウロは、ガラテヤの人たちが、そして私たちも、キリストが来る前は同じように奴隷の状態であったと告げているのです。このことが3節でこのように語られています。「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」「未成年であったとき」とは、キリストが来る前ということであり、3章23節の言葉を用いれば「信仰が現れる前」ということであり、それはクリスマスの出来事の前ということにほかなりません。クリスマスの出来事の前、私たちは「世を支配する諸霊」の奴隷であったのです。新共同訳で「世を支配する諸霊」と訳されている言葉は様々に訳される言葉です。聖書協会共同訳では「この世のもろもろの霊力」と訳されていますし、別の翻訳では「宇宙の諸力」と訳されています。訳に幅があるのは、元々の言葉の意味を日本語に訳すのが難しいからでしょう。しかしパウロがここで見つめているのは、私たちを行いへと駆り立てる「世の様々な力」に、かつて私たちが支配され、その奴隷とされていたということにほかなりません。

「世の様々な力」の支配
 これまでパウロはガラテヤの人たちに、律法の行いによって救われるのではなく、信仰によってのみ救われると繰り返し語ってきました。彼らの信仰が動揺して、信仰に加えて律法の行いも必要だと考え始めていたからです。パウロにとってこのことは、神さまの救いの恵みの支配の下から律法の支配の下へと戻ることにほかなりません。ですから彼は、時には言葉を荒げて断固として反対してきたのです。私たちもこれまで律法の行いによらない信仰のみによる救いを聞いてきました。けれども私たちはどこかでパウロが語っていることに腑に落ちないところがあったのではないでしょうか。そのために、パウロが語っていることを自分のこととして受けとめにくいところがあったのです。それは、ガラテヤの人たちは、元々律法の支配の下にはいなかったのではないか、という疑問です。彼らの多くは異邦人からキリスト者になった人たちでした。ですからユダヤ人からキリスト者になった人たちと違って、神さまから律法が与えられていたわけではないし、律法そのものについても知らなかったはずです。このことは、私たちにも当てはまります。私たちは洗礼を受ける前に律法の支配の下に生きてきたわけではありません。旧約聖書を読んでいたとしても、十戒を中心とする律法に支配されて生きていた、と感じてはいなかったはずです。ですから3章23節では「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され…閉じ込められていた」と言われていましたが、私たちはそのような実感を持てなかったのではないでしょうか。しかしパウロは3節において、ユダヤ人が律法に支配されていたように、異邦人も、そして私たちも「世の様々な力」に支配されていたと言っているのです。つまりパウロは、ユダヤ人とまったく同じ状況に、異邦人が、そして私たちが置かれていたことをはっきりと告げているのです。律法の支配の下でユダヤ人に自由がなかったように、異邦人にも私たちにも「世の様々な力」の支配の下で自由はありませんでした。

「世の様々な力」とは
 私たちを行いへと駆り立てる「世の様々な力」とは何でしょうか。この社会において、行いを積み重ね成果を上げることを求める力の支配があります。私たちは、自分はそのような力には支配されていないと思いたいし、支配されていないかのように振る舞って見せたりします。しかし成果を上げるというのは、仕事で結果を出したり学校で良い評価を得たりすることだけではありません。見返りを求めない善い行いですら、成果を求める力に支配されていることがあるのです。もちろん成果を上げることや善い行いそのものを否定することはありません。しかし行いへと駆り立てる「世の様々な力」の支配の下で、私たちは自分の力で自分の人生の意味を満たそうとしているのではないでしょうか。成果を上げ良い評価を得ることによって、また善い行いをなすことによって達成感や充実感を得て、自分の人生が虚しいものではなく意味と価値のあるものだと実感したいのです。言い換えるならば、人生の意味は、自分の行いによって獲得することができると思っているのです。

「行いの比較」と死の力
 行いへと駆り立てる「世の様々な力」は、文字通り様々に私たちを支配し、様々のことを引き起こします。その一つが「行いの比較」ではないでしょうか。行いを積み重ね成果を上げることに自分の人生の意味があるならば、そこではほかの人と自分の行いを絶えず比べるということが起こります。成果の評価は、比較の中でこそ起こるからです。「行いの比較」は、私たちの社会で圧倒的な力を持っています。意識して比べることもありますが、無意識に比べていることも少なくありません。私たちは自覚できないほど比べることに慣れてしまっていて、比べることに支配され捕らわれているのです。そしてほかの人と自分の行いを比べることによって、時には優越感を感じ、時には劣等感を感じます。比べることによって生じる優越感と劣等感は表裏一体であり、どちらも行いへと駆り立てる力によって引き起こされるのです。
 また私たちは、自分が何か出来ているとき、自分が何も出来なくなるかもしれないということを真剣に考えません。これからも同じように出来るという感覚に捕らわれているからです。しかしそれは幻想です。ある日突然何も出来なくなることがあります。身体的な怪我や病によって、あるいは精神的な苦しみや悲しみによって、今まで当たり前に出来ていたことがまったく手につかなくなることがあるのです。それだけではありません。より根本的には、私たちの誰もが死に向かって歩んでいるという現実があります。死とは、究極的にあらゆることが出来なくなることであり、死に向かって歩むとは、人によってその程度に違いはあるとしても、出来ていたことが出来なくなっていく歩みなのです。死もまた、私たちの人生において圧倒的な力を持っています。誰一人として死を免れることはできません。ですから、行いを積み重ね成果を上げ評価を得ることが、私たちの人生の意味や価値を決めるならば、死に向かって歩んでいくことは人生の意味や価値を失っていくことであり、そこには絶望しかないのです。

虚しさの支配
 私たちはほかの人と比べることによって、また比べられることによって、絶えず周りの視線に怯えなくてはなりません。あるいは決して免れることのできない死の不安と恐れに絶えず脅かされなくてはなりません。自分の行いによって達成感や充実感を得て、自分の力で人生の意味を獲得する。そのような人生において、私たちは自由に生きているように思えて本当の自由を持っていません。それどころか「世の様々な力」に奴隷として仕えているに過ぎないのです。私たちが絶え間ない不安と恐れに脅かされ続けなければならないのは、行いへと駆り立てる「世の様々な力」の支配が不安と恐れを引き起こすからにほかなりません。このことをパウロは「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され…閉じ込められていました」と語り、未成年の相続人は「後見人や管理人の監督の下にいます」と語っていたのです。監視され、閉じ込められ、監督されている。そのような状況において、私たちは不安や恐れを感じないはずがありません。そしてそのような絶え間ない不安と恐れに脅かさることによって、私たちは人生の虚しさを感じるのです。私たちがどれほど自分の力で人生の意味を満たそうとしても、決して満たすことができない圧倒的な虚しさが私たちの人生を支配しているのです。

御子を遣わす
 私たちは、「世の様々な力」の支配から、自分の力で抜け出すことは決して出来ません。ほかの人と自分を比べることを自分の力でやめることなどできないし、まして死の力に打ち勝つこともできません。このような「世の様々な力」に捕らわれていた私たちを救い出し、恐れや不安から解放するために、クリスマスの出来事が起こったのです。このことが4、5節で言われていました。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」神さまは、独り子主イエス・キリストをこの世へとお遣わしになりました。「御子を女から」と言われているのは、キリストが真の人となってくださり、人間の歴史に入ってきてくださったということです。「律法の下に生まれた者として」とも言われています。キリストは、私たちが捕らわれていた律法の支配の下に、「世の様々な力」の支配の下に生まれてくださったのです。自分の行いを頼みとし、ほかの人と自分の行いを比べ、自分の力によって人生の意味を獲得しようとする力に支配されている、人間の罪の現実にキリストが来てくださったのです。そして十字架の死によって、「世の様々な力」の支配の下にあった人間を贖い出し、救い出し、解放してくださり、神の子としてくださいました。この救いのみ業は、私たちの行いによるものではまったくありません。神さまの一方的な恵みによるものです。3節と4節は、キリストが来る前と来た後、つまりクリスマスの出来事の前と後について語っていますが、パウロは3節で、私たちが「未成年であったときは」と言っていたのに対して、4節では私たちが「成年になったので」とは言っていません。そうではなく、「しかし、時が満ちると」と言っています。このことによってパウロは、未成年であった人間が自分の力で成長して大人になることによって機が熟し、クリスマスの出来事が起こったのではなく、神さまがお定めになったときに、神さまの時が満ちたときに、神さまの恵みが溢れるばかりに注がれたときに、クリスマスの出来事が人間の歴史のただ中で起こったと告げているのです。私たちはキリストの十字架によって救われ神の子とされました。このことに、私たちの生きる意味があります。私たちの生きる意味は、行いを積み重ね成果を上げ評価を得ることにあるのではありません。私たちの行いが人生を支え、生きる意味を与えるのではないのです。私たちが神の子とされていることにこそ、私たちの生きる意味があるのです。4節冒頭の「しかし」は、私たちが「世の様々な力」の奴隷から神の子とされたことへの転換点、ターニングポイントを示しています。私たちの生きる意味が決定的に180度変わったことを告げている「しかし」なのです。その転換点、ターニングポイントこそが、神が独り子をこの世へと遣わしたクリスマスの出来事にほかならないのです。

聖霊を遣わす
 クリスマスの出来事が起こり、御子が遣わされたことによって、世界の歴史は「世の様々な力」が支配していた「かつて」と、神の恵みが支配している「今」に分かたれ、キリストの十字架と復活によって私たちは神の子とされました。それにもかかわらず私たちは、なお自分が神の子とされていることがなかなか分かりません。本当に自分は神の子なのだろうか、と思うのです。しかしパウロは6節で、私たちが神の子であることは、「神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と言っています。私たちが神の子であることは、頭の中で考えて分かることではありません。神さまは、御子キリストを世界の歴史のただ中に決定的にただ一度遣わしてくださったように、キリストの霊、つまり聖霊を私たちの心に決定的にただ一度遣わしてくださいました。私たちの心に遣わされた聖霊の「アッバ、父よ」という叫びこそ、私たちが神の子であることを示しているのです。ここでパウロは、聖霊が私たちの心に遣わされことをただ一度のこととして語っています。それは、ここで見つめられているのが洗礼だからです。聖霊は、今も繰り返し私たちに注がれていますが、洗礼において聖霊を受けるのは一回限りです。私たちは洗礼において聖霊を受け、「アッバ、父よ」と神さまに呼びかけ祈る者とされたのです。「アッバ」とは、「お父ちゃん」と訳せるような、子どもが親に向かって親しみを込めて呼びかける言葉です。かつて神さまに背き、自分の力によって人生の意味を獲得しようと自分を中心として生きてきた私たちの救いのために、神さまは御子をこの世へと遣わし、十字架に架けて殺し、その死から復活させました。私たちは洗礼によって、死に勝利し復活されたキリストと結ばれ神の子とされています。到底神の子ではありえない私たちが、神さまの一方的な恵み、神さまの愛によって神の子とされ、「父よ」と神さまに呼びかけ、神さまとの語り合いの中を生かされているのです。

あなたは神の子です
 私たちはもはや、自分の力で人生の意味を満たすことができず虚しさに捕らわれることはありません。ほかの人と比べることを求める力や死の力に圧倒され、不安と恐れに脅かされることもありません。クリスマスの出来事が起こり、キリストの十字架と復活によって救われ、洗礼において聖霊を受け、私たちは神の子とされたからです。私たちが神の子とされたこと。神の子として神さまとの交わりの中を生かされていること。それが私たちの生きる意味です。確かに隣人と自分の間には様々な違いがあります。しかしあらゆる違いを越えて、私たちは等しく神の子なのです。このことを知らされるとき私たちは、隣人と自分を比べるのではなく、自分と同じように神の救いに与り神の子とされている隣人に仕える者へと変えられていくのです。そしてキリストと結ばれ神の子とされた私たちには、地上の死で終わらない復活と永遠の命の約束が与えられているのです。パウロは宣言しています。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」私たちは先の見えない不安と混乱の中で、生きる意味が見えないかのように、失われているかのように思えることがあるかもしれません。しかし私たちはもはや「世の様々な力」の奴隷ではなく、神の子とされています。「あなたは神の子です。」このことにこそ、このことにだけ、私たちの生きる意味があるのです。

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