主日礼拝

主イエスと父なる神

「主イエスと父なる神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章8-11節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章44-50節
・ 讃美歌:11、405

主イエスの叫び
 礼拝においてヨハネによる福音書を読み進めてきて、第12章の終わりのところに来ました。本日の箇所の冒頭の44節に「イエスは叫んで、こう言われた」とあります。主イエスが突然叫び出したことに私たちは奇異な感じを受けます。しかしヨハネ福音書において主イエスは度々叫んで来られました。7章28節には、神殿の境内で教えておられた主イエスが「大声で言われた」とあります。これは44節の「叫んだ」と同じ言葉です。また同じ7章の37節にも「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。これも同じ言葉です。主イエスは群衆に向かってしばしば大声で教えを語って来られたのです。同じことを12章44節でもしておられるわけです。しかし、先週の説教を覚えておられる方は「あれ?」と思うでしょう。先週読んだ12章36節後半に「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」とありました。主イエスは人々の前から立ち去り、身を隠されたのです。先週の説教において私は、「主イエスが次に人々の前に姿を現すのは、捕えられ、ピラトによる裁判において人々の前に引き出される時だ」と申しました。つまり主イエスが群衆の前でみ言葉をお語りになったのは36節前半までで、この後はもう十字架の死の場面になるのだ、と言ったのです。しかしこの44節で主イエスはまた人々に向かって叫び、教えを語っておられます。先週お話ししたことは間違っていたのでしょうか。

主イエスの歩みのまとめ
 そうではありません。先週お話ししたように、ヨハネ福音書はこの12章の終わりにおいて、主イエスのこれまでの歩み、即ち人々の前で奇跡を行い、み言葉を語ってこられたことのまとめをしようとしています。36節後半に「イエスはこれらのことを話してから」とあるのは、直前の言葉だけではなくて、主イエスがこれまで人々に語ってこられたみ言葉の全体を受けており、「これらすべてのことを語り終えて」という意味なのです。み言葉をすべて語り終えた主イエスは、人々のもとを立ち去り、身を隠されたのです。それは、人々が主イエスを信じなかったからでした。奇跡がなされ、み言葉が語られても、人々は主イエスを受け入れず、信じない、その現実がここで明らかになったのです。それを受けて主イエスは、人々から離れ、お一人で十字架の苦しみと死への道を歩んで行かれます。十字架の死と復活によって、神の独り子である主イエスを信じない罪人である人間の、つまり私たちの、救いを実現して下さるためです。主イエスが再び人々の前に姿を現すのはその時、つまり死刑の判決を受け、十字架につけられて死ぬ時なのです。
 しかしこの12章の後直ちにその場面になるのではありません。主イエスが捕えられるのは18章です。主イエスの十字架と復活の話は18章から始まるのです。人々の前を立ち去り、身を隠してから捕えられるまでの間、主イエスは、弟子たちと共に、最後の数日間を過されたのです。そのことを語っているのが13章から17章です。人々から身を隠した主イエスは弟子たちと共におり、彼らにみ言葉をお語りになったのです。ヨハネ福音書はそのことを長く、また力を込めて語っています。13章からはその部分が始まります。つまり12章の終わりはこの福音書の大きな区切りであって、群衆に対するみ業とみ言葉のまとめ、しめくくりがここでなされているのです。そのような流れを踏まえるならば、44節の「イエスは叫んで、こう言われた」というのは、主イエスがここで突然叫んだというのではなくて、これまで人々に対して大きな声で語ってこられたみ言葉を、ヨハネがこういう形でまとめているのです。内容からしてもここには新しい教えが語られているわけではありません。本日の箇所に語られていることは全て、これまで語って来られたことの繰り返しなのです。
 そのことは、ぜひ皆さんお一人お一人で、これまでのところをもう一度読み直すことによって確認していただきたいと思います。大きな区切りである12章を終える今こそ、それに相応しい時です。ここでは一つの箇所だけを振り返っておきます。主イエスが神殿の境内で大声で語ったということが7章28節にもあると先ほど申しました。そこで主イエスはこう語られたのです。7章28、29節です。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。このお言葉が本日の箇所のお言葉と重なっていることは明らかでしょう。このようにヨハネ福音書は、主イエスがこれまでに語られたみ言葉をまとめています。本日の箇所から、主イエスが人々に語られたことの要点は何だったかを確認したいと思います。

わたしを遣わされた方
 先ず44、45節には「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」とあります。これは、「わたし」つまり主イエスと「わたしを遣わされた方」つまり父なる神とは一つである、ということです。主イエスを信じる者は父なる神を信じるのであり、主イエスを見る者こそが父なる神を見るのです。それはさらに言えば、主イエスを信じることによってこそ父なる神を信じることができる、その救いにあずかることができる、ということです。逆に言えば、主イエスを抜きにして神を信じ、救いにあずかることはできないのです。それは、父なる神が主イエスをお遣わしになったからです。「遣わす」というのは、自らの代理として、全権を与えて遣わす、ということです。主イエスは父なる神のみ心を実現する者としてこの世に遣わされたのです。

光である主イエス
 そのみ心とは何だったかが46節に語られています。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。ヨハネ福音書は1章において、言であり命であり光である神が肉となってこの世に来られた、それが主イエスであると語っていました。そして8章12節には、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という主イエスのお言葉がありました。罪によって暗闇の中に捕えられている私たちが、命の光に照らされ、罪の闇の中ではなく光の中を生きるようになることが父なる神のみ心でした。その救いのみ心を実現するために、まことの光として主イエスは世に来られたのです。またこの46節の「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように」というところは、3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉とつながります。この3章16節は、父なる神が独り子主イエスを遣わして下さった、そのみ心を語っている中心的な箇所です。光として遣わされた主イエスを信じることによってこそ、私たちは罪の暗闇から解放され、救われるのです。主イエスを信じなければ、暗闇の中にとどまることになるのです。

裁くためではなく救うために
 次の47節からのところでは「裁く」という言葉が大事な役割を果たしています。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」とあります。先程の3章16節に続く17節にはこう語られていました。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。主イエスは、世を、というのは罪人である私たちを、ということですが、裁くためではなくて救って下さるために来られたのです。ここで私たちがしっかり受け止めなければならないのは、父なる神と独り子主イエスは、世を、私たちを、裁くことができる方だ、ということです。この世界を造り、私たちに命をお与えになった神は、私たちが神を信じようとせず、背き逆らっている罪を裁き、私たちを滅ぼすことができる方なのです。ですから「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」、つまり主イエスのみ言葉を受け入れず、信じて従おうとしない罪人は、本来神によって裁かれ、滅ぼされなければならないのです。しかし神は、そういう罪人である私たちを救って下さろうというみ心によって、御子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスによって示された神の恵みと憐れみのみ心を信じることによってこそ、罪人である私たちは裁きを免れ、滅びから救われるのです。

終わりの日の裁き
 しかし、世を裁くためではなく救うために御子イエス・キリストが来て下さったことによって、神の裁きはもうなくなったのでしょう。そうではありません。そのことが48節に語られています。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。主イエスを拒み、主イエスの言葉を受け入れない罪人をも救うために、主イエスは来て下さいました。しかし、終わりの日の裁きは確かにあります。神によって造られたこの世界が、神によって終わる日が来るのです。その時、神による最終的な裁きが行われます。その裁きにおいて、救われる者と滅びる者とが決定的に分けられるのです。それは、神こそがこの世界を造り支配しておられる方であることが明らかになり、神のご支配が完成するということです。そのご支配に服している者は救われ、逆らっている者は滅ぼされるのです。主イエスは、そういう終わりの日の裁きがある、とはっきり語っておられるのです。つまり私たちは、「わたしはその者を裁かない」というお言葉だけを聞いて「ああよかった、もう裁かれない」と安心してしまうわけにはいかないのです。主イエスは同時に「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある」とも語っておられるのです。世の終わりの最終的な裁きをちゃんと見つめて、だからこそ「世を裁くためではなく、世を救うために来た」主イエスを信じて、主イエスと共に生きることが大切なのです。

主イエスのみ言葉が裁く
 その最終的な裁きは勿論神によってなされるわけですが、ここでは「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」と言われています。主イエスがお語りになったみ言葉こそが、最終的な裁きにおいてものを言うのです。決め手となるのです。だから、主イエスのみ言葉を聞いて受け入れ、信じることが決定的に大切です。信仰とは、主イエスのみ言葉を信じることです。だからこそヨハネはここで、主イエスが語って来られたみ言葉のまとめをしているのです。ここにまとめられているみ言葉を受け入れ、信じることこそが、主イエスによる救いにあずかり、終わりの日の裁きにおいて救われる者となるために必要なのです。なぜなら主イエスのお語りになったみ言葉は、主イエスをお遣わしになった父なる神が語るようにお命じになった、父なる神のみ心だからです。

父に命じられたままに語っている主イエス
 そのことが最後の49、50節に示されています。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」。主イエスのみ言葉は、主イエスが自分勝手に語っているのではなくて、主イエスをお遣わしになった父なる神に語るように命じられたことなのです。言が肉体となってこの世に来られた方が主イエスであるとこの福音書は語っていますが、それは、父なる神のみ言葉を語り、語るだけでなくそれを実現するために主イエスが人間となってこの世に来られたということでもあります。父なる神のみ言葉にこそ永遠の命があります。その命のみ言葉を私たちに語るために、主イエスはこの世に来て下さったのです。そのみ言葉を信じるか否かが、終わりの日の裁きにおいて、永遠の命か滅びかを決めるのです。

み言葉を信じない人間の現実
 ヨハネはこのように、主イエスが語ってこられたみ言葉をまとめています。そしてこの主イエスのみ言葉を信じて受け入れることが、終わりの日の裁きにおいて救われるためには必要であると語ったのです。しかし、先週のところに示されていたように、主イエスがこれらのみ言葉をお語りになっても、人々は主イエスを信じませんでした。それで主イエスは人々の前を立ち去り、身を隠されたのです。このことによってヨハネは、人々が、つまり私たち人間が、主イエスのみ言葉を信じない、永遠の命である父なる神のご命令に背き逆らっている、という現実が明らかになった中で、主イエスによる救いのみ業がなされていった、ということを語ろうとしているのだ、と先週申しました。父なる神によって遣わされた独り子主イエスが語ったみ言葉にこそ永遠の命があるのに、私たち人間はそれを信じない、だから永遠の命を得ることができない、暗闇の中にとどまり、最終的な裁きにおいて滅びるしかない、その現実の中で、主イエス・キリストの十字架と復活による救いのみ業がなされていくのです。

主イエスの十字架の死によって
 そして実は、主イエスがこれまで語って来られたのは、この救いだったのです。主イエスは、世を裁くためではなく、世を救うために、私たちが罪の暗闇の中にとどまることのないように、まことの光として世に来て下さいました。この主イエスを遣わして下さった父なる神のみ心は、あの3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」に凝縮されて語られています。世の終わりの裁きにおいて滅びるしかない私たちが、独り子を信じることによって一人も滅びることなく永遠の命を得るために、父なる神はその独り子を世に、私たちに、与えて下さったのです。「与えて下さった」というのは、主イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったということです。神の独り子である主イエスは、父なる神のみ心に従って、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神と独り子主イエスがこのように一体となって、罪人である私たちを愛し、救おうとして下さっている、そのことを主イエスは既に語って来られたのです。この救いを実現するために、主イエスはこれから、十字架の苦しみと死への道を歩んで行かれるのです。つまり本日の箇所は、主イエスがこれまで語って来られたみ言葉のまとめであると同時に、この後の主イエスの歩み、その十字架と復活によって実現する救いを語っている箇所でもあるのです。

人間の可能性によってではなく、神の愛によって
 人々はこの主イエスのみ言葉を信じなかった、それは先週も申しましたように、私たち人間が、み言葉を聞いて理解して信じる、という私たちの中の可能性によってこの救いが得られるのではない、ということを示しています。私たちの中にある可能性からは、救いではなく、終わりの日の裁きと滅びしか見えて来ないのです。しかし神の独り子である主イエスは、その私たちを裁くためではなく救うために、私たちに代わって十字架の死を引き受け、復活して永遠の命の先駆けとなって下さいました。私たちの救いの可能性は、主イエスが父なる神のみ心に従って引き受けて下さった十字架の死と、父なる神が主イエスに与えて下さった復活にこそあるのです。このことを信じて受け入れることによって、私たちは暗闇から、滅びから解放され、救われます。それは私たちが、本日の箇所にまとめられている主イエスのみ言葉を、この時人々が信じなかったみ言葉を信じて受け入れる者となるということです。主イエスの十字架と復活によってこそ私たちは、主イエスのみ言葉を信じて受け入れ、救いにあずかることができるようになるのです。それは、信じなかった私たちが心を入れ換えて素直に信じる者になるということではありません。そういう私たちの中の可能性によってではなくて、神が独り子主イエスを十字架の死に至らせて下さるほどに私たちを愛して下さった、その神の愛によって、私たちはみ言葉を信じて救いにあずかることができるのです。この神の愛に応えて生きることが私たちの信仰です。神が独り子の命をも与えて下さったのですから、その愛に応えて私たちも、自分自身を神にささげて生きるのです。先週の箇所には、心の中でだけ信じていて、公に告白しないユダヤ人の議員たちのことが語られていました。それでは結局主イエスを信じないのと同じだ、と言われていたのです。そのような者は「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」です。しかし主イエスは「そのような者がいても、わたしはその者を裁かない」と言って下さいました。だからこそ私たちは、主イエスの愛に応えて主イエスを信じ、その信仰を人々の前で言い表して洗礼を受け、主イエスに結び合わされて、み言葉を常に新たに聞き、み言葉によって生かされつつ歩みたいのです。神の愛は私たちに永遠の命を得させると約束して下さっているのです。

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