「主イエスをあかしするもの」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第119編129-136節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第5章31-40節
・ 讃美歌:8、113、353、75
ユダヤ人たちの敵意
この礼拝において一ヶ月ぶりに、ヨハネによる福音書の続きを読みます。第5章にまで進んで来ていたわけですが、今どのような流れになっていたのか、忘れてしまっている方も多いでしょう。そもそもこの第5章はなかなか難しい、分かりにくい所です。本日の31節以下も、さっと読んだだけでは、何を言っているのか、どうしてこういうことが語られるのか分からない、と思います。でも、ちゃんと流れを把握すれば、このことが語られる必然性が見えてくるのです。ですからここまでの流れを先ず確認しておきましょう。
第5章は、主イエスがある安息日に、エルサレムのベトザタの池のほとりで、三十八年間病気で苦しんできた人を癒した、という奇跡から始まっていました。この癒しの奇跡をきっかけにして、ユダヤ人たちが主イエスを迫害し始めたのです。18節に「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とあります。ユダヤ人たちがイエスのことを「生かしてはおけない」と思うようになったのです。それは何故でしょうか。仕事をしてはいけないはずの安息日に病人を癒した、ということもあるのですが、それだけで殺そうと思ったのではありません。18節の後半には「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」とあります。主イエスが神を御自分の父と呼んだ、それは17節のお言葉です。「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』」。主イエスは神を「わたしの父」と呼んだのです。ということは自分は神の子だと言ったのです。神の子ということは自分も神だということです。人間が自分を神とするのは、唯一人の神に対する甚だしい冒涜です。このことでユダヤ人たちはイエスを殺そうと思ったのです。つまりここにはユダヤ人たちが主イエスに対して激しい敵意を抱いたことが語られており、その原因は、天地をお造りになった唯一の神と主イエスとの関係です。自分は神の子であり、神は自分の父だ、と主イエスがお語りになったことに、ユダヤ人たちは激しく反発しているのです。
イエスとは誰なのか
19節から30節にかけて、主イエスがユダヤ人たちにお語りになったのはこのことについて、つまり父である神と子である主イエスとの関係についての言葉です。19節の「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」から始まって、30節の「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」に至るまで全てがそうです。自分は神の子として、自分をお遣わしになった父なる神の御心の通りに行っているのだ、と言っておられるのです。
神と主イエスの間には父と子という関係があるのか、イエスは神の子なのか、このことは、主イエスが地上を歩んでおられた時に問題だっただけでなく、この福音書が書かれた時点において大きな問題でした。ヨハネによる福音書が書かれたのは紀元1世紀の終り頃だと思われますが、この頃、ユダヤ人たちによるキリスト教会への迫害が始まっていました。彼らは、イエスは神の子ではない、つまり神ではない、人間に過ぎないのに神を名乗り、神を冒涜した赦し難い罪人だ、そのイエスを救い主だと言っているキリスト教会はこの世から抹殺すべき罪人の群れだ、と言っていたのです。つまりユダヤ人たちがイエスを迫害し始めたというのは、この福音書が書かれた時に教会が置かれていた状況なのです。そのユダヤ人たちに対して教会は、主イエスは父なる神から遣わされた神の子であり、まことの神が人間としてこの世に来てくださった救い主だ、と主張しているのです。19-30節の主イエスのお言葉は、当時の教会が主張していることでもあるのです。
このようなユダヤ人たちと教会との激しい対立において問われていた根本問題は、イエスとは誰か、神とイエスとの関係はどうなのか、ということです。イエスは神の子である救い主なのか、それとも神を冒涜する者であり人を罪に陥らせる者なのか、ということが当時の人々にとって大きな問題だったのです。私たちもこのことを問われています。私たちの信仰もとどのつまりは、イエスとは誰であるか、イエスと神との関係はどうなのか、ということに行きつきます。主イエスが神の子であり救い主であることを信じて受け入れるのか、それとも、イエスという人はいろいろ良いことを教えていると思うが、神だというのは言い過ぎだと思うのかです。このことを意識した時に、本日の箇所に語られていることの意味が見えてきます。ここには、小見出しにあるように、「イエスについての証し」のことが語られています。イエスとは何者であるかを語る言葉、それがイエスについての証しです。その証しをどこに求め、どのような証しを信じるのかによって、イエスとは誰か、という根本的問題への答えが変わってくるのです。
証しをする者
その証しについて主イエスは先ず31節で、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言っておられます。人についてある判断をする時に、本人が「自分はこうです」と言っていることを聞くだけでは正しい判断を下すことはできません。自分で自分のことを語る言葉は信頼すべき証しとは言えないのです。証しは他の人よって、しかも複数なされるべきものです。裁判において判決を下すためには、複数の証言が一致しなければならない、ということは旧約聖書にも語られています。主イエスはそのことを意識しつつ語っておられるのです。それが32節の「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」というみ言葉です。ここでは、証をなさる「方」と訳されています。そのように訳すとこれはもう神さまのことでしかあり得ません。しかし「方」という敬語は日本語にしかないのであって、語られているのは、主イエスが神の子であることは、主イエスだけが言っているのではなくて、そのことを証ししている者が他にもいる、ということです。その、主イエスを証ししている者たちのことが33節以下に語られているのです。
洗礼者ヨハネの証し
先ず語られているのは洗礼者ヨハネのことです。ヨハネによる福音書において、洗礼者ヨハネは、主イエスを証しするために来た人として描かれています。1章の6-8節に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」とあります。そしてこのヨハネが主イエスについて証しした言葉が1章29節です。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」。洗礼者ヨハネはこのように主イエスこそ世の罪を取り除く救い主であると証ししたのです。しかし主イエスはここで、そのヨハネの証しでは十分ではないと言っておられます。ヨハネは確かに真理について証しをした、しかしわたしは人間による証しは受けない、と言っておられるのです。それは、人間であるヨハネが語った証しだけで主イエスが神の子であることが十分に分かるわけではない、ということでしょう。35節には「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」とあります。「燃えて輝くともし火」とは、燃え尽きるまでしばらくの間輝く光ということです。ヨハネの証しを聞いた人々は、「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」のです。しかしそのヨハネは殺され、その証しは今はもう得られません。けれども36節にはこうあります。「しかし、わたしにはヨハネの証にまさる証しがある」。しばらくの間輝いただけだったヨハネの証しにまさる、人間の証し以上の証しがあるのです。
主イエスのみ業による証し
その証しとは何かが36節の後半に語られています。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。ヨハネにまさる証しをしているのは人ではなくて、主イエスがなさっているみ業です。そのみ業とは、主イエスが行っておられる奇跡のことです。ヨハネ福音書ではそれは「しるし」とも呼ばれています。主イエスはこれまでの所で三つのしるし、奇跡を行ってこられました。第一は、ガリラヤのカナにおける婚礼の祝宴で水をぶどう酒に変えた奇跡、第二は、同じくガリラヤのカナで、カファルナウムにいた王の役人の息子の病気を、ただお言葉のみによって癒したという奇跡、第三は、5章のはじめにあった、三十八年間病気で起き上がることができなかった人を癒した奇跡です。これらの奇跡は、父なる神が主イエスに行わせて下ったみ業であって、それらが、主イエスこそ神の子であり、父なる神が主イエスを救い主としてお遣わしになったこと証ししているのです。この福音書には全部で七つのしるし、つまり主イエスによって行われた奇跡が語られています。この後に語られていくものも含めて、主イエスがなさったみ業、しるし、奇跡が、主イエスとは誰であるかを証ししているのです。
父なる神による証し
さらに37節には、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とあります。主イエスをお遣わしになった父なる神ご自身が、主イエスがご自分の子であることを証ししておられるのです。この父なる神の証しはどのようにしてなされているのでしょうか。それは主イエスの復活においてだと言うことができます。主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪の償い、贖いを成し遂げて下さいました。十字架にかかって死んだこの主イエスを、父なる神さまが復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。主イエスを捕えた死の力を打ち破って、永遠の命を生きる者として下さったのです。このことによって、父なる神は、主イエスがご自分の愛する子であることを証しして下さったのです。この父なる神による証し、つまり主イエスの復活は福音書のこの時点ではまだなされていません。しかし先程申しましたように、ヨハネによる福音書には、それが書かれた当時の教会の状況が映し出されています。教会は、主イエスの十字架の死と復活を経て、聖霊のお働きによって誕生し、既に歩んでいるのです。その教会が、イエスが神の子であることを否定するユダヤ人たちによって迫害を受けています。イエスを神の子だとする者は神を冒涜している、という批判を受けているのです。つまりイエスとは誰か、という厳しい問いにさらされているのです。その教会が、主イエスの復活という、父なる神がして下さった驚くべきみ業による証しを受けて、主イエスこそ神の子であり、救い主であるという信仰を、迫害の中で守っている、そのことがここに語られているのです。
神の言葉を聞くことの重要性
37節の後半から38節にかけてこう語られています。「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」。これは、主イエスが神の子であることを認めようとしないユダヤ人たちに対する言葉ですが、彼らの迫害によって動揺し、イエスとは誰かが分からなくなってしまっている教会の人々を励ますための言葉であるとも言えるのではないでしょうか。つまりここの「あなたたち」を、迫害の中にある教会の信仰者たちと読むことができるのです。そうするとこういうことが語られていることになります。あなたたちの信仰が動揺してしまっているのは、父なる神のお声を聞いておらず、そのお姿をはっきりと見ていないからだ。つまり自分の内に父のお言葉をとどめていないからだ。み言葉をしっかりと聞いており、それを自分の内にとどめているならば、常に父なる神さまの語りかけを聞き、またそのお姿を心の目で見ることができるはずだ。そうなっていないのは、父がお遣わしになった子である主イエスをあなたたちが信じていないからだ、と言われているのです。ここに示されているのは、主イエスは神の子であると信じること、つまり主イエスについての証しを聞いて主イエスが誰であるかが分かることと、神のみ言葉を聞いてそれを自分の内にとどめていることとは分ち難く結び付いている、ということです。み言葉をしっかり聞いているならば、主イエスが神の子であることが分かるのだし、主イエスが誰であるかが分かっている者とは、神のみ言葉を聞いてそれを自分の内にとどめている者なのです。だから何よりも大切なことは、神のみ言葉をしっかり聞くことです。迫害の中で信仰の動揺に陥っている人が励まされ、信仰に踏み留まるために必要なのは、迫害の恐れに打ち勝つとか、死んでも神さまを裏切らない強い信仰を持つことではなくて、神のみ言葉をよく聞くこと、それを心の内にしっかり留めていることなのです。神のみ言葉をしっかり聞くことによってこそあなたがたは、父なる神が愛をもって語りかけておられるみ声を聞くことができるのだし、恵みをもって自分を見つめておられるそのみ姿を見ることができる、そして神が独り子主イエスを救い主として遣わして下さったことを信じることができるようになる、と言われているのです。
聖書の証し
それゆえに、主イエスについて証しをしている第四のものが大事なのです。それは聖書です。39節に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」とあります。聖書こそが、主イエスとは誰であるかを証ししているのです。ここでの聖書とは私たちにおける旧約聖書です。ユダヤ人たちは、旧約聖書を熱心に読み、研究し、そこに記されている神の掟、律法を守ることによって救いが、永遠の命が得られると思っています。その旧約聖書に、被造物である人間が自分を神としてはならないと語られているので、ご自分を神の子と言っている主イエスを受け入れないのです。しかし旧約聖書は、罪に落ちてしまった人間は自分の力で救いを獲得することができないこと、救いはただ神の恵みによってのみ与えられること、律法は神の恵みによる救いにあずかった者が神に感謝して生きるために与えられたものであると語っています。また神がその救いを全ての人々にもたらすために救い主を遣わして下さるという約束も語られています。そして犠牲の動物が屠られ、その血が注がれることによって民の罪が赦されるという旧約聖書における儀式は、独り子主イエス・キリストの十字架の死による贖いを指し示しているのです。ですから旧約聖書を正しく読むならば、神が遣わして下さる救い主イエス・キリストの証しを読み取ることができるのです。
私たちはこの「聖書」に新約聖書も含めることができます。これまで見てきた主イエスについての証しは、洗礼者ヨハネによる証しも、主イエスご自身が行っておられるみ業、奇跡も、そして主イエスの復活という父なる神による証しも、全て新約聖書に語られています。新約聖書はその全体が主イエスについての証しです。つまり旧新約聖書全体が、主イエスを証ししている第四のものなのです。この聖書を通して私たちは神のみ言葉を聞くことができます。神が私たちに語りかけて下さり、独り子主イエスによる救いにあずからせ、私たちをもご自分の子として下さり、キリストの体である教会の一員として下さるという恵みのみ言葉が聖書に語られているのです。そのみ言葉を聞くことによって私たちは、恵み深い父なる神のお姿を信仰の目で見ることができます。主イエスとは誰であるか、主イエスと神との関係はどうなのかという根本的な問いへの答えは、聖書の証しによってこそ示され、与えられるのです。
主イエスとの出会いと交わりの中で
聖書にこそ、主イエス・キリストとは誰であるかが証しされています。しかしそれは、聖書という本を買って自分で読んでいればその証しを受けることができるということではありません。ユダヤ人たちも、聖書を熱心に読んでいました。そこに永遠の命があると思って研究していました。しかし彼らは、神が遣わして下さった独り子、救い主である主イエスについての証しを聞き取ることができませんでした。彼らは、聖書を正しく読むことが出来ていなかったのです。聖書は正しく読まないと、そこに語られている神のみ言葉を聞くことができません。では聖書を正しく読むことはどうしたらできるのでしょうか。聖書の正しい読み方についての理論を学んで、そのテクニックを身に着ければ読めば正しく読めるのでしょうか。そういうことではありません。本日の箇所の最後の40節に語られていることが大事です。「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」。これは、聖書の中にこそ永遠の命があると思って聖書を研究しているユダヤ人たちが、その聖書が証ししている主イエスのもとに来ようとしない、ということを言っているわけですが、ここには同時に、どうすれば聖書を正しく読むことができるのか、聖書から主イエスについての証しを聞き取るためには何が必要なのかが示されていると言うことができます。必要なことは、主イエスのもとに来ることです。主イエス・キリストとの出会いと交わりを求めることです。主イエスとの出会いと交わりのない所で聖書を読んでいても、正しい読み方はできないのです。主イエスとの出会いと交わりは、私たちが作り出せるものではありません。それは与えられるものです。そしてそれを私たちに与えて下さるのは聖霊なる神です。聖書はそもそも聖霊のお働きによって書かれ、まとめられたものです。それが読まれる時にも、聖霊のお働きによって主イエスとの出会いと交わりを与えられつつ読むことが必要なのです。それは具体的には、今私たちがしているように、キリストの体である教会の礼拝に集い、神さまを礼拝することの中で聖書を読むということです。礼拝において聖霊のお働きを受けつつ読むことによって、私たちは聖書から、主イエス・キリストとはどなたであるかを教えられます。主イエス・キリストは父なる神の独り子であって、父が私たちの救い主としてこの世に遣わして下さった方であり、その十字架の死によって罪の赦しが、復活によって私たちにも復活と永遠の命の約束が与えられているのです。そしてこの礼拝において私たちは、そのことを知らされるだけでなく、主イエス・キリストの体と血とにあずかる聖餐にもあずかります。聖霊の働きによって、主イエスとの交わりが目に見える具体的な仕方でも与えられるのです。その聖餐を定めて下さった主イエスのみ言葉も聖書に語られています。聖書は私たちに主イエス・キリストを証しするだけでなく、主イエスとの出会いと交わりに生かしてくれるのです。