青年伝道夕礼拝

キリストの愛に包まれています

「キリストの愛に包まれています」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ヨナ書 第2章1-11節
・ 新約聖書:エフェソの信徒への手紙 第3章14-21節
・ 讃美歌:497、520

キリストの愛  
 「あなたは愛されていますか?」と質問されたら皆さんはどう答えるでしょうか?私は愛されています、と言う人もいるかもしれないし、私は愛されているかどうか分からない。そういう疑問や迷いを持っている人もいるかもしれません。あるいは私は愛されていない、と答える人もいるかもしれません。そもそも「愛」って言うけれど、「愛」ってなに?と思っている人もいるかもしれない。「愛する」とか「愛される」とかよく分からない、そのように思っている人もいるかもしれません。「愛」という言葉を私たちはよく耳にします。テレビや映画を見ていても、本や漫画を読んでいても、歌を聞いていても、「愛」という言葉と出会うことはよくあります。あっちでもこっちでも「愛」について言われています。だから私たちは「愛」という言葉を知らないわけではありません。むしろ私たちは「愛」という言葉が氾濫している中で生きています。でも本当のところ「愛」ってなんだろう、と思うことも多いのではないでしょうか。「愛」という言葉が氾濫しているからこそ、あっちでもこっちでも使われているからこそ、逆に「愛」がよく分からないのです。最初に「あなたは愛されていますか?」と聞きました。このとき皆さんは誰を思い浮かべたでしょうか。恋人のことを思ったかもしれません。ご結婚されていれば自分の夫や妻のことを思ったかもしれません。好きな人のことを考えたかもしれないし、親のことを思い浮かべたかもしれない。けれども「あなたは愛されていますか?」と聞かれたとき、神さまのことを思い浮かべた人はいるでしょうか。「キリストの愛」を思い浮かべた人はいるでしょうか。神さまが私のことを愛してくださっていると思った人はいるでしょうか。たしかに私たちが生きている社会には「愛」という言葉が氾濫しています。でも「キリストの愛」については、この社会で語られることはほとんどありません。教会だけが「キリストの愛」を語ります。それは、教会が「キリストの愛」を宣伝しているということではありません。そうではなく聖書が「キリストの愛」を語っているのです。だから聖書をなによりも大切にしている教会は「キリストの愛」を語るのです。そして私たちが知らなければならないのは、この「キリストの愛」です。本日の聖書箇所で「キリストの愛」について見つめていきたいのです。

祈りの中で  
 本日の新約聖書箇所はエフェソの信徒への手紙3・14-21節です。しかしここでは「キリストの愛」について説明されているのではありません。14節に「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」とあります。つまり3・14-21節は説明の言葉ではなく、祈りの言葉なのです。パウロがエフェソの教会の人たちのために祈った言葉です。このパウロの祈りに限らず、聖書の中にはいくつも祈りがあります。私たちはどう祈ったら良いか分からないことがあります。どんな言葉で祈ったら良いか分からない、なにを祈ったら良いか分からない。そのようなとき、祈りについて書かれている本を読むこともできるでしょう。それも学びになると思います。しかしそのような本を読めなかったとしても、聖書そのものの中にいくつも祈りがあるのです。どう祈ったら良いか分からないとき、聖書の中にある祈りを読んでみること、あるいは自分も聖書の言葉で祈ってみることができます。しかしどんな言葉で祈るかとかなにを祈るかよりも大切なことがあります。それは「御父の前にひざまずいて祈」ることです。これは、祈るときはひざまずきなさい、と祈るときの格好を教えているのではありません。「御父の前にひざまずいて祈」るとは、私たちの目には見えない父なる神さまが目の前におられると信じて心を尽くして祈ることにほかなりません。そのような祈りにおいて私たちは、父なる神さまと会話することを経験します。私たちの祈りは一方通行ではないのです。私たちが祈り、神さまがお応えくださる、そのような私たちと神さまの間の対話が起こるのです。本日の旧約聖書箇所ヨナ書2・3-10節も祈りの言葉です。預言者ヨナの祈りです。預言者とは、未来のことを予想したり推測したりする人のことではなく、神さまから言葉を預かり、預かった言葉を多くの人たちに伝える人のことです。ヨナもそのような預言者の一人でした。しかしヨナは立派な預言者だったわけではありません。むしろちょっとかっこ悪い預言者です。ヨナは神さまからニネベに行って神さまから預かった言葉を語るようにと言われました。しかしヨナは逃げ出してニネベには行かず、タルシシュに向かいました。そのタルシシュに向かう船が嵐にあって沈没しそうになり、ヨナが主なる神さまから逃げてきたことを知った人々は、ヨナを捕らえて海へ放りみました。しかし神さまは巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませ、ヨナは三日三晩魚の腹の中にいたのです。その魚の腹の中でヨナが祈った祈りが本日の旧約聖書箇所にあります。そこでは神さまがヨナに成してくださった御業が語られ、神さまへの賛美が語られています。そして祈りは「救いは、主にこそある」という、ヨナの信仰の告白の言葉で閉じられているのです。このように祈りにおいて、私たちは神さまに願い、神さまの御業、神さまの行ってくださったことに感謝し、また神さまへの信仰を告白するのです。エフェソの信徒への手紙3・14節以下の祈りでも、パウロのエフェソの人々への願いが祈られています。そして彼の祈りは、今この手紙を読んでいる私たちへの願いでもあるのです。

内なる人を強めてください  
 まずパウロは手紙を読む人たちの「内なる人を強めて」くださいと願っています。この「内なる人」とは私たちの精神面を意味しているのではありません。「内なる人」が強められるとは、私たちの精神力がレベルアップすることではないのです。私たちは精神的な強さについても色々なことを言われます。「根性が足りない」と言われたり、「それは気分の持ちよう」と言われたり、「もっと精神的にタフにならないとね」と言われたり。でもここで言われている「内なる人」とは、そのような私たちの精神面のことではなく、神さまに結びつくことができる生活のことです。つまり信仰生活のことです。「内なる人を強めて」くださいとは、信仰生活を強めてくださいという願いであり、私たちの信仰生活を励ます祈りなのです。でもなぜ私たちの信仰生活は強められる必要があるのでしょうか。私たちの信仰生活を励ます祈りが必要なのでしょうか。それは、私たちの信仰生活は、私たちが生きる世界や社会から顔をそむけた生活ではないからです。私たちの「内なる人」を強めるとは、私たちが生きる世界や社会から孤立してしまうことでも、そのことに無関心となることでもありません。世界と社会の中で、イエスさまが私たちのことを救ってくださったと信じて歩むことこそ私たちの信仰生活です。今日、この青年伝道夕礼拝に多くの青年が集まっています。すでに洗礼を授かっている青年もいれば、求道中の青年もいるでしょう。友だちに誘われて久しぶりに教会に来た、あるいは初めて教会に来た青年もいるかもしれません。しかしどのような方も、一人ひとりを神さまが招いてくださって、呼んでくださったからこそ、このように一緒に礼拝を守ることができるのです。信仰生活のことがぜんぜん分からない方も、今この礼拝で一緒に礼拝を守ることで信仰生活に触れているのです。月曜日から土曜日のそれぞれに異なる生活を終えて、日曜日に集まり神さまを礼拝することが信仰生活の中心だからです。そしてその信仰生活は聖霊なる神さまの働きによって強められ、支えられ、励まされる必要があります。月曜日から土曜日の生活の中で、私たちを神さまから引き離そうとする多くの誘惑があるからです。私たちの信仰生活はいつも脅かされていると言っても良いのです。それは青年だけではありません。すべての教会に連なる者たちがそのような誘惑に出会うのです。だからこそどのようなことがあっても揺らぐことがないように私たちの信仰生活は強められる必要があるのです。しかし私たちの信仰生活は、私たちの努力によって強められるのではありません。信仰生活を励ます祈りとは、自分の内なる人が強くなるように頑張りなさい、という祈りではありません。この箇所で私たちの「内なる人」が強くなりなさい、とは一言も言われていません。そうではなく私たちの「内なる人」が強められるように、と祈られているのです。16節には「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」とあります。「その霊により」とは聖霊の働きによってということです。私たちの「内なる人」、つまり私たちの信仰生活は、私たちの努力や頑張りによってではなく、聖霊なる神さまの働きによって強められるのです。ここでは、「あなたがたが強くなるように」と祈られているのではなく、「聖霊なる神さまがあなたがたを強めてくださるように」と祈られているのです。

キリストを住まわせてください  
 聖霊によって「あなたがたの内なる人を強めて」くださいという祈りに続いて、「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」てくださいと祈られています。私たちの心の内にキリストを住まわせるとは、どういうことでしょうか。日々私たちの心を占めていることはなんでしょうか。仕事のこと、勉強のこと、遊びのこと、対人関係のこと、自分が抱えている不安や苦しみや孤独のこと。あるいは大切な人の苦しみや悲しみのこと。そのようなことで私たちの心は占められていないでしょうか。もちろんそのことが悪いのではありません。しかしそのことによって自分の心がかき乱されてしまうとき、一番大切なことが見失われているのです。パウロは、そのような私たちの弱さや欠けを知っていたのだと思います。だから私たちの心の内にキリストを住まわせるように祈るのです。私たちの心の内にキリストが住むとは、私たちの心をキリストが支配してくださることです。そのことを信じることです。それは、私たちの心がキリストによってマインド・コントロールされるようなことではありません。私たちはまったくの自由を持ってキリストに従い、そのことによって私たちの心の内にキリストを住まわせ、キリストが私たちの心を支配してくださるのです。たとえどれほど私たちの心の内がかき乱され、荒れ狂い、ぼろぼろになったとしても、信仰によって私たちの心の内にキリストを住まわせるならば、私たちは「愛に根ざし、愛にしっかり立つ者」へと変えられるのです。ここで言われている愛とは私たちの人を愛する感情とか思いではありません。ここで言われている愛こそ「キリストの愛」にほかならないのです。「愛に根ざす」とは、私たちが「キリストの愛」に根を張ることです。しっかり根を張った植物は、激しい風が吹いても飛ばされることはありません。私たちが「キリストの愛」にしっかり根を張るならば、どんな人生の荒波の中を歩むときも吹き飛ばされて「キリストの愛」から離れてしまうことはないのです。「愛にしっかり立つ」とは、「キリストの愛」が建物の土台となるように私たちの人生の土台となり、私たちの人生を支えることです。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ  
 私たちの人生を支える「キリストの愛」とはどのようなものでしょうか。そのことが18、19節で語られています。18節で「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」とあります。「どれほどであるかを理解し」とありますが、「キリストの愛」の広さ、長さ、高さ、深さは何センチ、何メートル、何キロメートルなのだろうかとか、「キリストの愛」のどの部分が広さで、どの部分が長さで、どの部分が高さで、どの部分が深さなのか、とか考えるのは間違っています。ここで言われている「理解する」とは、「気づく」ことです。神さまが贈ってくださったプレゼントに気づくことです。そのプレゼントこそ「キリストの愛」にほかなりません。その「キリストの愛」が広さ、長さ、高さ、深さといった空間的な広がりによって捉えられているのは、「キリストの愛」の大きさを指し示すためです。「キリストの愛」の空間的な広がりの中に私たちが入れられていることに気づくことが、「キリストの愛の長さ、高さ、広さ、深さがどれほどであるかを理解」することなのです。私たちが入れられている「キリストの愛」の広がりはちっぽけなものではありません。なにか私たちが条件をクリアしないと「キリストの愛」の広がりの中に入れてもらえないなどということはありません。「キリストの愛」は神さまが私たちに一方的に贈ってくださったプレゼントだからです。それどころか、私たちは「キリストの愛」を、こんなものいらないと捨ててしまうことすらあるのです。私たちの罪とは、まさに「キリストの愛」なんていらないと思ってしまうことであり、「キリストの愛」なんかなくても生きていけると思うことです。しかしそのような罪人である私たちですら「キリストの愛」の広がりの中から追い出されることはありません。それは、神さまが私たちの罪を見逃してくださったのではなく、神さまが私たちの罪を裁く代わりに、独り子なる主イエス・キリストを十字架に架けて殺すことによって、私たちの罪を赦されたということです。この十字架において、「キリストの愛」の大きさがはっきり示されています。そこにおいて、すべての罪人が「キリストの愛」の中に入れられているのです。

キリストの愛を知るように  
 19節に「人の知識をはるかに越えるこの愛を知るようになり」とあります。「この愛」とは「キリストの愛」のことですから、人の知識をはるかに越える「キリストの愛」を知るようになると言われているのです。これは矛盾しているように思えます。普通私たちがなにかを知ることができるのは、私たちがそのことについて知識を持っているからです。知識を持っていないことについて私たちは知ることはできません。18節では、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することは、人間の研究や探求によって分かることではなく、信仰によって気づかされることだと語られていました。同じように、人の知識を越えたキリストの愛を、私たちは自分の持っている知識によってではなく、私たちの信仰によって知るのです。けれどもむしろ私たちは信仰によってではなく、自分たちの持っている知識や経験によって「キリストの愛」を分かったような気になっているのではないでしょうか。そんなことはないと思うかもしれません。しかし私たちはしばしば次のようなことを思うのです。「私には赦される資格がない」とか「私には生きている価値がない」とか「私は愛されていない」とか「私には生きる希望がない」とか「私にはなにも誇れることがない」とか。でもそのように思うことは、「キリストの愛」なんてこの程度のものだと小さく見積もっていることにほかなりません。主イエス・キリストはすべての罪人の赦しのために十字架で死なれました。赦される資格がない人など一人もいません。なにひとつ罪のない神の子が十字架で死なれたのは、私たち一人ひとりの罪を赦し生かすためです。ですから生きる価値のない人など一人もいません。十字架で示される「キリストの愛」からこぼれ落ちる人など一人もいません。そしてキリストの十字架と復活は私たちに生きる希望を与えます。私たちの地上での命を越える永遠の命の希望が与えられているからです。その希望が与えられているからこそ、この地上での人生も虚しいものにはならないし、意味のないものにはならないのです。また私にはなにも誇れることがないと落ち込む必要はありません。主イエス・キリストをこそ私たちは誇るべきなのです。

キリストの愛に包まれています  
 「私には赦される資格がない」とか「私には生きている価値がない」とか「私は愛されていない」とか「私には生きる希望がない」とか「私にはなにも誇れることがない」とか思うとき、私たちは「キリストの愛」を小さく見積もっているだけでなく、「キリストの愛」よりも別のものへ目を向けているのです。自分を他人と比較したり、ほかの人の評価を気にしたり、社会においてまるで真実かのように語られていることに惑わされたり、学歴や地位や名誉を気にしたり。そのことに一喜一憂して、あるときは自分を誇り、優越感を感じ、また別のときには自分を貶め、否定し、深く傷つけるのです。そのようなことを続けていくと、私たちはどんどんすり減ってぼろぼろになっていくのです。けれども私たちが「キリストの愛」を知るならば、私たちは「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」のです。神の満ちあふれる豊かさにあずかり、満たされているならば、私たちはどんどんすり減ってぼろぼろになることなどありません。そのとき私たちは、日々の歩みで深く落ち込み、傷つき、もう立ち上がれない、前に進めないと思うときですら、必ず再び立ち上がり、歩き出すことができるのです。最初に「あなたは愛されていますか?」と聞きました。ここに集まっている一人ひとりそれぞれを愛してくださっている人がいらっしゃるに違いないと思います。その方は、それぞれに異なることでしょう。しかし私たちが見つめたいのは、ここにいるすべての人を愛してくださっている、たったお一人のお方がおられることです。主イエス・キリストの父なる神さまが、私たち一人ひとりを愛してくださっているのです。人の愛は尽きることがあるかもしれません。枯れることがあるかもしれません。けれども「キリストの愛」は決して尽きることも枯れることもありません。私たちは、決して尽きることも枯れることもない、人の知識をはるかに越えた計り知ることのできない「キリストの愛」に包まれています。その「キリストの愛」に包まれて祈るとき、私たちは自分が求め、願うすべてのことをはるかに越えてかなえてくださる神さまに出会い、神さまを誉めたたえるのです。

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