主日礼拝

奇跡の船旅

「奇跡の船旅」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編、第107編 23節-32節
・ 新約聖書; 使徒言行録 、第27章 1節-44節

 
信仰の船旅

 使徒言行録の第27章には、ローマ帝国の囚人となったパウロが、ローマへと護送されていく、その船旅のことが語られています。27章だから「フナ旅」と覚えて下さい。当時の船旅は、今日では想像もつかないくらい、苦しい、危険なものでした。私たちが信仰を持って生きる歩みは、その船旅になぞらえることができるでしょう。船の旅は、今では当時とは比べものにならないくらい安全で快適な、むしろ贅沢なものとなりました。しかし、信仰の船旅の方はそうはいきません。私たちの信仰の歩みは、今日においても、このパウロの船旅と同じように、逆風に悩まされたり、嵐に翻弄されたり、浅瀬に乗り上げたり、悪くすればこの世の荒波の中に沈没してしまうようなものです。そういう、私たちの信仰者としての歩みを思いながら、このパウロの船旅を見つめていきたいと思います。

パウロの航海

 パウロと他の数名の囚人たちがローマへと護送されたのですが、パウロには、何人かの連れの者の同行が許されたようです。同行したのは2節にあるアリスタルコという人と、そして「わたしたち」とあることから、この使徒言行録の著者であるルカも一緒だったようです。この船旅の経路は、聖書の後ろの付録の地図の9、「パウロのローマへの旅」を見て下さると分かります。彼らは、カイサリアから出帆して北に向かい、シドンに立ち寄り、そこからさらに北上してキプロス島の北側を通って、小アジアの沿岸を西へ進み、ミラという港に入りました。ここでイタリア行きの船に乗り換えて出帆しましたが、逆風に悩まされて船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいたが風向きが悪くて入港できず、サルモネ岬を回ってクレタ島の南へ出て、「良い港」と呼ばれる所にようやく着いたのです。このように当時の航海は、風の状態によってどこに寄港するかが左右されてしまうものでした。このころまでに大分日数がかかってしまい、そろそろ航海には危険な季節にさしかかっていました。当時航海は夏にするのが原則で、冬場は船を出さないことになっていたのです。しかし船長や船主は、冬を越すのにもっとよい港に入りたいと考え、同じクレタ島のもう少し西にあるフェニクス港まで行きたいと考えました。その計画に対してパウロが、それは危険だからやめた方がよいと反対したことが9、10節に語られています。パウロは船乗りではありませんから航海の専門家ではありません。しかし彼は、おそらく当時の誰よりも多くの船旅を既に各地への伝道旅行において経験していたのです。彼はコリントの信徒への手紙二の11章で、自分は難船したことが三度あり、一昼夜海上に漂ったこともあると語っています。それほどに彼は船旅のベテランなのです。その彼の経験からして、この時期に船を出すことは危険だと感じたのでしょう。しかし一人の囚人に過ぎないパウロの言葉に耳を傾ける人はおらず、船は出港します。すると間もなく島から「エウラキロン」と呼ばれる暴風が吹き降ろして来て、船はどんどん島から離されて行きました。こうなると、ただ風に任せて流されるしかありません。暴風は非常に激しく、二日目には積み荷を海に捨てないと危険になり、三日目には船具までも投げ捨てざるを得ない状態になりました。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさんだので、もはや助かる望みはない、と思われる状況でした。そのようにして十四日間漂流し、ついにある島に流れ着き、浅瀬に乗り上げて船は壊れましたが、皆は泳いだり板切れにつかまったりして、ようやく上陸することができたのです。そこは、28章1節にあるように、マルタ島でした。このマルタ島上陸までのことが27章に記されているのです。

パウロのおかげで

 著者ルカは、嵐に翻弄され、難破して終わるこの船旅の中でパウロがどのように行動したかを語っています。パウロは先程見たように、「良い港」を出帆する前から、この航海の危険を見抜いていました。プロである船長や船主よりも、パウロの方が状況を正しく判断していたのです。案の定嵐に巻き込まれ漂流するようになった中で彼は、21節で「」と言っています。しかしそれは、「だから言わないこっちゃない。どうしてくれるのだ」と食ってかかっているのではありません。彼は逆に、同船の者たちを励まし、私たちは必ず助かるのだ、だから安心しなさい、と確信をもって語っているのです。先ほどは危険を予告したパウロが、今度はその危険のただ中で、安全を、救いを予告し、約束しているのです。さらに27節以下には、陸地が近付いてきたことを感じた船員たちが、自分たちだけ小舟を降ろして逃げ出そうとしているのにパウロが気づき、彼の通報によってそれが防がれたことが語られています。船員たちが逃げてしまったら、船に残された人々は助からなかったでしょう。また33節以下には、パウロが同船の人々に食事をすることを勧めたことが語られています。皆、十四日間何も食べずにいたのです。しかし陸地が近付いている今、食事をして力をつけておかなければいざという時に力が出ません。パウロは皆の前でパンをとり、神に感謝の祈りをささげて食べて見せたのです。それを見て人々も元気づけられ、食事をしました。この後、泳いで陸へ上がらなければならなかったのですから、まさにこの時食べて力をつけておいたおかげで皆は救われたと言えるでしょう。さらに、船が座礁して泳いで上陸しなければならなくなった時、兵士たちは、囚人たちの逃亡を恐れて殺してしまおうと思いましたが、百人隊長ユリウスは、パウロを助けたいと思ったので、囚人たちにも泳いで陸に上がるように命じたのです。これはパウロ自身が何かをしたということではありませんが、パウロのおかげで、他の囚人たちも命を救われたということです。このようにして全員が、37節によれば276人が、上陸して助かったのです。彼らは、パウロのおかげで助かったと言うことができます。一人の囚人であったパウロが、この嵐の船旅において、同船の人々を力づけ、励まし、その生命を救う働きをしたことを、ルカは語っているのです。

み言葉による励まし

 パウロはどうしてこのような大きな働きをすることができたのでしょうか。彼は、嵐のまっただ中で、人間の目から見れば、20節にあるように「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」中で、「皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」と確信をもって語り、皆を力づけ、励ましました。どうしてこのように語ることができたのでしょうか。そのことが23~26節に語られています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」。パウロの確信の根拠は、この天使の言葉、つまり神様のみ言葉です。そのみ言葉は第一に、「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と告げています。この「しなければならない」というのは、神様がそのようにお決めになっているのだから、それは必ず実現する、ということです。パウロが、ローマへ行って、ローマ皇帝の前でキリストの福音を語る、そういう使命を神様がパウロに与えておられるのです。それは既に23章11節においても、エルサレムで捕えられていたパウロのそばに主イエスご自身が立って語って下さったことです。そのみ言葉が、嵐に翻弄される船の中で再び彼に告げられたのです。この神様の約束のみ言葉によって彼は、このまま沈没して死んでしまうことはない、という確信を持つことができたのです。  しかしパウロに示されたみ言葉が告げているのはそれだけではありません。天使はもう一つのことをも語っています。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」ということです。これは、パウロと一緒に航海している全ての者たちが助かる、という約束です。神様から使命を与えられているパウロだけではなくて、同船している全ての人々が、イエス・キリストのことを何も知らない人々も、この嵐の海から救い出されるのです。そしてそれは、神様が彼ら全ての者を、パウロに任せて下さったからです。この「あなたに任せて下さった」というところは、口語訳聖書では「あなたに賜わっている」と訳されていました。実際ここに用いられている言葉は、恵みの賜物として与える、という意味です。つまり神様は、共に航海している全ての者たちを、パウロに与えて下さっているのです。このみ言葉のゆえに彼は、「皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」と断言することができたのです。25、6節は、この確信にもとづくパウロの励ましの言葉なのです。

冷静な判断力

 パウロがこの場面でこのような励ましを語ることができたのは、神がお告げになったこと、そのみ言葉は必ずそのとおりになる、と彼が信じているからです。信仰とはこういうものです。嵐吹きすさび、もはや望みはない、という目に見える現実の中で、その現実に逆らって、神様のみ言葉を信じるのです。神様のみ言葉こそが、目に見えるどのような現実にも優る本当の現実であり、それが必ず実現するのだと信じるのです。この信仰に生きているがゆえに、パウロは、この世の現実を本当に醒めた目で見つめ、正しい判断を下し、また危機的な状況の中で、今何が最も必要なのかを見極めることができたのです。33節以下の彼の姿はそのことを示しています。彼は、今こそ皆が食事をするべき時だと言っています。もう十四日も何も食べていないのです。空腹で力が出ない、フラフラの状態なのです。しかし嵐の恐怖、死への恐怖の中で人々は冷静な判断力を失い、空腹であることさえ忘れてしまっているのです。そのような中で、神様のみ言葉にしっかりと錨を降ろしているパウロは、冷静な判断力を保ち、判断力のみでなく、それを自分から実行し、うろたえる人々の模範となり、人々に今本当に必要なものを与える働きをすることができたのです。そのように言うと大変大袈裟なことのようですが、実際には、パウロがしたことは、そんなに大それたことではありません。パンを取って感謝の祈りをささげて食べたということです。要するにいつもしている通りに、食前のお祈りをして食事をしたということです。信仰者が、日々の生活の中で普通にしていること、信仰をもって営まれる日常の何でもない行為、それが、同船していた全ての人々を元気づけ、彼らにも食事をさせる力となったのです。そのようにして、一人の囚人に過ぎないパウロが、同船の者たち全員を助けることができたのです。

本当の励まし

 最初に申しましたように、私たちの信仰の旅路は、このパウロの船旅と相通じるものです。順風満帆と思って出港したのも束の間、暴風によってあらぬ方向へと吹き流されていってしまう、今にも沈没しそうになってしまう、何日も太陽も星も見えず、自分がどこにいるのかも分からなくなって途方に暮れてしまう、そして浅瀬に乗り上げて動けなくなってしまう…。そういうことが私たちの信仰の歩みにも様々な形で起って来るのです。その信仰の船旅において、私たちを本当に支え、励まし、力づけるものは、神様のみ言葉をおいて他にありません。み言葉は私たちに、主イエス・キリストの十字架の死と復活における神様の救いのみ心を示し、神様の私たちへの愛が、私たちの罪と、そして死の力をも既に打ち破っていることを示してくれるのです。み言葉によって示される神の愛の力が、この世の目に見えるどのような嵐よりも強いことを信じ、イエス・キリストにおいて実現している神様の救いこそが、隠された、しかし本当の現実であると信じる信仰によって私たちは、信仰の旅路において遭遇する様々な嵐を、危機を、乗り越えていくことができるのです。

同船の者たちにも

 パウロの船旅が私たちに教えていることはそれだけではありません。み言葉によってパウロに示されたあの第二のことに注目したいのです。神様がパウロに、同船の者たち全てを任せ、与えて下さった、それゆえに全ての者が命を守られたということです。この船には276人の人々が乗り込んでいました。これらの人々が、パウロが共に乗船していたがゆえに助かったのです。このことは深い意味を持っています。パウロの船旅は信仰の歩みと重なり合うと申しましたが、船旅をしているのは信仰者だけではないのです。全ての人の人生は船旅のようなものです。その人生の歩みの中で、何人かの者たちが同じ船に乗り合わせるということが起るのです。それは例えば家族です。結婚し、夫婦になることによって、それまで別の道を歩んでいた二人が、一つの船に乗り込んで船出するのです。子供が生まれればその子も同じ船で旅をしていきます。親も含めて三世代の者が同じ船で旅をしていくということもあります。そのように私たちの人生には、同じ船に乗り込んで共に航海していく人がいるのです。この世の様々な共同体、職場にせよ、学校にせよ、ボランティア団体にせよ、どれも、一隻の船に共に乗り込んで航海していくようなものだと言えるでしょう。276人が乗り込んだこの船は、社会における一つの共同体を象徴しているとも言えるのです。そしてその中に、パウロとその仲間が、つまり何人かの信仰者がいるのです。信仰者は、信仰の船旅を、他の人々と全く別の船でしているわけではありません。同じ船で共に航海をしながら、しかし信仰者にとってそれは信仰の船旅でもあるのです。私たちの歩みはそういうものではないでしょうか。家族、職場、学校という船において、様々な人々と共に人生の船旅を続けながら、それが私たちにとっては同時に信仰の船旅でもあるのです。そして本日の箇所が語っているのは、信仰者パウロがこの船に乗り込んでいたことによって、同船していた他の人々が皆救われた、ということです。276人の乗船者の中で、キリストを信じている人は、パウロとその一行のほんの数人だけだったでしょう。しかしその数人の信仰者の存在が、その他全ての人々の命を救ったのです。それはパウロたちが、嵐の中でこの船をうまくあやつって安全な場所へと導いた、などということではありません。そうではなくて、神様が、他の全ての人々を、信仰者であるパウロに任せ、与えて下さったのです。つまり、彼らの運命をパウロの運命と結び付けて下さったのです。そのことが、この救いをもたらしたのです。つまりこれは、パウロら信仰者が何かをした、ということではなくて、神様の恵みのみ業です。神様が、ほんの一握りの、数から言えば全く何の力も影響力もない信仰者たちに、その船に乗り合わせている全ての人々を、与えて下さるのです。それは今も申しましたように、彼らの運命を信仰者の運命と結び付けて下さるということであり、もっとはっきり言えば、信仰者に与えて下さる救いの恵みに、彼らをもあずからせて下さるということです。パウロの船旅において起ったのはそういうことでした。このことから私たちは、私たちが、家庭や職場や学校やその他の団体において、キリストを信じる者として立てられていることのまことに重大な、恵みに満ちた意味を示されるのです。私たちが、同じ船で旅をしている人々を救う力があるわけではありません。私たちの力とか、影響力を見つめていくならば、それはまことに微々たるものです。私たちはしばしば、信仰者として、この社会を、自分の勤める職場を、属する団体を、通う学校を、そしてさらには自分の家庭をも、どうすることもできない、家族の中の一人をも導くことができないことを嘆きます。けれども神様は、全く違う見方をなさるのです。家庭において、職場において、学校において、その他どんな共同体であれ、神様は、私たち信仰者の存在のゆえに、同じ船に乗って旅をする全ての人々を、その恵みの対象として覚えて下さるのです。ですから、家族の中で、またいろいろな共同体において、例えば自分一人だけが信仰者であるということを、私たちは、厳しい、困難な状況に置かれていると悲観する必要はないのです。勿論そこにはいろいろと困難なこともあり、理解を得られずに苦しむこともあるでしょう。しかし神様は、私たちが共に生きる全ての人々を、私たちに任せ、与えて下さっているのです。それによって私たちに与えて下さっている恵みをその人々にも及ぼしていって下さるのです。だからそれはむしろ喜ばしいことなのです。神様は私たちの信仰の船旅を、同船している全ての人々に祝福、救いをもたらすための機会として用いて下さるのです。

信仰者の光栄と責任

 このことは決して、一人が信仰者になれば、その家庭の、また職場の他の人々も自動的に神様の救いにあずかるようになる、という安易な話ではありません。大切なことは、信仰者である私たちが、その共同体の中で、本当に信仰者として生きることです。それは、いわゆる信仰者らしい清く正しく柔和な生活をする、ということではありません。パウロが、嵐に翻弄されるこの船の中で何をしていたのかは23節の言葉から見えてきます。パウロはそこで「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が」と言っています。パウロは、嵐に翻弄される船の中で、神様に仕え、礼拝していたのです。神様に心を向け、み言葉を求めて祈っていたのです。そこに、あの天使からのみ言葉が示され、そのみ言葉によって彼は、同船の人々を励ますことができたのです。また彼は、十四日間何も食べていなかった人々に、食事をすることを勧め、自分が模範を示すことで人々を力づけました。その時彼は、パンを取り、神に感謝の祈りをささげてからそれを食べたのです。人々を元気づけ、食事をする気持ちを起こさせたのは、神様に祈って感謝してパンを食べる彼の姿です。力をつけるために食事をした方がいい、という勧めだけでは、本当の元気は、励ましは得られなかったでしょう。人々を本当に元気づけ、励ますのは、神様を信じ、信頼と感謝の内に祈る者の姿です。祈って感謝して食事をする、という何でもない日常の信仰の行為が、しかしどのような危機の時にもそれがしっかりとなされるなら、それは他の人々の命を救う働きのために用いられていくのです。
 家族の中で、職場や学校やその他の団体において、私たちが数少ない信仰者として立てられていることには重大な、恵みに満ちた意味があります。それによって、私たちと共に歩んでいる人々が神様の祝福にあずかっていくのです。そのことは、私たちが、真剣に神様を礼拝し、神様に仕え、み言葉を求めて祈り、そしてみ言葉を信じて神様と共に日々を歩むことを通して起ります。そこに、信仰者の光栄と、また責任とがあるのです。このことを覚えて、与えられている信仰を大切にして、どんな時にも神様に祈りつつ歩むならば、私たちの信仰の船旅は、パウロのこの船旅と同じように、神様の救いの恵みに満たされた、奇跡の船旅となるのです。

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