主日礼拝

祈って下さる主

「祈って下さる主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第139編1-24節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章31-34節
・ 讃美歌:2、377、530

ペトロ一人への語りかけ
 主イエスが、十字架にかけられる前の晩、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」の時を持たれた、その席における話を読み進めています。本日の箇所のすぐ前の所、前回読んだ24節以下には、弟子たちの間に「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論が起ったことが語られていました。それに対して主イエスは、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とおっしゃったのです。このように、最後の晩餐における主イエスのお言葉は基本的に、「あなたがたは」と弟子たち全体に語りかけているものです。十二人の弟子たちと食事の席に着いておられるのですから、それは当然のことだと言えます。ところが本日の箇所、31~34節だけは、異例なことに一人の弟子に対する言葉となっているのです。その弟子とはシモン・ペトロです。彼はこの福音書の第5章で、最初に主イエスの弟子となった人の一人であり、6章14節以下の、主イエスによって使徒と名付けられた十二人のリストの最初に出てくる人です。つまり彼は主イエスの一番弟子、弟子たちの筆頭でした。今「シモン・ペトロ」と申しましたが、シモンが名前でペトロが名字というわけではありません。6章14節には「イエスがペトロと名付けられたシモン」とあります。つまりシモンが彼のもともとの名前であり、ペトロというのは主イエスによって与えられた名前なのです。そのシモン・ペトロ一人に向けて、主イエスは語りかけておられるのです。「シモン、シモン」と二度繰り返し彼の名を呼んでおられます。10章38節以下のいわゆる「マルタとマリアの話」の中にも、主イエスが「マルタ、マルタ」と呼びかけておられる所があります。ここと本日の箇所とは似ています。いずれの場合も、心から相手を愛しつつ、相手の陥っている問題、あるいはその人自身も気付いていない罪や弱さを指摘しようとしているのです。主イエスはそのような時に繰り返し名前を呼んで語りかけておられるのです。

サタンのふるい
 ここでシモンに対して主イエスがお示しになったのは、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」ということでした。「サタン」はこの福音書の第4章に出てくる、主イエスを荒れ野で誘惑した「悪魔」と同じ存在であると考えてよいでしょう。4章12節に、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と語られていました。その悪魔、サタンが再び登場して来るのが、この22章の3節です。そこには、十二人の弟子の一人であるイスカリオテのユダの中にサタンが入った、とあります。一時主イエスを離れていたサタンが、いよいよ時が来たとばかりに活動を開始したのです。それによってユダの裏切りが起り、主イエスの逮捕と十字架の死が目前に迫っているのです。そのサタンが、あなたがたを小麦のようにふるいにかけようとしている、と主イエスは言っておられます。ふるいというのは、粒の大きさによって必要なものといらないものとを分けるための道具です。小麦をふるいにかけるのは、脱穀において、収穫すべき麦の粒とその他のもの、もみ殻やゴミとを選別し、分けるということでしょう。ふるいにかけるとはそのように、ごっちゃになっているものを選り分け、必要なものとそうでないものとをはっきりさせることです。合格か不合格かを決めると言うこともできます。サタンがそのようにシモンをふるいにかけようとしているというわけですが、「あなたがたを」と言っておられるわけですから、シモンだけでなく全ての弟子たちもふるいにかけられようとしているのです。つまり、真実に主イエスに従っている本物の弟子か、それとも見せ掛けだけの偽物かを選別されようとしているのです。そのふるい分け、選別は試練によってなされます。主イエスが捕えられ、十字架につけられ、自分の身にも危険が及ぶという試練に直面する時に、弟子たちの信仰は試され、本物か偽物かが明らかになるのです。サタンはそういう試練を弟子たちに与えようとしているのです。

信仰の試練と挫折
 サタンとはまさにそのように人をふるいにかけ、選別し、本当に神に従う者なのか、そうでないのかを明らかにしようとする者です。試練を与えることによって、その人の信仰が偽物であり、本当に神を信じて生きてはいない、ということを本人にも、また周囲の人々の目にも、明らかにしようとしているのです。旧約聖書のヨブ記に出て来るサタンもそういうことをしています。神様が、ヨブほど忠実な信仰者はいないだろう、と自慢したのに対してサタンは、ヨブが信仰者らしく見えるのは神様が恵みを与えておられるからであって、その恵みを全て奪い去ってごらんなさい、ヨブだってきっと神様を呪いますよ、と言ったのです。それならやってみろ、ということになって、ヨブは苦しみのどん底に突き落とされてしまいます。サタンはこのように、試練を与えることによって、信仰深いように見える人間の心の奥底にある罪や弱さ、自己中心的な思いなどを明るみに出して、ほらみろ、人間はこんなに罪深いではないか、神を信じているなどと言っても、そんなの見せかけの偽りに過ぎないのだ、ということを示すことによって、私たちを神様の救いの恵みから引き離し、自分のような者は神様を信じて生きることも、救いにあずかることもできないのだと思わせようとしているのです。そのサタンが今、弟子たちをふるいにかけようとしています。捕えられ、十字架につけられる主イエスにちゃんと従えるのか、それとも主イエスを裏切って自分の身を守ろうとするのか、そういう厳しいふるいに彼らはかけられようとしているのです。その結果は目に見えています。この試練に打ち勝って、弟子としての歩みを全うできた者は、まさにペトロを筆頭に、一人もいなかったのです。彼らは皆、主イエスに従う信仰において、挫折し、自分が不合格な者であることを思い知らされていったのです。

神に願って聞き入れられた
 しかしその前にもう一つ見つめておかなければならないことがあります。弟子たちをふるいにかけ、信仰を試し、挫折させようとしているのはサタン、悪魔であるとこのみ言葉は語っているのですが、しかし同時に示されているのは、サタンはそのことを、「神に願って聞き入れられた」のだということです。つまりサタンはこのことを、神の許可によって行うのです。神が聞き入れなければサタンといえども人をふるいにかけることはできないのです。このことは、先ほどのヨブ記においても語られていたことです。サタンがヨブに苦しみを与えることができたのは、神様が、「それならやってみろ」とおっしゃったからです。神様の許可なしには、サタンは人間に試練を与えることはできないのです。ここに、聖書におけるサタン、悪魔の位置づけが示されています。悪魔やサタンは、主なる神様と対抗して並び立つような、いわゆる「悪の神」ではありません。この世に善なる神と悪なる神がおり、両者がせめぎあっているという考え方を善悪二元論と言いますが、聖書はそれを否定しています。この世界を造り、支配し、導いておられるのはあくまでも主なる神様お一人なのです。その神様のご支配の下で、悪魔とかサタンと呼ばれるものの存在が許されています。それらの力が人間に苦しみや悲しみ、試練を与えることを神が認めておられるのです。しかしそれらはあくまでも神様のみ手の中でのことです。最終的な支配は神様がしっかりと握っておられる、それが神様と悪魔との関係についての聖書の理解です。これは、神様が悪魔やサタンの力を用いて人間に苦しみや試練を与え、信仰者をふるいにかけて試そうとしている、と理解すべきではありません。私たちのこの世の歩みには様々な苦しみや悲しみがあり、どうしても説明のつかない、いわゆる不条理があります。私たちはそれらによってふるいにかけられ、信仰を試されます。それらはサタンによる試みです。しかしこのみ言葉が示そうとしているのは、そのサタンの試みも、主なる神様のみ手の外で起っているのではない、試練においても、私たちを最終的に支配し導いて下さる恵みの神がおられるのだ、ということです。そのことを信じることによって私たちは、試練の中で、そこにもなお働いている神様のみ心を求めていくことができます。それはしんどいことだし、簡単に答えが得られるようなものでもありません。苦しい問いを抱きながら何年も歩まなければならないこともあります。けれどもそのように苦しみの中にも神様のみ心を求めていくことによってこそ、苦しみは意味を持つものとなっていくのです。もしも苦しみが神様のみ手の外にあるとしたら、苦しみに意味はありません。そこでは、何とかして苦しみを逃れるか、あるいはその意味を自分で考え出さなければならなくなるのです。逃れることもできず、意味を考え出すこともできなければ、絶望するしかありません。それゆえに、サタンによる試練も神様のみ手の下にあるという教えは大いなる恵みなのです。「サタンがあなたがたをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」というみ言葉は、「そんなことするなんて神様ひどい」ということにつながるのではなくて、むしろ苦しみ、試練の中にある私たちに希望を与えるみ言葉なのです。

ペトロの覚悟
 さて、先ほども申しましたように、サタンにふるいにかけられた結果、ペトロら弟子たちがどうなるかははっきりしています。主イエスに従い通すことはできず、みんな逃げ去ってしまい、彼らは信仰に挫折するのです。弟子として不合格であることが明確になるのです。主イエスはそのことをよくご存知でした。それゆえに32節で、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言っておられます。これはペトロが主イエスに従う信仰において挫折することを前提としたみ言葉です。その次の「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみ言葉もそうです。「立ち直ったら」は一端挫折することを前提としているのです。
 しかしペトロは、主イエスのこの前提を受け入れることができません。「いやわたしは、サタンにふるいにかけられても、挫折したりはしません。どこまでもあなたに従っていく覚悟です」と言うのです。それが33節です。「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」。「御一緒になら」という訳は原文のニュアンスを損ねる恐れがあります。これは「あなたさえ一緒にいて下さるなら」ということではありません。ここは直訳すれば「主よ、私はあなたと一緒に牢にまで、また死にまでも行く覚悟です」となります。つまりペトロはここで、「あなたと一緒にいれるなら命もいらない」という主イエスへの愛を語っているのではなくて、主イエスに従って自分の使命を死に至るまで果す、という決意、使命感を語っているのです。もっと一般化して言えば、信仰者として、主イエスに従って生きるという固い決意を表明したのです。

覚悟、信念、決意
 この後どうなったかを知っている私たちは、ペトロは随分威勢のよいことを言っている、と思います。そんなに自分に自信があったのだろうか、それとも主イエスに自分の信仰が挫折することを前提とする話をされて、弟子の筆頭としての意地で、空元気を示し、確信が持てないことを言ってしまったのだろうか、とも思います。けれどもこのことをそのように、ペトロのこの時の気持ちや、彼の性格によることとして考えてしまってはならないと思うのです。これは、信仰とは何か、という根本的なことに関わる問題です。ペトロはここで、自分の「覚悟、信念、決意」を語っています。覚悟、信念、決意を持って主イエスに従っていくことが信仰だと彼は思っているのです。信仰とは、信仰をもって生きるとはそういうことだと思っている限り、このように言うしかないのではないでしょうか。私はこういう決心をしています、こういう覚悟です、ということなしに信仰はあり得ない、それがペトロの思いなのです。それは、私たちも皆思っていることではないでしょうか。既に信仰者として生きている人も、神様を信じ、信頼し、イエス・キリストに従っていく、そういう決意、覚悟をしっかり持って歩みたい、そうならなければ、と思っているし、信仰を持てたらと願いつつこの場に集っておられる求道中の方々も、そういう決心や覚悟がどうしたら持てるのだろうか、と考えておられるのではないでしょうか。だからペトロのこの言葉は、特に珍しいものではありません。おそらく私たちの誰もが、このような言葉にこそ信仰を、信仰者としての生き方があると思っており、このように語り、その通りに実行できる者となることを願っているのです。

三度わたしを知らないと言う
 それゆえに、34節の主イエスのお言葉は、ペトロ一人に向けられたものではなくて、私たち一人一人に対する予告であり宣言なのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。ユダヤの暦では日没から一日が始まっていますから、翌朝鶏が鳴く時も「今日」です。今日この日の内に、三度主イエスを知らないと言う。三度というのは、徹底的に、ということです。「三度目の正直」と言います。一度ならず二度ならず三度まで同じことを繰り返すのは、それが本心だということです。ペトロは、サタンによる試練、ふるいの中で、死に至るまで従っていく、という自分の決心、覚悟を徹底的に否定する言動に陥ってしまう、主イエスはそう予告なさったのです。そしてそれは、信仰とは、覚悟、信念、決意をもって生きることだと思っている私たちの行きつく先の予告です。自分の覚悟、決意によって信仰者として生きようとする私たちは、サタンのふるいの中で、その覚悟を自らが徹底的に裏切ることになるのです。弟子の筆頭であるペトロは、そういう意味で私たちの先頭に立っているのです。

祈って下さる主イエス
 ペトロがその威勢のいい言葉を裏切り信仰において徹底的に挫折してしまうことを予告している主イエスのお言葉はしかし、彼を断罪しようとしているのではありません。最初の方で申しましたように、主イエスはペトロを深く愛しておられるのです。そして彼が真実の信仰に生きる者となるように導こうとしておられるのです。32節の、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」というみ言葉がそれを示しています。ペトロの信仰が無くならないように、彼がこの挫折においてもなお、信仰者として歩み続けることができるように、主イエスは祈っておられるのです。しかし、彼の信仰が無くならないとはどういうことなのでしょうか。主イエスを三度知らないと言い、主イエスとの関係を徹底的に否定したペトロに、いったいどんな信仰が残っているというのでしょうか。これは、ペトロの信仰が大部分は、99パーセントまでは失われてしまうが、なお1パーセントが残っている、その残り火のような信仰をもう一度燃え立たせる、ということではありません。そうではなくて、彼を全く新しい信仰に生きる者とする、ということなのです。彼が自分で信仰とはこのようなものだと理解していた信仰、つまり自分の覚悟、決意をしっかり持って生きる、という信仰は、三度、つまり徹底的に主イエスを否定したことによって、徹底的に、完全に、100パーセント挫折し、失われたのです。その彼がなお信仰者として生きることができるとしたらそれは、主イエスが彼のために祈って下さる、その祈りによって神様から与えられる信仰に生きることでしかありません。それはもはや、自分の覚悟や決意によって生きることではありません。神様が、独り子イエス・キリストによって成し遂げ、与えて下さる救い、罪の赦しの恵みをいただいて、それによって生かされるという信仰です。それが、主イエスが彼に与えようとしておられる全く新しい信仰、いや、実はそれこそが、神様がもともと私たちに与え、それによって私たちを生かそうとしておられる真実な信仰なのです。私たちがその信仰を自分の勝手な思いで変質させて、自分の信念、決意、覚悟を信仰と混同してしまっているのです。そして実はそれこそ、サタンの思う壺なのです。私たちが、自分の信念や決意や覚悟を信仰だと思い、それに従って生きることを追い求めているなら、その私たちを試練のふるいによってつまずかせ、挫折させ、弱さや罪を暴露するのは簡単なことなのです。そしてその挫折によって、信仰者として生きることに絶望ささえることも簡単なのです。

十字架によるとりなし
 主イエスは、このサタンのたくらみと戦って下さっています。サタンは、私たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。主イエスはそのサタンに対抗しつつ、同じ神に、しかもご自分の父である方に、私たちの信仰が無くならないように祈って下さっているのです。主イエスの祈りは、ただ言葉で何かを祈り願うというだけではありませんでした。主イエスは、罪に捕えられてしまっている私たちのために、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。主イエスはまさにご時分の命を与えて、私たちのためにとりなし、祈って下さっているのです。父なる神様は、独り子主イエスの十字架の死による祈りに応えて下さり、主イエスを復活させ、私たちが新しい命に生きる道を開いて下さいました。そして、サタンによる試練に遭う私たちが、その試練によって押しつぶされてしまうのでなく、主イエス・キリストによって与えられた罪の赦しの恵みを信じて新しく生きることができるように支えて下さるのです。サタンによる試練も神様のみ手の中にある、ということがそこで大きな意味を持っています。主イエスの父である神様のみ手の中で、試練は、主イエスの十字架の苦しみと死とにあずかり、主イエスがご自身を犠牲にして下さることによって罪の赦しが与えられたことを覚える場となるのです。そしてその試練の中で、主イエスの復活にあずかって新しい命に生かされていく希望が与えられていくのです。

兄弟たちを力づけてやりなさい
 主イエスはペトロに、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃいました。これは、後にペトロが使徒たちの中心として教会を指導する者となることを見越してのみ言葉です。ペトロが教会の兄弟たちを力づける、そこで語られることはもはや、自分の信念、決意、覚悟に生きる信仰の勧めではあり得ません。「私はそういう自分の覚悟が信仰だと思っていた。しかしサタンによる試練の中で、その信仰において私は徹底的に挫折した。しかし主イエス・キリストが、主イエスを徹底的に否定したどうしようもない罪人である私のために祈って下さっていた。十字架の死はその主イエスの祈りの現れであり、私の罪を主イエスが全て引き受けて死んで下さることによって私を赦して下さったのだ。そして今、私は父なる神が復活させて下さった主イエスの新しい命にあずかって、罪赦された者として新しく生きている。自分の信念や覚悟に生きるのではなく、主イエスが実現して下さったこの救いにあずかって、神様の恵みによって生かされることこそがまことの信仰なのだ。主イエスはあなたをも、この信仰に生きるようにと招いておられる。自分の覚悟と努力によって立派な人間になることによってではなく、主イエスによる救いの恵みを信じて、感謝してそれをいただくことによって、あなたもその信仰に生きることができるのだ」。ペトロはそのように語り、教会の人々を力づけていったのです。教会はそういう信仰に生きる群れです。あなたもこのまことの信仰へと今招かれているのです。

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