夕礼拝

夢を解く

「夢を解く」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第41章1ー46節
・ 新約聖書; エフェソの信徒への手紙 第1章15ー23節
・ 讃美歌 ; 183、392
 

大抜擢
 旧約聖書創世記の、ヨセフの物語を読み進めています。ヨセフは兄たちの妬みによって殺されそうになり、奴隷としてエジプトに連れ去られてしまいました。エジプトでヨセフは、王ファラオの侍従長だったポティファルという人の奴隷となりましたが、主人の信頼を得て家の切り盛りを任せられるまでになりました。ところがポティファルの妻の逆恨みを受け、無実の罪で今度は牢獄に捕えられてしまいました。故郷から連れ去られて奴隷とされ、さらには囚人とされてしまうという苦しみのどん底に置かれたのです。しかしこのことを通して、彼の運命は劇的に転換していきます。本日の41章の41節以下にこのように語られています。「ファラオはヨセフに向かって、『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる』と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、『アブレク(敬礼)』と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。『わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。』」。つまりヨセフは、ファラオに次ぐ第二の地位を与えられ、エジプト全国を治める宰相とされたのです。奴隷で囚人だったヨセフの運命は、一日にしてこのように大きく転換したのです。  このような大抜擢を受けることになったのは、彼が人の見た夢の意味を解き明かし、そこに示されている、これから起る出来事を予告することができたからです。夢というのは、古代の人々にとって、神様が人間に何かを告げる手段と考えられていました。夢によってその人のこれからの運命が分かると考えられていたのです。特に、王様の見る夢は、王様個人のというよりも、その国の運命、その国にこれから起ることを告げていると考えられました。ですからそれは、国の政策を決定するための重要な材料だったのです。この41章でヨセフは、エジプト王ファラオの見た夢の意味を解き明かし、エジプトの国にこれから起ることを予告しました。それを聞いた王はヨセフを信頼して、国の将来をヨセフに委ねたのです。ファラオがヨセフをこれほど信頼したのは、8節にあるように、エジプト中の魔術師と賢者を呼び集めて自分の見た夢の意味を問うたのに、誰もその解き明かしをすることができなかったからです。ヨセフだけがその意味を語ることができたのです。

神の導き
 奴隷で囚人であるヨセフがファラオの前でその夢を解き明かすことになったのにはきっかけがありました。9~13節にこうあります。「そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。『わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄にわたしと料理役の長を入れられたとき、同じ夜に、わたしたちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。』」。ファラオに仕える給仕役の長が、ヨセフのことを思い出したのです。彼がヨセフに会ったのは、二年前、彼自身がファラオの怒りをかって牢獄に捕えられていた時でした。その時、一緒に捕えられた料理役の長と彼とが、同じ夜に夢を見たのです。その夢を、ヨセフが解き明かしたのです。そのことが40章に語られていました。ヨセフは、給仕役の長の見た夢は、三日後に彼は赦されて元の務めに復帰できることを意味していると語りました。それに対して、料理役の長の見た夢は、三日後に彼は処刑されてしまうという意味だと語りました。そしてまさにその通りになり、料理役の長は処刑され、給仕役の長は復帰を赦されたのです。40章の14、15節には、ヨセフが給仕役の長に自分の身の上を語り、あなたが釈放されてファラオに再び仕えることができるようになったら、私がこの牢獄から出ることができるように尽力してくださいと願ったことが語られています。ところが最後の23節にあるように、給仕役の長は自分が赦されて釈放されると、ヨセフのことをすっかり忘れてしまっていたのです。そして二年の月日が経ち、ファラオが夢を見て、国の最高の学者たちが誰もそれを解き明かすことができなかった時に、彼ははっと、ヨセフのことを思い出して、ファラオに、「そういえば私が牢獄に捕えられていた時に、こういう人がいました」と告げたのです。そのようにしてヨセフはファラオの前に連れて来られ、その夢を解き明かすことになったのです。つまり、ヨセフがエジプトの宰相に抜擢されることになったのは、二年前の牢獄における出来事があったからこそなのです。奴隷に売られ、さらには無実の罪で牢獄に捕えられてしまうという苦しみの極み、絶望のどん底に突き落とされたと言わなければならない出来事の中に、このような運命の大転換への足がかりがあったのです。世間の人はこれを、「人生何が幸いするかわからないものだ。『人間万事塞翁が馬』とはこういうことだ」と言うでしょう。しかし私たちは、ここに主なる神様の導き、ご計画があったことを知っています。神様は、ヨセフがファラオの前で夢の解き明かしをし、それによってエジプトの宰相に抜擢されるように計画し、全てのことをそのために導いておられたのです。ヨセフが兄たちの妬み、憎しみによって殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまったことも、無実の罪で牢獄に捕えられてしまったことも、全ては神様の導き、ご計画によることだったのです。

ヨセフの信仰
 しかしこれは、ヨセフは神様のご計画のレールの上をただ走らされてきただけ、あるいは神様の駒として動かされてきただけ、ということではありません。そうではないことを知るために、40章の7、8節を味わっておきたいと思います。「ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。『今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。』『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った。」。こうしてヨセフは彼らの夢を解き明かしていったのです。彼らは、自分の見た夢を解き明かしてくれる人がいないので、憂鬱な顔をしてふさぎ込んでいました。夢を解き明かすことは、高い学識と経験を持った魔術師や学者でなければできない、しかしそんな人はこの牢獄の中にはいないから、自分の見た夢の意味を知ることができない、と思っていたのです。その彼らにヨセフが語った言葉はとても大切な意味を持っています。「解き明かしは神がなさることではありませんか」。これは、夢を解き明かすことは、人間の知識や技術や経験によってできることではない、夢の意味は神様ご自身が示して下さるのであって、神様が示して下さるならば、どんなに知識のない、技術も経験もない人であっても、夢を解き明かすことができる、要は神様が示して下さることを信じるかどうかなのだ、ということです。ここに、ヨセフの信仰が示されています。ヨセフは、自分には夢を解き明かす知識や技術がある、などと思ってはいません。彼は、自分の能力、自分に何が出来るか、ということを見つめてはいないのです。そういうものを見つめ、それに依り頼むのでなくて、彼は神様のご支配とその導きを信じ、信頼して、全てのことを神様に委ねて生きているのです。それがヨセフの信仰です。そして注目すべき事は、神様のご支配と導きを信じ、全てを神様に委ねて生きている、つまり信仰を持って生きているヨセフは、神様の敷いたレールの上をただ走らされているような、自分の意志や考えを持たずに神様の駒としてただ動かされているような生き方をしているのではなくて、周囲の状況がたとえどんなに困難であり、苦しみに満ちていても、その苦しみに飲み込まれて絶望してしまうことなく、その中で積極的、能動的に、前向きに生きている、ということです。そのことは、ヨセフがこの二人の役人たちに「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか」と尋ねたことからも分かります。ヨセフ自身も、牢獄に捕えられ、しかも無実の罪で不当な苦しみを受けているのです。しかしそのヨセフが、このように他の囚人たちのことを気にかけ、その様子を見て心配しているのです。人のことを心にかけて心配し、声をかけることができるというのは、その人が健全な精神と前向きな心、思いやりを失っていないことの印です。ヨセフは牢獄の中でこのように自分を見失わず、本当の意味で自由な者として生きていたのです。それは、彼が神様のご支配を信じ、全てを神様に委ねて生きていたからです。  ヨセフの信仰は、本日の41章の15、16節におけるファラオとのやりとりにも現れています。ファラオが、「聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と言うと、ヨセフは、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えています。「自分が夢を解く力を持っているのではありません。神様が夢によって何かをお告げになり、またその意味をお示し下さるのです。だから大事なのは、夢を解く力ではなく、神様のご支配を信じ、信頼しているかどうかなのです」ということです。ヨセフのこの言葉には、絶対君主ファラオへの恐れも、また媚びへつらいも全くありません。彼は神様のご支配を信じ、信頼して委ねて生きているがゆえに、ファラオをも恐れることなくその前に堂々と立つことができたのです。そしてそれゆえに彼はファラオに信頼され、国の将来を委ねられる者となることができたのです。

夢の解き明かし
 さてヨセフが解き明かしたファラオの夢は二つでした。第一は、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て草を食べていると、後からやせ細った七頭の雌牛が同じく川から上がってきて、よく肥えた雌牛を食い尽くしてしまったというものです。第二は、よく実った七つの穂が一本の茎から出てきたが、その後から、実が入っていない干涸びた七つの穂が生えてきて、よく実った穂を飲み込んでしまったというものです。ファラオはこの二つの夢を続けて見たのです。ヨセフはこの夢を聞き、その意味を直ちに解き明かします。それが25節以下です。この二つの夢は全く同じ意味を持っている、と彼は語ります。その意味は29節以下です。「今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」。  この夢の解き明かしを皆さんはどう思われるでしょうか。「ヨセフはすごいな」と感心する方はとても素直な方だと思います。私は素直な人間ではないので、以前からここを読んで感じていたのは、「こんなの当たり前じゃないか。エジプトの学者たちはなぜこんなことが分からなかったのか」ということでした。もっともそれは「コロンブスの卵」のようなもので、言われてみれば当たり前の簡単なことだが、実際それを思い付くことはなかなかできない、ということかもしれません。しかし大事なことは、この解き明かしが「すごい」かどうかではありません。私たちが見つめるべきことは、ヨセフが、ファラオの見たこの夢を、エジプトの国に、さらにその周辺の地域にこれから起ることについて、そしてそれはファラオだけでなく、エジプトとその周辺に暮らす多くの人々の生活、命に深く関わる事柄であるわけで、つまりその多くの人々の命を守るために、神様が語りかけ、示しを与えて、来るべき飢饉に備えさせようとしていて下さる、その神様の恵みのみ心を読み取っている、ということです。将来こんなことが起る、と予言して人々を驚かせて関心を引こうとする魔術師や予言者はいつの時代にもたくさんいます。それらの人々とこのヨセフの違いは、ヨセフの夢の解き明かしが、多くの人々の命を救うことに結びついていることです。そしてむしろ本当に感心させられるのは、ヨセフが、夢の意味を解き明かすだけでなく、それに基づく具体的な政策提言を行っていることです。33節以下を読みます。「このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」。ヨセフの提言はまことに具体的です。彼は夢の意味を解き明かすことに留まらず、そこに示されていることにどう対処したらよいか、これからどうしていったらよいのかをはっきりと告げ示したのです。ここにこそ、ヨセフの解き明かしの「すごさ」があるのです。

神の恵みの支配
 彼がそのような具体的かつ適切な提言をすることができたのは、夢に示された神様のみ心をはっきりと正確に理解したからです。神様が何のためにこの夢をファラオに見させられたのか、そのことによってファラオに、人間に何をさせようとしておられるのか、どうすることが神様のみ心に添うことなのか、それをヨセフは正しく掴んだのです。彼がそのように神様のみ心を正しく掴むことができたのは何故でしょうか。それは、彼が神様のご支配を信じていたからです。アブラハムの子孫である自分や自分の家族のみでなく、無理やり連れて来られて今奴隷とされているこのエジプトの国も、その王ファラオも、そこに暮らす多くの人々も、要するにこの世界の全体を、主なる神様が支配し、守り、導いておられるのだということを彼は信じているのです。それだけではありません。ヨセフは、世界を支配しておられる神様が、何をするか分からない得体の知れない恐ろしい方なのではなくて、人々を愛し、その命を守り、生活を支えようという恵みのみ心によってこの世界を支配しておられること、神様のご支配は基本的に恵みのご支配なのだ、ということをも信じているのです。そう信じているから、彼は「神がファラオの幸いについて告げられるのです」と言うことができたのです。神様の恵みのご支配を信じる信仰によって、彼はファラオの夢に示されている神様の恵みのみ心を正しく解き明かし、その幸いを実現していくための具体的かつ適切な提言をすることができたのです。「夢の解き明かしは神がなさること」というのはこのようなことです。夢の、また夢に限らず、神様が様々なことを通して私たちに何かを示して下さる、その示しの解き明かしは、私たちの力によってなされるのではなく、神様ご自身が与えて下さるのですが、それは天から声が聞こえて来るという仕方で与えられるのではなくて、神様の恵みのご支配を信じる信仰を持って生きていく中で、私たちが体験する様々な出来事を見つめていく時に、その背後にある神様のみ心が示されていく、ということなのです。私たちの心の目が開かれて、様々な出来事の背後にある神様の恵みのご支配が見えてくるのです。

心の目を開かれて
 本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、エフェソの信徒への手紙第1章15節以下を選びました。その17~19節の祈りをご一緒に味わいたいと思ったからです。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。神様が、知恵と啓示の霊を与えて、心の目を開き、神様を深く知ることができるようにという祈りです。神様を深く知るとは、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」を、また「神の力が、どれほど大きなものであるか」を悟ることです。これらのことを悟ることができるならば、私たちもヨセフのように、様々な出来事の背後に隠された神様の恵みのみ心を聞き取ることができるようになるのです。この祈りの後の20節以下には、神様がこの絶大な力を、キリストにおいて働かせ、救いのみ業を行って下さったことが語られています。私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、復活して新しい命の先駆けとなって下さった主イエス・キリストにこそ、神様の絶大な恵みの力と、私たちに約束されている豊かな希望が示されています。主イエス・キリストを信じて生きることによってこそ、私たちは神様の恵みのご支配を見つめる心の目を開かれるのです。その信仰によってこそ、この世に起る様々な出来事に、適切に対処していくことができるようになるのです。その適切さは、信仰のない人にも認められていきます。エジプト王ファラオは、ヨセフの解き明かしと提言がまことに適切であることを認め、それを全面的に受け入れ、それを実行していく者としてヨセフを抜擢しました。昨日まで奴隷であり囚人であった者を宰相の地位につけることはとてつもない冒険です。しかしこのファラオの決断によって、エジプトの国と人々は、またこの後語られていくようにヨセフの家族たち、アブラハムの子孫である神の民も、救われていったのです。このファラオの決断は見事であり、適切な、まさに英断でした。支配者、権力を握っている者がどのような決断をするかによって、多くの人々の命が助かったり失われたりするのです。私たちはそのことを今まさに、ミャンマーのサイクロン被害や、中国四川省における大地震の被害において思い知らされています。そこにおけるまことに大きな被害は、自然の災害によるものであると同時に、かなりの部分、政府の政策、そこにおける決断の不適切さによるものと考えざるを得ないのです。ヨセフを抜擢したエジプト王ファラオのような決断ができる人こそ、本当の意味でのリーダー、国の指導者たるに相応しい人であると言えるでしょう。そして、そのリーダーに、現実を正しく見つめ、その中で人々の命と生活が守られていくために本当に適切な、また具体的な提言を、大胆にすることができたのは、奴隷として連れ去られ、さらに牢獄に捕えられて、苦しみのどん底と言わざるを得ない事態の中に置かれながら、なおそこで主なる神様の恵みのご支配を見つめる心の目を開かれて生きた、一人の信仰者であったということを、私たちは深く心に留めたいのです。

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