週日聖餐礼拝

命のパン

「命のパン」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第46章1ー4節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第6章41ー59節
・ 讃美歌;

 
つまずき、つぶやき
 「わたしは天から降って来たパンである」と主イエス・キリストは言われました。私たちはこの言葉を、「わたしは天から降って来たパンのような者である」とか、「わたしの語る言葉はあなたがたにとって、パンのようなものだ」などと、自分なりに勝手に解釈してしまっていることが多いのではないでしょうか。でも主イエスは「~のようなもの」とは言っておられないのです。「わたしは天から降って来たパンである」と言われたのです。48節にも「わたしは命のパンである」とあります。51節には「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とすら言われています。パンとは、命を養う食べ物です。主イエスというパンを、食べ物として食べることによって、永遠の命が得られるのだ、と言われたのです。これはまたしても比喩的に、「イエスのみ言葉が、それを信じることがパンのようなものであって、それを食べるとは、み言葉を聞いて信じることであって、それによって永遠の命が得られる」と理解されがちな言い方ですが、それを防ぐために主イエスは続いて「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われたのです。「命のパン」と言われているのは、「み言葉」や「信仰」ではなくて、「わたしの肉」なのです。主イエスの肉を食べることによってこそ、永遠の命が得られるのです。そのことは53~56節にも語られています。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここでは、主イエスの肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命、救いはない、と言われています。まことに生々しい、気持ちが悪いとさえ言えるような言い方です。だからユダヤ人たちは、この主イエスのみ言葉を聞いてつまずき、つぶやいたのです。前半の方に語られているのは、主イエスが「わたしは天から降って来た」とおっしゃったことへのつぶやきです。「天から」とは、神様のもとから、ということです。「私は神様のもとから来た」などとイエスは言うけれども、あれは我々のよく知っているヨセフ夫妻の息子で、ただの人間ではないか。ただの人間が自分は神様のもとから来たなどと言うのは神様への冒涜だ、と言っているのです。52節以下にあるのが、イエスの肉を食べ、血を飲む、ということへのつぶやきです。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」とあります。自分の肉を人に食べさせ、血を飲ませるなどということはあり得ないし、あってはならないのです。私たちだって、人の肉や血など食べたくも飲みたくもない、と思います。ですからこのユダヤ人たちのつぶやきの言葉は、彼らの無理解や強情の現れではありません。むしろこれが当然の反応なのです。このように思われても仕方がないようなことを、主イエスは言っておられるのです。

肉体を持って生きる私たちの救い
 主イエスがこのようなつまずきやつぶやきを引き起こすようなことを敢えておっしゃったのは何故なのでしょうか。その根本的な理由は、主イエスを信じる信仰が、単なる内面的な、心の中だけの抽象的な事柄なのではなくて、私たちの体、肉体を含めた人間全体に関わる具体的な事柄だということを示すためだと言えるでしょう。「わたしは天から降って来たパンである」というみ言葉を、「パンのようなものである」と理解してしまう時に起っているのは、まさに信仰の内面化、主イエスを信じることを心の中だけの事柄にしてしまうことです。主イエスは、「あなたがたはわたしの肉を食べ、わたしの血を飲むことによって救いにあずかるのだ」とおっしゃることによって、信仰の内面化、抽象化を防ぎ、私たちに、体全体で主イエスを信じ、肉体をもって主イエスと共に生きることを求めておられるのです。
 聖書の教える信仰は、決して内面的、抽象的なものではありません。言い換えれば、聖書は、私たちの体、肉体における神様の恵みを見つめているのです。そもそも創世記の天地創造の物語において、神様が人間を、肉体を持つ者として、男と女という性別を持つ者として造って下さったことが語られており、そのように造られた人間が、「極めて良い」と言われているのです。私たちが肉体をもって生きることを、神様はこのように祝福し、喜び、肯定して下さっているのです。神様が与えて下さったこの体はもともとは土の塵でしかありません。そこには弱さがあります。限界があります。肉体は永遠のものではありません。それゆえに肉体をもって生きることには様々な苦しみがつきまとっています。病があり、老いがあります。生まれつき、あるいはある時点から障碍を負って歩まなければならない、ということもあります。そしてそれらの苦しみの果てには、死があります。肉体は滅びていくのです。肉体をもって生きているからこそ、私たちはこれらの苦しみや悲しみを負わなければならないのです。神様はそのような私たちをしかし祝福し、慈しみ、守り、養い、導いて下さいます。神様の恵みは、肉体の弱さや苦しみを負って限りのある人生を生きる私たちに具体的に与えられているのです。そのことを語っているのが、先ほど共に読んだ旧約聖書の箇所、イザヤ書46章1~4節です。ここには、生けるまことの神様と、人間が造った偶像との違いが語られています。偶像は、人間が背負っていかなければどこにも行くことができず、結局は人間の重荷、足手纏いとなっていくのに対して、生けるまことの神様は、私たちを造り、担い、背負い、救い出して下さる方なのです。私たちが神様を背負うのではなくて、神様が私たちを背負って下さるのです。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と語られています。それは、病や障碍や老いや、その他肉体をもって生きることにまつわる全ての苦しみを神様が覚えていて下さり、労って下さり、肉体をも含めた私たちの全体を、具体的に、養い、導いて下さるという恵みの宣言なのです。

主イエスの受肉
 神様がこのように肉体を持って生きる私たちを祝福し、愛し、養い、導いて下さることの最大の現れは、独り子イエス・キリストを肉体を持つ一人の人間としてこの世に遣わして下さったことです。主イエスが人間となってこの世に来られたというのは、私たちと同じように肉体を持って限りある命を生きる者となって下さったということです。肉体を持って生きることによって私たちが負っている様々な苦しみを、まことの神であられる主イエスが体験して下さったのです。そして、肉体を持って生きている私たちがこれから味わわなければならない死の苦しみを、私たちに先立って味わって下さったのです。主イエス・キリストが人間となってこの世に来られ、十字架にかかって死んで下さったことにこそ、神様が、肉体を持ってこの世を生きる私たちのことを具体的に深く愛し、私たちの魂と肉体の全体を、最後まで責任をもって養い、導いて下さる恵みが示されているのです。この恵みの中で、心においてのみでなく肉体、体においても、主イエス・キリストと共に生きることが、聖書の教える信仰なのです。

聖餐にあずかる
 私たちがこの信仰に生き、主イエスの肉を食べ、血を飲みつつ歩むために主イエスご自身が定めて下さったのが、これから共にあずかろうとしている聖餐です。聖餐のパンをいただくことによって私たちはキリストの体を食べ、杯をいただくことによってキリストの血を飲むのです。主イエスが、パンと杯を用いるこの聖餐を定め、「このように行いなさい」と弟子たちにお命じになったのは、私たちの信仰が、心で信じるだけのものではなくて、口で食する、つまりこの体をもって主イエス・キリストを具体的に味わい、その命によって養われていく信仰となるためです。それゆえに教会はその最初から、聖餐に共にあずかることを大切にし、聖餐に共にあずかる共同体を築いてきたのです。それゆえに初期の教会は周囲の人々から、「あの連中は集まって人肉を食べ、人の血をすすっているらしい」などという噂を流され、非難されたのです。本日のこの箇所の、ユダヤ人たちのつまずきの言葉も、主イエスに対してと言うよりも、当時の教会に対して向けられていた言葉なのです。キリストの肉を食べ、血を飲むなどというのは、確かにあまり気持ちの良い言い方ではありません。しかし私たちは、聖餐において、聖霊の働きによって、確かに、主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲み、キリストと一つにされるのです。そこに私たちの救いがあります。主イエスは、私たちと同じ肉体を持って生きる一人の人間となって下さり、その肉体に私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。キリストの肉体における苦しみと死とによって、神様は私たちの罪を赦し、祝福の内に置いて下さったのです。さらに父なる神様は主イエスを復活させて下さいました。それは魂のみが生き返ったのではなくて、肉体における復活です。キリストの体の復活によって、キリストと一つにされる私たちにも体の復活の希望が、肉体の死に勝利する新しい命と体を与えられる希望が与えられたのです。キリストの肉体における復活によって、魂のみでなく肉体をも含めた私たちの全体における具体的な救いの完成の約束が与えられているのです。私たちはこの主イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、魂のみでなく肉体においてもキリストと一つとされています。洗礼においてキリストと一つにされた私たちは、聖餐において、キリストの肉を食べ、血を飲み、魂のみでなく肉体においても、命のパンであるキリストによって養われ力づけられ生かされていくのです。普段いろいろな事情でこの場での礼拝に出席することができない方々にも、神様は同じこの恵みを注いでいて下さいます。そのことをご一緒に味わうために、この週日聖餐礼拝が行われているのです。肉体を持って生きることには様々な苦しみ悲しみ悩みがありますが、その私たちの体をも愛し、育み、養い、救って下さる神様の恵みに全てを委ねて、命のパンである主イエスと一つとされて歩みたいのです。

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