「祝福の詐取」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第27章1-40節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙 第12章14-17節
・ 讃美歌 ; 141、504
祝福の詐取
本日の説教の題を「祝福の詐取」としました。詐取とは、騙し取ることです。祝福を騙し取るという出来事が、本日の聖書の箇所、 旧約聖書創世記第27章に語られているのです。それは、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムの息子イサクの家庭に起った ことです。イサクとリベカの夫婦には、双子の息子がいました。兄はエサウ、弟はヤコブです。弟のヤコブが、母リベカと共謀して、 父イサクを騙して、父の祝福を兄エサウから奪ってしまったのです。
継承される祝福
この物語を読むための前提として、父の祝福 を受ける、ということの持つ意味を知っておかなければなりません。27章の1~4節に、年をとって自分の余命がいくばくもないこと を悟ったイサクが、長男であるエサウに祝福を与えようとした、ということが語られています。4節の終わりでイサクは、「わたし自身 の祝福をお前に与えたい」と言っています。つまりこれは、イサク自身が持っている祝福を、エサウに継承しようということです。この 祝福は、父から子へと継承されていくものなのです。この祝福を継承することこそ、イサクの跡継ぎとなる、ということなのです。それ ゆえに、祝福を騙し取るというのは、イサクの後継者としての地位をだまし取る、家督を騙し取る、ということなのです。
イスラエルの民の父祖たちにおける家督の継承は、単に財産を受け継ぐということではありませんでした。継承される最も大事なもの は、神様の祝福だったのです。その祝福は、彼らの最初の先祖アブラハムに与えられたものでした。アブラハムが、神様の語り掛けに応えて、 行く先を知らずに旅立ったことから、イスラエルの民の歴史は始まったのです。神様が彼に語り掛けたのは、彼とその子孫とを神様が祝福して 下さり、彼らが、全ての民に与えられる祝福の源となる、という「祝福の約束」でした。この祝福の約束を信じて旅立ったことがアブラハムの 信仰であって、それによって彼は神様の祝福の担い手となったのです。その祝福が、息子イサクに受け継がれ、今はイサクが祝福の担い手とな っています。そのイサクが息子たちの内の誰を祝福するか、それは、次は誰が神様の祝福の約束の担い手となるか、ということであり、それが、 イサクの後継者となることなのです。
イサクの不信仰
イサクはその祝福を、長男であるエサウに与えようとしました。つまりエサウを自分の後継者としようとしたのです。それは自然な、順等な ことのようにも思われます。けれども創世記を読んできた私たちは、25章の、エサウとヤコブの誕生の場面において、神様がこの双子の兄弟 について、「兄が弟に仕えるようになる」と告げておられたことを知っています。また同じ25章の後半には、お腹のすいたエサウが、一杯の 煮物と引き替えに、長男としての権利をヤコブに売り渡してしまったことが語られていました。兄エサウではなくて弟ヤコブがイサクの後継者 となることが神様のみ心であることを示すいくつかの出来事が既にあったのです。イサクがそれらのことを知らなかったはずはありません。 しかしイサクは27章で、エサウに祝福を与えようとします。そこには、25章28節に語られていたこと、「イサクはエサウを愛した。 狩りの獲物が好物だったからである」という事情があったと言えるでしょう。イサクは、自分のお気に入りの息子に跡を継がせたかったの です。
これは、家督の相続をめぐってよく起る問題です。先代が、自分の気に入った者に跡を継がせようとする。しかしその人が相続の順位に おいて一位でなかったり、いろいろ問題があって周囲の人々の意向と違っていたりすると、問題が生じるのです。このケースでは、エサウは 長男ですから、相続の順位としては問題ありません。しかし神様のみ心においてはどうか、ということが問題なのです。祝福は、父イサクが 与えるものですけれども、根本的には神様の祝福です。神様が与えて下さる祝福の約束を受け継ぐのです。ですから誰にそれを与えるかは、 神様のみ心に従って決められるべきなのです。しかしイサクは、自分の好みによって祝福を与えようとしています。神様のものである祝福を、 自分のものであるかのように、自分が誰か好きな者に与えることができるかのように振舞っているのです。ここにイサクの不信仰があります。 イサクは、父アブラハムから神様の祝福の約束を受け継ぎ、神様に従って歩んできました。信仰者として生きてきたのです。しかし人生の最後 になって、神様の祝福を受け継がせる跡継ぎを決めるという決定的に大切な事柄において、神様のみ心よりも、自分の思いによって行動しよう としたのです。私たちの誰もが、このイサクの姿を他人事としてしまうことはできないでしょう。信仰者として、神様のみ心に従って生きている、 生きようとしている私たちですが、しかし人生の最も大事な、決定的な場面においては、神様のみ心よりも自分の思いによって行動してしまう、 自分の好みに従って歩んでしまう、ということがあるのではないでしょうか。つまり、神様に従っているのは、表面的な、あるいは自分にとって 究極的には些細なことにおいてであって、本当に肝心なこと、自分にとって最も大事な事柄においては、神様ではなくて自分の思いを優先させて しまう、そういう生き方を私たちもしているのではないでしょうか。年老いたイサクの姿は、そういう人間の現実を描き出しているのです。
リベカとヤコブの計略
イサクがエサウに祝福を与えようとしているのを知った妻リベカは、その祝福がヤコブに与えられるように策略を巡らします。エサウが獲物を 取りに狩りに行っている間に、家畜の肉で料理を造り、ヤコブにそれを父のところに持って行かせて、エサウの代わりに祝福を受けさせようとす るのです。イサクがエサウとヤコブを間違えることは普通ではあり得ませんが、イサクは年老いて、目がかすんで見えなくなっていました。リベカ はそれをいいことに、エサウの晴れ着をヤコブに着せ、毛深いエサウに見せかけるために毛皮をヤコブの腕や首に巻き付けてエサウに成り済まさせ るのです。ヤコブは初めは、母のこの計略に恐れを覚えています。12節に、「お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうし たら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」とあります。父親を騙すなど、とんでもない罪です。それは祝福どころか、呪いを 受けるようなことなのです。しかしリベカは13節で、その時には自分がその呪いを引き受ける、と言います。この母の強い意志に押されて、ヤコブは この計画に乗ります。もともと、一杯の煮物で兄から長男の権利を奪ったヤコブです。自分が後継者になりたいという思いを強く持っているのです。 父の前に出た彼は、上手に父を騙します。イサクが、「どうしてまた、こんなに早く(獲物を)しとめられたのか」と尋ねると、「あなたの神、主が わたしのために計らってくださったからです」と言ったのです。つまり、神様のお名前を持ち出して、父を騙したのです。神様のみ名を、人を騙す ために利用したのです。十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」とありますが、「主の名をみだりに唱える」とはまさにこういうことです。 このようにして、ヤコブは母リベカと共にイサクを騙して、イサクの祝福を受けてしまったのです。
リベカとヤコブの罪
エサウではなくてヤコブが祝福の継承者となることは神様のみ心だった、ということを先ほど申しました。しかしだからといって、このヤコブと リベカの行為が肯定されるわけではありません。そもそも、彼らは、神様のみ心に従うためにこのことをしたのではありません。先ほどの25章28節の 続きに、「リベカはヤコブを愛した」とあります。つまりイサクがお気に入りの息子エサウに跡を継がせたかったのと同じように、リベカも、自分の お気に入りの息子ヤコブに跡を継がせようとしたのです。神様のみ心に従おうとしたのではありません。神様に従っているなら、このようにイサクを 騙すなどということはしないはずなのです。また彼女が、ヤコブに向けられるかもしれない呪いを自分が引き受ける、と言っているのも、神様の呪い ということが全く分っていない証拠です。神様の呪いは、つまり怒りは、人間が自分の思いで、他の人に代って「引き受ける」ことなどできるもので はないのです。リベカのこの言葉には、生きておられる神様に対する畏れが欠けています。人間は騙せても神様を騙すことはできない、という感覚 がまるでないのです。また彼らが、イサクが年老いて目がかすんでいることを利用して騙したことも大変大きな罪です。レビ記19章14節に「耳の 聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」とあります。つまり、 体に障碍のある人をその障碍によっていじめたり、陥れたりすることは、主なる神様が最もお嫌いになる罪なのです。彼らがイサクに対してしたこと はこれに当ります。またヤコブ自身も、先ほど申しましたように、神様のみ名を利用して父を騙しました。これは主のみ名をみだりに唱える大きな罪です。 リベカとヤコブの行為はこのように、まさに詐取であって、とうてい肯定されようのない罪だったのです。つまりこの話において、エサウを祝福しようと したイサクも、またその祝福を騙し取ったヤコブとリベカも、共に神様のみ心に逆らう罪を犯しているのです。
祝福を失ったエサウ
狩りから帰って来たエサウは、獲物を料理して父のもとに持って行きます。イサクは愕然とします。33節「イサクは激しく体を震わせて言った。 『では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福して しまった。だから、彼が祝福されたものになっている』」。それを聞いたエサウは、34節、「悲痛な叫びをあげて激しく泣き」、「わたしのお父さん。 わたしも、このわたしも祝福してください」と言います。ここは旧約聖書の中で、最も悲痛な、そして後味の悪い場面であると言えるかもしれません。 知らない内に父の祝福を奪い取られてしまったエサウがかわいそうだ、と私たちは思います。そしてエサウが泣いて願っているように、エサウをも祝福 してやればよいのに、あるいは、騙されて与えた先の祝福は無効だ、と宣言してやり直せばいいのに、と思うのです。しかしイサクは、それはもはやで きない、と言います。私は既にヤコブを祝福してしまった、だからヤコブが祝福された者となっている、つまり、私の跡継ぎとなり、親族全体の頭とな っている、今となっては、エサウのためにしてやれることは何もない、と言っているのです。
ここには、祝福を与えるということが、私たちが感じているよりもずっと重大なことだということが示されています。それは一度与えられたらもうやり 直しや撤回はできない客観的なものであり、その一度限りの祝福によってその人の立場が決定的に変わるような事柄なのです。その祝福を得るか失うかに よって、その人の運命が決定的に左右されてしまうのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第12章14節以下には、この祝福を 得ることができなかったエサウのことが見つめられています。エサウが、神の恵みから除かれてしまった人の代表として取り上げられており、このエサウ のようにならないように気をつけなさい、と教えられているのです。エサウは知らないうちに祝福を奪われたのだからかわいそうではないか、と私たちは 思いますが、しかしここにも、「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウ」と言われているように、エサウが、神様の祝福を受け継ぐこと の重大さをわきまえていなかったことは確かです。祝福を受け継ぐことこそが人生の最大の課題であるとは、彼は考えていなかったのです。ヘブライ人へ の手紙が言っているように、このことはむしろ私たちへの警告であり、勧めです。神様の恵みにあずかり、その祝福を受けることを、私たちはどれだけ 真剣に、切実に、追い求めているでしょうか。それよりも一杯の食物の方を大切に思ってしまっていることはないでしょうか。この祝福を受けることは、 私たちにおいては、洗礼を受けることと重なります。洗礼もまた、やり直しや撤回はできない客観的なことであり、その一度限りの洗礼によって私たちの 神様に対する立場が決定的に変わるのです。神様の独り子イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しにあずかり、その復活の命にあずかって新しく 生かされる神様の民となるのです。その洗礼の重さをわきまえ、それを受けることを人生における最大の課題として求めていく、そして、自分が洗礼を 受けたという事実を大切にして、そこにしっかり留まり、主イエスとの交わりに生きていく、それが私たちの信仰の歩みなのです。洗礼を受けて教会の 一員とされることによって、私たちも、神様の祝福を受け継ぐ者とされるのです。
体を震わせるイサク 自分が祝福した相手がエサウではなくてヤコブだったことを知ったイサクは、「激しく体を震わせ」たと33節にあります。このイサクの震えは何だっ たのでしょうか。リベカとヤコブに騙された、という怒りに震えたのでしょうか。お気に入りの息子エサウに祝福を与えることができなかった、という悲しみ に震えたのでしょうか。そのどちらでもないと思います。彼はここに、主なる神様のみ業を見たのです。エサウではなくてヤコブが祝福を受け継ぐ者となるこ とを神様がお望みになっていることを、彼は心の底では気付いていました。しかしそのことに敢えて目を塞いで、自分のお気に入りの息子であるエサウに、 彼が長男であるということにしがみついて、祝福を与えようとしたのです。神様のみ心にあえて目をつぶって、自分の思い、願いを通そうとしたのです。 しかし彼は騙されて、ヤコブに祝福を与えてしまいました。そのことを知った時イサクは、主なる神が生きておられ、人間のあらゆる思いを超えてみ心を 行なっておられることをはっきりと悟って、激しく震えたのです。それは怒りでも悲しみでもなく、恐れによる震えです。生きておられるまことの神様の み手の内にあることを知る時、人は震え上がらずにはおれないのです。生きておられるまことの神様は、私たちのどんな思い、願い、計画、策略によって も妨げられることなく、み心を行われるのです。いやむしろ人間の陰謀、嘘、罪をも用いて、み業を成し遂げられるのです。私たちは、神様のみ心の実現 を妨げることはできません。私たちのすること、歩みの全てが、神様のみ手の中にあり、結局はみ業の実現のために用いられていくのです。そのことを示 される時、私たちは深い恐れに身震いするのです。
神のみ心こそが実現する
このことを体験したのはイサクだけではありません。彼を騙したリベカと ヤコブも、実は同じことを体験しているのです。リベカは自分の愛する息子に跡を継がせようとして、ヤコブも兄を出し抜いて自分が跡取りになろうとし て陰謀をめぐらし、夫を、父親を騙したのです。その計画はまんまと成功したように見えます。しかし、ここで実現したのは、実は彼らの計画ではなくて 、主なる神様のみ心だったのです。そのことを彼らは、この後、思い知らされていきます。兄エサウを出し抜いて祝福を受けたことによって、ヤコブが跡 取りとしての地位を固めて万々歳、というわけにはいかなかったのです。ヤコブはこのことのためにこの地を逃げ出さなければならなくなり、十数年間、 戻ることはできなかったのです。ですから、この27章の出来事において、実現したのはイサクの思いでもなければ、リベカとヤコブの計画でもありませ ん。彼ら人間の思いや計画はいずれも神様のみ心に背く、罪に満ちたものでした。それらがそのまま実現することなどないのです。しかしその人間の 思惑や陰謀、罪の全てを通して、主なる神様のご計画、み心こそが実現していくのです。この事実を見つめる時、私たちも、イサクと共に、身震いする ような恐れを感じさせられるのです。
主イエス・キリストによる救い
人間のいろいろな思惑、計画が渦巻く中で、神様のみ心こそが実現する、そのことが、主イエス・キリストの十字架の死においても起りました。主イエスを 捕えてローマの総督ピラトに引き渡した祭司長や律法学者たちも、主イエスを裏切ってその手引きをしたイスカリオテのユダも、「十字架につけろ」と叫ん だ群衆たちも、十字架の死刑を宣告したピラトも、それぞれがそれぞれの計略をもっており、自分の思いを実現しようとしたのです。しかしそこにおいて本 当に実現したのは、神様の救いのご計画でした。神様の独り子であられ、まことの神であられる主イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのための贖いの死 を遂げて下さる、それによって私たちが罪を赦されて新しく生きることができるようになる、という神様の私たちのための救いのご計画が、人間の様々な、 罪に満ちた思いや計画が渦巻く中で実現したのです。創世記27章で起ったのもそういうことなのです。このことによって、アブラハム、イサク、ヤコブと いうイスラエルの民の父祖のラインがつながりました。このヤコブの息子たちから、イスラエルの12の部族が興り、神様の祝福を担う民として彼らが歩ん でいく基礎が据えられたのです。イサクは、自分ではエサウを祝福するつもりだったのに、騙されてヤコブを祝福してしまったことを知った時、自分が神様 のみ手の中にあることを知って激しく体を震わせるほどに恐れを覚えました。しかし主なる神様は、そのことによって、神様の民の歴史を、即ち救いの歴史 を一歩前進させて下さったのです。私たちも、生きておられる神様のみ手の中に置かれており、私たちの思いや計画を超えて神様がみ業を実現なさることを 知らされる時、身震いするような深い恐れを抱きます。しかし神様はそのことによって、主イエス・キリストによって実現して下さった救いのみ業に私たち をあずからせ、そのみ業を前進させようとしておられるのです。それゆえにこの恐れの中にこそ、深い喜びもまたあるのです。主イエス・キリストを遣わし て下さった生けるまことの神様との出会いは、私たちに深い恐れを抱かせると同時に、私たちの心を深い喜びにうち震えさせてくれるものなのです。