夕礼拝

福音にふさわしい生活

「福音にふさわしい生活」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章27-30節
・ 讃美歌 : 9、510

パウロの喜び
フィリピの信徒への手紙を読み進めていまして、これまでの箇所でパウロは、フィリピ教会の人々に、獄に捕らえられた自分自身のことについて記してきました。そこには、苦しみを経験しつつも、喜んでいるパウロの姿が示されていました。苦しみの中で喜ぶということは、この世の常識では考えられないことです。ここには、キリストの救いにあずかった者の喜びが示されているのです。この時のパウロは、人間的に見て人生が順風満帆に進み、嬉しいことばかりが周りにあるというのではありません。牢獄の中で自由に活動することができず、福音を伝えると言う使徒としての使命も充分に果たしているとは思えないような現実があるのです。しかし、パウロは、そのような苦しみによっても、神様が福音を前進させて下さっていることを見つめ、そのことを喜んでいるのです。直前の箇所1章20節以下でパウロは、死んでこの世を去り、キリストと共にいたいと語りつつも、教会のために、この世に留まり、教会の人々と信仰を深め合う道を選び取るということが記されていました。それは、教会を通して、確かに、福音が宣べつたえられ、神様の救いの御業が進められているからに他なりません。そして、教会の交わりにこそ、神様の救いの御業が現されており、そこにこそ、真の救いへと至る道があるからです。だから、パウロは、人間的に見れば苦しみとしか言えないような中にあっても喜ぶことができると言うのです。この喜びは、この世の常識からすれば考えられないことですが、キリスト者にとっては特別なことではありません。パウロが使徒で、人一倍優れた信仰に生きていたから、このような喜びに到達できたと言うのではないのです。ここには、この世を歩む全てのキリスト者の姿勢が示されているのです。ここでのパウロの喜びに生きることこそ、信仰者に与えられている歩みであり、信仰生活なのです。パウロは、ここで、フィリピ教会の人々も、パウロの喜びを共にしてほしいと願っています。共に信仰者として歩んでいこうとしているのです。

福音にふさわしい生活の勧め
パウロは苦しみの中でも喜びに満たされていることを記した後、本日の箇所では、教会の人々に対する勧めを記します。自身は牢獄の中にいて、明日の身がどうなるのかも分からない状態にある。そのような中で、手紙を通して、フィリピの教会の人々に、大切な勧めをするのです。そのことが、本当に喜びを共にする時に不可欠なことだからでしょう。その勧めの内容は、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」というものです。「ひたすら」と言う言葉は、口語訳聖書では「ただ」と訳されていました。唯一の本質的事柄を表す言葉です。つまり、信仰を与えられて生きる時に大切な唯一のことは、福音にふさわしい生活を送ると言うことなのです。信仰とは、頭だけで理解するようなことではありませんし、聖書を勉強して一定の知識に到達するようなことでもないのです。信仰を与えられて、教会の民として歩む時、必ず、生活が福音にふさわしく整えられていくのです。
では、パウロが「福音にふさわしい生活」と言う時の、「ふさわしさ」とはどのようなものなのでしょうか。「ふさわしい」という言葉は、「規範とする」とか「値する」と言う意味がある言葉です。キリストの福音に則して歩めと言うのです。そのように言われると、私たちはいささかしり込みしてしまいます。果たして自分は本当にふさわしく歩めているのだろうかとの思いがするかもしれません。しかし、このふさわしさは、何か、守らないといけない掟に忠実に生きて、自分で獲得するようなものではありません。人間が自分の力で、救われるにふさわしい者となっていかなくてはならないと言うのではないのです。ここで語られている福音、即ち、キリストの福音とはどのようなものなのかを思い起したいと思います。それは、主なる神様が、人間のために、子なるキリストを世に遣わし、十字架と復活によって罪を贖い、救いの御業を成し遂げて下さったと言うものです。つまり、人間の救いを、神様が成し遂げて下さり、それが恵みとして与えられているのです。そのように、既に神様の救いにあずかった者が、その福音にふさわしく生きるのです。それは、当然、神様が与えて下さった救いの恵みのみに依り頼んで歩んで行くものとなります。つまり、ここでは、キリストの福音にあずかった者が、自分の力に頼るのではなく、神様の救いにあずかって生かされていく時に、必然的に生まれて来る歩みが見つめられているのです。

ふさわしい生活の結果
パウロは、27節で続けて、「そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう」と語りつつ、福音にふさわしい生活をする時、結果として生まれていくことを記します。そこには次のようにあります。「あなたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと」。この言葉から分かることは、福音にふさわしい生活を送る時、そこには必ず戦いが生じると言うことです。この戦とはどのようなものなのかを知るためには、ここで「反対者たち」と言われているのがどのような人々なのかを見つめなくてはなりません。ここで、先ず、教会の外にいる反対者、つまり、異教徒でキリスト者を迫害していた人々のことを考えることができるでしょう。そのような人々のキリストの福音に反発する力によって、パウロは、現に牢に閉じこめられ、苦しみを被っているのです。
しかし、何より、ここで見つめられているのは、教会の内にいる反対者、つまり、教会の中で間違った教えを語る人々のことを考えなくてはなりません。具体的には、ユダヤ人キリスト教徒と言われる人々がいて、フィリピ教会を含め、パウロが活動した教会を巡回して、自分たちの誤った教えを言い広めていたのです。誤った教えと言うよりも、根本的に福音と対立する教えを語っていたのです。この人々は、救いのために旧約聖書の律法が定める割礼を受けることを求めていました。それは、律法という掟を守ることによって救いが獲得できる、言い替えるのであれば、人間の業によって救われると言う教えを宣べ伝えていたのです。

教会の一致を妨害する力
ここでは外と内にある二つの、具体的な「反対者」が見つめられていますが、そこにあるのは、福音の前進を阻み、教会の一致を妨害しようとする力です。特に、ここでは、内にいる反対者を取り上げてみたいと思います。それは、先ほども見つめたように、人間が自分の力で救いを得ようとすることとの戦いです。自分でふさわしさを得ようとすることは、結局、キリストによって与えられる救いの恵みを無にすることになります。私たちが、神様の前に全く誇るべきものを持たない罪人であり、ただキリストによってのみ救いにあずかる者とされているという恵みを忘れる時に、人間は自分の中に、救いにあずかるためのふさわしさを見出そうとします。実にしばしば、自分の敬虔な行いとか、熱心な信仰生活というようなものによって自ら救いにふさわしい者となろうとしてしまうのです。しかし、そのような態度の中に、キリストの恵みにあずかることをせずに、かえって福音にふさわしい生活から離れて行ってしまうことも起こってくるのです。例えば、そのような姿勢は、必ず、教会の一致を破壊させます。キリストの救いに共にあずかると言うことではなく、人間の業による救いが求められる共同体には、必ず人間の業を誇り、隣人と自らの歩みを比較して、自己卑下したり、裁いたりする思いが生まれるからです。キリスト者は、絶えず、そのような人間の思いと戦わなくてはなりません。
ここで注意をしたいことは、この世を信仰者として歩む時、誰しも、この力に支配されることがあるのです。それ故、私たちは、反対者と言う言葉を聞いて、この人、福音に生かされている人だけれども、あの人は教会の正しい教えの反対者だと言うように具体的な個人をあげることはできません。誰であっても、信仰をもってこの世を歩む時、この力から自由ではないのです。自分の業を見つめ、福音と異なるものを教会に持ち込み、本当に一致するべき点ではない所で一致しようとし、福音の前進を阻んでしまうと言うことが起こりえるのです。つまり、この戦いは、自分たち以外の反対者との戦いと言う側面、自らの内にある、福音に反対する力との戦いでもあるのです。この戦いは、どこかで終わることはありません。福音に反対する力がなくなって、理想の教会が建つと言うことはないでしょう。この世の教会には、常に、罪に支配された肉の力が働くからです。パウロは30節で、「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」と語っています。パウロが投獄される前に、教会において、この戦いを戦って来たのです。それと同じ戦いを、フィリピ教会も戦うのです。そして、現代の教会も又、同じ戦いの中にあるのです。それは、罪に支配された人間を用いて、福音が進められる時に生まれる必然的な結果なのです。

聖霊による一致
パウロは、この戦いを戦うに際し、「一つの霊によってしっかり立ち」と語っています。ここで「一つの霊」と言うのは、聖霊のことです、イエス・キリストが天に昇られた後、教会を建て、神様の救いの御業を進めて下さっている聖霊の働きが見つめられています。つまり、信仰者は、自分の力ではなく、キリストの力によって立たされるのです。しかも、ここには「一つの」と言われています。つまり、聖霊と言う一つの霊が教会の人々に臨んでおり、それが教会に一致を与えているのです。つまり、教会が、福音の前進を妨げ、一致を破壊する反対者の力と戦う時、それに対抗して、教会がなすべき一致は、人間の力でなされるものではありません。何か、人間が様々な親しい交わりを深めることによって絆を強めると言うのではないのです。むしろ、聖霊の働きの中で、キリストのもとに一致することが見つめられているのです。「心を合わせて福音のために共に戦っており」と言われています。この「心を合わせて」という言葉は「一つの心で」とも訳すことができる言葉です。つまり、聖霊が働く時に、教会の中に、共に、キリストの福音、救いの恵みにあずかっているという、一つの心が生み出されるのです。そのような一致にしっかり立つとするのであれば、今まで見つめて来た反対者たちとの戦いや、そこで被る苦しみに、脅かされることはなくなるのです。

恵みとして与えられた苦しみ
それにしても、信仰生活が戦いであると言うのであれば、信仰生活なんてまっぴらだと思うかもしれません。少なくとも、そこには、ある苦痛や忍耐が伴うことは確かです。しかし、ここで注意したいことは、「戦い」とか、「苦しみ」と聞いて、自分が救いを得るための修行のようなものとして捉えてはならないと言うことです。福音に相応しく生きるために、自分で努力して苦行をつんでいくと言うのではないのです。パウロは、29節で、次のように語っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。ここで、パウロは苦しみが恵みとして与えられたものであると言うのです。信仰が与えられる時、必ず、苦しみも与えられる。しかし、その苦しみは、恵みとして与えられるものなのです。なぜなら、そこでの苦しみを担って行くことこそ、キリストを証しすることになるからです。キリストご自身、外と内からの苦しみを経験されました。一方でご自身を憎み、殺そうとする人々からの苦しみがありました。しかし、それだけではありません。主イエスの後に従っていながら、その語る言葉を全く理解せずに、むしろ、自分の栄光ばかりを求めていた弟子たちの無理解にも苦しんだと言うことができるでしょう。ですから、今、ここで、教会がパウロの苦しみと同じ苦しみを担うことは、キリストの苦しみを担うことでもあり、それによって、福音の前進に参与することでもあるのです。そのような苦しみの中で戦うことこそ、確かに救いに通じる道なのです。だからこそ、それは恵みとして与えられた苦しみなのです。

自分の業を求める人間の歩みの中で
私たちの肉の思いはいつも、心のどこかで、自分の業による救いを求めてしまうことがあります。そのような時、一方で、自らを誇ろうとする思いに囚われます。又、もう一方では、恥となるようなことはできるだけ避けたいとの思いを抱きます。例えば、ここで見つめられている割礼を求める人々のように、自分が、他人と異なる立派さ救いの確かさをもっていると言うことは、自分にプラスとなるが故に、熱心に求めるようになります。又、パウロのように牢に捕らえられるような人間的に恥となることは、自分にマイナスになるが故に、できるだけ避けたいと思うようになるでしょう。人間が自分の業を主張しようと言う思いがある所では、必ず、人間的に見た時にプラスに考えられることを求め、マイナスにしか思えないことを避けたいとの思いが支配するのです。しかし、そのような態度でいる時、私たちはパウロの喜び、言い替えるのであれば、救いの恵みにあずかった者として、神様に委ねつつ歩む、信仰の喜びに生きる歩みは生まれません。更に、そのような歩みが生み出す、周囲の人々に対する優越感や劣等感、自己に対する誇りや、他人に対する嫉みは、教会の一致を破壊することにつながります。信仰者は、そのような人間の罪の思いの中にあって、教会から離れることなく、常に、苦しみながらも、そのような力と戦うのです。その戦いが、聖霊によって一つの心を抱くことによって戦われるのであれば、必ず、それらの力に対抗することができます。救いにおける全てのことがキリストによって実現している恵みを受けとめつつ、その恵みを受けている隣人の働きや苦しみは、福音のための前進のための働き、苦しみとなり、その働きや苦しみを共に喜び、共に担う者とされます。又、自分に与えられた働きや苦しみも、福音の前進のために与えられたものであることを受けとめ、そのことで自分を誇ったり、逆に卑屈になったりすることはなくなるのです。人間的に見て、プラスと思われることも、マイナスにしか見えないことをも恵みとして与えられたものとして受け入れ、それによって神様の御業が行われていることを喜ぶことができるのです。教会の交わりの中で、確かにキリストを証しする働きのために、即ち、福音が前進するために自らが用いられていることを受け入れる者とされるからです。

世にあって救いを示す群れとして
28節の後半では、「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」。「このこと」即ち、一つの霊によって、一つの心を抱き、福音の前進を妨げる力と戦って行くことは、反対者、つまり、福音の前進を妨げる力の滅びを意味し、信仰の一致を形成する教会の群れにとっては救いを意味するのです。そして「これは神によることです」とあるように、キリスト者が神の導きの中で、真の一致を作り出して行く時に、私たちは共に「福音にふわさしい生活」をし、その歩みによって、この世に福音を証して行く群れとされて行くのです。ここで「生活」と訳されている言葉は、ポリス、政治的な共同体で市民としての義務を遂行するという意味がある言葉です。それは、神の国の市民としての生活と言うことができるでしょう。教会のことを、神の国のコロニー、植民地であると言った神学者がいます。教会は紛れもなく地上に建っています。しかし、地上にあって、神の国の植民地として、神の国の福音を指し示して行くのです。ただキリストの救いに自らを委ね、キリストの下に一つの心となる交わりの中で、共に、どのような苦しみの中でも喜び合う群れとされることを通して、福音を証する群れとされていくのです。

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