主日礼拝

神の子たちを集める

「神の子たちを集める」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第49章1-9節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第11章45-57節
・ 讃美歌; 204、438、393

 
人々の反応
 ヨハネによる福音書第11章には、病のために死んでしまったマルタとマリアの兄弟ラザロが、主イエスによって甦らされるという出来事が記されていました。 この出来事は、ヨハネによる福音書が示す、主イエスのなさった最後のしるしです。しるしというのは、神の権威を示して、人々に主イエスを救い主と信じさせる ためものです。このしるしの集大成として、主イエスはラザロを甦らせて、ご自身が復活であり、死を超えた命を与える救い主であることをお示しになったのです。 本日お読みした11章の46節以下には、このしるしを見た人々の反応が記されています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の 多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」。しるしを見て、多くのユダヤ人たちは 主イエスを信じました。しかし、もう一方で、信じない者もいたのです。この人々は、主イエスを捕らえようとしていた、宗教的指導者であるファリサイ派の人々 に主イエスのことを密告します。ここに示されているのは、神の御業が示される時に人々の間に起こる二つの反応です。主イエスの御業を見て、主イエスを信じる という反応があれば、反対に、主イエスを信じずに敵対するという反応があるのです。私たちは、ともすると偉大な御業を見れば誰しも神を信じるようになると思 うかもしれません。又、神に祈って願いが聞き入れられるとか、病が克服されるということによって神の御力が示されれば、信仰が強まると思うかもしれません。 確かにそういうこともあるでしょう。しかし、どんなに偉大で奇跡的な御業が示されようとも、そこには、必ず、信じるという反応と信じないという反応が起こ るのです。ラザロの甦りを見た人々の反応は、そのことを示しています。

七つのしるしと人々の反応
これまでの箇所で、主イエスは七つのしるしを行い、エルサレムの神殿の境内で人々に教えをお語りになりました。それらを通して、主イエスは、徐々に神の子と しての権威を示して来られたのです。一つ目のしるしをガリラヤのカナの婚礼の席で行われた時、「弟子たちはイエスを信じた」ことが記されています。その後も、 主イエスのしるしが示されていくにつれて、徐々に主イエスを信じる人々が増えていきます。しかし、主イエスを信じる人が増えていく一方で、主イエスに躓く人も 出てきます。6章の60節以下には、主イエスの教えを聞いて、「実にひどい話だ、だれが、こんな話を聞いていられようか」と言う人がいたこと、又、その反応に ついて弟子たちがつぶやいていたことが記されています。そのような中で、主イエスを信じる者と信じない者との間に対立が生じていくのです。又、ある時から、 祭司長や、ファリサイ派と言った人々は、主イエスを捕らえようとするようになります。更に、主イエスに対する殺意が芽生え、主イエスに向かって石で打ち殺 そうとするという事態にまでになるのです。ヨハネによる福音書は、主イエスが神の子としての権威を示して行かれるにつれて、「信じる者」が増えていくのと 同時に、主イエスに対する殺意をも膨らんでくる様を描いて来たのです。そして、主イエスが最後の七つ目のしるし、ラザロが甦らせるという御業を行ったのを 機に、その殺意がはっきりとしたものとなるのです。57節には、次のようにあります。「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出 よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」。イエスに対する逮捕状が出たと言っても良いでしょう。主イエスを殺すために捕らえることが、決定的 なことなったのです。

十字架の言葉の躓き
ユダヤ人たちは、救い主を求め、待望していました。しかし、主イエスが、神の子としての権威を示した時、それを見た人々が、主イエスこそ神の子であり救い主 であると信じたのではありません。主イエスの姿に躓き、主イエスを消し去ろうとしたのです。これは、時代や場所を越えて、この世に生きる者が、神の言葉に触 れる時に起こる素直な反応と言っても良いと思います。現代を生きる者にとっても、同じです。神である方が人となって世に来られ、十字架で殺され、三日目に復 活したという福音、十字架の言葉は、躓きを生むものです。
 今、礼拝に来られている求道中の方の中にも、自分はキリストを救い主として受け入れるのをためらっているという方がおられると思います。聖書の中に記され ている、主イエスが語った教えの中には、励まされるものがある。又、様々な病で苦しむ人や、人々から蔑まれ苦しむ人、社会の中で、片隅に追いやられている人 に目を留め、救いの手を差し伸べる、主イエスの姿には共感する。しかし、主イエスの十字架と復活の出来事はどうも良く分からないという方もおられるかもしれ ません。
 ここで注意をしたいことは、ここで言う「躓き」は、躓きを、感じない人と、感じる人がいて、感じない人は、主イエスを信じるけれども、感じる人は主イエス を信じないというようなものではないということです。この躓きは、人間が誰しももつものです。現在、主イエスを救い主として信じている者も、何の抵抗もなく、 主イエスを信じているのではありません。主イエスを信じ、キリスト者になったら、この躓きから完全に解放されるというのでもありません。誰しも、主イエスの 言葉に躓きを覚え、又、自分が受け入れ易い主イエスの姿に目を向け、そのような救い主の姿に共感しつつ、もう一方で、受け入れがたい主イエスの姿には目を向 けないということがあるのです。
私たちは、この躓きを、主イエスのことをまだ知らない人に福音を伝えようとする時に感じるのではないかと思います。福音が人々にすんなりと受け入れられるの であれば、伝道するのは簡単なことです。しかし、なかなか、伝わりません。そして、困難を覚える中でいつしか、自分で自分の周囲にいるあの人、この人に福音 を伝えようとしても、どうせ信じてもらえないだろうという思いから、福音を伝えることを諦めてしまうのです。又、教会に誘うために声をかけても、快く聞いて 下さる方よりもむしろ、快く思わない方が多い現実を前に、伝道をすることにためらいを感じてしまうこともあると思います。ここには、福音が、信仰を持たない 人にとっては躓きとなることに加え、伝えようとしている者も又、その躓きに支配されていることを表しているとも言えるでしょう。

躓きの中で主イエスを殺す
この躓きの背後には、神の子である主イエスと罪ある私たち人間との隔たりがあると言っても良いでしょう。罪ある人間に神の御心は理解出来ないのです。そして、 この隔たり故に、人々は主イエスを殺そうとするのです。主イエスの神の子としての姿が徐々に示されて行く中で、最初の内は、快く耳を傾け共感しつつも、ある 所で、耳を塞いでしまう。自分が受け入れられない主イエスの姿を自分の心の中から追放してしまうのです。又、主イエスの十字架の福音を伝えようとしても受け 入れてもらえない中で、救い主である主イエスを語ることを止めてしまう。あるいは、伝道者が陥りがちなことかもしれませんが、福音が語ろうとしている中心的 なメッセージを避けて、聞き手が聞きやすく受け入れ易いことを語ろうとする。そのような時に、実は、心の中で、救い主である主イエスを殺しているのです。

聖霊の働き
 私たちが、ここで覚えなくてはならないことは、生来的に主イエスに対して躓きを覚えてしまう人間が、主イエスを信じる者とされるということは、決して人間 の業ではないということです。誰であっても、自分は、決して躓くことも、疑うこともないなどと言える人はいません。そのようなことを言うのであれば、それは、 迷信と言っても良いでしょう。信仰を自分の業としてしまっていて、かえって福音から遠ざかっていると言っても良いかもしれません。私たちは、そもそも、神様 を疑い、神様に敵対して立っていながら、様々な出来事や、きっかけによって導かれ、整えられて、神様に対する信仰が与えられるのです。神様を疑いつつ歩んで きた自らの歩みを振り返り、あの時のあの出来事が、実は、神様が私を信仰にいたらせようとして整えて下さった出来事だったのだと悟ることもあるのです。私た ちは、躓きを抱きつつも、主なる神によって整えられ、キリストを信じる信仰が与えられる時に、私たちはイエスを主と告白するのです。つまり、主なる神が、私 たちに働きかけて下さり、私たちを信じる者として下さっているのです。そして、この働きこそが聖霊の働きなのです。私たちにとって、「信じる」ということは、 自分の業ではありません。それは聖霊なる神による業なのです。ですから、私たちは絶えず聖霊の働きを求める祈りを捧げるのです。聖霊の働きを祈り求めつつ、 礼拝を捧げ、伝道のために仕えるのです。

人間の思い
 47節以下には、主イエスを殺すために捕らえようという決断が、最高法院において決定された時のことが記されています。祭司長たちとファリサイ派の人々は 最高法院を召集します。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、 われわれの神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。当時、ユダヤはローマ帝国の保護のもとに一定の自治を認められていました。その首長が祭司長や、大祭司であ り、その下に最高法院があったのです。祭司長やファリサイ派の人々は、人々が主イエスを信じるようになり、主イエスを、政治的解放をもたらすメシアとして人 々が担ぎ上げ、ローマに対する反逆を企てるのではないかと考えたのです。そして、騒ぎが起こり、その結果、ローマ人によって神殿も国民も滅ぼされ、属州とさ れてしまうことを恐れたのです。最高法院での、ファリサイ派の人々の言葉を聞いた、大祭司カイアファは次のように語ります。「あなたがたは何も分かっていな い。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。主イエス一人を殺すことによって、神殿も民も 救われるのだから、これ程好都合なことはないではないかと主張したのです。大祭司というのは、年に一度、神殿の至聖所で神に犠牲を捧げる人で、宗教的権威者 です。ここには、宗教的な権威が下した主イエス殺害の正当性の理由が記されていると言っても良いでしょう。ここで、主イエスの行う御業や、主イエスの教えの 問題性が主張されたのではありません。一人を殺すことによって、神殿と国民を守ることが出来るという打算的な判断で決断が下されたのです。真に人間的な発想 によって発せられた言葉によって、主イエス殺害が決められたのです。人間が宗教的な権威を振りかざす時、その背後にあるのは、人間的な思いであることが多い のです。この世は、宗教的権威という衣をまとった、人間の自分勝手な思いと自己保身によって、意図も簡単に真の神の子の命を奪い去ろうとするのです。

土地と国民
 ここで、カイアファが守ろうとした「神殿」という言葉は、口語訳聖書においては「土地」と訳されていました。元々の言葉は「場所」という意味の言葉です。 この土地というのは、エルサレム神殿を指しているのですが、そこで、特に「土地」という具体的場所に思いが向けられているのです。当時の人々にとって、神殿 は、この地上に神が臨在される場所でした。それ故、エルサレムの神殿という場所を占有していることは、神がこの民と共に住んで下さることのしるしなのです。 この土地があることこそ、神の民であるイスラエルのアイデンティティーも保たれると考えられていたのです。イスラエルの民、とエルサレム神殿は、密接に結び ついているのです。ですから、宗教的権威者たちは、神殿と国民とが共に滅ぼされてしまうことを何よりも心配したのです。
 神殿というのは、神が臨まれる場所として建設された場所です。しかし、このヨハネによる福音書の文脈においては別の意味があります。神が宿る具体的な場所 として地上に建てられた神殿というのは、人間が神の居場所を特定し、神を世に隷属させようとすることの象徴とも捉えられるのです。人間が、神が臨在する場所 を特定しようとする時、その背後には、必ず、真の神の自由を奪い、この地上に神を拘束して、自分たちが神の主人なる態度が生まれます。神殿は、人間が、真の 神に逆らって、自分の理想の神を祭り上げようとする人間の宗教のための場所であったのです。ファリサイ派の人々、祭司長や律法学者、大祭司カイアファが神殿 を守ることによって、守ろうとしたものとは、そのような真の神の御心に反抗して立つ人間の思いであり、真の神と異なる偶像を造り上げるための場所だったので す。ですから、民と神殿を守ろうとして、カイアファがとった行動は、真の神を排除し人間の宗教的自我とでも言うべきものを守るための行動であったと言っても 良いのです。私たちも、又、自分の心の中に、このような場所をもっているのではないでしょうか。そして、そこから、主イエスを排除しようとするのです。その ような時、私たちは心の中に小さな神殿を建て、その神殿を守るために、主イエスを殺そうとしているのです。

カイアファの預言
 カイアファは人間の打算的な考えから、自分たちを守るために、主イエス殺害を主張しました。しかし、ヨハネによる福音書は、この人間の思いから発せられた 言葉について、全く異なる解説を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民 のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。カイアファが、人間 的な思いから語った言葉について「自分の考えから話したのではない」と語られています。神様の御心がカイアファを用いて語られたというのです。神は、ご自身 に反対して立つ者の言葉も用いて御心を示されているのです。つまり、神に敵対する人間の態度も又、神の御支配の中にあるのです。カイアファの人間的な思いを 語る言葉は、主イエスの十字架を預言する言葉として、「イエスが国民のために死ぬ」という救いの御業を語っているのです。
 ここには、神に反抗しようとする人間の思いと、そのような人間を救おうとする神の御意志との関係が示されています。神の救いの御意志は、神に反抗する人間 の思いをも包み込んでいるのです。そして、この関係は、この預言の成就した十字架においても明らかに示されています。この後、カイアファが行った決定によっ て主イエスは十字架につけられます。しかし、この十字架は、もう一方で、人々を救う神の救いの御業なのです。主イエスの殺害は、人間が自らの思いに従って行 った、犯罪人の死刑です。しかし、それは、同時に、神のご計画であり、神の子主イエスが、すべての人が罪のために死ぬべき死を変わって死なれた救いの出来事 であるのです。主イエスに躓き、神に徹底的に反抗して立とうとする人間が、自分の思いのために真の神の子を殺してしまうところにおいて、神の人間を救おうと する御心が実現しているのです。主イエスが神の子としての権威を示せば示すほど、人々の拒絶が強くなる。しかし、主イエスに対する憎しみが極まり、人間の神 に対する躓きが、神の子を殺害するという形となる時に、人間の救いが実現しているのです。神は、人間の反抗を用いて、救いの御業を行われているのです。ここ には、世にあって罪に支配された人間が真の神と共にあり、救いにあずかるための唯一の道が示されているのです。

集められた群れとしての教会
 ここで、福音書は、更に付け加えて、主イエスの死の意味をも語っていることにも注目したいと思います。「散らされている神の子たちを一つに集めるため」と 言われます。主イエスが民の代わりに死ぬのは、神の子たちを集めるためであるというのです。ここで言われているのは、神殿のような空間的な一つの場所に人々 が集められるということではありません。ここで主イエスの十字架によって神の子たちが集められるとはどういうことでしょうか。それは、神の言葉に躓き、自分 の思いに従って歩んでいる人々が、十字架の前で、真の救いを知らされ、自らを悔い改めるということにおいて一致するということです。人々は、主イエスの十字 架と復活の前で、自分自身も死ぬということにおいて一致するのです。
 そして、この「一つに集める」働きをするのも聖霊の働きです。先ほど、私たちに信仰が与えられるのは聖霊の働きであると語りました。聖霊によって信仰が 与えられる時何が起こるのでしょうか。先ず何より、主イエスの十字架の死と復活が示されることによって、神に敵対して歩もうとする人間の罪が、既に滅ぼさ れていることを知らされます。神に躓き、反抗して立とうとする者を救うために、神が人々の反抗よりももっと強い力で、救いの御意志を成し遂げて下さってい ることを示されるのです。そして、自らの罪が滅ぼされていると知らされる中で、同時に、自らが、自分の建てる神殿を守るために、絶えず神に反抗している者 であったということをも知らされるのです。そして、十字架の前で、自らを悔い改め、キリストの救いに生き始めるところにこそ、本当の一致が生まれるのです。

一つに集められるために
 聖霊の中で御言葉に触れるたびに、私たち自身が、神の子である主イエスを殺してしまう者の一人であることを知らされます。しかし、神に反抗して立っている 私たちが、尚、神の子とされているという恵の中で、自らの思いが砕かれる時に、人々が一つとされるのです。私たちが自分たちの理想の救い主を追い求め、神殿 を守ろうとしている所では、本当の一致は生まれないでしょう。そこでは、様々な宗教による対立が生まれるのです。そこに真の救いはありません。
この時、大祭司やファリサイ派の人々が守ろうとした神殿は、この後、紀元70年にローマによって滅ぼされてしまいます。しかし、一方で、人間の思いや宗教的 権威の身勝手な判断の犠牲になったかに見える主イエス・キリストは今でも生き続けています。十字架によって救いを成し遂げられた主イエスの下に、神の子たち が集められ続けているのです。教会は、人間が自分の宗教的な理想を守るために建てる神殿とは異なります。神の救いのご計画の成就として、神が集めて下さって いるものなのです。自分の思いに留まり、神殿を守ろうとすることによってではなく、聖霊の働きの中で、主イエスの十字架の下に集められることによって、私た ちは、神の民とされ、キリストのもとに一つとされるのです。聖霊の働きに委ねつつ、主イエスの十字架の下に集められることによって教会を建てて行くものとさ れたいと思います。

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