夕礼拝

憐れみを求め続けて

「憐れみを求め続けて」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第29章10-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章46-52節
・ 讃美歌 ; 22、441

 
エリコの盲人バルティマイ
主イエスの一行はガリラヤを離れて、エルサレムに向かって歩み出しました。すぐ後に続く11章には、主イエスがエルサレムに入られたことが記されています。46節には次のようにあります。「イエスがエリコを出ようとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」。エリコという町はエルサレムの北東に位置する町で、エルサレムに上る時、最後に通る町です。主イエスはエリコを通って、いよいよご自身が十字架につけられるエルサレムに入るのです。そのエリコの町に、バルティマイという盲人がいたのです。この時代、盲人は、目が見えないということだけで、神の恵みから外された者として、エルサレムの神殿の礼拝から排除され(サムエル記下5:8)人々から蔑まれていました。バルティマイは、好き好んで物乞いをしていたのではありません。町の門のかたわらで、毎日、座り込み、町に出入りする人から施しを受けなければ生きて行くことができなかったのです。エリコは祭司の町です。それだけに律法の清めに関する規定が、他のどんなイスラエルの町よりも、厳格に守られていたことでしょう。バルティマイは、盲人というだけで罪人と蔑まれ、友もなく、話し相手もなく、やさしくいたわってくれる人を見いだすことはできなかったことでしょう。皆から見捨てられるようにして土ぼこり舞う、路上に座り、物乞いを続ける日々は、どんなに寂しく、空しく、つらいことであったでしょうか。彼はきっと、深い孤独のうちに生きていたにちがいないのです。
この時、エリコの町の人々は、過越の祭りの準備に追われ、活気と喜びに満ちていました。しかし、バルティマイは、一人それとは無縁の生活をせざるをえなかったのです。人々にとっては喜びの時であるはずの祭りの時も、彼にとってはむしろ自分の運命の悲惨と孤独を思い知らされる時以外のなにものでもありませんでした。それだけに、どんなにエルサレムの神殿にもうで、神の憐れみを乞い願いたかったことでしょうか。けれども、それは彼にはかなわぬ夢でした。彼を取り巻いていたのは、目が見えないという身体的な苦しみだけではありませんでした。まさに、彼は、神からも人からも、見捨てられたかのように、暗闇に取り残されるようにして、雑踏のなかで孤独を噛み締めながら、道端に座っていたのです。彼は「光が欲しい。目が見えるようになりたい」と願っていたのです。

主イエスの訪れ
そのような彼が、主イエスがエリコにこられた時、「ナザレのイエス」という名前を聞くのです。おそらく彼は、主イエスのことを聞いていたのでしょう。主イエスの噂はエリコにも届いていたはずです。マルコによる福音書は、既に、少し前の箇所で主イエスが盲人の目をお開きになったことを記しています。第8章の22節~26節に記されています。主イエスは、ベトサイダという町に来た時に、人々が連れてきた盲人に手を置いて目を見えるようにされたのです。「ガリラヤでは、イエスという人が、数々の奇跡的な業を行っているらしい。目の見えない人の目をお開きになったこともあるらしい」。そんな噂を耳にするたびに、バルティマイは自分もナザレのイエスという人にお会いしたい。この方なら、必ず自分を闇から救ってくれるに違いないという思いを抱いていたのです。
しかし、バルティマイは、自分から、ガリラヤに行くことも出来なければ、主イエスを探すことも出来ませんでした。ところが、この時、エリコの町に、主イエスが来ていて、今、町を出ようとしているということが伝わってくるのです。主イエスの一行がどれくらいの人数の集団であったかは定かではありません。しかし、彼は、ガリラヤから旅をして来た主イエスを先頭にした大勢の人々が、今エルサレムに向かうために自分が座っている側を進んで行く気配を感じるのです。明らかに普段とは異なる人々の気配です。彼はきっと、周りの人々が「イエス様だ、イエス様だ」と、口々に叫びながら、通り過ぎるざわめきを聞きつけたのでしょう。彼は、千載一遇のチャンスが巡ってきた、この時を逃したらもう救われるチャンスはないと思ったことでしょう。
しかし、彼は目が見えません。人々の言葉を聞き、大勢の人が道を歩いている気配は感じても、果たして本当にナザレのイエスがこの村に来られたのか確かめることが出来ません。更に、そのナザレのイエスが、今自分の前を通過しようとして向かってくる集団の中におられるのかどうかを知ることは出来ないのです。目が見えない闇の中で、彼がしたことは、大声で叫ぶということです。主イエスが自分の側におられるのかどうかわからないにもかかわらず、そこにおられることを信じて、声を張り上げるのです。彼は、狂ったように大声を張り上げて、叫んでいたのでしょう。周囲の人々は、彼を叱りつけ黙らせようとします。しかし、彼は、叫ぶことを止めずに叫び続けるのです。闇の中で、救いを求めて叫ぶとは、このようなものなのかもしれません。バルティマイは、主イエスに癒していただかなければ、もう自分が救われることはないとの思いを抱きつつ。側におられるのかも定かではない、主イエスに信頼して、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けるのです。彼は、ここで、主イエスを「ダビデの子」と呼んでいます。旧約聖書には、ダビデ王の子孫から救い主が生まれると預言されています。主イエスをダビデの子と呼んだのは、彼が主イエスを救い主として受け入れていたからです。

あの男を呼んできなさい
 主イエスはこの叫び声を聞き、立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と言われます。主イエスは、憐れみを求めて叫び続けるバルティマイの叫びを聞かれるのです。人々は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言われます。
彼は、「安心しなさい」と言う言葉を聞きます。この時、バルティマイは不安の中にありました。彼は、自分を救ってくれるのは主イエスしかいないと信じていました。自分が抱くことが出来る唯一の希望である主イエスが今、町の外に出ようとしている。今、この時を逃したら、もう自分は救われる機会がないという、最後の望みにかける思いで叫び続けたのです。しかし、救いを求めて叫び声を上げる彼の心の中にあったのは、主イエスにすがる思いと同時に、主イエスほどの方が、本当に自分に目を留めて下さるのかという思いではないでしょうか。彼が叫びだした時、人々は彼が救いを求めて叫ぶのを止めさせようようとしました。「お前のような者の願いで、イエス様を煩わせるな」という人間的な思いが働いていたのだと思います。そのような人々の制止の声は、バルティマイの心の中にある、不安をかき立てたことでしょう。彼は、何の戸惑いも恐れもなく叫び続けたのではありません。救いを求める叫びの背後で、不安に支配されていたのです。主イエスに最後の望みをかけて、ひたすらに求める思いと、求めれば求めるほど、主イエスは、自分のような闇の中で座っているだけの者に目を留められるのかという思いも膨らんでいくのです。この時のバルティマイの思いは、先ほど讃美した、讃美歌22番に歌われています。

深き悩みより われはみ名を呼ぶ。
主よ、この叫びを 聞き取りたまえや。
されど、わが罪は きよきみこころに
いかで耐え得べき

この不安は、罪人である人間が、神に救いを求める時に感じる、不安であると言っても良いでしょう。自分の罪は、この方によってしか救われない、しかし、その罪の故に、果たして、神は自分に救いを与えて下さるのだろうかという思いに支配されるのです。自分の罪深さを知らされれば知らされる程、神の救いを求める思いが強くなる。しかし、同時に、この罪のために、神は私に救いの手を差し伸べて下さらないのではとの思いも強くなるのです。そこには、神は、この私を見捨ててしまうのではないか。そのことによって最後の希望が途絶えてしまうのではないかという根本的な不安があるのです。彼は、救いを求める熱意と、罪故に神に受け入れられないのではないかという思いがせめぎ合う中で、恐れつつ叫び続けていたのです。
さらに、彼が聞いたのは、「立ちなさい。お呼びだ」という言葉です。主イエスは、人々に「あの男を呼んできなさい」と言われたのです。福音書が記す、他の救いの出来事がそうであるように、主イエスご自身が、救いを求める人の下に歩みよって行ったのではありません。又、周囲の人々が彼を抱えて主イエスの下に連れて行ったのではありません。主イエスは、人々に彼を呼ばせたのです。それは、彼に立ち上がらせるためです。闇の中で、道端に座り込むことしか出来なかった彼を、立ち上がらせ、呼びかけに答えて、主イエスのもとに歩み出させるためです。主の呼びかけは、常に、人々を立ち上がらせようとするのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」、この言葉は、闇の中で不安を抱きながら叫び続けることしか出来ないバルティマイを救う、慰めに満ちた呼びかけなのです。
この言葉を聞き、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」のです。上着というのは、マントのようなもので、ただ身を覆うだけでなく、道端に座る時に敷いていたものだとも言われています。その裾を伸ばして広げ、人々が、その上にお金を落として行くのを、上着をたぐり寄せるようにしてかき集めたとも言われています。ここで、彼が上着を脱ぎ捨てたというのは、これまでの彼の生活を彼が捨て去ったことを意味しています。彼は、新しくされて、立ち上がり、喜びながら、主イエスの下に来たのです。

何をしてほしいのか
 主イエスは、「何をしてほしいのか」と問いかけられます。「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えたバルティマイに対し主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。彼は、ただ、自分の目が見えることを願いました。それに対して主イエスは、バルティマイに、「あなたの信仰」と言われます。バルティマイは、これまで、ガリラヤを歩まれる主イエスに従って歩んできたのではありません。主イエスについて多くの知識を持っていたのでもありません。ただ、闇の苦しみの中で、不安を抱きながらも主イエスの憐れみを求めて叫び続け、呼びかけに答えて、立ち上がり、主イエスに歩み寄ったのです。そして、自分の目が開かれることを求めたのです。主イエスは、そこに「信仰」を見て下さり、それ故に救いを宣言して下さるのです。
マルコによる福音書は8章で既に盲人の癒しを記したと申しました。この8章の盲人の癒しと、11章のバルティマイの癒しに挟まれるようにして記されているのは、主イエスの三度にわたる、十字架と復活の予告と、それに対する弟子たちの反応です。主イエスが、一度目に予告された時、弟子のペトロは主イエスを脇へお連れしていさめ始めました。そこで予告された、主イエスの姿が、自分が思い描いていたものとは違っていたからです。二度目に予告された時、主イエスの弟子たちは自分たちの内誰が一番偉いかを議論していました。そして、三度目に予告された時、ヤコブとヨハネは、主イエスが栄光を受ける時に、自分たちの内の一人を右に、もう一人を左に座らせてほしいと願い出たのでした。皆、信仰の道を歩みながら、そこで求めているのは、自分の理想の救い主であり、自分が偉くなることであり、自分が栄光を受けることであったのです。
先週お読みした、直前の箇所が、丁度、主イエスが三度目に十字架と復活を予告され、弟子のヤコブとヨハネが主イエスに自分たちの願いをかなえてほしいと願い出た場面です。10章の36節には、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言ったヤコブとヨハネに対して、主イエスが、「何をしてほしいのか」とおっしゃいます。主イエスは、ヤコブとヨハネ、そして道端に座っていた、盲人バルティマイに対して、全く同じ質問をしているのです。「何をしてほしいのか」。この時、主イエスの弟子として、主イエスと歩みを共にしてきたヤコブとヨハネが願ったことは、自分たちが栄光を受けるということでした。主イエスにずっと従ってきて、自分たちは、救いに至る道が見えている、信仰に生きているというおごり高ぶりから出た願いです。つまり、ヤコブとヨハネもまた、主イエスのことが本当には見えていなかったのです。だから彼等もこう答えるべきだったのです。「主よ、あなたは三度もご自分の十字架と復活について語られました。しかし、私たちにはそのお言葉の意味がよく分かりません。どうぞ、あなたの御心を分からせてください。あなたをハッキリとみることができる眼差しを与えてください」と。
ヤコブとヨハネが自らの栄光を願い求めたのに対して、バルティマイは、この問いかけに、単純に「目が見えるようになりたいのです」と言うのです。救いに至る道を見いだせず、自らの闇に苦しんでいたからこそ、目が開かれることを願ったのです。主イエスは、このバルティマイの願いをこそ、「信仰」と呼ばれるのです。信仰というのは、不安の中にあっても、にもかかわらず憐れみを求めて、ひたすらに叫び続けることなのです。

信仰に生きる
このバルティマイの目が開かれるという記述で、特徴的なことがあります。それは、主イエスが目を開くための動作が一切記されていないということです。8章での盲人の癒しと比較すると明らかです。8章において、人々が盲人に触れていただきたいと願ったのに対し、主イエスは、盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれたのです。そして、「何が見えるか」と確認された後、もう一度両手をその人の目に手を当てられたのです。そうすることによって、この人の目が開かれたのです。ここでは、盲人の肉体の目が徐々に開かれていく様が詳細に描かれています。しかし、このバルティマイの目が開かれる記述においては、「何をしてほしいのか」との問いかけに「目が見えるようになりたいのです」と言ったバルティマイに、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とおっしゃるだけなのです。つまり、ここで福音書記者は、バルティマイが信仰によって主イエスの救いを与えられるということを描いているのです。
バルティマイは、すぐに見えるようになります。しかし、主イエスの言葉通り、自分の行きたい道を歩み出したのではありません。「なお道を進まれる主イエスに従った」とあります。主イエスによって目を開かれた彼は、道を進まれる主イエスに従ったのです。道端に座っているだけであった彼は、主イエスの後に従って、即ち主イエスの背を見つめて、主イエスの道を歩む者とされたのです。この箇所が見つめていることは、闇の中で道端に座っていただけのバルティマイが、主イエスの呼びかけに従って、立ち上がり、主イエスの下に歩みよったこと。そして、主イエスの後に従ったということなのです。ここで「盲人」というのは、罪による闇の中で、真の救い主である主イエスを見いだせないでいる状態を意味しています。そして、「目が開かれる」というのは、憐れみを求め続ける中で、主イエスの招きに答えて、目を開かれた者として主イエスの後に従うことなのです。

十字架主の証し人として
道を進まれる主イエスに従ったバルティマイは、この後、主イエスと共にエルサレムへと進んでいきます。彼がそこで目にするものは、十字架の上で苦しまれる、主イエスのお姿です。十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれる主イエスの姿です。人間の罪を負われ、神から見捨てられるという苦しみを経験される主イエスの姿、そこで、人間の闇の苦しみを担われる主イエスを見るのです。そして、ただ、主イエスの苦しみを見ただけでなく、三日目に復活する主イエスにも出会ったことでしょう。彼は、開かれた信仰の目によって、主イエスが自らの闇を担い、そこから救い出して下さる方であることをはっきりと目の当たりにしたのです。そして、この救い主である主を語り伝えたに違いありません。
この盲人の癒しの記述において、ティマイの子でバルティマイという名前であることがはっきりと聖書に記されています。それは、この人が、マルコによる福音書を記した教会の人々に知られていたことを意味しています。おそらく教会でも中心的な働きをしていたのでしょう。彼は、キリストの教会が建てられて行く中で、十字架と復活の主イエスを力強く証ししていたのです。彼は、教会に仕えることによって。主イエスの道を歩き続けたのです。

バルティマイに続いて
私たちは、この世を歩む中で、バルティマイのように、上着をしいて道端に座り込んでしまう者です。実にしばしば、信仰の目が閉ざされてしまっている闇の中で、主イエスを見いだせず、主イエスの道からそれています。しかし、そのような中で、バルティマイのように、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けるのです。罪という闇の中で、自分は見捨てられているのではないかとの不安を抱きつつも憐れみを求め続けるのです。そのような者を、私たちのために十字架につき、神から見捨てられる苦しみを引き受けて下さった主イエスが、闇の中から呼び出して下さるのです。私たちは、礼拝において、繰り返し、バルティマイと同じ呼びかけを聞くのです。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ」。そして、この呼びかけに答えて、主の下に歩み出し、自らの目が開かれることを求める時、私たちの信仰の目は開かれ、主イエスに従って救いの道を歩む者となるのです。 
本日、主日礼拝において教会創立133周年の礼拝を守りました。教会の歴史、それは、バルティマイのように、自らの罪からの救いを求めて叫び続けた人々の歴史です。そして、呼びかけられる主イエスの前に進み出て、主イエスの道を歩み続けた人々の歴史です。そのような人々によって、教会が今日まで建てられて来たのです。私たちは、その教会の歴史の流れの中で、主の招きに答えるのです。指路教会の先輩達、初代教会から始まる、この地で、主にある教会に連なり、主イエスの後を歩んだ大勢の人々、そして、暗闇の中から立ち上がったバルティマイと共に、立ち上がって、主イエスの前に進み、主イエスの後に続いて、主イエスの道を歩んで行くのです。

関連記事

TOP