夕礼拝

死に備える

「死に備える」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第23章1-20節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章50―58節
・ 讃美歌 ; 329、462
 

信仰の父アブラハム
 「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの生涯は、先月読んだ創世記第22章においてクライマックスに達しました。ここでアブラハムは、神様から、たった一人の子イサクを、焼き尽くす捧げ物として捧げよ、という命令を受けたのです。それは彼の人生における、そして信仰の歩みにおける最大の試練でした。彼が創世記12章で、75歳にして、行く先を知らずに旅立ったのは、彼の子孫を大いなる国民とし、彼らを通して地上の全ての人々を祝福する、という神様の約束によってでした。その約束の実現は、百歳にしてようやく与えられたただ一人の子イサクにかかっていたのです。そのイサクを、神様ご自身が奪おうとなさったのです。ですからこれは、一人息子を奪われるという耐え難い苦しみであるのみでなく、それまで信じて歩んできた神様の祝福の約束そのものが、神様ご自身によって否定されてしまうという試練だったのです。しかし彼はその試練に打ち勝ち、より深い信仰を得ました。この試練を通して彼が得た信仰は、私たちが通常「信仰」あるいは「信心深い」という言葉で思い描いていることとは質の違うものだと言わなければならないでしょう。信仰とは、神様の恵みを信じることであるわけですが、私たちはしばしば、その恵みの内容を自分で考え、神様の恵みがあるならこうなるはずだ、と自分で思い描いてしまうのです。そしてその思いの通りになっていけば、「やっぱり神様は思った通り恵み深い方だ」と感謝し、自分は神様を信じている信心深い人間であるような気になるし、逆に思いの通りにならないと、「神様の恵みなどないではないか、神様なんて本当にいるのか」という疑いに陥るのです。しかしアブラハムがこの試練において体験したのは、神様ご自身が示して下さっていたはずの恵みの約束が、当の神様によって否定されてしまうということでした。その試練の中でなお神様の前に立ち続けたことによって、彼の信仰は全く新しい次元へと飛躍したのです。それは、自分の思いや願いや期待を全く超えた仕方で、神様ご自身が、恵みの約束を成し遂げて下さることを信じたということです。具体的には、ただ一人の子イサクを自らの手でいけにえとして捧げよという、人間の思いからすれば神様の恵みの否定であり約束の破棄に他ならない命令を通して、なお神様が恵みの約束を実現して下さることを信じたのです。そのアブラハムの信仰を、新約聖書へブライ人への手紙第11章19節はこのように言い表しています。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。アブラハムがこの試練の中で得た信仰は、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる」という信仰、つまり死者の復活の信仰だったのです。彼は、神様の恵みの約束が、肉体の死を超えて、私たちの思いや常識をはるかに超えた仕方で実現することを信じたのです。復活を信じるとはそういうことです。復活の信仰は、一旦死んだ人がもう一度生き返ることが起こり得るかどうか、と考えていく中で得られるものではありません。そのようなことを考えているうちは、復活はいつまでたっても分からないのです。アブラハムは、人生最大の試練を通して、主なる神様が死の力をも乗り越えて恵みの約束を実現して下さることを信じたのです。この復活の信仰によって彼は、「信仰の父」となったのです。それが、22章における彼の人生のクライマックスでした。

愛する者の死
 このクライマックスを過ぎて、彼の人生はいよいよ終わりへと、つまり死へと向かって歩み始めます。それが、本日ご一緒に読む第23章です。ここでアブラハムは、自分の人生の終わり、死を迎える前に、愛する妻サラの死を経験します。サラは、旅立ち以来、神様の祝福の約束を信じて共に歩んできた彼の半身です。これまでの彼の信仰の歩みの全てをサラは共にしてきたのです。そこにはいろいろな失敗もありましたが、それもみな、彼とサラとが共に犯してきた失敗でした。その結果としての苦しみも、彼らは共に味わってきたのです。そのサラが死にました。2節に「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」とあります。淡々とした記述ですが、アブラハムの嘆き、悲しみの深さを想像することができます。愛する者の死の悲しみは、これも信仰における一つの試練です。この試練を通しても、私たちの信仰は深められていきます。愛する者の死の現実をしっかりと受け止め、全ての者の命の導き手であられる神様のみ心とみ業とを畏れをもって受け止めつつ、神様のみ前に生きることによって、私たちの信仰は、自分自身の死を見つめ、その備えをしていく信仰へと深められるのです。アブラハムもそうだったに違いありません。妻サラの死を通して、彼の信仰の歩みは今や、死への備えの時に入ったのです。

旅人、寄留者として
 さて、サラの死によって一つの差し迫った課題が生じました。サラの遺体を葬る墓をどうするか、という課題です。それが課題になるのは、アブラハムはこの地においてまだ一坪の土地も、自分のものとして持ってはいなかったからです。4節で「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが」と言っているように、アブラハムはこの地で「一時滞在者、寄留者」なのです。事実彼は22章19節ではベエル・シェバに住んでいましたが、サラが死んだのは本日の2節にあるようにヘブロンです。このように彼は、この地をあちこち移動しながら、旅人、寄留者として生きているのです。  この旅人、寄留者としての歩みというのは、聖書の教える信仰に生きる者の基本的な姿を言い表しています。信仰者は、その本質において旅人、寄留者です。信仰の父アブラハムがそうだったように、私たちも、故郷を離れて旅立つことによって信仰者となるのです。それは、信仰者は生まれ育った土地を去らなければならない、ということではありません。たとえ生まれてから死ぬまでずっと一つの地に住んでいるとしても、信仰者となることによって私たちは、地上においては旅人、寄留者となるのです。つまり地上のどこかに故郷を持つ者ではなくなり、天の神様のもとにあるまことの故郷を目指して旅する者となるのです。聖書が、信仰の父アブラハムの生涯を、75歳の旅立ちから語り始め、旅人、寄留者としての歩みを描いていることにはそのような意味があるのです。
 さてそのように寄留者として生きているアブラハムが、今、墓を得ようとしています。妻サラを葬り、行く行くは自分も、また子孫たちも葬られる場所を得ようとしているのです。これは大変大きな意味を持つことです。ある場所に墓を持つことと、旅人、寄留者として生きることとの間には緊張関係があるからです。アブラハムはこのヘブロンに墓を持つことによって、旅人、寄留者であることをやめようとしているのでしょうか。いよいよ人生の終わりを意識して、そろそろここらで旅人であることをやめて、腰を落ち着けてこの地の人になろうとしたのでしょうか。そうではありません。23章を丁寧に読んでいくなら、アブラハムがここで、あくまでも寄留者としての歩みを貫こうとしていることが分かるのです。そのことを見ていきたいと思います。

墓を得る
 4節でアブラハムが、妻を葬るための墓地を譲って欲しいと申し出たことに対して、その地の人々、ヘトの人々は6節でこのような提案をしています。「御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません」。これは、アブラハムに対する尊敬を込めた大変好意的な提案であるように見えます。しかしそこには、ヘトの人々の一つの主張が見えるのです。それは「わたしどもの最も良い墓地を選んで」という言葉に現れています。つまり彼らはアブラハムに、サラを自分たちの墓地に埋葬することを提案しているのです。それは、この地の住民であるヘトの人々の墓の一角に、サラも、そして将来はアブラハム自身も、また子孫たちも入りなさいということであり、つまりはアブラハムとその一族に、旅人、寄留者であることをやめて、この土地の人になりなさい、ということなのです。
 この提案に対してアブラハムは、彼らに感謝しながらも、彼らの墓とは違う、独自の墓を得たいと言っています。それが7~9節です。「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし、頼んだ。『もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください』」。この願いによって彼は、あくまでも旅人、寄留者であり続けながら、この地に墓を得ようとしているのです。しかも彼は、十分な代金を支払って、自分の正当な所有地として、マクペラの洞穴を得ようとしています。そのための、土地の所有者エフロンとの交渉の様子が10節以下に詳しく語られています。エフロンは11節でアブラハムに、彼の言う畑も、そこにある洞穴も、差し上げると言いました。アブラハムはその申し出に対して、12節で感謝の印として挨拶をしますが、しかし13節では、人々が聞いているところでエフロンに、その代金を払わせてくださいと願い出ます。それに対するエフロンの答えは微妙な言い回しになっています。15節「御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください」。「それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう」というのは、「私とあなたの仲ではないか。水くさいことを言いなさんな」という意味です。しかしそう言いつつ彼は土地の値段を言っているのです。それに対してアブラハムは直ちに、その言い値を支払いました。このようにしてアブラハムはこのマクペラの畑と洞穴を正式に自分の所有地とし、そこに妻サラを葬ったのです。この一連の交渉から分かるのは、アブラハムが、この寄留の地において、その地の住民である異国の人々の間で、まことに慎重に、礼を尽くして、また後でもめ事にならないように証人の見ている前で、正当な手続きを踏んで事を行っていることです。このアブラハムの姿に、この世を旅人、寄留者として生きる信仰者の倣うべき模範があると言うことができるでしょう。アブラハムは、神様の約束のみ言葉を受けて、天の故郷を目指して歩んでいる旅人です。神様と共に生きている信仰者です。彼はそのことを決して放棄しません。しかしその旅人、寄留者としての信仰の歩みにおいて彼は、地上の隣人たちとの関係をも決してないがしろにはしないのです。周到に、礼を尽くし、正当な手続きを踏んで、彼らと平和な関係を築く努力をしつつ、妻を葬るという人間としての義務を果しているのです。信仰者はこの地上において、二つの世界を同時に生きていると言うことができます。神様との関係における霊の世界と、この世の社会生活、人間関係における肉の世界です。信仰者といえども、霊の世界だけを生きることはできません。また、日曜日は霊の世界を、週日は肉の世界を生きる、という使い分けもできません。常にこの二つの世界の緊張の中で、片方のみに埋没してもう片方をないがしろにしてしまうことなく、いずれに対しても誠実に生きることが、旅人、寄留者としての信仰者の姿なのです。

責任ある生き方
 森有正というキリスト者である哲学者が、アブラハムの生涯をテーマに語った講演集である『アブラハムの生涯』という本があります。その中の、この23章についての講演にこのように語られています。「この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。私はこの二つを結びつけて支えることを『責任』と呼びます。それ以外に呼びようがない。責任ということは何だ、いろいろなことを皆言いますけれども、根本は霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかりと握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。神に対して責任を持つ、人に対して責任を持つ、それは具体的にはどういうことですか。それは私どもの中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うすることでしょう。それ以外に責任という言葉はどこにも使いようがないでしょう。それはたとえどんな小さな責任でも本質は同じことです」。
 信仰の父アブラハムが到達した究極の姿がここに見つめられています。彼は、本当に責任を負って生きる者となったのです。森有正氏が言っているように、本当に責任をもって生きるとは、霊の世界と肉の世界、つまり神様の恵みの約束を信じる信仰と、この世における様々な社会的関係、そこでの任務、役割などを、自らの中でしっかりと結びつけ、それらを二つながら保ち続けていくことです。片方の世界のみで責任を果すだけでは、本当に責任ある生き方とは言えません。肉の生活、社会生活において、どんなに責任ある生き方をしているように見えても、霊の生活、神様との関係がいいかげんなら、その人の意識する責任は結局目に見えること、人が見ていることにしか及ばないでしょう。本当に責任ある生き方とは、誰も見ていない所で、つまり神様のまなざしの前で、どう生きるかにかかっているのです。また逆に、神様との関係つまり信仰を持っているように見えても、この世における社会生活、人間関係において無責任な生き方をしているなら、その信仰は生活と結びついていないのであって、それは信仰そのものにも問題があるのです。これらはいずれも、本当に責任ある生き方ではありません。本当に責任ある生き方は、自分の中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うしていく所にこそ生まれるのです。アブラハムはここでまさにそのように歩んでいます。信仰の父アブラハムの姿こそ、本当に責任を負って生きる者の姿なのです。

信仰の証
 アブラハムはこのようにして、この地の人々の中に埋没することなく、旅人、寄留者として生きる信仰者の生き方を貫きながら、この地の人々に対して礼を尽くし、よい関係を保ちつつ、墓を手に入れました。このことを通してヘトの人々は、アブラハムが本当に責任ある生き方をしていることを感じたことでしょう。そしてこのアブラハムには、自分たちとは違う何かがある、何か確かなものが、彼を支え導き、その歩みに一貫性を与えていることを感じたに違いありません。つまりこのことによってアブラハムは、他国の人々の中で、信仰の証をすることができたのです。

証のための出費を惜しむな
 その証は、彼がこの墓のために銀四百シェケルを支払ったことにおいてもなされています。四百シェケルは、この畑と洞穴の代金としてはとてつもない高額なのです。おそらくエフロンは、アブラハムの出方を伺うために、そして彼が当然値切ることを見越して、値切られても最終的に自分に有利に取引を成立させるために、この金額をふっかけたのだと思われるのです。しかしアブラハムは、一銭も値切ることなく、直ちに、彼の言い値を支払いました。それは、アブラハムがここで、少しでも安く土地を手に入れようという取引をしているのではないことを示しています。彼がここでしているのは、一人の信仰者として、あくまでもこの地で旅人、寄留者として生きることを明らかにしつつ、しかもこの地の人々との関係を大切にし、無責任にならずに、平和な関係を打ち立てよう、ということなのです。そのために彼は、四百シェケルの銀を支払ったのです。つまりこの四百シェケルは、土地を買うためと言うよりも、信仰の証のためのお金なのです。信仰の証のためには、法外な金額をも支払おうとするアブラハムの姿がここに描かれているのです。ある牧師がこの箇所における説教で、「信仰者は、信仰の証に関わることで出費を惜しんではならない」と語っています。信仰の証のための出費を出し惜しみする時、懐具合にはプラスの効果があるでしょうが、信仰においてはその分のマイナスが生じ、私たちの信仰は小さくしぼんでいってしまうのです。

信仰の証としての墓
 アブラハムがカナンの地で得た最初の土地が、作物を得るための畑でも、家畜のための牧草地でもなく、墓だったということも、意味深いことです。そこにも、彼の信仰の証があります。墓は、かつて生きていた人々の記念碑です。後世の人々にその記憶を伝えていくものです。アブラハムとその妻サラの墓は、彼らがこの地をかつて旅人として生きたことの印であり、そういう意味で彼らの信仰の証となるのです。しかし、それよりももっと大事なことがあります。この墓は、アブラハムが、この地の人々の中に埋没してしまうことなく、あくまでも旅人、寄留者として、つまり信仰者として歩みつつ、この地の人々との責任ある関わりの中で得たものです。彼があの二つの世界、霊の世界と肉の世界の両方を、自分自身の中でしっかりと一つに結びつけて、本当に責任ある生き方をしたことを、この墓が証しているのです。この責任ある生き方の中でこそ私たちは、愛する者の、そして自らの死をしっかりと受け止め、それに備えることができます。肉の世界、この世の人生のことだけを見つめているなら、死は、肉における人生を失うことであり、苦しみ、悲しみ、絶望でしかありません。肉の世界のみを生きている者は、死をできるだけ考えないですませようとするし、それに備えると言ってもせいぜい、墓を立派に整え、後の人々に自分のことを忘れないで覚え、供養してもらおう、という程度の消極的なことでしかないでしょう。しかし、霊の世界、神様を信じる信仰の世界を同時に生きる私たちは、地上の人生を旅人として歩みます。この世で私たちは寄留者であり、本当の故郷は天にあるのです。肉体の死は、その天の故郷への旅における一歩前進です。信仰に生きる者は、死をそのように積極的に見つめ、それをしっかりと受け止め、それに備えていくことができるのです。

復活の信仰によって
 しかしこのことは、「死んだら天国に行くのだ」と思いさえすればできることではありません。死が、天の故郷への旅における一歩前進であることを私たちが本当に受け止め、絶望やあきらめに陥らずに積極的にそれに備えていくことができるのは、アブラハムがあの22章の試練を通して得た、復活の信仰によるのです。復活の信仰とは、神様が死の力をも乗り越えて恵みの約束を実現して下さることを信じることだと先ほど申しました。死の力を打ち破って、人間の思いや常識をはるかに超えた仕方で約束を実現して下さる神様の恵みを信じるからこそ、肉体の死は、天の故郷への旅における一歩前進であると言えるのです。この復活の信仰によってこそ、私たちは、愛する者の、そして自分自身の死を、正面から見つめ、しっかりと受け止め、それに備えていくことができるのです。アブラハムはこの信仰によって墓を整え、自らの死に備えたのです。この墓は、自分や妻サラが生きていたことを後々の人々に覚えていてもらうためのものではありません。あるいは自分たちのための「終の住処」でもありません。神様の約束を信じて、天の故郷を目指して旅する信仰者にとって、墓は、肉体の死を超えた彼方でなお、神様が恵みの力によって導き、新しい命を与えて下さる、その復活を信じて待ち望む希望の印としての意味を持つのです。
 私たちは、救い主イエス・キリストの復活によって、この希望をさらに確かなものとされています。主イエスは十字架につけられて殺され、墓に葬られました。それは私たちの誰もが、遅かれ早かれたどっていく道です。しかし主イエスは、父なる神様の恵みのみ力によって復活させられました。主イエスの墓は空になったのです。私たちはそのことを記念して、主イエスの復活の日であるこの日曜日に礼拝に集っています。その私たちに与えられているのは、私たちの墓も、終わりの日に同じように空になるのだ、という約束です。独り子イエス・キリストを復活させて下さった神様が、私たちをも、死の支配から解放し、新しい命に生かして下さる、その神様の恵みの約束を信じて待ち望みつつ、この地上における人生の日々と、そこで与えられる出会い、関係を大切にしていくことによって、私たちは本当に責任ある生き方をすることができるし、自らの死にしっかりと備えていくことができるのです。

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