夕礼拝

人間の権利と神の恵み

「人間の権利と神の恵み」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第21章1-23節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章7-14節
・ 讃美歌:229、151

申命記的律法  
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いています。本日は第21章を読むのですが、今読み進めているところは、12章から26章にかけての、「申命記的律法」と呼ばれる、申命記の中心部分です。この部分が、列王記下の22章8節に書かれている、ユダの王ヨシヤの時代にエルサレム神殿の修理中に発見されたとされる「律法の書」であり、ヨシヤ王はこの申命記的律法に基づいてユダ王国の宗教改革を行なったのだと言われています。申命記は、この「申命記的律法」を中心として構成されており、それをモーセが、これから約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に遺言として語った、という設定で語られているのです。  
 この申命記的律法は前半と後半に分けられます。前半は、神への礼拝と捧げ物について、またどのような祭りを行なうべきかといった、宗教、祭儀に関することを語っています。後半は19章以下で、そこにはおおむね、人間どうしの関係のこと、そこに起る様々な問題のことが語られています。今読んでいるのはこの後半であり、本日の21章にも、人間どうしの間でのトラブルへの対処の仕方が語られているのです。その内容を見てみますと、9節までは、誰が犯人か分からない殺人事件が起った時のこと、10~14節は、戦争で捕虜にした奴隷の女性との結婚に関すること、15~17節は、何人かの妻が生んだ子供たちの誰に長子としての権利を継承するか、18~21節は、わがままで両親に従わない息子をどうするか、を語っています。それらの具体的な問題にどう対処すべきかが語られているわけですが、ここに語られている様々な問題は今日の私たちの生活には当てはまらないし、ここでの教えを私たちの社会の規範とすることはできません。殺人事件に対処するための警察や司法の制度は国の法律によって整えられているし、戦争の捕虜を奴隷にするということは今日はあり得ません。相続の問題もそのための法律があります。わがままな息子の問題というのはいつの時代にもあるわけですが、それは今日では、どこかに訴え出るようなことではないし、ましてやここに語られているようにそのために死刑になるなどということはあり得ません。ですからこの21章に語られていることは、私たちの生活とは関係のない、全くかけ離れた世界の話とも思えるわけですが、しかしこれらの教えの根本にあるものの考え方や信仰は、私たちも受け継ぐべき大切な事柄であると思います。そこを読み取っていきたいのです。

犯人の分からない殺人事件  
 この21章に先ず語られているのは、「殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からない」という事件についてです。ここでは「町ではなく野」ということが重要です。町でならば目撃者があり得るだろうし、人が殺されるのを見ていて助けなかった人がいればその人にも責任が問われるのです。しかし「野」は、誰も見ていないし誰も助けることができない所です。この事件には目撃者がいないのです。今日ならば、目撃者がいなくても様々な遺留品や状況証拠から犯人を追っていくわけですが、当時はそのような科学的な捜査の技術も考え方もありません。目撃証人がいないということは、誰が犯人か分からないということであり、本人が名乗り出ない限りこの事件は迷宮入りするのです。その場合にどうすべきかがここに教えられています。死体発見場所に最も近い町の長老たちが、まだ労役に使われたことのない若い雌牛を、川の岸辺に連れて行って、そこで首を折って殺すのです。そしてその雌牛の上で手を洗って、このように祈るのです。7、8節です。「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください」。これは罪の贖いの儀式です。長老たちが雌牛の上で手を洗うということの意味は、この雌牛に彼らの罪を負わせる、ということです。その雌牛が彼らに代って殺されることによって、彼らの罪の贖い、赦しが与えられるのです。

民全体が罪を負う  
 このような儀式を行うべきことが教えられていることに私たちは奇異な感じを受けます。そもそも人間の罪を動物に負わせるなんてひどい、ということが、今日の動物愛護の精神からは言えるわけです。しかしこれは旧約聖書の時代には普通になされていたことです。その根本には、殺人などの重い罪は命をもって償わなければならない、という教えがあります。そのことを、大切な財産の一部である家畜の命をもって替えるのは、ある意味では、人間の命を簡単に奪ってはならない大切なものとして尊重している、ということでもあります。しかしここで私たちが覚えるより根本的な違和感は、誰が犯したのか分からない罪を、近くの町の住民全体が負う、ということです。私たちの感覚では、殺人の罪はそれを犯した人個人が負うものです。その人が捕えられればその人が罰を受けるし、もし犯人が分からずに迷宮入りするならそれまでです。ところがこの教えにおいては、誰が犯したのか分からない罪は一番近くの町の住民が負うことになり、その町を代表して長老たちが罪の贖いのための儀式を行わなければならない、とされているのです。ここには、神の民イスラエルにおける罪についての特徴的な考え方が示されています。イスラエルにおいては、個人の罪が個人のみの問題ではなくて、共同体全体に及ぶと考えられているのです。それは勿論個人の罪を問わないということではありません。誰が犯人かはっきりしている場合には、その人が罪に問われるのです。個人の罪がうやむやにされてしまうわけではありません。しかし、罪を問われるべき個人が分からない時には、民全員が、あるいは、最も近い町の人々がということで言えば、その罪の出来事に最も深く関わりのある人々が、その罪を背負って神に赦しを求めなければならないのです。自分がやったことではないから関係ない、というのではなくて、共同体の中で犯された罪は皆がその責任を共に負う、それが神の民のあり方だ、ということがここに示されているのです。このことは私たちもしっかり受け止めるべき大事な事柄です。私たちキリスト信者は、主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストと結び合わされることによって、新しいイスラエル、新しい神の民である教会の一員とされました。そこで私たちは、主にある兄弟姉妹、神の家族として、お互いの喜びや悲しみを分かち合い、困難、苦しみの中にいる者の苦しみを共に負って助け合う共同体を築いていこうとしています。つまり私たちの信仰も、神の民として共に生きる信仰なのです。この教えは、その私たちに、神の家族、神の民の群れにおいては、喜びや悲しみ、困難や苦しみだけでなく、お互いの罪を負い合うこと、人の罪の責任を自分も負い、共に神の赦しを求めていくことが必要であることを示しています。私たちがもし、神の民、神の家族であると言いながら、他の人の罪を、自分がしたことではないから関係ないと言ってただ批判し、責め立てているだけだとしたら、神の民として共に生きることはできていないのです。

罪は土地を汚す  
 このようにイスラエルの民は、罪を個人のみが負うのではなく、共同体全体で負い、神に赦しを求めつつ生きるという感覚をもっていました。そのことは8節の祈りの言葉の中に表現されています。「あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください」。誰が犯したのか分からない、従って償う人のいない罪は、その赦しが神から与えられなければ、民のうちにとどまるのです。罪がとどまるということは、民全体がその罪による影響を受けるということです。罪はそのように、それを犯した個人のみの問題ではなくて、民全体に関わるものなのです。それはなぜかというと、罪は、神が恵みによって与えて下さった土地を汚すからです。この21章の1節の冒頭に「あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で」とありました。そして最後の23節には「あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」とあります。罪は、それを犯した人を汚すたけでなく、民が住む土地全体を汚し、そこに住む全ての人々に悪い影響を及ぼすのです。それゆえに、誰が犯したのか分からない罪であっても贖いの儀式を行って、罪の赦しを願わなければならないのです。このようにイスラエルの民は、罪が人のみでなく土地そのものを汚し、そこに住む人々に影響を与えるという感覚を持っていました。私たちはそういう感覚を失ってしまっていますが、これはむしろ非常に現代的な、そしてこれからの時代に必要な感覚であると言えると思います。私たちは、神の恵みによってこの地、この世界、この地球を与えられ、そこに住んでいます。その地において私たちが犯す罪は、この地を、この世界を、この地球を汚し、そこに生きる人々、将来の世代の人々の生活を脅かすのです。環境破壊や原発から出る放射性廃棄物というのはまさにそういう問題です。今この地において私たちがどのような生き方をするか、そのことの影響が、自分自身にのみでなく、この世界全体に、後の世代の人々の生活に及んでいくのです。そういうことをしっかりと意識して生きることが今私たちに求められています。罪がこの地を汚すという教えはそのような今日的意味を持っているのです。

捕虜の女性との結婚  
 さて次に10~14節の、捕虜の女性との結婚の問題です。戦争における捕虜は奴隷とされる、というのが当時の社会の常識でした。その奴隷の中に美しい女性がいて、その人を妻としたいと思ったならば、ということです。その場合、その女性を自分の家に連れて行くわけですが、彼女はそこで一か月の間、「自分の両親のために嘆かなければならない」とあります。その後でなければ、彼女との関係を持ってはならないのです。この一か月は、彼女が戦争において死んだ両親のために喪に服する期間です。それと同時に、他の民族の出身である彼女が、イスラエルの民に加えられるための準備の期間でもあると言えるでしょう。その期間を経てその女性はイスラエルの民の一員として迎え入れられるのです。そしてそのようにして民の一員となった以上は、14節にあるように、夫がもしも彼女を気に入らなくなり、離婚しようと思ったとしても、彼女をもはや奴隷として扱ってはならないのです。イスラエルの民の一人として、彼女の意のままに、自由に去らせなければならないのです。このような形での結婚や離婚は今日の私たちにおいてはあり得ないことだし、そもそも人を奴隷とするということ自体が人道に反することですが、そういう時代的な制約を括弧に入れて考える時に、この教えが全体として目指しているのは、捕虜となり奴隷とされた中から見初められて妻となるこの女性の権利を守ることです。彼女には、両親の死を悼む権利が与えられなければならないし、たとえ離縁されてももはや奴隷の身分に戻ることはない、イスラエル人の妻となった彼女は一人のイスラエル人として扱われなければならないのです。そこには、非常に制約された中ではあるけれども、弱い者、差別されている者を守り、その権利を保証しようという姿勢があるのです。

長子への相続  
 次の15~17節の教えも同じような考え方によっています。二人の妻があり、片方は愛され、片方は疎んじられていた。その二人の産んだ子供たちの中で、先に産まれた長子が疎んじられている妻の子だったとしても、その長男を差し置いて、愛されている妻の子を長子として扱ってはならないのです。長子として扱うとは、財産を継がせる時に、二倍の分け前を与えるということです。その長子の特権を、愛している妻の子に与えたいと思う、あるいはその妻が自分の子にその特権を与えてくれるように願う、ということはいつの時代にもあるわけですが、そこは、生まれた順序をしっかり守らなければならないのです。父親の胸先三寸で、気に入った子により多くの財産を継がせるということをしてはならないのです。これはそのように長男の権利を守るための掟であると同時に、神がお与えになった秩序を守るためでもあります。誰が最初に生まれるかは神がお決めになることです。神がお定めになった順序、秩序に人間は従い、家族の間でもその秩序を守らなければならないのです。

わがままで反抗的な息子  
 神がお定めになった秩序に従うべきであることは、18節以下の教えの土台にもなっています。「ある人にわがままで反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば」とあります。このようにどんなに言い聞かせ、戒めても聞かずに、放蕩にふけり、大酒飲みである息子を、両親は町の長老たちのもとに突き出すのです。長老たちはその訴えが事実であるならば、町の住民を集め、その息子を皆で石で打ち殺すのです。これは私たちの感覚からしたら恐ろしいことです。親に逆らっただけで死刑になってしまうなんてなんと残酷な、と思うわけです。しかしこの教えも、その根本にあることを見つめなければなりません。この教えの土台には、十戒の第五の戒め「あなたの父と母を敬え」があります。父と母を敬うことは主なる神がご自分の民に求めておられる基本的なことの一つなのです。そして大事なのは、主がどのようなみ心によってこのことを求めておられるのかです。私たちは自分の父と母を選ぶことができません。父と母は、神によって与えられるのです。神が父と母を用いて私たちに命を与えて下さったのです。そこに神がお定めになった秩序があり、神のみ心があるのです。父と母を敬うことは、神のみ心を受け止め、神の秩序に従うことなのです。ですから「父と母を敬え」という十戒の戒めは、親孝行をし先祖を敬えという儒教的な教えと同じことを言っているのではありません。主なる神が、父と母とによって自分に命を与えて下さった、その恵みのみ業を感謝し受け入れることが教えられているのです。つまり、父と母を敬うことは、神を敬うことなのです。それが、神の民イスラエルの信仰です。その土台に立つならば、わがままで反抗し、父も言うことも母の言うことも聞かない息子は、神のみ心を受け入れず、神がお与えになった秩序を乱し、破壊しているのです。それは一つの家庭の問題であるだけでなく、神の民全体の問題であり、それゆえに民の長老たちが裁き、町の住民みんなで自分たちの中から悪を取り除いていかなければならないような事柄なのです。それは先程申しましたように、一人の罪が土地全体を汚し、そこに住む全ての人々に影響を及ぼすからです。「わがままで反抗的な息子」は、その家庭の苦しみ悲しみであるだけでなく、主が与えて下さった土地全体を汚しているのです。

木にかけられた死体  
 この教えに続いて22節以下には、「木にかけられた死体」のことが語られています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば」とあります。死刑になった人の遺体を「木にかける」、それはいわゆる「見せしめ」のためです。このような罪を犯すとこうなるぞ、ということを人々に示して警告とするのです。しかしそのような見せしめをする場合にも、その死体を木にかけたまま夜を過ごすことがあってはならない、その日のうちに埋葬しなければならない、と教えられているのです。ユダヤの暦では日没から新しい日が始まりますから、「その日のうちに」とは「日没までに」ということです。何故その日の内に埋葬するのかというと、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と言われています。神に呪われたものを翌日まで放置しておくと、「主が嗣業として与えられる土地を汚す」ことになるのです。

人間の権利と神の恵み  
 このように21章には、主が与えて下さる土地において、主なる神の民であるイスラエルがどのように生きるべきであるかが教えられているわけですが、その根本にあるのは、先程の「主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」ということです。そして「土地を汚す」ことは人間の罪によって起ります。罪とは何かというと、神がお与えになった秩序を乱し、神のみ心に反抗して自分の思いを通そうとすることです。それは親に従わない息子の問題だけでなく、捕虜の女性が気に入って結婚したのに、いやになったらポイと捨てて奴隷に売ろうとするような男の問題であり、気に入らない妻の生んだ子をさしおいて、愛している妻の子に長子の特権を与えようとする父の問題でもあります。そのような罪によって、神が与えて下さった地が汚されるのです。しかし大事なことは、申命記が、これらの罪によって、社会的に弱い者、差別されている者の権利が奪われ、弱い者がますます苦しめられ、差別されている者がますますつらい思いをしていくことを見つめている、ということです。そういうことこそが、神が恵みによって与えて下さった土地が汚されることなのです。神の民においてはそういうことがあってはならない、弱い者、貧しい者、差別されている者の権利が守られなければならない、そうであってこそ、イスラエルは、神が与えて下さる土地で、真実に神の民として歩むことができるのです。つまり、神の下で人間のわがままが抑えられ、神がお与えになった秩序が守られることと、人間の、特に弱い立場の人々の権利が守られることは表裏一体の関係にあることを申命記は語っているのです。

木にかけられたキリスト  
 さてこの21章は、新約聖書の信仰とも深く結びついています。新約においてこことの関係で大事な箇所が、本日共に読まれたガラテヤの信徒への手紙第3章7節以下、中でも13節です。13節にこうあります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。ここに、主イエス・キリストが私たちのために呪いとなって下さったとあります。それは主イエスの十字架の死のことです。キリストは十字架という木にかけられて殺されたのです。それは神に呪われた者としての死です。しかしその呪いは本来は私たちが受けなければならないものです。神に逆らい、そのみ心に、秩序に従おうとしない、わがままで反抗的な私たちこそ、死刑にならなければならない、木にかけられなければならないはずなのです。その私たちのために、主イエス・キリストが代って呪いを引き受けて下さいました。十字架にかけられた主イエスの遺体が日没までに急いで埋葬がなされたことがそれを示しています。主イエスは私たちの罪を全て背負い、その呪いを私たちに代って引き受けて下さったのです。犯人が分からない、つまり本人が名乗り出ない殺人の罪を雌牛が代って背負って殺されたのと同じように、私たちが自分で認めようとしない、しかし確かに私たちの間にあり、皆が負うべき罪を全て背負って死んで下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられたのです。

主イエスの権利放棄によって  
 主イエスによる救いは、神の子である主イエスが、ご自分の権利を全て放棄して人間となり、十字架の死への道を歩んで下さったことによって与えられました。クリスマスに始まる主イエスのご生涯は、神の子の徹底的な権利放棄の歩みでした。その主イエスによって私たち罪人の救いが実現し、私たちは新しい神の民、新しいイスラエルとして生かされているのです。この救いにあずかった私たちは、自分の権利の主張から自由になることができるはずです。ご自分の権利を私たちのために放棄して下さった主イエスの恵みの中で、私たちも、自分の権利を主張するのではなくて、神のみ心を受け入れ、それに従って生きるのです。そこにこそ、人間の権利を、特に弱さを抱えている人、差別されている人の権利を守っていく生き方が生まれます。弱い人々の権利が本当に守られ、確立するのは、権利の意識が高まり、その主張が激しくなされることによってではなくて、主イエス・キリストにおける神の子の権利放棄に支えられて、私たちが自分の権利を主張しようとするのでなく、神が与えて下さる秩序を大切にし、み心に従っていくことによってなのです。神の前で人間のわがままが抑えられ、神のみ心、秩序が守られていくところにおいてこそ、人間の、特に弱い人々の権利が守られていく、という申命記の教えは、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、呪いを引き受けて下さったという救いによってこそ実現していくのです。

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