特別伝道礼拝説教

信仰のない者の救い

「信仰のない者の救い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章14-29節
・ 讃美歌;58、451、358

 
救いを求める父
 一人の父親が、イエス・キリストのもとに、救いを求めてやって来ました。彼がかかえていた苦しみは、息子のことでした。その子は幼い時から、耳が聞こえず、ものが言えませんでした。そういう障碍があっただけではありません。彼は時々発作を起こし、地面に倒れて口から泡を吹き出し、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまうのです。しかもその発作は、火やら水やらがあって危険な場所に限ってよく起りました。発作を起して火の中や水の中に倒れ込んでしまい、命の危険にさらされることがしばしばあったのです。現代を生きる私たちは、それはおそらくこういう病気だろう、と想像することができるし、今ならよい薬があって、発作をできるだけ起こらなくしたり、軽くすむようにすることができるでしょう。しかしこの当時は、このような病気の治療法はありませんでした。人間の力ではどうすることもできなかったこのような病気を、昔の人々は、悪い霊、悪霊が取り付いて起るものと考えたのです。そして、悪霊を追い出す特別な力を持っていると思われる人のところに行って、癒してもらおうとしたのです。イエス・キリストも、そのような力をもった人の一人だと考えられていました。実際イエスは、病気や障碍のある人を癒したり、悪霊を追い出す奇跡を行っていたのです。そういう評判を聞いたこの父親は、子供を連れてイエスのもとにやって来たのです。

議論
 しかしあいにくその時、イエスは不在でした。三人の弟子だけを連れて別の場所に行っていたのです。それでこの父親は、留守を守っていた弟子たちに、子供から悪霊を追い出してくださいと願いました。しかし弟子たちは、悪霊を追い出すことができませんでした。私たちは、それは当たり前だと思います。イエス・キリストご自身ならともかく、弟子たちにそんなことをする力はないだろう、弟子たちに頼むのがそもそも間違っている、と思うのです。しかし、この福音書の前の方、6章の7節以下には、イエスが十二人の弟子たちを二人ずつ組にして派遣したことが語られています。その6章の12、13節にはこう書かれているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」。このように弟子たちも、悪霊を追い出したり、病気の人を癒したことがあるのです。だから弟子たち自身も、父親の願いを聞いて、この子から悪霊を追い出そうとしたのです。ところが、以前には出来たことが、このたびはできませんでした。悪霊はいっこうに出て行こうとせず、子供はあいかわらずものも言えず、耳も聞こえないままだったのです。弟子たちの面目は丸つぶれでした。そこに次第に人々が集まってきました。14節に「彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」とあります。律法学者は、ユダヤ人たちの宗教的指導者であり、イエスのことをよく思っていない人々です。イエスの弟子たちの失敗は彼らにとって格好の批判材料でした。彼らはここぞとばかりに弟子たちを責め立てたのでしょう。「議論していた」とありますが、このような失敗の現実の前では、議論になどならず、弟子たちは一方的にやり込められ、たじたじとなっていたに違いありません。そして彼らの周りには大勢の群衆が集まってきました。群衆たちは、弟子たちの失敗を意地悪な傍観者として皮肉な目で見つめ、また彼らと律法学者たちとの議論を、まるでその審判になったような気分で、どちらの言い分の方が納得できる、などと批評していたのです。このように人々が集まって騒がしく議論をしているところに、イエスが帰ってきたのです。

なんと信仰のない時代か
 父親の話を聞いたイエスは19節で、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。「なんと信仰のない時代なのか」とイエスは嘆いたのです。「時代」という言葉が使われていますが、これは「いやな時代になったねえ」というようなことではありません。その後に、「いつまであなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われているように、この「時代」という言葉は、「時代の風潮」を意味しているのではなくて、「あなたがた」のことを指しているのです。その「あなたがた」とは、苦しんでいる子供と父親のことはそっちのけで騒がしく議論している弟子たち、律法学者たち、群衆たちの全てです。彼らは自分の意見を主張し、相手を批判し、あるいは双方の主張を比較して批評したりしていますが、誰一人として、苦しんでいる人を救うことはできません。彼らの議論の中で、苦しんでいる人は取り残され、その苦しみはいや増すばかりなのです。そのような議論に熱中している人々のことを、イエスは、「信仰のない人々」と呼んでおられるのです。そのように言われることは、彼らには不本意だったでしょう。彼らはそれぞれに、信仰をもって生きているつもりなのです。弟子たちはもとよりイエスを信じて従ってきた人々です。律法学者たちも、ユダヤ人の信仰の指導者です。群衆たちだって、それなりに信仰を持っているからこそ、イエスの弟子たちと律法学者たちの議論に関心を持っているのです。しかしイエスはそれらの人々の全てをひっくるめて、「信仰がない」と言われたのです。それはどういうことなのでしょうか。そもそも、信仰がある、とはどういうことであり、信仰がないとはどういうことなのでしょうか。

悪霊と対決するイエス
 本日はそのことをご一緒に考えたいのですが、まずはこの話をさらに読み進めていきたいと思います。イエスは「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。イエスは、彼らの不毛な議論に加わるのではなく、この父親と子供の苦しみと向き合っていかれるのです。人々が子供をイエスのところに連れて来ると、子供は引きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。弟子たちや律法学者や群衆の前では起らなかったのに、イエス・キリストが乗り出して来たとたんに発作が起ったことは興味深いことです。弟子たちも律法学者も群衆も、悪霊に無視され、相手にされなかったのです。それは彼らが、お互いの間で議論はしても、この親子を苦しめている悪霊の力と本当に対決しようとはしていなかったからです。議論ばかりしている人々は、悪霊にとって少しも恐くないのです。しかしイエスのことは、悪霊も無視することができません。それはイエスが、人間の苦しみをしっかりと受け止め、それを引き起こしている悪霊の力に正面から戦いを挑んでいかれる方だからです。イエスの前で子供が発作を起したのは、悪霊の危機感の現れであると言うことができるのです。

苦しみと向き合うイエス
 しかしイエスは、ご自分の持っている力で直ちに悪霊を追い出すことをなさいませんでした。発作を起こしている子供を前にして、父親に「このようになったのは、いつごろからか」と問いかけられたのです。これは、この子の症状の始まった時期を知ることによってより適切な治療法を見つけようというような、医者の問診ではありません。イエスはこの父親の苦しみと向き合おうとしておられるのです。この子は、幼い時から悪霊にとりつかれて、耳が聞こえずものが言えず、度々発作を起こして死にかけたのです。父親はその子の障碍と病気にずっと寄り添い、なんとかしてこの子を癒そうと努力してきたし、発作が起るたびに子供を火の中や水の中から間一髪助け出してきたのです。イエスの問いに答えてそのことを語った父親の言葉は、単なる症状の説明ではなくて、彼の父としての深い苦しみ悲しみの表出です。イエスは、この父親の苦しみ悲しみと真実に向き合い、それを受け止めるためにこのように問われたのです。

おできになるなら
 自分たちが背負ってきた苦しみ悲しみをイエスに語った父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願いました。苦しみの中からこのように願うのは自然なことだと私たちは思います。さらにこれは、とても礼儀正しい願いであるとも言えます。「おできになるなら」とは、「おできにならないことを無理にお願いしようというのではありません」という意味でもあるのです。だからこの父親は控えめに、謙遜に、イエスに救いを願い求めているのです。しかしイエスはこの願いに対して、「『できれば』と言うか」と言われました。「おできになるなら」という父親の願いにイエスは、言わばかみついたのです。「と言うか」と訳されていますが、原文には「言う」という言葉ありません。ニュアンスを生かして訳すなら、「『おできになるなら』だと?」となります。「おできになるなら」という彼の言葉に、イエスは否をつきつけておられるのです。

信じる者には何でもできる
 イエスがここで言われたのは、「『おできになるなら』ということは、お前は私にできないことがあると思っているのか、失礼な」ということではありません。もしそう言っているなら、その後の言葉は、「私は何でもできる」であるはずです。ところがイエスが続けて言われたのは「信じる者には何でもできる」ということだったのです。これは不思議な言葉です。今言ったように、「『できれば』と言うか。私は何でもできるのだ」ならば分かりやすいのです。その場合には、「私の力を疑わないで信じなさい」ということになります。つまり見つめるべきものはイエスの力だということです。しかしイエスはそう言われたのではなくて、「信じる者には何でもできる」と言われたのです。この言葉は、イエスは何でもできる、ということを見つめさせようとしているのではありません。そうではなくて、「あなたが本当に信じるなら、あなたの願っている救いが実現する」ということです。問題は、あなたが本当に信じているかどうかだ、ということをイエスはこの父親に見つめさせようとしているのです。

信じます。信仰のないわたしをお助けください
 このイエスの言葉に答えて父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。この言葉が、本日の箇所の中心となる、最も大事な言葉です。この言葉を皆さんとご一緒に味わうためにこの箇所を選んだのです。しかしこれは一筋縄ではいかない言葉です。そもそもこの言葉には矛盾があります。彼は「信じます」と言ったのです。それは、信じている、信仰があるということです。ところが同時に彼は、「信仰のないわたしを」と言っているのです。つまり彼は、自分が「信仰のない者」だという自覚を持ちつつ、「信じます」と言っているのです。それはいったいどういうことなのでしょうか。そして実はここにこそ、聖書が教える信仰の神髄があるのです。信仰があるとかないということを聖書がどう考えているかがここで明らかになるのです。

信仰のないわたし
 この父親は何を言っているのかを丁寧に考えていきましょう。彼は、「信仰のないわたしを」と言っています。自分には信仰がない、ということを彼は意識しているのです。この意識を彼に引き起こしたのが、イエスのあの、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」という言葉でした。この言葉によって彼は、「もしおできになるなら助けてください」と願った自分が、信仰のない者だということに気付かされたのです。「もしおできになるなら」というのは、先ほども申しましたように、「できないことを無理にお願いしようというわけではありません」という、ある意味では礼儀正しい意味を持っているわけですが、しかしそこには、イエス・キリストが自分たちを苦しみから救って下さることへの、ある疑いが潜んでいます。できるかもしれないができないかもしれない、ということです。「『できれば』と言うか」というイエスの言葉によって、彼はそのことを指摘され、そして「信じる者には何でもできる」という言葉によって、問題は彼自身が本当に信じるかどうかだ、ということを示されたのです。彼が一切の疑いを乗り越えて、イエスによる救いを本当に信じるなら、その救いは実現する、しかし「おできになるなら」と言っている限りそれは実現しない。そのことを彼はこのイエスの言葉から聞き取ったのです。

信じます
 そのことを示された彼は、「信じます」と叫びました。それは彼が、イエス・キリストの救いにあずかりたいと真実に願い、それを真剣に求める者となったということです。勿論それまでは真剣でなかったというわけではありません。しかし彼はこれまで、子供を癒してもらおうとして多くの医者や祈祷師を訪ねては失望させられてきたのです。イエスのところに来たのも、その延長上でのことです。だから、「おできになるなら」という言い方になるのです。しかし彼はその言葉をイエスにとがめられ、「信じる者には何でもできる」と言われたことによって、このイエスという方が、彼の苦しみを本当に受け止め、それと対決して下さることを感じ取ったのです。そしてこの方の与えて下さる救いを、本当に真剣に、ひたすら願い求めるようになったのです。彼の「信じます」という叫びには、そういう意味があるのです。しかしこの「信じます」は、彼が一切の疑いを乗り越えて、イエスが子供を癒して下さることができると一点の曇りもなく信じ切った、ということではありません。もしそうだったなら、彼の言葉は、「信じます。あなたが私たちを救って下さることをもう疑いません。どうぞお助けください」であったはずです。しかし彼はそう言ったのではありませんでした。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったのです。それは、「今までは信仰がなかったけれども、今はしっかり信じていますから」ということではありません。「信仰のないわたし」は、「おできになるなら」と願っていた先ほどまでの私であると共に、イエスの救いをひたすら求めて「信じます」と叫んだ今この時の私でもあるのです。「信じます」と叫び、つまり信仰を告白している私は、しかし一切の疑いを乗り越え、一点の曇りもなくイエスの救いを信じることができない私なのです。イエスの救いを求めながらも、なお様々な疑いや迷いや、信じ切ることができないという思いをどうすることもできない私なのです。信じたいと願いつつも信じ切ることができず、どうしても疑いや迷いを払拭できず、だから「おできになるなら」という思いを抱いてしまう私なのです。私はそのように信仰のない者です。その私を、どうぞ助けてください、あなたの救いを与えてください、と叫び求めた、それが「信じます。信仰のないわたしをお助けください」というこの父親の叫びの意味なのです。そしてイエス・キリストは、この叫びに、真実の信仰を見て下さったのです。この叫びを受け入れ、子供を癒して下さったのです。この話の中で、唯一この父親だけが、「信仰のある者」と認められたのです。信仰があるというのは、一点の曇りもなく、何の疑いも迷いもなく「信じます」と言うことではありません。私たちはイエス・キリストに苦しみからの救いを求めていく中で、自分が、この父親と同じように、「おできになるなら」としか言うことができない、疑いや迷いに捉えられている「信仰のない私」であることを示されるのです。「信じる者には何でもできる」と主イエスは言われます。それは裏返せば、信じなければ何もできない、神の救いにあずかれない、ということです。信仰のない私は、救われようがない私なのです。しかし、この父親がそうであったように、主イエス・キリストが私たちに向き合い、語りかけ、出会って下さる時に、その「信仰のない私」が、主イエスによる救いを切に願い求めて、「信じます」と告白する者とされるのです。それが私たちの信仰であり、「信仰がある」とはそういうことなのです。

自分が持つ信仰ではなく
 このことを別の角度から言うならばこういうことです。聖書の教える信仰は、私たちが何を信じることができるか、神様の力やイエス・キリストの力をどこまで確信し、疑いや迷いを払拭して信頼することができるか、そして信仰者に相応しい働きをどれだけすることができるか、ということではないのです。つまり信仰は、私たちが自分のものとして持つものではないのです。信仰は、自分の中に確固たる信念を持って生きることではありません。弟子たちはそれを誤解して、自分の信仰の力によって何かができると思ってしまったのです。そのために彼らは子供から悪霊を追い出すことができなかったのです。彼らは以前、イエスに遣わされた時には、同じことをすることができました。その時には、自分の力でそんなことができるとは思っていなかったのです。ただイエスに命じられた通りにしたら、悪霊も言うことを聞くので自分でも驚いたのです。ところが今度は、自分の持っている信仰の力で悪霊を追い出そうと考えてしまったのです。それが失敗の原因でした。28節以下で弟子たちはイエスに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と問いました。イエスの答えは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」でした。祈りによって、とは、自分の力によって事をするのではなく、神様の力を祈り求めることによって、ということです。私たちが、祈りなしに、自分の持っている信仰の力で悪霊と戦おうとしても、悪霊にとってそんなものは屁でもありません。しかし悪霊が決して打ち勝つことができない信仰があるのです。それは、自分の持っている信仰の確かさに依り頼むのではなく、イエス・キリストの恵みをひたすら祈り求めていく信仰です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という叫びは、その信仰を言い表わしているのです。

確かな救いはキリストの中に
 この父親の叫びを受けて主イエスは、「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と悪霊に命令しました。すると悪霊はその子から出て行き、子供は癒されたのです。父親が、「信じます」と告白したことによって悪霊が出て行ったのではありません。人間の信仰にそんな力はないのです。ここで力を発揮し、救いを実現して下さったのは主イエス・キリストです。私たちの信仰は、この主イエスによる救いを願い求めることなのです。信仰は私たちが持つものではない、というのはそういうことです。私たちが何か確かなものを自分の中に持つことが信仰ではないのです。確かな救いは、神様の独り子、主イエス・キリストの中にこそあるのです。主イエスは、苦しんでいる私たちと向き合ってくださり、私たちの思いを聞き取り、苦しみ悲しみを受け止めてくださいます。そしてその苦しみ悲しみを引き起こしている力、私たちを捉え、支配して、神様の恵みから引き離そうとする罪の力から、私たちを解放して下さるのです。そのために主イエスは、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。ここで主イエスが「わたしの命令だ。この子から出て行け」と言われたことによって、悪霊がこの子から出ていったのも、そう命令した主イエスが、この子のために、またこの父親のために、そして私たち全ての者のために、十字架にかかって命をささげ、死んで下さる方だからなのです。神様の独り子である主イエスが、私たちの罪の赦しのために、十字架にかかって死んで下さる、それが、主イエス・キリストの中にある確かな救いです。それは私たちが自分の中に持つ信念や確信、知識や理解、愛や信頼にはるかに優る確かなものなのです。自分の中に確かさを持つのではなくて、このイエス・キリストにおける確かな救いを願い求めていくことが私たちの信仰です。私たち自身は、確かなものではありません。神様を信じる思いも、常にふらふらと定まらず、一点の疑いもない確信になどなりません。私たちはいつも、「信仰のない者」なのです。しかし主イエス・キリストは、その私たちに、キリストの中にある確かな救いを願い求めていく信仰を与えて下さるのです。だから私たちの信仰の言葉はいつも「信じます。信仰のないわたしをお助けください」なのです。私たちの救いはいつも、「信仰のない者の救い」なのです。私たちは、信仰のない者を救って下さる主イエス・キリストを信じます。その信仰こそ、私たちが自分のものとして持つどのような信仰よりも確かな、本当の信仰なのです。

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