「審きと救い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第19章1-29節
・ 新約聖書; フィリピの信徒への手紙 第3章12-14節
・ 讃美歌 ; 54、529
審きと救い
二か月ぶりに、旧約聖書創世記からみ言葉に聞きたいと思います。本日ご一緒に読む第19章には、主なる神様が、悪徳の町々ソドムとゴモラを滅ぼされたことが語られています。人間の罪に対する神様の厳しい審きが語られているのです。しかしそれと同時に、ソドムに住んでいたロトとその家族が救われたこともここに語られています。神様の厳しい審きと共に、その救いの恵みが語られているのです。神様の審きと救いとは表裏一体の関係にあります。片方だけをとりあげ、もう一方を無視することはできません。救いにあずかるためには審きをも見つめなければならないし、審きをしっかり見つめることによってこそ救いが分かってくるのです。なぜなら、救いも審きも、神様がこの世界と人間の現実に踏み込んでこられ、そこでなさることだからです。この世界の、つまり私たちの現実は、神様のみ心に背き逆らう罪に満ちています。神様をも隣人をも、愛するよりもむしろ憎み、互いに傷つけ合ってしまうような私たちの罪の現実を、神様は決してそのままに放ってはおかれません。神様は、私たちの罪の現実の中に踏み込んでこられ、そこで何事かをなさるのです。もしも神様が私たちの罪の現実に対して何もなさらず、放ったらかしにしておこうとされたならば、主イエス・キリストがこの世に来られることはなかったでしょう。そして主イエスの十字架の死と復活による救いもなかったでしょう。その場合には、神様による審きもないのです。逆に言えば、神様の審きがないならば、主イエスが十字架にかかる必要はなかったでしょう。審きがなければ、主イエスによる救いもないのです。神様のみ業を、救いのみに限ってしまうことは許されません。救いの恵みをもってこの世に、私たちに関わられる神様は、同時に審きをもなさる方なのです。審きの中で救いがなされるのです。本日の、ソドムとゴモラの滅亡の話は、そのことをはっきりと語っています。ここには、神様による審きと救いが同時に進行していくという緊迫した状況が描かれているのです。その緊迫した状況の中で、救いにあずかる者となるためには何が必要なのか、それを本日の箇所から読み取っていきたいのです。
異邦人の町にも
ソドムとゴモラは、旧約聖書における神様の民であるイスラエルの人々の町ではありません。本日の箇所は、創世記12章から始まったアブラハムの物語の中の一つの話です。そのアブラハムが、神様の民イスラエルの最初の先祖です。つまりこの時はまだイスラエルの民は存在していないのであって、ソドムとゴモラは、イスラエルとは関係のない異邦人の町であり、そこに住んでいる人々は主なる神様のことなど少しも知らない異教徒なのです。その町の罪を神様は問い、それを審かれたのです。このことは、主なる神様の審きが、その神様を信じる者たち、つまり神様の民にのみ限定されるのではなく、世界の全ての国々、人々にまで及ぶのだということを示していいます。主なる神様の審きは、全世界の、全ての人々に及ぶのです。主なる神様こそがこの世界を創造し、支配し、導いておられる方だからです。主なる神様のことを知っていようといまいと、全ての者はこの神様の審きの前にあるのです。そしてそれは先ほど申しましたように、全ての者が神様の救いの前にある、ということでもあるのです。
ソドムに住むロト
さて、主なる神様のことを知らない人々の町であるソドムに、ロトが住んでいました。ロトは、アブラハムの甥です。アブラハムと共に、神様の語りかけに応えて故郷を去り、旅立った人です。つまりロトは、主なる神様を、生きておられるまことの神様を知っている信仰者なのです。共に旅立ち、歩んできたアブラハムとロトが分れて別に住むようになったいきさつは13章に語られていました。それぞれの家畜の群れが多くなり、一緒にいると牧草が足りなくなったので、別々に歩むことになったのです。ロトは、より豊かで潤っているヨルダン川流域の低地地方を選び、そこの町であるソドムに移り住みました。つまりロトはソドムのもともとの住人ではなくて、よそ者であり、寄留者なのです。13章13節には「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあります。ロトが移り住む前から、ソドムは悪徳の町でした。その町に、主なる神様を信じる信仰者であるロトが移住してきたのです。信仰者ロトは、この町の人々の罪に染まらない、倫理的健全さを保っていたのだと思います。そのために彼は、町の人々から一目置かれるようになり、町を指導する者の一人となっていったのです。そのことは、本日の箇所である19章の9節で、町の者たちがロトに対して「こいつは、よそ者のくせに、指図などして」と言っていることから分かります。ロトはよそ者ながら、町の人々に指図をするような指導的地位に着いていたのです。また1節に、「ロトはソドムの門の所に座っていた」とあります。町の門のところには広場があり、そこに町の長老たちが座っていて、大事なことを決めたり、もめ事を裁く裁判が行われていました。ロトもその一人だったのでしょう。ロトが、町の人々とはひと味違う倫理的正しさによって一目置かれていたということがそこからも分かると思います。そのような人であるロトは、旅人を手厚くもてなすという、彼らの社会においてきわめて大事なこととされてきた教えを忠実に行なっています。そのことが1~3節に語られています。神様がソドムとゴモラの罪を調べるために遣わした二人の御使いが町に到着した時、ロトはこの二人の見知らぬ旅人を、強いて自分の家に迎え入れてもてなしたのです。ロトはこのように、神様を知らず、悪徳の中を生きているソドムの人々の中で、倫理的清潔さを保ち、一目置かれていました。しかし同時に、同じ理由で彼のことをよく思っていなかった人もいました。先ほどの9節の「こいつは、よそ者のくせに、指図などして」という言葉はそれを表していると言えるでしょう。つまりロトは、主なる神様を知らない異教徒の社会の中で生きている信仰者です。信仰のゆえに一目置かれることもあれば、反感を買うこともある、それは現在の日本の社会に生きているキリスト信者の姿と重なると言うことができるのです。
無力なロト
二人の御使いは、ソドムの罪を確かめるために遣わされました。彼らがロトの家に宿を取ったことによって、その罪がはっきりと浮かび上がってきました。彼らは美しい若者の姿をしていたようです。二人の到着はすぐに町中に伝わり、その夜、4節にあるように、「ソドムの町の男たちが、若者から年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んでわめきたてたのです。彼らは「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と言いました。「なぶりものにしてやる」と訳されている言葉は、直訳すれば「知る」という言葉であり、それは「性的関係を持つ」という意味です。つまりこれは、ソドムの町の男たちが、ロトの家にいる旅人たちに暴行を加え、男性どうしの性行為の相手をさせようとした、ということなのです。これに対してロトはどうしたのでしょうか。彼は、自分の家に客として迎えた人々を何とか守ろうとしました。しかしそのために彼がしようとしたことは、7、8節にあるように、まだ嫁いでいない二人の娘を彼らに差し出し、思いのままにさせる、ということでした。それは、自分の娘、家族を犠牲にして、客人を守ろうとする自己犠牲の行為であると言えるかもしれませんが、しかしこれは、ソドムの人々の罪の問題の根本的な解決には全くならないことです。またこれは、神様を知らない人々に対する信仰の証しとはとても言えないものです。これは、ある罪を、別の罪への誘惑によって防ごうとするということでしかありません。信仰者であるロトは、神様を知らないソドムの町の人々の中で、倫理的正しさによってある尊敬を受け、指導的な立場にも着き、それゆえに反発も受けていましたが、人々の罪が押し迫ってくる現実の中ですることができたのはこのようなことでしかなかったのです。私たちはこの話を読むと、犠牲にされそうになった娘たちのことを考え、何というひどいことを、と思います。これはまさにそういう醜悪な話です。しかしここから私たちが読み取らなければならない最も大事なことは、罪に満ちたこの世界の中を生きている信仰者ロトが、その罪をどうすることもできずにおろおろしている姿、この世の罪の現実の中での信仰者の無力さなのではないでしょうか。
証しにおける無力さ
戸を破って乱入しようとした人々から彼らを救ったのは、二人の御使いでした。信仰者ロトの無力さが露になったまさにそこで、神様ご自身がみ業を行なって下さり、彼と家族は町の人々の手から救われたのです。このことによって、ソドムの罪はもはや神様の前に決定的となりました。神様はいよいよこの町を審き、滅ぼされることを決意されたのです。二人の御使いはロトにその審きを、この町は主によって滅ぼされることを告げます。そして同時に、その審き、滅びから逃れる道を示して下さったのです。この世の罪の前で無力な、何の役にも立たないロトを、神様は審きから、滅びから救って下さるのです。しかも、彼の身内の者たち、既に嫁いだ娘の婿たちも含めて、一族皆を審きから逃れさせて下さるのです。ロトはすぐに娘婿たちの所に行って、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促します。しかし婿たちはそれを冗談だと思った、とあります。彼らはロトの言うことを聞かず、町から出ようとしないのです。ある牧師はこの箇所による説教でこう言っています。「ロトは日頃から婿たちに、つまり自分の親族に、主なる神様のこと、そのみ心のことを語っていたのだろうか。つまり信仰の証しをしていたのだろうか。普段そういうことをしていないで、この決定的な時になって突然「主が」と言い出しても、彼らがそれを冗談と思うのは当然ではないか」。ここにも、ロトの信仰者としての弱さ、証し、伝道における無力さが現れていると言えるのではないでしょうか。
ためらうロト
さらに16節には、ロトがこの決定的な場面に及んでなお、神様が示して下さった逃れの道、救いの道を歩み出すことをためらっている姿が示されています。このロトの姿は、この世の罪の現実のただ中で、まことの神様を知らされ、信仰を持ち、それゆえに人々に比べれば倫理的に正しい生活をしているけれども、しかし罪の力が押し迫る時には全く無力であり、神様が示して下さった救いの道を歩み出すことにもためらいがちで、また日々の生活の中で神様の恵みや教えを周囲の人々に証しすることもできていない、要するにまことに中途半端な信仰者の姿です。それはまさに、私たち自身の姿なのではないでしょうか。私たちも、この世の罪が押し迫る時にまことに無力な者であり、信仰の道を歩む決断においてもためらいがちであり、証し、伝道の力のない者です。本日の箇所は、そのような、信仰の弱い、無力でためらいがちな、中途半端な信仰者を、神様が、審きにおいて、豊かな憐れみをもって救って下さったということを語っているのです。16節に「ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。あの二人の御使いが、彼らの手を取って、町の外へ避難させて下さったのです。「主は憐れんで」とあります。ロトとその家族の救いは、彼らが強い信仰を持っていたからではなく、勇気をもって神様に従ったからでもなく、ただ神様の憐れみによって与えられたのです。私たちも同じように、ただ神様の憐れみによって救いの道を示され、神様に手を引かれてその道を歩み出し、滅びから救い出されるのです。
目標を目指して走れ
しかし、御使いに手を引かれてソドムの町の外に出ればそれでもう安心ということではありません。そこからは、自分で走っていかなければならないのです。そのことが17節に語られています。「彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。』」。神様の憐れみによって救いへの第一歩を記すことができた私たちは、そこから、命がけで逃れていかなければならないのです。後ろを振り返らず、止まることなく、神様が示して下さる目標をしっかりと見つめて、走り続けるのです。信仰に生きるとはそういうことです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第3章の13、14節です。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
神の憐れみの熱心
しかしここでも、ロトはだだをこねています。18~20節です。「ロトは言った。『主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。』」。神様が示して下さった目標である山までは遠すぎるから、もっと近くのあの町にしてください、と言うのです。神様はこのロトのわがままをも聞いて下さいました。21、22節「主は言われた。『よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。』そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた」。無力で、ためらいがちで、わがままなロトの救いのために、深い憐れみによって配慮して下さっている神様のお姿がここに描かれています。ロトが自分の救いのために熱心であるよりもはるかに熱心に、神様ご自身がロトの救いのために奔走しておられるのです。神様の、私たちへの憐れみの熱心さがここに示されています。この神様の熱心な憐れみによる救いが、ソドムの罪への神様の厳しい審きの中で起っている、ということを私たちは見つめなければなりません。神様の憐れみの熱心さは、罪に対する厳しい怒り、審きと表裏一体なのです。神様は、私たちの罪を、決して放ってはおかれません。罪に対して激しく怒り、審きをなさいます。しかしそれと同時に、憐れみの熱心さによって私たちを救って下さるのです。そのことが決定的に起ったのが、主イエス・キリストの十字架です。十字架において、人間の罪に対する神様の厳しい審きが行われました。十字架につけられた者は、神様に呪われて絶望の内に死ぬのです。神様に背き逆らい、神様をも隣人をも憎む罪の中にある私たちは、本来その審きを受けなければならない者です。しかし神様は、その審きを、私たちの上にではなく、独り子イエス・キリストの上に下して下さったのです。主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかり、神様の審きを一身に背負って下さったのです。そこに神様の私たちへの憐れみがあります。ご自身の独り子をさえ犠牲にして下さるほどの神様の憐れみの熱心さによって、私たちは罪を赦され、神様の民として新しく生かされているのです。
後ろを振り返る
ロトとその家族は、この神様の憐れみによって、救いへの道を歩み出すことができました。しかも神様はロトの願いを聞き入れ、近くの町まで逃げればよいことにして下さいました。しかしロトの妻は、その道において、後ろを振り返ったために塩の柱となってしまったのです。彼女はどうして振り返ってしまったのでしょうか。単純に考えればそれは、ソドムの町に残してきた自分たちの財産や、そこで営んできた生活への未練によってであると言えるでしょう。それは丁度、後にイスラエルの民が、エジプトでの奴隷状態から神様によって救い出され、約束の地へと歩んでいく中で、エジプトの肉鍋を思い出し、奴隷として苦しめられていたはずの昔をなつかしく思ったのと同じです。信仰を与えられ、神様に従って歩んでいく中で、そのように、逃れ出てきたはずの古い罪の生活を振り返り、なつかしく思ってしまうようなことがあります。ロトの妻のエピソードは、そのような思いへの警告を語っていると言えるでしょう。けれども、この出来事にはもう一つの大事な意味があるのではないかと思うのです。ロトの妻は後ろを振り返った、それは彼女が、神様がソドムの町に下される審きのみ業を自分の目で見ようとした、ということでもあるのではないか。神様がどのようにソドムを審き滅ぼされるのか、自分たちはこのようにそこから逃れ、救われているが、救われなかった人々はどうなるのか、彼女はそれらのことを知りたかったのではないでしょうか。つまりここには、神様に従っていく信仰における「知りたがり」の心がある。彼女が知りたがったことは、彼女自身の救いとは関係のないことです。審きはどのようになされるのか、審きにおいて滅ぼされる人はどうなるのか、そのような思いは興味本位の知りたがりです。しかし今彼女は、そのように自分の救いとは関係のないことを立ち止まった詮索していられるような状況にはいないのです。自分の救いのために必死になって、前のみを見つめて、命がけで走らなければならない時なのです。しかし彼女は、神様によって示された救いへの道を歩むその足を止め、つまり信仰の歩みを止めて、自分の救いとは関係のないことをあれこれと知りたがったのです。神様はどのように審きをなさるのか、そこで何が起るのか、審かれる人の運命はどうなるのか…、信仰の足を止めてそのようなことを詮索したことによって、彼女は、審かれる人と同じ運命に陥ってしまったのです。後ろを振り返るとはそういうことです。私たちもしばしば同じことをするのではないでしょうか。自分自身の救いのために命がけで走るべき時に、それとは関係のないいろいろなことを詮索したがる、この人はどうなるのか、こういう場合には神様はどうするのか、こういう疑問にはどう答えてくれるのか、そういういろいろなことを納得しないと気がすまない、という思いに陥るのです。その時、私たちの信仰の足は止まっています。前進すべきなのに、むしろ後ろ向きになってしまっています。そして救いを失い、滅びに陥ってしまうことになるのです。私たちは、神様のみ業を、それが審きであれ救いであれ、傍観者として客観的に眺めていることはできません。神様による審きと救いは、私たちを当事者として、同時に進行しつつあるのです。そのどちらが自分の現実となるか、という緊迫した状況の中に私たちはいるのです。そこに、神様の憐れみの熱心によって、主イエス・キリストの十字架による救いの道が開かれ、示されています。私たちはその道を歩み続けなければならないのです。知る必要のないこと、知ることを許されていないことを詮索することをやめて、前を向いて、目標を目指してひたすら走るのです。
とりなし
さて本日の箇所の最後の29節に、とても大事なことが語られています。「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。ロトが破滅のただ中から救い出されたのは、神様がアブラハムを御心に留めて下さったからだ、と語られています。ロトが救われたのはアブラハムによってなのです。それはどういうことでしょうか。神様の民イスラエルの先祖となるアブラハムの甥であるという血縁的な関係のゆえに、神様はロトを救って下さったということでしょうか。そうではありません。「アブラハムを御心に留め」というのは、前回読んだ18章においてアブラハムがしたことを神様が御心に留めて下さったということです。アブラハムは18章で、ソドムの町の人々のために、そこに住む甥であるロトのために、神様にとりなしをしています。このアブラハムのとりなしを神様が御心に留めて下さったがゆえに、ロトは救われたのです。私たちも同じように、とりなしによって救われます。私たちのために神様にとりなして下さるのは、アブラハムの子孫としてこの世にこられた主イエス・キリストです。主イエスは、十字架の死と復活によって私たちの罪を贖い、私たちを神様の恵みの下に新しく生きる者として下さいました。主イエスが父なる神様と私たちの間に仲立ちとなり、とりなしをして下さったことによって、私たちは罪の赦しをいただいたのです。それだけではありません。復活した主イエスは天に昇り、今は父なる神様の右の座に着いておられます。そこで主イエスが今して下さっているのも、私たちのためのとりなしです。この主イエスのとりなしによって、私たちの信仰の歩みは守られ、支えられているのです。そのように私たちの救いは、主イエスのとりなしによって与えられているものです。そのことを感謝すると共に、今度は私たちが、他の人の救いのためにとりなしをする者となっていきたいのです。アブラハムがロトのためにとりなしをし、神様がそのアブラハムを御心に留めて救いを与えて下さったように、私たちが他者のためにとりなし祈っていく時に、神様は、その私たちのことを御心に留めて、私たちがとりなし祈るその人を、破滅のただ中から救い出して下さるのです。神様は私たちが他の人のためにとりなしの祈りをすることを待っておられます。互いにとりなし祈り、祈られながら、共に、神様が示し与えて下さった救いへの道を、立ち止まらずに歩み続けていきたいのです。