主日礼拝

主イエスを見つめて

「主イエスを見つめて」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第69編23-37節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第9章35-43節
・ 讃美歌 ; 12、56、446

 
はじめに
本日お読みした箇所の最後の節、41節には次のように記されています。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』と言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。主イエスが語られた言葉です。当時の宗教的指導者であったファリサイ派と呼ばれる人々に向かって語られています。ファリサイ派の人々が、「我々も見えないということか」と聞いたことに対して答えられたのです。この人々は、自分たちは「見える者」だと思っていた人々です。神様の救いが見えていると主張していたのです。そのような人々に「今『見える』と言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われているのです。

目が開かれた人と人々のやりとり
本日の箇所はヨハネによる福音書第9章の最後の部分です。この第9章は全体で、一つの物語です。これまで二回に渡って40節までの箇所を読んで来ました。ここには、生まれつき目が見えなかった人の目が開かれるという出来事が記されています。主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられたのです。9章の2節には、その時、主イエスの弟子達が発した問いが記されています。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかという原因を、本人や両親の罪に結びつけつつ尋ねたのです。それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えます。そして、この人の目に唾でこねた泥を塗り、シロアムの池で洗うようにと言われるのです。この人が言われた通りにすると目が開かれるのです。 この物語は、単純に、驚くべき肉体の癒しの出来事に注目しているのではありません。目が開かれるという肉体の癒しを通して、一人の人が、主イエスと出会い、救われるという出来事について語っているのです。ここで、目が見えない人の目が開かれるというのは、ただ肉体の目が開かれて視力を得るということを意味しているのではありません。目が開かれるというのは、救いに与るということです。生まれつき目が見えないというのは、闇の中にあるということです。目が開かれるということで、人間が罪に支配された闇の世界から解き放たれて、救われるということが示されているのです。

イエスについての議論
シロアムの池で目が開かれた人はもとの場所に帰って行きます。そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々です。「お前の目はどのようにして開いたのか」と、目が開かれたことの原因を問うたのです。周囲の人々は、この人のことを生まれつき目が見えない、罪の中にある者と考えて見下していたのです。ですから、素直に救いの出来事を共に喜ぶことをせず、その原因を解明しようとしたのです。そして、主イエスによって開かれたということが分かると、人々はこの人を当時の宗教的指導者であるファリサイ派の人々のもとに連れて行くのです。
目が開かれた人とファリサイ派の人々との議論が13節以下に記されています。ファリサイ派の人々は、目が開かれた人に、主イエスのことをどう思うのかと問います。この人は、最初は曖昧に答えています。ファリサイ派の人々は、本人によって、納得のいく答えが得られないとなると、彼の両親まで連れてきて問うのです。それに対して両親は、「どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもには分かりません。本人にお聞き下さい、もう大人ですから自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのです。ファリサイ派の人々は、再び、本人を呼んで、しつこく問いつめます。そのようにやりとりが続く中で、遂に、この人は、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」と答えます。この人は主イエスが神のもとから来られたということをはっきりとは語っていませんでしたが、人々との議論の中で徐々にそのことが明確にされていくのです。最終的には、自分の目が開かれたという事実をもって、主イエスが神の下から来られたことを告白するようになるのです。

会堂からの追放
この人は、主イエスは「神のもとから来た」と語ることで、会堂から追い出されることになります。本日の箇所の直前、34節には次のように記されています。「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」。この時、主イエスを神の子であり救い主だとする者は会堂の外に追い出されていたのです。両親とファリサイ派の人々とのやりとりが示された後の22節には、次のようにあります。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。ここは、ヨハネによる福音書が書かれた当時の事情が反映されている箇所です。ヨハネによる福音書がまとめられたのは他の福音書よりも遅く、早くても紀元90年頃であると言われています。この頃になると、それまで、ユダヤ教の一派という位置づけであったキリスト者たちは、明確にユダヤ教とは区別されるようになります。そして、実際にキリスト者が会堂から追放されるということが起こっていたのです。会堂から追放されると言うことは、当時の社会からの追放を意味しています。人々から村八分にされたのです。先ほど、目が見えない人の両親がファリサイ派の人々の質問に対して「本人にお聞き下さい」と語ったことに注目しました。もちろん、神様によって救われるということは神様と本人の間のことですから、救いに与っていない両親にとって、目が開かれた人の変化は不可解なことであったはずです。しかし、それだけの理由で、「本人にお聞き下さい」と答えたのではありません。この両親の言葉には、我が子をかばう親の気持ちというのは感じられません。むしろ突き放しているようにさえ感じられます。両親は自分たちが会堂から追放されることを恐れたのです。ここには、主イエスによって救われた者が経験する、置かれている世界との間に生じる緊張が示されています。キリストを信じて歩む時、それまで生きてきた社会との間に距離が生まれます。主イエスによって救われるということは、その救いに与っていない人々から見れば不可解であり、時代によっては、社会から追放されるというようなことが起こるのです。目が開かれた人と、そうではない人との間には距離が生じるのです。

原因を問うことによって見えるものとなろうとする
主イエスによって目が開かれた人と、周囲の人々との距離はどこから生まれるのでしょうか。何故、人々は、彼が見えることを喜ばず、原因を問うたのでしょうか。又、何故、ファリサイ派の人々は、イエスについてどう思うかを問いつめ、イエスを神のもとから来たと答えた、この人を追放したのでしょうか。そこには、主イエス・キリストによって目が開かれることと、自ら「見える者」となることとの違いがあります。
ここで、周囲の人々は目が開かれたことの原因を聞きました。救われたことの原因を聞いたのです。神様の救いの出来事の原因を問うたのです。自分が罪人だと決めつけていた人が救いに与ったということが納得いかなかったのです。そこで、このことを因果関係によって把握しようとしたのです。この世の出来事の多くは、因果関係の中にあります。私たちは物事の原因にさかのぼって考えます。原因を知ることで起こった結果のことを把握しようとするのです。人々は、自分たちが罪の中にあると思っていた人が救われたことの原因を解明することでこの人の救いの出来事を把握しようとしたのです。このような、救われた事実を喜ぶよりも、救いを自ら把握しようとする人々の態度の中に、人間が自ら「見える者」となろうとする態度があります。
そして、実際に自ら「見える者」となっていたのが、この問答において、主導的な役割をなしたのはファリサイ派と呼ばれる宗教的指導者たちです。この人々は旧約聖書の律法を厳格に守ることによって救いが得られると信じていました。事実、彼らは清く正しい生活をなしていたのです。「自分たちはこんなにしっかり律法を守っている、だから救われるのだ」と考えていたのです。救いに与っていることの原因を、自分たちが律法を守っていることに帰していたのです。そうすることによって自分で自分の救いを確信していたのです。そして、律法を守ることに救いの原因を帰して歩む中で、人々を見下し、裁いていたのです。「律法をしっかりと守っている、我々は救われる。しかし、律法を守っていない他の人々は神の救いから外れている」と考えていたのです。ここに、自ら「見える者」となった人間の姿があります。人間が神様の救いに与っているということを自ら確信して「見える者」となる時に、裁かずにはいられなくなるのです。そして、自分が救われる根拠となる律法以外のものによって見えるものとされた人の救いの出来事を受け入れることが出来ないのです。自分たちが原因づけている律法による救い以外の救いを認めることは、自らの救いを否定することになるからです。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」という言葉の中には、罪の中にある者が、見えている自分たちに偉そうなことを言うなという怒りがあらわされています。

自ら「見える者」となろうとする私たち
 自ら見える者となる人々の姿は、当時のユダヤ教のファリサイ派の人々だけのものでありません。私たちが、自分たちはキリスト者とされて神様の救いに与っている者だから、ファリサイ派の人々の歩とは無縁だと考えるのであれば、聖書の語ることに聞くことにはならないでしょう。むしろ、私たちも、キリストを信じる信仰生活の中で、自ら「見える者」となってしまうことがあるのではないかということを省みなくてはならないのです。確かに、当時のファリサイ派の人々と同じような仕方で律法を守ることによって救いを得ようとしているわけではないかもしれません。しかし、私たちも、自分はキリストによって救いに与っていると思い、私は正しいキリスト教を信仰しているから救われるが、周りの人々はそうではないから救われないとの思いを抱くことがあるかもしれません。そこまで、露骨に考えることはなくても、私は自分の罪を自分の業で解決しようとしているのではなく、イエス・キリストによってなされた神様の救いに委ねているのだから救いに与っていると思い、自らの業によって救いを得ようとして、ファリサイ派的に生きている人々とは違うのだと思うことがあるかもしれません。そのように思う中で自ら「見える」と主張することがあるのです。又、そのように自ら救いを確かめつつ、「見える」と主張するようなことはなくても、教会の中において、信仰生活や教会での奉仕の業を、周囲の人々と比べて、自分の不十分さを責めたり、隣人を裁く思いに捉えられるということがあるのではないかと思います。そこにも、敬虔なクリスチャンという衣をまといながら、自分や周囲の人を裁かずにはいられない、自ら「見える者」となって生きてしまう私たちがいるのです。信仰生活においてこそ、救いを捉え、救いの確かさを得ようとして、自ら見える者となり、周囲の人々を裁くということが起こるのです。信仰は神様に与えられる者です。しかし、与えられた信仰を人間が受け止めて理解し把握することの中で、それが人間の業となり、「見える」と主張することにつながるということが起こるのです。そのようなもの達に向かって、主イエスが語られるのです。「今、見えると言っている、だからあなた達の罪は残る」。

主イエスに出会う
 信仰に生きることにおいて、自ら「見える者」となることから決して自由ではない私たちが、真に神様の救いに与って歩むことはどのように可能になるのでしょうか。それは、神様が働いて下さり、ご自身を示し続けて下さることによって可能となります。
目が開かれた人が、会堂の外に出されたことを聞いた主イエスは、再びこの人に出会われます。そして、「あなたは人の子を信じるか」と問われます。そこで、この人は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えるのです。この人は、主イエスに出会って直接目を開かれたのではありませんでした。シロアムの池で目を洗って見えるようになって戻ってきたのです。ですから、彼は、主イエスと会っていても、主イエスを直接見てはいないのです。この人は目が開かれていながら、尚不確かさの中にいます。自分の信じるべき対象が分からないのです。ここに信仰者の姿があります。私たちが自ら語ることが出来るのは、この人が語った「その方を信じたいのですが」ということまでのことです。もし、それを超えて、私はその方がどんな方か知っていると言い、自分は、信仰の対象を知り尽くしていていると考えるならば、それは、自ら「見える者」となることになります。  
ここで、「その方を信じたいのですが」と語った目が開かれた人に、主イエスの方が「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ。」と答えて下さいます。この主イエスの働きかけの中で、この人は初めて「主よ、信じます」との告白をなすのです。ここで彼がひざまずいたと記されています。これは、主イエスの前で礼拝をしたということです。礼拝とは、自分の内に救いの確かさを見いだすことをやめて、ただ主とする方の前にひざまずくことです。自分の不確かな信仰の中に、主なる神が確かな救いを示して下さることを求めて、主イエスの前に全てを明け渡すのです。この目が開かれた人の姿の中に、私たちが礼拝をする時の姿勢が示されていると言っても良いでしょうのです。

見えない者は見えるように
私たちが礼拝の中で、主ご自身のお働きによって示されるキリストは、十字架にかけられたキリストです。主イエスは、39節で「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と語っています。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る神のもとから来られた方であることを語っているのです。しかし、主イエスは、自ら「見える者」となって歩む人間の罪を裁くことをされませんでした。むしろ、自分が善悪を判断することが出来るかのように振る舞い「見える者」として歩む者達の手によって裁かれたのです。 自ら見える者となって、裁きながら生きることは、真の裁き主なる神をも裁くことになるのです。主イエスの十字架とは、自ら見える者となっている人々の手によって、真の裁き主なる主イエスが裁かれるという出来事です。しかし、この十字架によって、主なる神は、罪人が受けるべき裁きを自らの一人子に追わせて、人々の救いを成し遂げられたのです。自ら「見える者」となってしまう人間を救うということは、主イエスの十字架によってのみなされることなのです。主イエスに対する信仰によってすら見える者となろうとする私たちは、常にこの十字架の主を見つめ、この方の前にひざまずくことによって真に見える者とされるのです。
主イエスは、続けて「こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と語られます。この方の前で、見えると思っていたものは見えなくされ、目えない者は見えるようにされます。私たちは「見える者」として振る舞う時に、実は、救いが見えていません。自ら力によって救いをつかみ取ろうとして歩む中で、神と隣人を裁いて生きる歩みは真に救われたものではないからです。しかし、そのような者が、主の十字架を示されて、自らの手につかんだ救いの確かさを手放して、自らの内に救いの確かさを見ようとすることをやめてつまずく中で、この方によって真に「見える者」とされるのです

おわりに
キリスト者は主イエスに出会い救いに与っています。しかし、尚、私たちは見える者として歩むこと自由ではありません。主イエスを信じる信仰が、一つの業となり、自分で自分の救いの確かさを得るための手段となってしまうことがあります。信仰についての学びや理解、教会での奉仕の業、洗礼という救いの印は、私たちの信仰にとって大切なものです。しかし、それらを私たちが、自ら「見える」と主張するための根拠としまうこともあるのです。そのような中で周囲の人々を裁く思いにとらわれてしまうこともあります。信仰ということを自分の理解に当てはめて、自分の救いを確かめようとしてしまうのです。私たちは、「見える者」として歩んでしまう罪の中に、示される十字架を見つめ続けなくてはならないのです。それは礼拝の中でなされることです。礼拝することにおいてご自身を示して下さる主イエスの前にひざまずくのです。そのような中で、自ら救いをつかみ取ろうとすることを止めて、繰り返し、主イエスを受け入れる歩みをなすのです。自らの信仰の確かさも見いだせない者が、自らの歩みを離れて主を礼拝するために集う時に、主イエスがご自身を示して、「あなたはもうその人を見ている、あなたと話しているのがその人だ」と語って下さるのです。この働きかけの中で、開かれた目でこの方を見つめつつ歩むものでありたいと思います。

関連記事

TOP