夕礼拝

主の憐れみを信じて

「主の憐れみを信じて」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第18章16-33節
・ 新約聖書; 使徒言行録 第27章21-26節
・ 讃美歌 ; 120、481
 

三人の旅人の来訪
 旧約聖書創世第18章には、主なる神様が三人の旅人の姿をとってアブラハムを訪れられたことが語られています。この訪問は何のためだったのでしょうか。その第一の理由が、18章の前半に語られていました。10節に、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」とあります。三人の旅人はこのことをアブラハムに告げるために来たのです。アブラハムとサラの夫婦に、男の子が生まれる、それは、彼らが何年もの間待ち続けてきた、神様の約束の実現です。アブラハムとその子孫が、神様の祝福を受け、全ての国民の祝福の源となる、という神様の約束によって、彼らは旅立ったのでした。男の子の誕生は、その祝福の約束がいよいよ実現するということです。この喜ばしい知らせを告げるために、この旅人たちは来たのです。ところがアブラハムとサラは、この喜ばしい知らせを、「笑う」という不信仰な仕方でしか受け止めることができませんでした。既に17章17節に、アブラハムが神様の約束のみ言葉を笑ったことがこのように語られていました。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」。夫アブラハムのこの笑いを引き継ぐように、妻サラは本日の箇所の12節で、「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。アブラハムもサラも、人間の常識ではもう子供を生むことはとうてい出来ない年齢になっていたのです。今さらそんなことを言われても、もはや笑うしかない、と思ったのです。しかし主なる神様は、彼らのこの笑いをとがめて、人間の思いにおいては全く不可能なことであっても、神の約束は必ず実現すると宣言なさったのです。それが前回、9月に読んだ18章前半に語られていたことです。

もう一つの目的
 本日は、16節以下の、後半のところをご一緒に読みます。ここには、神様が三人の旅人の姿で地上に来られた、もう一つの目的が語られているのです。それは、ソドムとゴモラの罪を確かめるためです。20、21節にこうあります。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。』」。ソドムという町の名は、既に13章10節以下に出てきていました。当時はまだアブラムと呼ばれていたアブラハムと、甥のロトが、それまでは一緒に暮らしていたのが、お互いの家畜が増えてきて共に行動できなくなったために、別々に暮らすことになり、アブラハムはロトに、「あなたは自分が好む方向に行きなさい、私はそれとは別の方向に行く」と言ったのです。13章10節にこうあります。「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」。ロトはこの豊かに潤った低地一帯を選び、そしてソドムに住むようになったのです。アブラハムは反対に死海の西側に広がる山地地方に住みました。そこは牧草も豊かではない未開の地です。つまりアブラハムはロトに、より豊かな地を譲ったのです。しかし豊かな地にある町ソドムは、13章13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあるように、豊かさと結びつく道徳的退廃の中にありました。そのソドムとゴモラの罪の重さを確かめるために、神様は三人の旅人の姿に身をやつして視察に来られたのです。

ソドムとゴモラの罪
 ソドムとゴモラの罪とはどのようなものだったのでしょうか。19章にはその有り様が具体的に描かれています。三人の旅人はソドムに着き、ロトの家に泊まったのです。その夜起ったことが4、5節に語られています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。』」。ソドムの人々は、ロトの家の客人たちに乱暴狼藉を働こうとしたのです。そこに「なぶりものにしてやる」とありますが、一説によればこれは、性的な関係を持つことを意味しているとも言われます。そこから、男性どうしの性的関係のことを、「ソドミー」と呼ぶ言葉が生まれました。つまりソドムとゴモラの罪とは、性的な退廃、倒錯であったと言われるのです。このようなことは豊かさの中で文明が爛熟していく時に必ず現れてきます。そしてそこには必ず他の様々な罪が伴っているものです。エゼキエル書第16章49節にはこのように語られています。「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった」。ソドムの罪とは、豊かな者が安閑と暮らしながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかったことだと言われているのです。またイザヤ書第1章10~17節にはこうあります。「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。ここにも、最後の17節にあるように、孤児ややもめ、つまり社会的弱者たちを守る正しい裁きが行われず、むしろ豊かな者、強い者が彼らを搾取している、という不正義が行われている中で、神にいけにえが捧げられ、祭りが盛大に行われ、祈りが捧げられている、つまり礼拝が形だけは盛大になされている、そんな礼拝や祈りはむなしいものであり、そのようなものを神様は喜ばず、かえって憎まれるのだ、と語られています。それが、ソドムとゴモラの罪だと言われているのです。ソドムとゴモラの罪とは根本的にはこのように、社会的正義の崩壊、強い者が弱い者を食い物にするようなことが見過しにされている、ということなのです。そのような社会には、性的な道徳の乱れもまたはびこっていくのです。

ソドム的社会に生きる私たち
 今読んだエゼキエル書にせよイザヤ書にせよ、悪徳の町ソドムの名をあげていますが、実際に見つめているのは自分たちイスラエルの民の罪です。そのように私たちも、このソドムとゴモラの罪を、よそ事としてではなく、私たち自身の、私たちのこの社会の罪として見つめなければなりません。日々のニュースに、談合や裏金、いじめによる子供の自殺、幼児虐待などが次から次へと報じられている現実はまさにソドム的です。そして大事なことは、これらの罪は大きな叫びとなって神様の耳に届いている、ということです。神様はこれらの罪を見過ごしになさることはないのです。神様は、「わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と言われるのです。そして確かめた上は、罪に対して裁きを、罰をお与えになるのです。

なぜアブラハムに告げるのか
 三人の旅人はアブラハムのところに来てこのことを告げました。それが来訪の第二の目的だったのです。しかしなぜ神様はこのことをわざわざアブラハムにお告げになったのでしょうか。その理由が18、19節に語られているのです。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」。アブラハムが強い国民となり、世界の全ての国民が彼によって祝福に入る、それは先ほども申しましたように、創世記12章においてアブラハムに与えられた神様の約束です。それは一言で言えば、アブラハムによって全ての人々が神様の救いにあずかるようになる、ということです。それは同時に、19節にあるように、彼が息子たちや子孫たちに、「主の道を守り、主に従って正義を行う」ように命じ、そのように人々を導くことが求められているということでもあります。全ての人々に祝福が及ぶためには、全ての人々に主のみ心を伝えていかなければならないのです。アブラハムはそういう使命を神様から与えられているのです。それゆえに神様は、ご自分がなさろうとしている裁きを彼にお告げになるのです。神様に選ばれ、祝福を担う使命を与えられたアブラハムは、神様のなさる裁きにも関わりを持つべき者とされているのです。

神の裁きに口を挟むアブラハム
 神様の裁きに関わりを持つ、それはそこに口出しをする、と言ってもよいでしょう。神様に選ばれ、祝福の担い手とされた者は、神様のなさる裁きにも口を挟むことを許されている、いやむしろ神様はここで、アブラハムがご自身の裁きに口を挟むことを待っておられるようにも思われるのです。そのことが感じられるのは22節です。そこに「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」とありますが、実はここには、聖書が手で書き写されて伝えられていく中で、写本家による訂正がなされていると言われています。「アブラハムはなお、主の御前にいた」とあるのは、もともとは「主はなおアブラハムの前にいた」となっていたのを写本家が書き換えたのだ、ということが写本の研究から言われているのです。元の形に戻して読んだ方が話はつながります。18章2節でアブラハムのもとを訪れたのは三人の旅人でした。しかし19章1節でソドムの町に着いたのは「二人の御使い」となっています。三人の内の一人が主であり、主はなおアブラハムの前に留まっていた、と読めばここはすっきりするのです。つまりここには、主なる神様が、アブラハムのもとに、立ち去り難く留まっている、という様子が描かれていたと思われるのです。それは、ご自身が今告げたソドムとゴモラへの裁きに、アブラハムが口を挟むのを主が待っておられる、期待しておられる、ということです。その神様の期待に応えるように、アブラハムは主の前に進み出て語り始めるのです。それが23節以下です。まず23~25節を読んでみます。「アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』」。アブラハムがここで何を語っているのか、正しく理解しなければなりません。彼が言っているのは、正しい者と悪い者を一緒に裁き、滅ぼすのは不公平だ、滅ぼされるのは悪い者だけであるべきだ、ということではありません。彼が言っていることの中心は、あの町に五十人の正しい者がいるなら、その五十人に免じて、神様あなたはあの町の全ての罪ある人々をお赦しにならないのですか、ということです。つまり彼が問うているのは、正しい者たちが悪い者たちと一緒に滅ぼされるのは問題だ、ということではありません。彼が問うているのは、少数の正しい者の存在によって、神様あなたは多くの罪ある者をお赦しになる、そういう憐れみのみ心を持っておられるお方なのではないですか、ということなのです。このアブラハムの問いに対して、神様は26節で「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」とお答えになったのです。五十人の正しい者がいるなら、その他の多くの罪ある者たちを赦そう、と神様は言われたのです。主なる神様は、多くの者の罪を裁くために少数の正しい者を犠牲になさることよりも、少数の正しい者に免じて、全ての罪人をお赦しになる、そういう憐れみの神であられることが示されたのです。

神を値切るアブラハム
 アブラハムは、その憐れみを頼りに、さらに問うていきます。27、28節「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」。神様の憐れみは、五十人が限界なのでしょうか、五人欠けたらもうだめなのでしょうか。それに対して神様は「四十五人いれば滅ぼさない」と言われたのです。このようにしてアブラハムは、次第にその数を減らしていき、ついに十人にまで持っていきました。神様と交渉して、数を値切っていったのです。そういう意味でここは大変面白い場面ですが、アブラハムにしてみればこれは大変緊迫した場面です。いつ神様の怒りが爆発して「いいかげんにしろ」ということになるか分からないのです。そういう思いが、27節の「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」、30節の「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください」、31節の「あえて、わが主に申し上げます」、32節の「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください」という言葉に表れています。アブラハムは必死に、まるで不発弾でも扱うように冷や汗を流しながら、神様の憐れみにすがっていったのです。

とりなしの使命
 けれども、まさにこのことこそ、神様が待っておられ、期待しておられたことだったのではないでしょうか。アブラハムが神様に選ばれ、全ての国民の祝福の源とされたのは、このような対話を神様との間でするため、言い換えれば神様のなさろうとする裁きにこのように口出しをするためだったのです。アブラハムはここで自分のため、自分の救いのために必死になっているのではありません。ソドムとゴモラの多くの罪ある人々が、神様の憐れみによって赦されるために彼はとりなしをしているのです。この「とりなし」こそ、神様がアブラハムに期待しておられる口出しです。人間の罪を裁き、罰を与えることは神様のなさることであって、本来人間が口出しできることではありません。しかし神様は、神様の祝福を担い、全ての国民が救いにあずかるための使命を与えられているアブラハムが、罪人のためのとりなしをすることを求め、待っておられるのです。それはアブラハムだけに求められていることではありません。アブラハムは、神様の民イスラエルの先祖です。アブラハムに与えられた祝福を受け継ぎ、世界の全ての国民が祝福に入るための務めを担っていくのが、イスラエルの民です。イスラエルが神様の民として選ばれたのは、このとりなしの使命のためなのです。そして今、この使命を受け継いでいるのは、新しい神の民、まことのイスラエルである教会です。つまり私たち、主イエス・キリストを信じる信仰者です。私たちも、アブラハムがソドムとゴモラの罪に満ちた人々のために神様の前に進み出てとりなしをしたように、私たち自身が生きているこのソドム的な社会の人々の罪の赦しのために、とりなしの働きをすることを求められているのです。神様はそのために私たちを選び、教会へと導き、信仰を与えて下さったのです。私たちがアブラハムに倣って罪ある人々のためのとりなしをすることを、神様は期待しておられ、待っておられるのです。

神の憐れみの深さに触れる
 アブラハムのとりなしによって、神様は最後には、十人の正しい人がいれば町を滅ぼさないと約束して下さいました。それは、アブラハムが神様をそこまで値切ったと言うよりも、とりなしの働きの中でアブラハムが、罪人を赦そうとして下さる神様の憐れみをより深く体験させられていった、ということでしょう。隣人のためのとりなしの祈りをしていく中で、私たちも同じことを体験します。罪ある隣人のためにとりなし祈っていくことの中でこそ私たちは、神様の憐れみのみ心により深く触れることができるのです。逆に言えば、隣人のためにとりなし祈ることをしないならば、神様の憐れみの深さも本当には分からないのです。神様の憐れみによりすがって必死にとりなしをしたアブラハムは、そのことによってこそ、神様の憐れみの大きさをはっきりと知ることができたのです。

信仰者の存在する意味
 十人の正しい人、つまり神様に従う人がいれば、その町の他の全ての罪人たちを赦して下さる、この神様の憐れみのみ心を見つめる時、私たちは、自分たちが信仰者として立てられていることの大きな意味を知らされます。横浜市の人口は三百万人といいますが、その中でキリストを信じている人はどれくらいでしょうか。全国の平均からすれば多い方かもしれませんが、それでも、ほんの一握りの少数者でしかないでしょう。こんな少数の者に何が出来るか、と気落ちさせられることもしばしばです。しかし、たとえ少数でも、神様を信じ、従っている者たちが存在していることは、この町全体にとって大きな意味のあることなのです。神様は私たちに免じて、この町全体を赦して下さるのです。それは私たちが誇らしく思うようなことでは全くありません。むしろ私たちはここで、与えられている重大な使命、責任を覚えるべきでしょう。

厳しい現実
 さてしかし、私たちは厳しい現実にも目を向けなければなりません。このような神様の憐れみのみ心が示されたにもかかわらず、ソドムとゴモラはこの後結局滅ぼされてしまったのです。十人の正しい人もいなかったということです。アブラハムのとりなしは功を奏さなかったのです。それが私たちの現実です。この厳しい現実が教えているのは、私たちのとりなしの業や祈りがこの世を救うことはできない、ということです。また、私たちが神様に従う少数の正しい人になることによって、この世が救われるのでもないということです。私たちは、どんなにがんばって正しい、神様に従う者であろうとしても、やはり罪に捉えられてしまっています。基本的にソドムの住人なのです。私たちは世を救う者ではなくて、救われなければならない、赦されなければならない罪人なのです。

主イエスによるとりなし
 神様は、その私たちを救おうとする憐れみのみ心によって、真実なとりなし手を送って下さいました。その人によって全ての罪人が赦され、救われる、そういう一人の人を遣わして下さいました。それが、独り子主イエス・キリストです。主イエスは、私たちの罪の赦しのために、とりなしをして下さった方です。ただ祈るだけのとりなしではありません。私たちの罪を全て担って十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分の命をいけにえとして捧げて下さったのです。この主イエスのとりなしによって、私たちは、罪を赦され、義とされるのです。洗礼を受け、この主イエス・キリストと結び合うことによって、キリストの体である教会の枝とされ、キリストによる新しい神の民、新しいイスラエルの一員とされるのです。アブラハムから始まった神様の民イスラエルの歴史は、主イエス・キリストによって今や、新しいイスラエルである教会へと引き継がれているのです。神様がアブラハムに求め、期待しておられたとりなしの働きも、私たち教会へと引き継がれています。神様は今、私たちに、共にソドムの町に生きる隣人のためのとりなしの祈りを求めておられるのです。期待しておられるのです。私たちがとりなし祈ったから、それで私たちが隣人を救うことができるわけではありません。しかし主イエス・キリストのとりなしによって罪を赦され、神様の豊かな憐れみのみ心を示された私たちは、その憐れみのみ心にすがって、隣人のためにとりなし祈っていくのです。本来とりなされるべき者である私たちが、キリストのとりなしによって赦され、とりなす者として新しく立てられていくのです。

敵のためにとりなし祈る
 私たちがとりなし祈る隣人とは、罪ある隣人です。それは、私たちに対して罪を犯し、私たちを苦しめている人々でもあります。つまり、私たちが自分の敵であると感じる人々です。神様は私たちがその人々のためにとりなし祈ることを、期待し、待っておられるのです。それは簡単なことではありません。しかし、私たち自身が、もともと罪人であり、神様の敵だったのです。その私たちのために、独り子イエス・キリストが、十字架にかかってとりなしをして下さったのです。主イエスのとりなしによって神様の憐れみを受け、赦された私たちは、敵である人々のために、とりなし祈っていくことができるはずです。そのとりなしの祈りの中でこそ、アブラハムがここで体験したように、神様の憐れみの本当の深さを、次第に深く、はっきりと体験させられていくのです。

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