夕礼拝

香ばしい香り

「香ばしい香り」  副牧師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第20章39-44節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第4章15-22節
・ 讃美歌 : 8、464

教会への感謝状
 フィリピの信徒への手紙4章10節以下は、パウロがフィリピ教会に宛てて記した感謝状です。フィリピ教会は、獄中にいるパウロを支えて来たのです。パウロはそのことを喜び感謝しているのです。本日は、その後半部分が朗読されました。15節には、「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」とあります。パウロは、マケドニア州にある、フィリピ教会、又、テサロニケ教会を起点として、この地方の宣教をしていたのですが、フィリピ教会は、その業を、最初から支えていたのです。しかも、パウロを覚えて祈り励ましたというだけでなく、「もののやり取り」、即ち、実際に物を援助するという形で支えたのです。この時、フィリピ教会の他にも、パウロの活動を支える教会はありましたが、もののやりとりという形で援助したのはフィリピ教会だけだったと言うのです。しかも、16節では「また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」とあります。この援助は、パウロがフィリピに滞在している時だけにとどまるものではなかったのです。ここにパウロとフィリピ教会との密接な結びつきや、フィリピ教会の熱心さを見ることも出来るでしょう。そして、実際、熱心で継続的な援助によってパウロの必要は満たされたのです。パウロは、そのことに感謝をすると共に、実際には、その援助が続けられることを求めていると言っても良いでしょう。しかし、パウロは、はっきりとそのような感謝や要求を述べません。11節に、「物欲しさにこう言っているのではありません」とあり、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とまで語っているのです。パウロは、援助によって、助けられ、命が保たれている身でありながら、自分は援助がなくても、貧しいままで生きて行くことが出来ると語るのです。

キリストによって満たされている
パウロは、なぜ、このような失礼とさえ思えるような、感謝を明確に語らない感謝状を記したのでしょうか。それは、パウロが、この手紙を通して、感謝や喜びと共に、もっと大切な信仰者の姿勢を伝えようとしているからです。それは、キリストによって満たされている者の姿勢と言っても良いでしょう。パウロの生活は確かに、教会の援助によって支えられているのですが、根本的には、援助されている物、言い換えるのであれば、地上の富によって支えられているのではないのです。このことは、世を生きる私たち人間が、なかなか意識出来ないことです。私たちの生活を具体的に支えているのは、地上の富です。だからこそ、私たちは、自分はそれらのみによって命を支えていると考えやすいのです。頭の中ではそうではないと思っていても、実際の生活の中では、自分の命を保つために必要な富を得ようとあくせくするということがあるのです。誰であっても、この世の富を追い求め、それに心を支配され、富の奴隷になってしまうことがあるのです。それこそ、富があふれていて食べることには事欠かないというような状況ではなく、パウロのように、牢に捕らえられていると言うような、危機的な状況であれば尚更でしょう。そういう中では、援助をしてくれる人や団体は、かけがえのない助け手、更には、自分の命を養ってくれる人生の主人にすらなってしまうことがあるのです。パウロとフィリピ教会は、まさに、そのような関係になってしまってもおかしくないような状況にあったのです。しかし、そのような状況の中で、パウロは、自分を真の意味で支えている、自分の必要を満たしている方はどなたかを見失っていないのです。だからこそ、フィリピ教会の援助を喜び感謝しながら、自分は貧しさの中でも満足出来ると語ったのです。やせ我慢しているのではありません。キリストの救いにあずかって、真の意味で満ち足りている者は、この世の富や豊かさに縛られ、隷属することなく、自由にされているからです。パウロは、贈り物に対する感謝しつつ、物質的なもの、富のもつ力に支配されていません。使徒としての自由な働きをなしつつ、何ものにも捕らわれずに福音に仕えているのです。

あなたがたの益
続く、17節には、次のようにあります。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」。ここでもパウロは、自分が援助を求めているのではないことを強調し、その上で、教会からの援助は、実は、パウロのためではなく、教会の益のためであると言っているのです。援助が、教会が豊かな実を実らせるために必要なのだと言っているのです。この主張は、とても傲慢であるようにも思えます。自分に物を送ることは教会の益になるのだから、せっせと援助しなさいと言わんばかりです。このことは何を意味しているのでしょうか。パウロはここで、人のためにしたことは自分のためになるのだというような教訓を語っているのではありません。この教会の援助の中に、主に救いにあずかって、信仰を持って歩む者の姿があることを見つめているのです。この援助が、教会において、真の交わりが形成され、本当の救いにあずかって行くために必要なことなのです。それは人助けという善行に励めば、そのことの結果として救いが得られると言うようなことではありません。むしろ、神様の救いにあずかったものが、その恵みに応答しつつ、真に主なる神様に栄光を帰して行くことの中で生まれる実りを見つめているのです。

香ばしい香り
18節には次のようにあります。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んでくださるいけにえです」。パウロは、ここでフィリピ教会からの贈り物が「香ばしい香り」であると語り、さらに、この香りについて、「神様が喜んで受けてくださるいけにえ」と語ります。これは、イスラエルにおいて、神様に対して、動物を焼き尽くすという形でいけにえを捧げる時、そこで生じる煙が発する香りを神様に捧げているという考え方から来ています。本日朗読された旧約聖書の中に、「宥めの香り」という表現がありました。イスラエルの民は、いけにえを燃やす時に発する香りが、神様の怒りを宥めると考えていたのです。つまり、パウロのために送られた贈り物は、丁度、神様が、最も喜んで下さるいけにえのようなものであると言うのです。もちろん、宣教の業に励む使徒を援助することによって、神様の怒りを免れるというのではありません。信仰者は、神様によって与えられる恵み、具体的には、人間の罪のために、キリストが自らを捧げて下さったという出来事によって、罪を免れ、救いにあずかっているのです。そのような意味で、キリストの十字架こそ、神様に捧げられた、私たち人間の罪のためのいけにえなのです。この十字架の救いにあずかり、神様に贖われた者は、今度は、自分を、神様に捧げて行く者になります。フィリピ教会にとって、その具体的な現れが、パウロへの援助という形になったのです。そして、そのような、自分自身を神様に捧げていく中で営まれる業は神様に捧げられた香ばしい香りとなるのです。

贈り物の本質
これまでの箇所を振り返る時に示されることがあります。それは、この箇所では、経済の用語、商売の用語が多用されているということです。15節の「もののやり取り」という言葉は、貸借関係を意味するものです。「贈り物」という言葉には、支払いという意味があります。又、「あなたがたの益となる豊かな実」、という言葉には、貸勘定が増え、利子を得られるというようなニュアンスがあります。18節の前半には、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」とありまが、この言葉は「全額受領しました」という意味があり、領収書を渡す時の語られる言葉です。パウロはここで敢えて、商売に関する用語を用いているのです。そのような用語は、信仰のことを語るのには相応しく無いと思うかもしれません。お金や物質的な富に関することは、人間の思いや欲望と密接に結びついています。私たちの中にも、お金が清いものではないという漠然としたイメージがあります。しかし、このような、人間の物欲と密接に関係した、貸し借りの関係にもなぞらえるもののやりとりが、神様によって満たされ、神様に自らを捧げている者にとっては、神様との関係においては、豊かな供え物として見つめられるのです。パウロは、ここで贈り物が教会とパウロとの間、即ち、人間同士の間で持つ意味ではなく、神様との間で持つ意味を見つめているのです。キリスト者にとっての贈り物の本質が現されていると言っても良いでしょう。もののやり取りということは、人間だけの関係を見つめるのであれば、非常に難しいのです。ものを贈るということは、利害関係がある関係の中では、賄賂として見られることがあります。物を渡すことによって、相手に貸しを作り、そのことによって自分の思いが少しでも実現するように努めるのです。それ程、露骨ではなくても、ものを贈ることによって、相手に対して優越感をもったりすることがあります。又、逆に、ものを贈られた時に、相手に借りをつくってしまうような気持ちになって、心から喜んで、それを受けることが出来ないということも起こって来るのです。送られた者と同等のお返しをしないと落ち着かないということもあるのです。そうすると、善意でなされていることが、その目的を果たさなかったり、贈り物によって、かえって隣人との関係がギクシャクするといということも生じるのです。
教会におけるもののやりとりも、その本質が見失われる時、本来の目的を達成するものにはなりません。ただ、キリストによる豊かさを与えられて、それに満ち足りることのみが、信仰者を、富やそれにまつわる人間の思いからは自由にするのです。人間的には、貸しが出来たとか借りが出来たというようにとらえられてしまうものであっても、それが神様との関係において香ばしい香りであるということを受けとめて行くようになるのです。そして、そのような中でこそ、もののやりとりということによって健やかな関係が築かれて行く道なのです。
これは、信仰者の奉仕全般に言えることです。神様に仕えるということも、人間の業という側面があります。そうである以上、完全なものではなく、様々な欠けがあるのです。そこに人間的な思いや、利害、自分を誇ろうとする思いや、人々を見下そうとする思いが生じることすらあります。その業において、人間の思いが入り込んで来て、その本質が見失われる時、信仰者が、真に自由にされた者としての喜びをもって奉仕に仕えることが出来なくなってしまうのでしょう。そこで、教会の益となる豊かな実りが結ばれて行くこともないのです。

キリストの苦しみを共にする
パウロは、教会の援助の本質が、神様への香ばしい香りであることを見つめて来ました。そのことの意味を見つめて行きたいと思います。14節には「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」とあります。フィリピ教会の人々がもののやりとりにおいて、パウロを支えたことは、ただパウロを助けたということではなく、パウロの苦しみを共にしたということになるのです。パウロの苦しみとは、キリストに倣いつつ福音を宣教する時に生じる苦しみです。それは、自分を捧げる時に生じる苦しみと言っても良いでしょう。そして、その苦しみは、キリストに倣うことによって生じるものであると言う意味で、キリストの苦しみに結びついて行くものなのです。キリストの救いにあずかる者には、必ず、この苦しみが生じます。世にあってキリスト者となり、キリストを証しして行く時に、人間の思いを求め、自分の欲望を追求して行くのではなく、神様の御心を求め、自分自身を捧げつつ、人々に仕えて行く歩みが生まれます。それは、人間の思いからすれば苦しみを伴うことなのです。見返りが何も期待出来ない中で、パウロの生活を援助するということも、フィリピ教会にとって、苦しみを伴うことであるに違いありません。教会は、有り余る中の一部をパウロに送ったというのではないでしょう。自分たちの生活の糧、この世での命を支えている富を削って、それをパウロのために用いたのです。そのような形で、自分自身を神様に捧げたのです。しかし、この苦しみこそ、パウロと苦しみを共にすることであり、何よりもキリストの苦しみを共にすることになるのです。このような、共にキリストに倣いつつ自らを捧げることによって生じる苦しみを共にして行く所にこそ、人々への奉仕が生まれ、人々との間の豊かな関係が結ばれて行くのです。更には、キリストの苦しみを共にするということは、キリストが、約束して下さっている、救いの命を共にして行くことにもなるのです。だからこそ、この援助は、パウロのためではなく、教会が豊かな実りを実らせて行くためのものになるのです。

栄光の富に応じて
19節には、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださっています」とあります。神様の栄光の富とは、私たちの地上の富をはるかに超えた本当の豊かさです。私たちは、日頃、地上の富によって命が支えられていると感じています。だからこそ、もののやりとりの中で、人間の思いが渦巻き、ややこしい関係が生じるのです。しかし、本当の豊かさ、キリストによって贖い取られて、神様の救いにあずかっているという豊かさを知り、共に、それによって生かされるのであれば、そのような思いからは解放されて行きます。自分で富を獲得し、それによって生きていこうとするのではなく、キリストの救いに満たされて行くことこそ、真の救いにあずかっていく道なのです。だからこそ、パウロは20節で「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と語るのです。もし、教会において、神の富に満たされることよりも、人間の手による働きによって得られる富や、人間の業が求められて行くのであれば、そこでは人間の栄光が語られるようになります。ものを贈ることや自分の奉仕の業で自己主張をしたり、自らを誇ったりすることになります。しかし、全ての人が、神様によって必要を満たされるのであれば、そこでは、父なる神にのみ栄光が帰されているのです。そのため、パウロの贈り物の感謝は神への頌栄として結ばれて行くのです。

真の挨拶を交わしながら
21節以下には、手紙の結びの言葉が記されています。「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください」と始まり、様々な人との間での「よろしく」との挨拶の言葉が記されます。「わたしと一緒にいる兄弟たち」、とは、パウロの同労者たちのことです。共に福音に仕えている人々のことです。しかし、そのような人々だけが見つめられているのではありません。「皇帝の家の人たち」とあるのは、ローマ帝国の公務に携わっていた人たちです。そして、この「よろしく」とは挨拶の言葉です。つまり、ここでは、全ての人の間で交わされる挨拶が語られています。更に、21節の最初にある「よろしくと伝えてください」という言葉は、挨拶することを勧める言葉としても読めるのです。挨拶が、本当に人と人の間の関係を生みだし、それを健やかにして行くということがあります。ギクシャクとした関係があったとしても、一言の挨拶から、お互いの心が解きほぐされて行くということが起こるのです。しかし、それにしても、大人が書く手紙の結びが、「挨拶をしなさい」というような子供に対するしつけのようなものであることに違和感を覚えるかもしれません。しかし、これは世の常識としての挨拶が見つめられているのではありません。挨拶によって人間関係が上手く行くというような教訓が語られているのではありません。むしろ、ここでは、信仰者にとって挨拶が持つ意味を見つめなくてはなりません。それは、信仰者にとって、挨拶は、同じ救いにあずかり、主によって養われている者たちが、その恵みを分かち合っていることを現しているということです。神様の救いにあずかり、必要なものがそれぞれに備えられ、それによって共に生かされているという信仰の中での挨拶こそが本当の意味で、人々との関係を結んで行くものとなるのです。この結びは、教会において、主にある豊かな関係が結ばれて行くことの一つの具体的な姿を示してくれているのです。
私たちは、この世の富に支配され、人間の思いに囚われて、欠け多い業を繰り返す者なのかもしれません。しかし、主が私たちを満たして下さったことを覚えつつ、自らを捧げることによって互いに仕え合う中で、共に香ばしい香りを捧げて行く者でありたいと願います。

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