夕礼拝

血による贖い

「血による贖い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第17章1―16節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章52―59節
・ 讃美歌 : 134、436

レビ記の流れ
 本日は旧約聖書レビ記第17章からみ言葉に聞きたいと思います。私が夕礼拝説教を担当する日はレビ記を読み進めていますが、月に一度のことですから、これまでの流れを見失ってしまいがちです。そこで先ず、これまで読んできた所にどんなことが語られていたのかを振り返っておきたいと思います。
 レビ記の1章から5章には、主なる神様の民であるイスラエルの人々が動物を犠牲として神様に献げる、その献げ物にいくつかの種類があることが語られていました。そして6章7章には、民を代表してその犠牲を献げる祭司がその儀式をどのように行なうべきか、それについての細かい教えが語られていました。続く8章から10章には、この祭司をめぐるいくつかのことが語られており、8章は祭司の任職のこと、9章は任職された祭司アロンとその子らが最初に犠牲を献げた時のこと、そして10章には、アロンの子らの中から、神様がお命じになったのとは違う炭火で香を炊いたために滅ぼされた者が出たことが語られました。民の礼拝を司る祭司の務めの重要さとその責任とがこのようにして示されたのです。次の11章から15章にかけては、食べてもよい清い動物と食べてはいけない汚れた動物の区別や、皮膚病において汚れている場合とそうでない場合、また女性は出産や生理においてどのような時に汚れているか、などが語られています。これらは全て、神様の前に出ることができる清い者とはどのような者か、そして人が汚れた者となり、神様の前に出ることができなくなるのはどのような場合か、ということを教えているのです。そして前回読んだ16章には、年に一度民全体の罪の贖いの儀式が行われる「贖罪日」のことが教えられていました。罪の赦し、贖いを受けることによって清い者とされ、神様の前に出ることができるようになる、その儀式を毎年繰り返すことによって、イスラエルの民は神の民として歩んでいったのです。 神聖法集  これが、これまで読んできたレビ記の流れですが、本日の17章からは、レビ記の中でも最も長い一続きの部分に入っていきます。この部分は新共同訳の小見出しにおいては「神聖法集」と呼ばれています。この神聖法集が何のためにあるのかを現している文章が19章2節の後半にありますのでそこを読んでおきます。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。聖なる者である主なる神様の民とされたのだから、イスラエルの人々も自ら聖なる者とならなければならない、そのために守るべき掟がこの神聖法集なのです。レビ記の中で私たちが最もよく知っている有名な教え、19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」もこの神聖法集の中にあります。本日の17章はその神聖法集の最初の所なのです。 礼拝の正規の場所  この17章に語られているのは大きく分けて二つのことです。一つは、牛、羊、山羊などの家畜を屠ることをどこでしなければならないかということで、それが9節までに語られています。二つ目は10節以下の、動物の血を食べてはならない、という教えです。この二つの教えが何を語っており、またそれは私たちにとってどのような意味があるのかを本日は考えていきたいのです。先ず第一のことですが、3~5節を読んでみます。「イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。それゆえ、従来イスラエルの人々が野外で屠っていたいけにえは、主への献げ物として臨在の幕屋の入り口の祭司のもとに携えて行き、それを主への和解の献げ物とすべきである」。この教えのポイントは5節の、従来野外で屠っていたいけにえを、臨在の幕屋の入り口の祭司のもとに携えて来て、主への献げ物として屠れ、ということにあります。臨在の幕屋というのは、神様に犠牲を献げるための祭壇が置かれている聖所であり、祭司たちはそこでの礼拝のために仕えているわけです。つまり神様を礼拝すべき正規の場所が臨在の幕屋です。牛や羊や山羊を屠るというのは、それを神様に犠牲として献げて神様を礼拝するということです。そのことを、従来はそれぞれが野外で、自分で行なっていたのを、これからは臨在の幕屋で、つまり主なる神様を礼拝するべき正規の場所で行ないなさい、と語られているのです。つまりこの教えは、神様への礼拝を、自分の好きな場所で、自分の勝手な仕方でするのではなくて、神様がお定めになった場所で、お定めになった仕方で行え、ということです。神の民イスラエルが自らを聖なる者として清く保つための神聖法集の一番最初にこの礼拝のことが語られていることに注目しなければなりません。つまり、神様の民として、聖なる者となって生きるために第一になすべきことは、礼拝を正しく守ることなのです。「正しく」というのは、自分の勝手にではなく、ということです。それぞれが自分の好きな場所で、好きな時に、好きなように犠牲を献げて礼拝をしているのでは、神の民としての聖なる生活を送ることはできないのです。礼拝は、神様の民が神様のみもとに集い、神様を拝み、神様に従い仕えることを確認し、表明する時です。その礼拝を、自分の思いや都合によって、自分の勝手な仕方でしているとしたら、それは自分が主人になっているのであって、神様に従い仕えていることにはなりません。神様の民として生きるためには、私たちは先ず、神様がお定めになった時に、神様がお定めになった場所に体を運び、神様がお定めになった仕方で礼拝をする、という生活を整えていかなければならないのです。このことは、主イエス・キリストによって新しいイスラエル、新しい神の民とされている私たちにもあてはまる大切な教えです。

食事と礼拝
 このようにこの教えは、神の民の礼拝の生活を整えるための教えであるわけですが、そこにはさらに大きな意味が込められています。というのは、イスラエルの人々の生活において、牛、羊、山羊などを屠ることは、それらを神様に犠牲として献げるためだけではなくて、その肉を自分たちが食べるためでもあったからです。つまり、自分たちが毎日の食事において食べる肉を得ることをも含めて、家畜を屠る時には、従来のように野外で、自分たちの勝手にするのではなくて、その家畜を臨在の幕屋の入り口へ携えて来て、主への献げ物として屠れ、と教えられているのです。私たちは、主への献げ物にしてしまったら自分たちが食べることができなくなるのではないか、と思いがちですが、そんなことはありません。既に読んできたように、動物を神様に献げる時には、その全てを焼いて献げる「焼き尽くす献げ物」の場合以外は、実際に献げるのは6節に「祭司はその血を臨在の幕屋の入り口にある主の祭壇に注ぎかけ、脂肪は主を宥める香りとして燃やして煙にする」とあるように、血と脂肪の部分だけです。残りの肉は、一部は祭司のものとなりますが後はその動物を献げた人のものとなり、それが家族の食料となるのです。ですからこの教えは、家畜は全て神様に献げなければならない、あなたがたはそれを食べてはいけない、などと言っているのではありません。そうではなくて、家畜を屠ってその肉を食べることを、神様への礼拝と関係ない所で、自分たちの都合でするのではなくて、神様に献げ物を献げて礼拝をすることの中に位置づけなさい、ということなのです。つまり、あなたがたの食事を礼拝と結びつけなさいということです。食事をすること、肉を食べることは、人間の生活における日々の基本的なことです。それを、神様を抜きにして、神様のことを覚えることなく、それぞれの勝手に、自分のみの事柄としてするのではなくて、神様のみ前に出ること、礼拝することの中に位置づけるべきことが教えられているのです。そういうことを通して、日々の具体的な生活が、神様と共に歩む生活、神様を礼拝しつつ生きる生活となっていく、神様の民としての生活はそのようにして具体的に形造られていくのです。この教えの趣旨はそこにあります。これを私たちの生活に当てはめて考えるならば、食事の前に感謝の祈りをする、ということとつながると言えるでしょう。私たちは、食前に祈ることによって、備えられた食事が神様の恵みによって与えられていることを覚え、またこの食べ物によって自分たちを養い、力づけて下さる神様の祝福を感謝し、そしてその恵みが家族や隣人たちにも与えられるように祈るのです。そのようにして私たちの食事は神様の恵みの中で、神様と共に生きるための時となります。そういう祈りなしにただ肉体の栄養を摂るためだけになされる食事は、動物が餌を食べているのと同じだと言わなければならないでしょう。

偶像礼拝に陥らないために
 さらに7節には、「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」とあります。これが、家畜を野外で、それぞれの勝手に屠ってはならないという禁止の理由の一つなのです。「山羊の魔神」とありますが、これは要するに山羊の姿をした偶像の神です。野外で動物を屠ることは、この山羊の偶像を礼拝することと結びついていたのです。そういう偶像礼拝を退けて、主なるまことの神様のみを礼拝するように、というのがこの掟のもう一つの目的なのです。このことも私たちの信仰と関わる大事な事柄を指し示しています。つまり、人間が自分の勝手に、好きなように礼拝をするようになると、そこには必ず偶像礼拝が入り込んで来る、ということです。偶像は人間が造り出したものです。それゆえに偶像の神は必ず、人間に奉仕する神、人間の願い、要求を叶えるための神なのです。自分の都合や願いに合わせて礼拝をしようとする思いがそういう偶像の神々を生み出すと言うことができます。神様に従い仕えようという思いによってではなくて、自分の思いや願いを優先させ、自分の都合に合わせた礼拝をしているならば、そこで信じられ拝まれている神は、たとえ目に見える像にはなっていなくても、やはり偶像です。「山羊の魔神」を拝んでいるのと同じなのです。そういう偶像礼拝に陥らないために、礼拝は一人一人が勝手に自分の好きな所で好きな時にするのではなくて、神様がお定めになった所で、お定めになった時に、お定めになった仕方でなされなければならないのです。神様の民としての聖なる生活とは、このように、偶像礼拝に陥ることなく、神様に従い仕える思いで礼拝を守っていく生活なのです。

血は命の宿る座
 次に、第二の教え、「血を食べてはならない」について見ていきたいと思います。10節にこうあります。「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ」。ユダヤ人たちは今日に至るまでこの教えを大切に守っています。彼らは、血抜きをするという特別な仕方で屠られた肉しか食べないのです。しかしこの「血を食べてはならない」という教えは何のためにあるのでしょうか。11節はその理由をこう語っています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。ここには二つのことが理由としてあげられています。第一は、「生き物の命は血の中にあるからである」ということです。血は、その動物の命の宿るものと理解されているのです。命の宿るものである血は食べてはならない。ではその血はどうするのかというと、先ほどの6節にあったように、主の祭壇に注ぎかけるのです。そのようにして神様にお献げするのです。命の宿る座である血は神様に献げなければならない。それは、命はもともと神様のものだからです。神様は動物の肉を、食料として人間に与えて下さいました。だから人間は動物の肉を食べることができるのです。けれども神様はその動物の命までも与えてはおられません。命は神様のものであり、神様にお返ししなければならないのです。そのことがを語っている創世記第9章の1~4節を読んでみます。「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない』」。このように血は命であり、それは神様にお返しすべきものであるから、血を食べてはならないのです。

血は贖いのため
 しかしこの教えの理由それだけではありません。11節の後半に第二の、さらに深い理由が語られています。「わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。ここに語られているのは、命の宿る所である血は、ある一つのことのみのために与えられている、ということです。その一つのこととは、贖いの儀式を行うことです。16章の「贖罪日」の儀式がそうだったように、動物の犠牲によって民の罪が赦され、神様のみ前に出ることができる清い者とされる、その贖いの儀式において、犠牲の動物の血が注がれるのです。それはつまり、その動物の命が注がれるということです。動物の肉は、焼いて神様への献げ物とすることができますが、私たちの罪を贖い、赦しをもたらすことができるのは、肉ではなくて、命であるところの血のみなのです。血はこの「罪の贖い」のために神様によって与えられているものだから、それを肉と同じように食べてはならない、というのがこの教えなのです。
 このことから分かるように、「血を食べてはならない」という教えは、単なる食生活上の教えではなくて、やはり神様への礼拝と深く結びついています。私たちが神様のみ前に出て礼拝をするためには、罪の贖いを受けなければなりません。その贖いを行うものである血は、特別なものとして扱わなければならない、ということです。血は、汚れたものだから避けなければならないのではありません。むしろそれは神様のものであり、それゆえに聖なるものです。神様はその血によって私たちに罪の贖いを与えて下さり、私たちが神様のみ前に出て礼拝をすることができるようにして下さるのです。聖なるものである血によって与えられるこの礼拝を大切にし、それを正しく守るように、というのがこの教えの趣旨なのです。ですからこれも、前半と同じく、神様がお定めになった礼拝を正しく守り、礼拝を中心とした生活を整えるようにという教えなのです。

動物の血による贖い
 「血はその中の命によって贖いをするのである」ということは、ひっくり返して言えば、人間の罪を贖うことができるのは、血の中に宿っている命のみである、ということになります。私たち人間は皆、神様に対して、また隣人に対して罪を犯しています。神様をも、隣人をも、愛することができずにむしろ憎み、傷つけてしまうような思いや行いに陥っているのです。その罪の贖い、赦しをいただかなければ、私たちは神様のみ前に出て礼拝をすることができません。しかしその罪の贖いは、私たちが自分の罪を反省し、何か善い行いをするように努力することによってできることではないのです。どんなに素晴しい愛の業をしたとしても、それで罪を償い、帳消しにすることはできません。私たちの罪はそれほど根深く大きいのです。その罪を贖うことができるのは命のみです。私たちは、自分の命を献げることによってしか、つまり死ぬことによってしか、罪の贖いをすることはできないのです。神様は旧約聖書において、そういう罪人である人間の中からイスラエルの人々をご自分の民として選び、彼らに、動物の命である血による贖いを与えて下さいました。彼ら自身の命によって、つまり彼らが殺されることによってではなくて、彼らに代って動物が殺され、その血が注がれることによる贖いを与えて下さったのです。それが16章の「贖罪日」の儀式です。これは神様がご自分の民となさったイスラエルの人々に与えて下さった大きな救いの恵みでした。しかしこの動物の血による贖いは、決して十分な、完全なものではありませんでした。贖罪日の儀式は毎年繰り返されなければならなかったのです。つまり一年間しか有効期限がなかったのです。

主イエスの血による贖い
 旧約聖書におけるこの動物の血による贖いは、新約聖書における、神様の独り子イエス・キリストによる贖いへの準備でした。神様は、私たちの罪の贖いのために、動物の命に代って、ご自分の独り子の命を与えて下さったのです。神様の独り子イエス・キリストが人間になってこの世に来て下さり、私たちのために十字架にかかって血を流して下さったことによって、つまり主イエスがご自分の命を与えて下さったことによって、私たちの罪の完全な贖いが成し遂げられたのです。み子イエス・キリストの血による贖いは、牛や羊などの家畜の血による贖いとは違って完全なものです。繰り返される必要のない永遠の贖いです。およそ二千年前の主イエスのあのゴルゴタの十字架における死が、私たち全ての者の罪の贖いの出来事だったのです。父なる神様はこの主イエスを復活させて下さり、この主イエスのもとに、主イエスの血による贖いにあずかる新しいイスラエル、新しい神の民を呼び集め、結集して下さっています。それが教会です。私たちは、洗礼を受けて教会に加えられ、主イエスの血による贖いにあずかり、キリストの体である新しい神の民に加えられるのです。

主イエスの血にあずかりつつ
 私たちをご自分のもとに集めて下さっている救い主イエス・キリストは、私たちに、ご自分の血を飲むようにとお命じになっています。そのことを語っているのが、先程共に朗読したヨハネによる福音書第6章の52節以下です。53~55節の主イエスのお言葉を読んでみます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。主イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」とおっしゃっています。それによって永遠の命が得られるというのです。血を飲むことはレビ記では厳しく禁じられていました。それなのに敢えて主イエスが「わたしの血を飲め」と言っておられるのは、動物の血による贖いの時代は終った、ということを意味しています。私たちの贖い、罪の赦しは、主イエスの血、主イエスの命によって完全に成し遂げられたのです。動物の血も、人間の血も、贖いの役目をもはや終えたのです。それを罪の贖いのためのものとして特別視する必要はもうありません。ですから私たちは、血抜きのされていない肉を安心して食べることができます。また、「エホバの証人、ものみの塔」の人々が言っているように、輸血をすることが聖書の教えに反する、などと考える必要も全くないのです。むしろ輸血は、命の宿る血によって他の人の命を助けることですから、主イエス・キリストが私たちのために成し遂げて下さった救いのみ業に相応しい行為であると言うことができます。私たちが今心を用いるべきことは、いかにして血を食べずにいるかではなくて、いかにして主イエス・キリストの血を飲むか、その血による贖いにあずかって生きるかです。そのために主イエスは私たちを礼拝へと招き、礼拝で行われる聖餐において、信仰によってキリストの体と血とを味わい食することができるようにして下さったのです。今日、神様による贖いの恵みを受ける神の民は私たち教会です。神が聖なる者であられるからあなたがたも聖なる者となりなさいと求められているのも私たち教会です。その聖なる者としての歩みとは、神様が定めて下さった礼拝を守り、み言葉を聞き、聖餐において主イエス・キリストの体と血とにあずかりつつ、主イエスと共に生きていくことなのです。

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