夕礼拝

どこにいるのか

「どこにいるのか」牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第3章 8節-24節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙、第8章 18節-25節
・ 讃美歌 ; 441、474
 

人間の罪
 創世記第三章には、神様に造られた最初の人間が、神様に背く罪を犯し、その結果エデンの園から追放された、という、いわゆる「失楽園」の物語が語られています。最初の人間アダムとその妻は、蛇の誘惑によって、神様が食べてはいけないと命じておられた「善悪の知識の木」の実を食べてしまったのです。この物語の持つ意味、ここに象徴的に示されている人間の罪の本質について、先月私が夕礼拝の説教を担当した時にお話ししました。人間は、エデンの園で、神様のもとで生きていることを束縛と思い、その束縛を断ち切って神様から自由になり、自分が主人になって生きようとしたのです。それこそが、聖書の見つめる人間の罪の本質です。そしてこの物語は、その罪によって何が起ったかをも語っています。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」と七節にあります。裸であることに気付き、腰巻きを作ったのです。それは、「隠す」ということの始まりを意味しています。神様に対しても、また人間どうし、夫と妻の間でも、「隠し立て」が始まったのです。それは関係に亀裂が入ったことを意味しています。一旦入った亀裂はどんどん広がっていきます。神様から罪を責められたアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と、自分の罪の責任を妻になすりつけたのです。そのようにして、夫と妻の間の、向かい合って共に助け合って生きる関係が崩れ去ってしまったのです。神様から自由になって、自分の思い通りに生きようとした人間は、その結果、人間どうしの関係、その最も基本である夫婦の関係においてすらも、深刻な破れに陥ってしまったのです。

神の顔を避ける
 このような人間の罪の本質とその結果について前回お話ししたわけですが、本日は、前回読んだ個所と少し重なる八節以下を読んでいきたいと思います。八節に「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあります。「その日」とは、アダムたちが禁断の木の実を食べてしまったその日、「風の吹くころ」とは夕方になって、という意味です。「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」。ここに、エデンの園における主なる神様と人間との交わりが、まさに神様の足音を聞き、そのみ顔を見ることができるような直接的なものだったことが語られていると言えるでしょう。しかし「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」と続きます。人間は神様に背き、自分が主人になろうとする罪によって、神様の顔を避け、神様の前から身を隠すようになったのです。エデンの園における神様との直接的な、顔と顔とを合わせる交わりはこうして失われていきました。つまり、私たちが今、神様をこの目で見ることができないのは、神様がもともと人間の目に見えない存在だからではないのです。人間の罪のゆえにそうなったのです。罪に対する神様による罰によってそうなった、と言うよりも、人間の方が、神様の顔を避けて生きるようになり、神様の前に出ようとしなくなったのです。

「どこにいるのか」
 そのように身を隠している人間たちに、神様が声をかけられます。「どこにいるのか」。「あなたはどこにいるのか」。罪を犯し、神様の顔を避けて身を隠す人間に、神様はこう呼びかけられます。この神様からの呼びかけ、あるいは問いかけを受け、それに応えていくところに、罪を犯し、即ち自分が主人となって生き始めることによって神様との交わりを断ち切り、神様のみ顔を避けて生きている私たち人間と神様との関係がもう一度回復されていく出発点があります。神様は今、私たち一人一人に、「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられるのです。

誰が問うのか
 神様のこの問いかけによって私たちは、神様との関係についての従来の思いを大きく、正反対に変えることを求められます。というのは、私たちは基本的にいつも、私たちの方から、「神様はどこにいるのか」「神様、あなたはどこにいるのですか」と問いかけているからです。この世は様々な苦しい悲しいつらい現実に満ちている。しかし神様は目に見えない。いったい神様はどこにおられるのだろうか。どこに行けば、あるいはどうすれば神様と出会うことができるのか。その恵みや導きを感じることができるのか。私たちはそのように思い、いろいろと手を尽して神様を探し求めているのではないでしょうか。けれどもそのように探し求めていっても、神様からの「私はここにいるよ」という返事を聞くことができません。かくれんぼで隠れている人を見つけるように神様を見つけ出すことはできません。私たちが神様に、「どこにいるのか」と問うている間は、神様との真実な出会いは起らないのです。何故か。問う者と問われる者とが反対だからです。「あなたはどこにいるのか」と問うておられるのは、実は神様なのです。私たちがそのように問いかけられているのです。神様がどこにいるかが問題なのではなくて、私たちがどこにいるのかが実は問題なのです。神様との真実な出会いは、神様からのこの問いかけを受けることから始まります。自分が神様に問われているのだ、ということを知ることから始まるのです。神様がどこにいるのかと問うていく人間、それはどこまでも自分が問う主体であろうとしている、つまり自分が主人になり、自分を主体として生きようとしたアダムの罪を受け継いでいる人間の姿です。その罪によって人間は神様との交わりを失い、神様を見失ったのです。神様との交わりを回復するためには、私たちは、自分が問う主体であることをやめなければなりません。神様こそが私たちに、「あなたはどこにいるのか」と問われる方であられることを認め、受け入れることから、その交わりの回復は始まるのです。

罪を示される
 「あなたはどこにいるのか」という神様からの問いは、私たちに、自らの罪をはっきりと示します。私たちは、神様から、「あなたはどこにいるのか」と問われる時に始めて、自分の罪を本当に自覚することができるのです。神様との関係において、今自分がどこにいるのかを知ること、それがとても大切なことです。私たちは、人との関係において、あるいはこの社会において、自分がどこにいるのかをいつも考え、感じつつ生きています。人との交わりの近さ遠さ、親密さと疎遠さによって、人との距離を測りながら生きています。またこの社会の中で自分が今いるのはどのへんの階層なのか、会社の中での地位はどうなのか、高いのか低いのか、重んじられているのか軽んじられているのか、そういうことをいつも敏感に測りながら生きているのではないでしょうか。しかしそれらは皆人との関係における自分の相対的な位置です。あの人と比べればこうだが、この人と比べればああだ、という世界です。しかし自分という人間が本当にどこにいるのかは、そういう相対的関係によってはわかりません。神様という絶対的な方との関係においてしか、自分がどこにいるのかはわからないのです。
 先週の教会全体修養会の講演において、宮田光雄という方の書かれた『キリスト教と笑い』という本を紹介しましたが、同じ宮田光雄さんの書かれた『アウシュヴィッツで考えたこと』という本があります。その冒頭に、マルティン・ニーメラー牧師についてのエピソードが紹介されています。ニーメラーは、ナチス・ドイツに対して最も果敢に戦ったドイツの牧師であり、そのために一九三七年から四五年の第三帝国崩壊まで、ダッハウの強制収容所に入れられていた人です。そのニーメラーが戦後、ダッハウの跡を訪ねた時、そこの死体消却炉跡に書かれていた「ここで一九三三年から一九四五年のあいだに二三万八千七百六十五人の人間が焼かれた」という言葉を読んだ時、彼は衝撃を受けたのです。それはその数の多さに驚いたのではありません。「一九三三年から」という年に衝撃を受けたのです。一九三三年から三七年に捕えられるまでの四年間、まだ自由な身だった自分が、このような虐殺が行なわれていたことを心に留めておらず、それを阻止するための行動を何もしていなかった、そこに彼は、自らの罪があったことを知って衝撃を受けたのです。彼はそこで、「マルティン・ニーメラーよ、一九三三年から三七年までの間、あなたはどこにいたのか」という神様からの問いかけを聞いたのです。ナチスに抵抗して八年間も強制収容所に捕えられていた彼は、むしろ犠牲者なのであって、決して加害者ではないし、その責任を感じなければならない人ではないと私たちは思います。しかしそれは、人との関係の中で、人と見比べて見えてくる自分の位置です。神様の前で自分はどこにいるのか、を問われるならば、その自分にもまた罪がある、責任があるということが見えて来るのです。人に対してはいくらでも言い訳ができます。しかし神様の問いかけの前では、私たちは自分の罪を明らかにされずにはおれないのです。

男と女の順序
 神様が「どこにいるのか」と呼びかけられたのはアダムに対してでした。そしてその呼びかけによって木の陰からおずおずと出てきた人間たちに、神様は「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」とその背きの罪を問われますが、その問いが先ず向けられたのもアダム、つまり男性、夫でした。創世記第二章以下の物語はここに、男女の順序を見つめています。二章において、最初に造られたのは男性、アダムでした。女性は後から、「彼に合う助ける者」として造られたのです。それは向かい合って共に助け合って生きるパートナーという意味であって上下関係ではない、ということを前に申しました。この物語において、神様がお造りになった人間の本来の姿に、男女の上下関係はありません。しかし順序はあるのです。まず男性、そして女性という順序です。そしてそれは、男性が優先される、ということではありません。神様の命令に背き、禁じられていた木の実を最初に食べてしまったのは女性でした。アダムは妻に渡されてそれを食べたのです。そのように、罪を犯した場面では明らかに女性の方が主導権を握っています。けれども、神様がその罪を指摘し、責任を問われる相手は、先ず男性、アダムなのです。先に造られた男性にこそ先に責任が問われる、それがこの物語が語っている男女の順序なのです。

責任逃れ
 アダムは先程申しましたように、神様に問われた罪の責任を妻になすりつけます。彼が、夫婦を代表する者として神様の問いに応えて罪を認め、悔い改めることが求められているのに、その神様の期待を裏切り、妻のせいにしているのです。また彼の「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」という言葉は、神様にまで責任をなすりつけようとしています。「あの女を連れて来たのは、神様あなたじゃありませんか。あなたがあんな女を連れてくるからこんなことになったのです」とでも言っているようです。もう神様の下で生きるのはやめた、自分が主人になって自由に生きるのだ、という傲慢な思いで罪を犯した人間は、自由な者となるどころか、こんな情けないていたらくになってしまったのです。
 女もまた、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と、蛇のせいにしています。蛇は彼らをだましたのではありません。神様の下で縛られて生きるのはやめて自由になりなさいよ、と促しただけです。彼らがそれに乗って食べたのです。女もまた、責任を負おうとはしないのです。

失楽園
 このことを受けて、神様は、今度は逆の順序で、つまり蛇、女、男という順で、罪に対する罰を宣言されます。人間に与えられた罰の中心は、エデンの園からの追放です。神様の下で生きることをやめてしまった人間は、その罪の結果としてエデンの園、楽園を追われ、荒れ野のようなこの世を生きなければならなくなったのです。それが今私たちが生きているこの世界の現実です。ここはエデンの園、楽園ではありません。私たちのこの世における歩みには、様々な苦しみがあります。それは、人間の罪に対して神様が下された罰なのです。具体的にはどのような苦しみが見つめられているのでしょうか。それを一六節以下から見ていきたいと思います。一六節は女に対する罰、一七節以下は男に対する罰が語られているところです。

女性の苦しみ
 まず女性に対しては、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」と言われています。出産の苦しみが、女性に与えられた神様の罰とされているのです。子供を産むことは、女性に与えられている大きな祝福であり、また務めです。二○節に、アダムが妻をエバ(命)と名付けたこと、それは彼女がすべて命あるものの母となったからであることが語られていますが、母となることは女性の人生における、唯一のではありませんが大きな意味であり祝福です。その出産が同時に苦しみを伴うものでもあるという現実を、人間の罪に対する神様の罰として位置づけているのです。またその後には、「お前は男を求め、彼はお前を支配する」とあります。これは、女性が男性に依存しなければ生きていけないという、長く続いた男性中心の社会のあり方を反映したものです。そういう意味では、今はこの立場は逆転しているとも言えるかもしれません。しかしどちらがどちらに依存し、支配するかはともかく、ここに語られていることは、男性と女性の関係が、神様がもともと人間を男と女として造って下さった時の、「向かい合って共に助け合って生きるパートナー」としてのよい関係を失って、いびつなものになっている、ということです。そのいびつな関係の中で、女性は長くその苦しみを負ってきたのです。そのような男女関係における歪みとその結果としての様々な苦しみが、人間の罪の結果として見つめられているのです。

男性の苦しみ
 一七節以下は男性に対する罰です。そこに語られていることは、労働の苦しみです。一九節に、「お前は顔に汗を流してパンを得る」とあります。「額に汗して」という言い方はここから来ています。苦労して生活の糧を得なければならない、それが罪の結果として男性に与えられた罰だというのです。前にも申しましたが、エデンの園の生活にも労働はありました。二章一五節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とある通りです。しかしその労働は苦しみではありませんでした。この園は基本的に、食べるによい木の実を自由に取って食べることができる所だったのです。しかし罪によってそこから追放されて今私たちが生きているこの世はそうではありません。むしろ一七節に「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とあるように、人間の罪のゆえに、大地は呪われてしまい、容易に作物を、食べ物を生み出してはくれなくなったのです。だからアダムは、男は、苦労してそこを耕し、苦しみながら生活の糧を得なければならないのです。労働そのものは本来祝福されたものだったのに、それが苦しみを伴うものとなったのです。ですからこれは女性の出産の苦しみと対応しています。女性の出産の祝福が苦しみを伴うものとなったように、男性の労働の祝福が苦しみを伴うものとなったのです。

死の苦しみ
 もう一つここに語られているのは、死のことです。それは19節後半の、「土に返る」という言葉に言い表されています。土の塵から造られたお前は、土の塵に返るのだ、ということが、アダムへの罰の中に語られているのです。それは男だけの問題ではなく、人間全体に対して宣言されていることです。ここで誤解してはならないのは、人間は罪に対する罰として死ぬようになったのではない、ということです。エデンの園にはもう一本、食べてはならないと言われていた木があり、それは「命の木」でした。その実を食べると永遠に生きるようになるのです。人間がエデンの園から追放されたのは、この命の木の実をも食べてしまうことがないように、ということでした。そのことが二二節と二四節からわかります。ですから人間は罪を犯す前から、永遠に生きる者ではなかったのです。いつか死ぬ者だったのです。けれども「土に返る」ということがことさらに一九節に語られているのは、罪によって神様との関係が破れてしまったことによって、人間にとって死が、神の罰であるように、恐ろしいこと、不安なことになった、ということでしょう。死というのは、神様が私たち人間の命を終らせられることです。神様がお与えになった命の息を取り去られることです。つまり神様こそが私たちの主人、支配者であられることがそこで最もはっきりと現れる時なのです。私たちは死において、命を与え、それを取り去られる主と直面しなければなりません。その主との関係が平和であり、よい交わりがそこにあるならば、それは何も恐ろしいことではないのです。しかしその関係が失われ、破れてしまっていると、それは得体の知れない恐ろしい力に捕えられ、支配されてしまうことになるのです。罪の結果として、死は、人間にとって恐ろしいもの、苦しみになったのです。

虚無に服した世界
 またここに語られている神様の罰は、単に人間の生活が苦しみを伴うものとなった、ということに留まりません。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」という言葉は、土が、大地が、つまり神様に造られたこの世界が、人間の罪のゆえに神様の呪いの下に置かれるようになった、ということです。人間の罪は、人間と神様の関係を、また人間どうしの関係を損ない、破壊するだけではなく、この世界と神様との関係をも破れたものにしてしまったのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙第八章一八節以下です。その二○節にこうあります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」。被造物は虚無に服している、それは二一節では「滅びへの隷属」と言い換えられています。被造物全体が、虚しいもの、滅びに支配されたものとなってしまっている。しかもそれは「服従させた方」の意志による、つまり、神様のご意志によってそうなっているのです。それは、本日の個所の、人間の罪のゆえに大地が呪われるものとなったことを指し示しているのです。人間は、これは創世記第一章によりはっきりと語られていたことですが、神様に造られた被造物の中心であり、代表であり、また全被造物を管理するべき者です。その人間が神様との関係を失ってしまう時に、全被造物も、呪いの下に置かれ、虚無に服し、滅びに隷属するものとなってしまうのです。

救いの希望
ローマの信徒への手紙第八章は、このことを指摘すると同時に、その虚無からの救い、滅びへの隷属からの解放の希望を語っています。一九節に、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とあります。二一節にも、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」という希望を持っているとあります。そのために今、全被造物が、「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とも言われています。神の子たちが現れること、それが、被造物がこの呪いから解放されるための希望なのです。それは私たち人間の問題です。二三節には、「被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。神の子とされるのは、私たちなのです。「霊の初穂をいただいている」とは、言い換えれば信仰を与えられ、主イエス・キリストによる救いにあずかり、神様の民とされている、ということです。主イエス・キリストは、神様の下を離れて自分が主人となろうとする罪を犯し、その結果様々な苦しみを背負いつつ荒れ野のようなこの世を生きている私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、神様との関係を回復させ、私たちを神の子として下さるために神様がお遣わし下さった独り子、救い主です。この主イエス・キリストによる救いの恵みにあずかることによって私たちは、アダムとエバが失った神様とのよい関係、交わりを再び得ることができるのです。私たちの生きるこの世はなお荒れ野ですけれども、そこで主イエスの確かな支えと導きを受けて歩み、また、死を超えた彼方に与えられる、目には見えないけれども確かな希望を待ち望みつつ、土に返るその日まで、忍耐して歩み続けることができるのです。そしてそのような神様の救いの恵みと希望とに生かされていくための第一歩が、今神様が私たち一人一人に呼びかけておられる、「あなたはどこにいるのか」という問いの前に立つことにあるのです。

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