夕礼拝

盗んではならない

「盗んではならない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章19節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第16章19-31節
・ 讃美歌:122、513

人を盗んではならない
 本日は「盗んではならない」という十戒の第八の戒めをご一緒に読みます。この戒めは「殺してはならない」という第六の戒めと並んで、私たちにとって常識と思えるものです。「人のものを盗んではならない」ということは社会の基本的なルールであって、聖書によって教えられなくてもよく分かっている、と思うのです。しかし最近の聖書の研究においては、この戒めは、人のものを泥棒することを禁じていると言うよりも、人そのものを誘拐することを禁じているのだと考えられるようになってきました。申命記24章7節にこのように語られています。「同胞であるイスラエルの人々の独りを誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない」。これが「盗んではならない」の本来の意味なのだと考えられるようになってきたのです。人のものを盗むことを禁じる教えはむしろ第十の戒め、21節の「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」、この戒めにおいて語られているのです。人のものを欲しがる貪欲については第十の戒めに語られており、この第八の戒めは、人そのものを誘拐して奴隷にしたり売り飛ばしたりすることを禁じているのです。

人を奴隷にすること
 人を誘拐して奴隷にすることは大変大きな罪であることは私たちの誰もが認めるところですが、そういうことが現代の社会においてもなされています。北朝鮮による拉致はまさにそういうことですし、イスラム過激派もそういうことをしていると報道されています。それらは他の国の人がしたことですが、今日本は、国際的な人身売買における有力な受け入れ国となっているそうです。そういうことの調査団体がこの横浜で調査を行なったことがしばらく前に報道されていました。この横浜に、東南アジアなどから人身売買によって連れて来られた女性たちが多くいるのです。またかつての戦前戦中の時代には、強制連行された朝鮮半島の人々が日本で働かされており、敗戦のドタバタの中でその給料もきちんと支払われていない、という現実もあります。かつても今も、この国においてそういうことがなされているのです。さらには、今問題となっているブラック企業やブラックバイトは、人を奴隷のように扱い、また消耗品のように切り捨てていくものだと言えます。人を鎖で縛るのもお金で縛るのも、本質的には違いはありません。第八の戒めはそういうことを罪として戒めているのです。

人の自由に関わる戒め
 第八の戒めがこのように人を奴隷化することを戒めているのだとしたら、この戒めが十戒の中にあることの特別な意味が見えてきます。十戒は、イスラエルの民が、エジプトで、まさに奴隷として苦しめられていた、そこから救い出して下さった主なる神によって与えられたものだからです。十戒の前置きの言葉、6節の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」がそれを示しています。イスラエルの民は、奴隷とされることの苦しみを民全体として味わい、知り尽くしているのです。主なる神が与えて下さった救いとは、その奴隷の苦しみからの解放だったのです。ですからこの戒めは、主なる神が与えて下さったその解放、それによって与えられた自由を再び失ってはならない、ということを意味しています。そのためには、お互いがお互いの自由を尊重し、それを奪ってはならないのです。第八の戒めはこのように、人の持ち物、財産に関わる戒めであるよりも、人の自由に関わる戒めなのです。

神によって解放され、自由を与えられた者として
 第八の戒めがこのように、人の自由を奪うことを禁じているのだとしたら、「盗んではならない」という言葉の文字通りの意味である、人のものを盗むこと、泥棒をすることはどうなのでしょうか。それは第十の戒めにおいて語られているので、第八の戒めとは関係ないのでしょうか。そうではないでしょう。人のものを盗むことは、人の自由を奪うことの一部です。その人が自由にできるはずのものを奪い取ることは、その人の自由を奪うことに他なりません。つまり泥棒をすることと人を奴隷にすることはつながっているのです。このことを見つめることによって私たちは、なぜ人のものを盗んではならないのか、その根本的な理由を示されるのです。なぜ人のものを盗むことはいけないのか、世間の常識においてはその答えは、「誰でも自分のものを盗まれたら困るし、嫌な思いをする、だから人のものを盗んではいけない」ということでしょう。それをもう少し気取って言えば、人間には「私的所有権」という犯してはならない権利があるのだ、ということになります。しかしそれは、その権利を認めないという考え方の人には意味をなさなくなります。世の中のものは全てみんなのものであって、誰かによって所有されるべきではない、共有されるべきだ、という前提に立てば、そもそも「人のもの」「自分のもの」という区別はなくなるのであって、「盗む」ということが成り立たなくなるわけです。しかし聖書が「盗んではならない」と語るのは、人間の私的所有権によってではありません。聖書は、人の自由を奪い、奴隷化することを禁じているのです。その一部として、盗みを禁じているのです。そしてその自由とは、基本的人権としての自由ではありません。十戒を与えられたイスラエルの民においてそれは、主なる神が彼らをエジプトの奴隷状態から解放して、与えて下さった自由です。神に与えられた自由、神の恵みによる自由なのです。その自由を大切にする、そのために、お互いに人の自由を尊重しなければならない、だから人のものを盗んだり、人を奴隷にしてはならないのです。つまりこの戒めを守って生きることは、私的所有権や財産権を守って生きることではなくて、神によって解放され、自由を与えられた者として生きることなのです。

罪から解放された者として
 そうであるならば、この戒めは、主イエス・キリストによる救いにあずかり、教会に連なって生きる私たちの信仰においても真剣に受け止められるべきものです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって、生まれつき私たちを捕え、奴隷にしている罪の支配から解放されたことを信じています。つまりイスラエルの民におけるエジプトの奴隷状態からの解放が、私たちにとっては主イエス・キリストの十字架と復活による救いの出来事なのです。神は主イエスの十字架によって私たちの罪を赦して下さり、主イエスの復活によって私たちにも神の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。洗礼を受けて主イエスと結び合わされ、この救いにあずかった私たちは、罪の奴隷状態から解放され、自由を与えられた者として生きています。その私たちにとってこの戒めは単なる道徳的な教えではなくて、主イエスによって与えられた自由の中に、自分も他の人々も留まって生きるための、信仰者としての生活の指針なのです。

隣人を助ける
 主イエスによって与えられた自由に留まって生きるとは、どのように歩むことなのでしょうか。「盗んではならない」という戒めは私たちにどのような指針を与えているのでしょうか。そのことを、「ハイデルベルク信仰問答」の問111によって考えたいと思います。第八の戒めについて、「それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか」という問いに対する答えはこうなっています。「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」。これこそが、第八戒によって主が私たちに求めておられることです。私たちが自分に与えられているものを自分のためだけに用いて、それによって隣人を助けようとしないならば、それはその人に与えられるべきものを盗んでいることになるのです。つまりこの戒めによって主が私たちに求めておられるのは、人を誘拐して奴隷にしてはならないとか、人のものを泥棒してはならないというような消極的な禁止命令を守ることのみではありません。主はもっと積極的に、隣人の利益を促進し、人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行なうこと、誠実に働いて得たもので、困窮の中にいる貧しい人々を助けることをこそ求めておられるのです。そのように生きることこそが、主イエスの十字架と復活によって罪の奴隷状態から解放されて新しく生きる信仰者の自由な生き方なのです。

人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行う
 「人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行う」。それは主イエスがマタイによる福音書第7章12節でお語りになった「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という教えから来ています。黄金律と呼ばれる教えですが、このように生きることができる人こそ、本当に自由な人なのです。何故それが自由なのかというと、その人は、自分の持っているもの、お金やいろいろな能力や時間などの様々なものを、自分の手の中に、自分のために抱えておかなければならない、という思いから自由であり、それを人のために手放し、人を助けるために用いることができるからです。私たちはそのような自由に生きることができずに、自分の持っているもの、財産の奴隷になってしまっていることが多いのではないでしょうか。財産の奴隷になっていると、それを手放すことができず、人のために用いることができません。これは自分のもので、自分のために使うのだ、人のためなどに使うことはできない、という思いは、財産の奴隷となっている姿です。あるいは、自分のものを人のために用いていても、そのことで人が自分を褒めてくれることを求めており、人の評価と尊敬を得るためにそれをしているとしたら、それも名誉や賞賛の奴隷となっているのであって、自由な姿ではありません。名誉や賞賛の奴隷となっていると、それが得られるか否かで一喜一憂することになるし、自分よりも優れた人に対しては劣等感とひがみを抱き、自分より劣っている人に対しては優越感を抱き、見下すようになります。お金の奴隷になっている人が、自分より金持ちをねたみ、自分より貧しい人を見下すのと同じです。いずれにしても全く自由ではない、解放の喜びを知らない生き方です。主イエスは私たちをそのような奴隷状態から解放して、人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行うことができる、真実な自由を与えようとしておられるのです。「盗んではならない」という第八の戒めはそのために与えられているのです。

金持ちとラザロ
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第16章19節以下の「金持ちとラザロ」の話から、このことをさらに考えていきたいと思います。これは、一人の金持ちと、その門前に横たわっていたラザロという貧しい人の話です。金持ちはいつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。ラザロは、この金持ちの門前に横たわり、彼の食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたのです。この二人が共に死にました。するとラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」のです。つまり一言で言えば天国に行ったのです。ところが金持ちは、陰府で、炎の中でもだえ苦しむことになったのです。彼はなぜこのような苦しみに落とされたのでしょうか。彼は、人のものを盗んだわけではありません。自分の財産を自分のために、思う通りに使っただけです。けれども主なる神は彼の生き方をよしとはなさらなかったのです。それは、彼が、自分の門前で助けを求めているラザロを見ながら何もしなかった、何の援助も与えず、食卓から落ちる残りものさえ与えなかったからです。つまり彼は、「隣人の利益を促進し、人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行なう」ということをしなかったのです。それは彼がラザロに与えるべきものを盗んで自分のために使ってしまったことになるのです。

主イエスが復活しても
 この話にはもう一つのポイントがあります。それはこの金持ちがアブラハムに、自分の兄弟たちが自分と同じ苦しみに陥らないように、つまり自分の持っている財産の奴隷になってしまわないで、困っている隣人を進んで助ける者となれるように、ラザロを兄弟たちのところに遣わしてください、と願ったことです。死んだ者が復活して、お前たちの兄弟はこんなことになっているぞと諭せば、兄弟たちは悔改めるだろうと彼は思ったのです。それに対してアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言っています。モーセとは律法のことです。その中心が十戒です。彼らは既に十戒を知っているのです。エジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神が、その救いを受けて神の民となった者たちのなすべきことを十戒において示しておられ、神と隣人とを愛して生きるべきことを教えて下さっている、そのみ言葉を聞いているのです。また多くの預言者たちも、金持ちが貧しい者を顧みず自分のことだけを考えていることを厳しく戒めている、その預言者たちの言葉をも彼らは聞いているのです。それらの教えによって、主なる神が何を求めておられるのかは既に示されているはずだ、ということです。その上でアブラハムはさらにこう言っています。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。「死者の中から生き返る者があっても」というのは、話の流れにおいてはラザロが復活しても、ということになりますが、本当に見つめられているのは主イエスが復活しても、ということです。モーセと預言者、それは旧約聖書を指していますが、その言葉に耳を傾けないなら、主イエスが復活してもその言うことを聞き入れはしない、悔い改めは起らないのです。それが多くのユダヤ人たちに起ったことでした。彼らは、モーセの律法も預言者の言葉も聞いていましたが、それらによって主が語っておられることに耳を傾けようとせずに、悔い改めませんでした。そのような人々は主イエスが復活しても同じように悔改めることはなかったのです。金持ちとアブラハムの会話は基本的にそういうことを意味しています。

解放と自由への招き
 しかし私たちはここに、もう一つの意味を読み取ることができます。それは私たちに対する語りかけであり問いかけです。つまり私たちは、死者の中から生き返った方である主イエスとの出会いを与えられ、その主イエスと共に歩んでいる者です。復活なさった主イエスが今この礼拝において私たちに語りかけておられるのです。つまり私たちは、この金持ちが、こういうことが起れば自分の兄弟たちも悔い改めるに違いないと思った、まさにそのことを体験しているのです。その私たちはどうするのか、そのことが問われています。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエスが、今私たちと出会い、私たちを罪の支配から解放し、真実の自由を与えようとしておられるのです。その私たちはこれからどう生きていくのでしょうか。なお罪の支配の下に捕えられたままで悔い改めることなく、自分のもの、自分の財産、自分の名誉や誇りに捕えられて、それを手放そうとせずに、自分の門前にいるラザロを無視したこの金持ちのような生き方を続けるのか、それとも、主イエスの十字架と復活による罪の赦しを信じて悔い改め、罪から解放され自由になった者として、自分のもの、自分に与えられている様々な意味での財産への捕われから解放されて、それらを隣人のために、困窮の中にいる貧しい人々を助けるために用いて、隣人の利益を促進し、人にしてもらいたいと思うことを人のためにする者として生きていくのか、そのことが私たちに問われているのです。いや、問われていると言うよりも、主イエスは私たちをそのようなまことの自由へと招いて下さっているのです。金持ちとラザロの話は、この金持ちのような生き方をした者は死んでから地獄で苦しむことになるぞ、と私たちを脅しているのではなくて、私たちが主イエス・キリストによる救いを信じて主のもとに立ち帰り、罪を赦されその支配から解放されて、自分に与えられているもの、お金や力や時間その他のものを、み心に適うことのために、つまり隣人を支え助けるために用いていく、そういう本当の自由へと私たちを招いているのです。「盗んではならない」という第八の戒めは、主イエスによる救いの恵みの中で、私たちをこの解放と自由へと招いているのです。

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