「男と女」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 創世記、第2章 18節-25節
・ 新約聖書; エフェソの信徒への手紙、第5章 21節-33節
・ 讃美歌 ; 358、505
出会いと交わりに生きる人間
創世記第二章四節の後半からは、第一章に語られていたのとは別の、第二の天地創造物語が語られている、ということを、先月の説教で申しました。二章四節以下は、一章とは内容が全く違う話になっているのです。最も大きな違いは、人間の創造と動物たちの創造の順序が逆である、ということです。第一章では、この世界が創られ、秩序が与えられていき、植物が、そして動物が創られ、最後に人間が創られています。しかし第二章では、木も草も生えていない荒れ地のような地上に、先ず人間が創られ、神様が備えて下さったエデンの園に住わせられた、ということが語られています。神様はその園に、食べるに良い実を実らせる木々を生えさせて、人間が生きることができるようにして下さいました。その後本日の一八節以下で、まず動物たちが、そして人間の女性が創られていくのです。先ず人間が創られ、そのために植物が創られ、また動物たちも、人間よりも後に創られていることが第二章の一つの特徴です。そしてもう一つは、人間の男女が同時にではなく、まず男性が、そして後から女性が創られたとあることです。第一章では二七節にあるように、人は神御自身にかたどって、男と女とに、同時に創造されているのです。
第二章のこのような語り方は、この物語を書いた人が、一つの明確な視点に立ってそこから天地創造のみ業を描き出していることの現れです。その視点とは、人間を中心とする視点です。それは神様をないがしろにして人間を中心にしている、という意味ではなくて、神様によって創られ、生かされている人間が、神様と、そしてこの世の他の被造物と、どのような関わりを持って生きているか、ということに焦点を当てて描こうとしている、ということです。そういう意味で、先ず人間が創られ、その人間が、神様によってエデンの園に置かれ、そこで植物の実りによって養われ、さらにそこで動物たちと出会い、そして女性と出会っていく、という物語が語られているのです。神様によって造られた人間が、様々な出会いと交わりを体験しながら生きていく、ということをこの物語は描いているのです。
男性と女性
この物語を読むことにおいて大きな問題となるのは、男性と女性の位置づけです。先ず男性であるアダムが創られ、「人」と呼ばれています。「人」と訳されている言葉は「アダム」です。「アダム」は、最初の人間の名前、固有名詞と言うよりも、「人」を意味する集合名詞なのです。その「人」アダムが出会う相手として女性が創られます。そうなると、「人」とは男性のことで、女性は「人」ではないのか、というような話にもなり、男性中心の、女性を人間と思っていない古代の差別的感覚がここにはある、というふうにも読まれてしまうのです。
この物語が、男性を人間の代表として位置づけていることは確かです。神様が土の塵からお造りになった人間はアダムだったのです。アダムが造られたことが、神様による人間の創造として語られているのです。そしてそのアダムが出会う相手として、後にエバと呼ばれるようになる女性が造られます。女性エバは、男性アダムが出会い、交わりを体験していく相手として造られているのです。しかしこのことは、男性こそが本来の人間であり、女性は補助的な存在にすぎない、ということを意味しているのではありません。一八節以下を丁寧に読んでいけば、そのことがはっきりと分かってきます。本日はそのことをご一緒に読み取っていきたいと思うのです。
独りでいるのは良くない
一八節に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という神様のみ言葉があります。ここに、ここから始まる一連の物語を貫く神様のみ心、ご意志が示されています。人間は、独りで生きるべきものではない、「彼に合う助ける者」と共に生きるべきものだ、という神様のみ心が、これから始まるストーリーの根本にあるのです。「人が独りでいるのは良くない」とは、言い換えるならば、人間は、他者との出会いと交わりに生きるべきものだ、ということです。独りでいる、とは、他者との出会いと交わりなしに、孤独に、自分一人の世界を生きるということです。そういう生き方は人間にとって良くない、と神様は言っておられます。それは、評論家か何かのように、人間はこうあるべきだ、という教えを語っているのではありません。神様は、人間をお造りになった方です。土の塵から造った人間に命の息を吹き入れ生かして下さったのは神様です。その神様がこう言っておられるということは、神様は人間を、他者との出会いと交わりに生きる者としてお造りになった、ということです。神様にかたどって、神様に似せて造られた人間が、その造られた姿に最も相応しく、つまり神様の似姿として生きるとは、他者との交わりに生きることなのです。「独りでいる」ことは、神様が人間を造られたその本来の姿に相応しくないことなのです。
彼に合う助ける者
人間をそのような者としてお造りになった神様は、共に生きる相手をも造り、与えて下さいます。アダムを造った神様は、さらに、「彼に合う助ける者を造ろう」と言って下さるのです。この「彼に合う助ける者」という言葉は、前の口語訳聖書では「ふさわしい助け手」となっていました。しかし「ふさわしい」と言うと、「ふさわしい価値がある」という価値判断を伴う意味にとられがちです。そうなると、アダムに相応しい、釣り合いのとれた相手が与えられる、ということになります。しかしここに語られているのはそういうことではありません。新共同訳がこれを「彼に合う」と訳したのは、よく考えられた苦心の訳です。この言葉はもともと、「向かい合う」という意味なのです。お互いに向かい合って、相手のことを見つめながら共に生きる、そういう存在です。従って、「助ける者」というのも、どちらかが主体で他方は補助者ということではありません。対等に向かい合って、互いに助け合って生きる相手です。つまりこの「助ける者」は、「ヘルパー」ではなくて、「パートナー」なのです。神様は人間のために、そのようなパートナーを造ろうと言っておられます。人間を、他者との出会いと交わりに生きるべき者としてお造りになった神様は、造った責任を最後まで果して下さり、向かい合って共に生きる相手、パートナーをも造り、与えて下さるのです。
動物の創造
この一八節のみ言葉によって、最終的には女性が造られるのですが、直ちにそれがなされているわけではありません。一九節以下で神様が先ずお造りになったのは、「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥」でした。ここに、動物たちの創造が位置づけられているのです。神様はその動物たちを人のところに連れて来て、人がそれぞれの動物をどう呼ぶかをご覧になりました。「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」、つまり、人間がそれぞれの動物に名前をつけていったのです。この名前をつけるということには、深い意味が込められています。名前をつけることにおいて起っているのは、先ずは相手との出会いです。そして相手についての認識、つまり相手がどのような存在であるかを知ることが起っています。相手についての認識なしに名前をつけることはできません。そして名前をつけることによって、相手と自分との関係をはっきりさせ、相手を自分の生きる世界の中に位置づけ、何らかの意味で相手と共に生きるようになるのです。私たちがある人と知り合いになることにおいて起っているのはそういうことだと言えるでしょう。知らなかったある人と出会い、この人はこんな人だと認識し、自分の中でその人のことを位置づけることを私たちはいつもしています。それはある意味でその人に名前をつけるのと同じことです。そうすることによって、私たちはその人と自分との距離感をはっきりさせます。ある場合にはとても近い、自分にとって大事な存在として位置づけるし、それほどでもない、もっと遠い存在として位置づけることもあるわけです。名前をつける、とはそういうことを意味しています。神様は動物たちを、人間が出会い、交わりを持って生きる相手としてお造りになったのです。そのみ心によって最初の人間アダムは、あらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたのです。しかし、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」。動物たちや鳥たちは確かに、人間が出会い、ある意味での交わりを持ち、この世界を共に生きる者として神様が造って下さったものです。しかし、人間にとって、本当に向かい合って共に助け合って生きる相手、パートナーは、動物たちの中には見出せないのです。
深い眠り
そこで神様は、人を深い眠りに落とされた、と二一節にあります。この深い眠りとは、人間の意識が全くなくなり、夢も見ないような状態です。神様が人間をそのような深い眠りに落とされるということが聖書の中に時々出てきます。神様ご自身が大事なことをなさろうとしておられるところにそれが出てくるのです。神様が大事な、決定的なことをなさるには、人間の思いや意識や活動は邪魔になるのです。その深い眠りの中で、神様はアダムのあばら骨の一部を取って、それで女性を造られました。女性は、男性のあばら骨から造られたというのです。
あばら骨
このこともまた、女は男のあばら骨に過ぎない、と女性の価値を低く見ているのではありません。大事なことは、女性の創造において、その素材が男性の体の一部だったということです。このことは、その前の動物の創造との対比において意味がはっきりします。野の獣や空の鳥が造られた時には、それらは一九節にあるように、土で形づくられたのです。動物の素材は土です。しかし女性の素材は男性の体の一部です。これは、男性にとって、女性という存在の持つ意味は、動物たちとは全く違うということです。先程言った距離感が全く違うのです。人間と動物は異質なものです。しかし男性と女性は、同じもの、同質な存在なのです。勿論、根本的には先月見たように、人間は土の塵から造られたのですから、動物たちとの共通性が見つめられています。しかしここで、女性が動物たちとは違って男性のあばら骨から造られたと語ることによって、この第二章は、女性を低く見るどころか、男性と同質なもの、動物たちとは明らかに意味の違うものとして見ているのです。
ついにこれこそ
神様は女性を人、アダムのところに連れて来ました。そしてそこで、やはり名付けがなされるのです。つまりここでも、出会いが起こり、認識が起こり、相手を自分の生きる世界の中に位置づけることがなされるのです。その名付けにおいてアダムが語った言葉は、彼にとってこの出会いが、動物たちとの出会いとは決定的に違うものだったことを表しています。二三節です。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう。まさに男から取られたものだから」。「ついにこれこそ」というところに、探し求めていた、向かい合って見つめ合い、共に生きるパートナーがついに見つかった、という喜びと感動が言い表されています。動物たちとの出会いにおいては見出すことのできなかった、本当に自分と対等に向かい合い、共に助け合って生きることのできる相手を、男性は女性の中に見出したのです。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という言葉には、この相手が自分と同質の存在だ、という意味が込められています。同質の、同じ本質を持った相手だからこそ、向かい合って共に生きることができるのです。動物の中にそういう相手が見出せなかったのは、彼らは人間と同質ではないからです。神様にかたどって造られ、他者との出会いと交わりに生きることができる者ではないからです。難しい言葉で言えば、人格的な存在ではないからです。しかし男性にとって女性は、共に神様にかたどって造られた者であり、出会いと交わりに生きることができる、人格的な相手なのです。
「これをこそ、女と呼ぼう」というのが、名付けの言葉です。アダムが、「これは女だ」と呼んだことによって、人類の半分は「女」と呼ばれるようになったのです。新共同訳聖書においては、ここに括弧があり、ヘブライ語の原語の音が記されています。ヘブライ語で女は「イシャー」であり、男は「イシュ」なのです。「イシュから取られたものだから、イシャーと呼ぶ」と言っているのです。この読みからわかるように、ヘブライ語において、男と女は基本的に同じ言葉です。語尾が変化しただけなのです。そこに、男と女の基本的同質性が示されています。男と女は同じもの、同じ人間であり、しかし違いのあるものなのです。この点は、日本語における男と女という言葉とは全く違うところです。
性別の意味
さてこのように、男性アダムは女性と出会うことによって、向かい合って共に生きるパートナーを見出しました。このようにして、人間は男と女という「性」をもって生きる存在となった、とこの物語は語っているのです。つまりこの物語は、人間が男と女であることの持つ意味を、「向かい合って共に助け合って生きる」、つまり出会いと交わりに生きることに見出しています。人間は、自分とは違う他者との出会いと交わりを体験しながら生きる者です。動物たちとの間にも出会いと交わりがあります。しかし何と言っても人間にとって最も根本的で、最も深い出会いと交わりは、男と女の間にこそあるのです。この第二章はそのことを描き出しています。ということは、男性が先に造られ、女性が後から造られたことは、上下関係を意味するものでは全くない、ということです。人、アダムは先程申しましたように人間の代表です。その人間は、神様によって与えられた、「異性」という他者と出会い、交わりに生きるのです。男アダムが先にいて女に名前をつけたのだから男の方が優越し、支配権を持っているのだということもありません。ここを注意深く読んでみると、アダムつまり人、の創造は語られていますが、そのアダムが男であるということは、二三節までは出て来ないのです。男と女という言葉は、二三節に初めて出てくるものです。アダムは、神様が造り、連れて来て下さった女性との出会いにおいて初めて、自らが男性であることを知った、と言ってもよいのです。それは考えてみれば当然のことです。男しかいなかったら、そもそも男であることに意味はないのです。逆も同じです。女だけだったら、女という言葉は意味を失うのです。どちらか片方だけなら、「人間」という言葉だけで済むのであって、男とか女という区別はいらないわけです。男は女との関係において初めて男なのであって、女は男との関係において初めて女なのです。神様が人間を、男と女という性別を持った者としてお造りになったのは、男は女と、女は男との出会いと交わりに生きるためです。そのようにして人間は、自分と同じ人間でありつつ自分とは全く違う他者との出会いと交わりに生きる者とされているのです。そしてそこには、大きな感動と喜びがあるのです。神様の祝福があるのです。そのことをこの第二章は語っているのです。
結婚
二四節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。これは結婚のことです。神様が人間を、男と女として造り、両者が向かい合って共に生きるようにして下さった、そのことを私たちが最もはっきりと、確かな仕方で体験するのが結婚です。一人の男と一人の女が、その父母を離れて、互いに向かい合って共に助け合いつつ生きる者となり、一体となるのです。結婚は、神様が、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、私たち人間を、異性という他者との出会いと交わりに生きる者として下さった、その恵みに基づく、神様の大いなる祝福の印なのです。この結婚が、「父母を離れて」なされると語られていることに注目しなければなりません。「離れる」というのは実は穏やかな訳であって、使われている言葉は「捨てる」という意味です。父母を捨てて相手と結ばれる、それが結婚だと言っているのです。これは日本の伝統的な、「家と家との縁組」という結婚観とは真っ向から対立するものです。結婚は、何々家と何々家の問題ではなく、一人の男と一人の女の関係なのだ、と言っているのです。このことは日本の結婚理解と対立するだけではありません。イスラエルにおいても、家の存続、家系が途絶えないように、ということが結婚の主たる目的とされる傾向がありました。また、一人の男が多くの妻を持つということもありました。ここに語られている結婚理解は、そういうことを否定するものです。一人の男と一人の女が結ばれて一体となる、ということからすれば、一夫多妻はあり得ません。また、向かい合って共に助け合って生きるという交わりが結婚の根本的な意味なのですから、子供を産んで子孫を残すということが結婚の主たる目的ではないのです。子供は夫婦の間に神様が与えて下さる祝福です。しかし子供を産むために結婚するのではありません。子供が生まれなければ結婚がその目的を達成できない、ということはないのです。その点で、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という神様の祝福の言葉が語られている第一章とこの第二章は少し違いがあると言えるでしょう。
このように創世記第二章は、一人の男と一人の女が父母を離れて互いに結び合い、一体となって共に生きていくこと、つまり結婚を、神様の創造のみ業の中に位置づけています。しかしここで気をつけなければいけないのは、結婚だけが、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という神様のみ心に基づく男女の関係の唯一の姿ではないことです。ここに語られているのは、人間が、男と女という性別を持った者として、異性という他者との関係に生きる者とされていること、そこに、神様の恵みのみ心があることです。その恵みの中心に結婚が位置づけられているのは確かですが、語られていることの根本は、男性と女性が、同じ人間であると同時に違いのある他者として、互いに相手を尊重し、支え合う交わりに生きることです。そのことは結婚した相手としかできないことではありません。特に男女が共に社会に参画することが進んできている今日、男女がそれぞれの違いを尊重しつつ支え合ってよい関係に生きていくという場面がどんどん増えてきていると言うことができるでしょう。
キリストの恵みの中で
本日共に読まれた新約聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙第五章二一節以下には、夫と妻に対する教えが語られています。その中に、創世記二章二四節の、結婚の意味を語った言葉が引用されています。そしてこの手紙を書いたパウロは、その引用を受けて、「この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです」と言っています。結婚が、キリストと、その救いを受ける人々の群れである教会との関係になぞらえられて見つめられているのです。結婚がキリストと教会の関係になぞらえられることの意味について詳しく語っていく暇は本日はありません。しかしここで言われている大切なことは、神様が恵みのみ心によって、人間を他者との出会いと交わりに生きる者として造って下さり、その他者として男には女を、女には男を造り与えて下さった、その異性との関係が本当に恵みと祝福に満ちたものとなるためには、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みが男と女の間に、特に夫婦の間に位置づけられなければならない、ということです。それは、人間が、この他者との関係、とりわけ男と女との関係において、神様に背く罪に落ちており、そのために神様が与えて下さった恵みと祝福を失ってしまっているからです。アダムは女性と出会い、「ついにこれこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という喜びの叫びを上げました。神様に造られた人間にとって、異性との出会いと交わりは、このように喜びに溢れる、神様の祝福だったはずなのです。しかし、この後創世記第三章に語られていきますが、神様に背き、自分が主人となって生きようとする罪によって、この祝福は失われ、男女の間のよい関係も失われてしまいます。神様に背く罪のゆえに、今日の私たちにおいては、男女の関係は、喜びをもたらすのみではなく、時として大変な苦しみをもたらし、互いに傷つけ合うようなものとなってしまっているのです。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みの中に置かれることによってこそ、私たちにおける男と女の関係も、本当の祝福と喜びを回復することができるのです。