夕礼拝

主の宝の民

「主の宝の民」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第26章1-19節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第15章1-11節
・ 讃美歌:127、517

申命記的律法の構造
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりますが、本日は第26章を読みます。今読み進めているのは、12章から26章にかけての「申命記的律法」と呼ばれている、申命記の中心部分です。本日の26章はその締めくくりとなります。本日は先ず、これまで読んできたこの申命記的律法の内容を振り返ってみたいと思います。というのはこの最後の26章は、申命記的律法全体のまとめとなっていると思われるからです。
 「申命記的律法」は、前半と後半、そしてその間にある真ん中の部分という三つの部分から成っています。前半は12章-16章17節です。ここはおおむね、神への礼拝について語っている所です。「礼拝に関する掟」と言ってよいでしょう。後半は19章からですが、そこにはおおむね、人間どうしの関係について、そこにおける様々な問題にどう対処すべきかが語られています。ここは「人間関係に関する掟」と言うことができます。そしてこの前半と後半、礼拝に関する掟と人間関係に関する掟の間の16章18節?18章には、裁判人、王、祭司、預言者が立てられるべきことと、その人々の働きのことが語られています。つまりイスラエルの民の中に公に立てられるべき務め、職務についての掟です。それは、前半に語られている神への礼拝と、後半の隣人との人間関係が主のみ心に従って整えられていくためにイスラエルの民の中に立てられる務めです。申命記的律法はこういう構造を持っているのです。

申命記的律法のまとめとしての26章
 このことを頭に置いて本日の26章を読んでみると、ここに申命記的律法全体のまとめがなされていることが見えてきます。26章の1-11節には、約束の地に入って最初の収穫を得た時に、その収穫の初物を献げ物として主なる神を礼拝すべきことが語られています。その部分は、申命記的律法の前半の、礼拝について語っている部分を代表していると考えることができます。そしてこの1?11節の中には、人々が携えて来た「地の実りの初物」を受け取り、それを主の祭壇の前に供える祭司のことが語られています。民の礼拝は祭司の働きによって支えられているのです。そこには、申命記的律法の真ん中のところに語られている、神の民としての歩みのための公の務めに立てられている人々の働き見つめられています。そして12節以下に語られているのは、収穫物の十分の一を神に献げることに関する指示ですが、このことについては14章22節以下を振り返ってみたいと思います。14章22節に「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない」とあり、それを主なる神への献げ物とするべきことが語られていました。このように収穫物の十分の一は毎年神に献げるべきことが定められていたのです。それは、収穫して得られた実りは主なる神が恵みによって与えて下さったものであることを覚えて感謝をするためです。しかし本日の12節が語っているのは「十分の一の納期である三年目ごとに」とあります。この「三年目」のことは、今読んだ14章の28節以下に語られています。「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい」とあります。つまり三年目の収穫物の十分の一は、弱い立場にある人、貧しい人たちを助けるために用いよ、ということです。そのことは、申命記的律法の後半部分に語られている、人間関係に関する掟の根本的な精神を表していると言うことができます。神の民として歩むイスラエルにおいては、弱い者、貧しい者がしっかり支えられていくという関係が築かれなければならない、ということです。このように、この26章に語られていることは、12章以来の申命記的律法全体のまとめであると言うことができます。主なる神の恵みに感謝して献げ物をささげて礼拝しつつ、また隣人を、特に弱さを負っている人々を助け、支えつつ生きる、それがイスラエルの民の、約束の地でのあり方です。そしてそのような歩みのために、裁判人、王、祭司、預言者という公の務めが立てられるのです。

心を尽くし、魂を尽くして
 このように申命記的律法の内容のまとめが語られた上で、26章の16節にはこう語られています。「今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい」。ここに「心を尽くし、魂を尽くして」という言い方がありますが、これは申命記にしばしば出て来る言葉です。代表的な箇所は第6章の4、5節です。そこを読んでみます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することこそ、申命記が教えている、主なる神の民とされたイスラエルに求められている最も大事なことなのです。これらの掟と法、つまり申命記的律法を忠実に守ることも、心を尽くし、魂を尽くして神を愛するためです。

誓約と愛
 そしてそのように心と魂を尽くして神を愛する者は、本日の箇所の17節にあるように、一つの誓約をするのです。17節、「今日、あなたは誓約した。『主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います』と」。心を尽くし、魂を尽くして主なる神を愛する者は、このように、主をこそ神とし、その命令に従い、主のみ声に聞き従うという誓約、約束をするのです。愛するというのは、相手に対してこのような誓約、約束をすることです。そういうことが最も明確に現れているのは、教会において行なわれる結婚式です。教会の結婚式は、新郎と新婦が、神と会衆との前で誓約をします。結婚の約束をするのです。その誓約の内容は、相手を自分の生涯のパートナーとして認め受け入れ、どのような時にも相手を愛し、敬い、助け、共に歩むことです。「健やかな時も病む時も」という言葉がその誓約の中にあります。それは相手が健やかな時も病む時も、ということであって、つまり相手の存在が自分にとって喜びであり支えとなる時だけでなく、むしろ重荷となり足手纏いになってしまうような時にも、その人と共に歩み、決して他の人に心を移すことはしない、ということです。このような誓約をお互いに対してすることこそが、お互いを愛するということであり、そのような誓約をして二人が夫婦となるのが教会における結婚式です。神と人々の前での誓約、約束は私たちをある意味で束縛します。約束したことを実行する義務がそこに生じるのです。相手を本当に愛するとは、相手のためにそのような束縛、義務を自分の身に引き受けることです。束縛されたくない、義務など負いたくないと思っている者は、人を本当に愛することはできません。神との関係においてもそれは同じです。主なる神を愛するとは、主をこそ神とし、その命令に従い、主のみ声に聞き従うという誓約をして、その自分の誓約を果たしていく義務を身に負うことなのです。聖書が、神を信じる信仰において、掟や戒めを守ることを大事にしているのはそのためです。掟や戒めは、それを守ることによって救われる資格を得るためにあるのではありません。また神は私たちにそれを強制的に守らせようとしておられるのでもありません。私たちは、主なる神を愛するがゆえに、自分から進んで、主をこそ神とし、その命令に従い、主のみ声に聞き従うことを約束して、それを実行する義務を身に負って生きるのです。それが、信仰を持って生きるということです。

主の誓約
 そしてこの愛による誓約の関係は、人間どうしの結婚もそうであるように、決して一方通行ではありません。お互いがお互いに対してそういう誓約をするのが愛の関係です。神様と私たちの愛の関係も同じです。神様もまた、私たちに対して誓約をして下さり、それを守る義務を身に負って下さるのです。そのことが18、19節に語られています。「主もまた、今日、あなたに誓約された。『既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする』と」。主なる神が誓約して下さったのは「あなたを私の宝の民とする、主の聖なる民とする」ということです。その約束は既に7章6節に語られていました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。ここにも「主の聖なる民」と「宝の民」という言葉が並んでいます。「聖なる」の意味は、清く正しいということではなくて、神のものとして他のものから分かたれている、ということです。イスラエルは地の全ての民の中から選ばれて、主なる神の民とされたので、「聖なる民」なのです。主はそのように選んで下さったイスラエルの民を、ご自分の宝物として大事に守り、養い、育てて下さると誓約して下さり、その義務を引き受けて下さったのです。申命記は、主なる神がイスラエルの民との間にそのような相互の誓約による関係を結んで下さり、ご自分の宝の民として下さったことを語っているのです。

神の誓約が先にあった
 イスラエルの民の側の誓約と、主なる神の誓約がこのように呼応し合っていることがここに見つめられています。イスラエルの民が先ず、主をこそ神とし、その命令に従い、主のみ声に聞き従うことを誓約し、それに応えて主なる神も、あなたを聖なる民、私の宝の民とすると誓約して下さった、というふうに語られているようにも見えます。しかし注意深く読むと、そうではないことが分かります。18、19節には、「既に約束したとおり」という言葉が二度語られていました。つまりイスラエルが主の聖なる民、宝の民となることは、今初めて約束されたことではなくて、神が既に約束して下さっていたことなのです。既になされていた約束を、神が今改めて確認して下さったのです。ですから、人間の側の誓約が先にあるのではなくて、実は先にあったのは主なる神の誓約、約束なのです。神が先ずイスラエルの民を選び、ご自分の宝の民として下さることを誓約して下さったのです。つまり神が先ずイスラエルを愛して、約束を与え、それを守る義務をご自分の身に負って下さったのです。イスラエルの民がどのような約束をもする前に、つまり神の民とされるのに相応しい資格など何もなかった時に、神が彼らを選んで、ご自分の民として下さったのです。そのことが、先程読んだ7章6節の続きのところ、7節以下に語られていました。7章7?9節を読みます。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。ここには、主の宝の民、聖なる民とされたイスラエルが、他のどの民よりも貧弱な、数も少ない、力弱い民だったことが告白されています。そのような、神に選ばれるべき理由など何もない、何の取り柄もない者が、ただ神の愛のゆえに選ばれ、エジプトの奴隷状態から救い出されたのです。しかもそのことは、「あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」だったと語られています。かつて彼らの先祖に与えた誓いを主が守って、子孫である彼らに救いを与えて下さったのです。これはまさに、イスラエルの民の側には何の理由もない、主からの一方的な愛です。その愛をイスラエルの民は受けている、それゆえに、その大いなる驚くべき愛に応えていくために、民の側も神に対して誓約をするのです。主をこそ神とし、その命令に従い、主のみ声に聞き従うことを約束して、その義務を負うのです。このように、私たちが神に誓約をして、それを行なう義務を負うこと、つまり神を愛することは、神が先に与えて下さった大きな愛への応答なのです。

神の愛への応答としての礼拝
 この26章の1-11節に語られているのも、神の恵みへの応答としての献げ物をささげて礼拝をすることです。ここには、イスラエルの民がこれから入って行って獲得する約束の地カナンにおいて、自分の土地を与えられ、そこで作物を作り、その最初の実りを得た時に、その初物を神に献げて礼拝をしなさい、ということが命じられています。その捧げものをするに際して、5節以下の信仰告白をすることが命じられているのです。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました」。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人だった」、これはイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブのことです。彼らはもともとアラム人と呼ばれる民に属していました。そのアラム人であったアブラハムが、神の語りかけを受け、故郷を離れて、神の示す地へと、行く先を知らずに旅立ったことから、イスラエルの民としての歴史が始まったのです。民族としては一アラム人だった彼らが、主なる神との出会いによって、神の民イスラエルとされていったのです。「滅びゆく」という言葉は口語訳聖書では「さすらいの」と訳されていました。行き先を知らない旅路にあるという意味では「さすらいの」となりますし、何の力もないという意味では「滅びゆく」と訳せます。いずれにしてもこれは、自分たちが元々は地上のどの民よりも貧弱な、何の取り柄もない者だったことを語っています。その自分たちが、エジプトで奴隷とされて苦しめられてきたけれども、主なる神がその苦しみから救い出して下さり、豊かな恵みによって今、約束の地へと導き入れて下さり、収穫を与えて下さったのです。その初物を捧げて、神の愛と恵みに感謝するのです。それがこの礼拝の意味です。つまりイスラエルの民の礼拝は、主なる神が与えて下さった大きな愛と恵みへの応答なのです。神の民が神を礼拝しつつ生きるのは、神の愛と恵みが、全く相応しくない自分に与えられていることを覚え、その愛に少しでも応えていこうとすることなのです。

神を愛し、隣人を愛して生きる
 毎年の収穫の十分の一を神にお献げするのも、その収穫が、自分の力で得たものではなくて、神が恵みによって与えて下さったものであることを覚えてそれに感謝する、ということです。そして神に献げられたその十分の一が、「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」のために、つまり社会的に弱い立場にいる者、貧しい者、悲しみの中にいる者を支え助けるために用いられていくことを神は求めておられます。神の愛と恵みによって救われた民は、その愛と恵みに応えて、心を尽くし、魂を尽くして神を愛して歩むと共に、お互いどうしの間で、支え合い、助け合って共に生きる良い交わりを築いていくのです。つまり隣人を愛して生きるのです。心を尽くし、魂を尽くして神を愛する者は、隣人を自分のように愛して生きるのです。申命記的律法は、主の宝の民とされたイスラエルの人々がそのように神を愛し、隣人を愛して生きるために与えられているのです。

継承された信仰告白
 先程読んだ5節以下の告白の言葉は、イスラエルの民の中で受け継がれてきた最も古い信仰告白だと言われます。つまりこれは、約束の地に入って最初に収穫を得た人々だけが告白した言葉なのではなくて、その後の人々も、収穫を感謝する祭りにおいて、その年の初物を神に献げる礼拝の中でこの告白を繰り返し語ったのです。この告白がそのように繰り返し告白され、継承されていったことによって、イスラエルの民は、先祖に与えられた神の選びの愛とエジプトの奴隷状態からの救いの恵みを自分自身の事柄として受け止め、受け継いでいったのです。神が自分たちを選んで宝の民として下さり、エジプトでの奴隷の苦しみから解放して下さり、荒れ野の旅を導いて約束の地カナンを与えて下さった、その神の愛と恵みが、この告白の継承によってイスラエルの民の中に生き続けたのです。そして、その神の愛と恵みに応えて、自分たちも神を愛し、神を礼拝しつつ、隣人と愛し合いつつ、み心に従って生きようとする応答の誓約が受け継がれていったのです。

キリストの福音の継承
 私たちが教会において受け継いでいるのも、信仰の父祖たちに与えられた告白を継承していく信仰です。先程共に朗読した新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第15章1節以下で使徒パウロが語っているのはそういうことです。その1、2節にこうあります。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。パウロはコリント教会の人々に、私が伝えた福音をしっかり覚えていなさいと言っています。伝えられた福音をしっかり継承していくように、ということです。そして3節にはこうあります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」。つまり、パウロが伝えた福音は、パウロ自身も「受けた」もの、先達たちから継承したものなのです。その福音の内容は「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。主なる神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、罪の奴隷とされている私たちに赦しを与え、罪の支配から解放して、新しく神の民として生かして下さっている、それがパウロ自身も受け継ぎ、人々に告げ知らせたキリストの福音です。イスラエルの民が継承した、エジプトの奴隷状態からの神の恵みによる解放は、このキリストによる救いを指し示していました。イスラエルの民が受け継いだ救いは、主イエス・キリストの十字架と復活によって完成し、私たちに与えられたのです。このキリストによる神の救いの恵みを信じる信仰を告白する言葉が、使徒たち以来、信仰者から信仰者へ、教会から教会へ、世代から世代へと継承されてきて、今私たちもそれを受けているのです。先達たちが告白してきたこの信仰を私たちも継承し、それを自分の告白として、その信仰によって生きていくところに、先達たちに与えられたのと同じ救いの恵みが私たちの現実となります。神が私たちをも選んで下さって、主イエス・キリストによって罪を赦して下さり、主の宝の民として下さった、そして主イエスの復活によって私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さっている、私たちは教会において代々継承されてきた信仰を受け継ぐことによって、この救いの恵みにあずかり、神を礼拝しつつ、神と隣人とを愛する群れとして歩むのです。

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