夕礼拝

神の寛大さ

「神の寛大さ」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 民数記、第11章 24節-30節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 46節-50節
・ 讃美歌 ; 333、487、78

 
1 この日、弟子たちの間で、自分たちのうちだれが一番偉いかをめぐって議論が起きました。自分たち弟子の中で、自分こそ一番偉い、皆に尊敬されるにふさわしい、そういう主張を立てて、互いに譲らない、口げんかが起こったのです。こうした議論がわき起こった原因の一つとして考えられるのは、今日の箇所の少し前、9章の28節以下で語られていた、主イエスのお姿が山の上で栄光に包まれた出来事です。あの時、山の上まで主イエスのお供をし、主イエスのお姿が栄光に包まれるのを目の当たりにしたのはペトロとヨハネ、ヤコブの三人であったことが記されています。さらにさかのぼって8章の49節以下で、会堂長の娘が亡くなった現場に足を踏み入れ、そこで娘を起き上がらせる奇跡を行われた時にも、部屋に伴われたのはこの三人だけでありました。そうすると考えられるのは、これら三人などは特に、自分が特別に主イエスから寵愛を受けている、大事にされている弟子なんだ、弟子の中の弟子なんだ、といった気分になっていったということです。そしてそんな思い上がりが、言葉のはしに感じられるような場面があって、他の弟子たちも何を言うか、負けてたまるものか、と張り合ってきたのかもしれません。「自分はあの大事な場面で、主イエスと同じ場に置かせていただく名誉に与かったんだぞ」、「いやいや、私などは主イエスの夜のお祈りの時にご一緒させていただいたんだぞ」、「いや私などはつい昨日主イエスにおほめのお言葉をいただいたばかりだ」、こんな言い合いが弟子たちの中に起こりました。
 しかも驚くべきことは、この議論が始まったのは、主イエスがご自分の死について、痛みと不安を覚えつつ予告をされた、その直後であるということです。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。主イエスがご自身の最期の時について大事なことをおっしゃっておられる。しかも「この言葉をよく耳に入れておきなさい」と念を押しておられる。ところがそこで弟子たちは「その言葉が分からなかった」し、「怖くてその言葉について尋ねられなかった」のです。それどころか、その主イエスの御言葉をめぐり、分からないながらも思いを巡らしている、というのでなく、それよりも我々の中でだれがいったい一番偉いのだろうかと言って議論を始めているのです。あきれるほどの無理解がここにあります。これだけ長い間、主イエスとご一緒に歩んでいても、主イエスがこの世に来られた最も大事な目的に関わることが語られたその先から、その御言葉は弟子たちの心から滑り落ち、それよりもだれが一番偉いかが、最大の関心事になっているのです。

2 私たちはこういうことを読むと、何かひどく滑稽なことのように思ってしまうかもしれません。先ほどここに弟子たちの「あきれるほどの無理解がある」と言いましたが、まさに私たちはそういった思いで弟子たちの心の有り様を、すべてを知っている高みから見下ろすような気持ちで眺めてしまうかもしれない。自分だったら、主イエスがあんなに大事なことをおっしゃっておられるのに、自分たちのうちだれが一番偉いかなどという愚かな議論をしたりするはずがない、とどこかで思っているかもしれません。けれども、私たちはこの話を簡単に笑ってすませることは決してできません。ここに描かれている弟子たちの姿は、私たちの姿であり、教会の姿です。私たちは自分の位置を、絶えず周りにいる他の人との比べ合いの中で見積もっています。互いをいつも比べて、あの人に比べれば自分はまだましだと言っては安心し、この人に比べれば自分は実に情けのないものだと言っていじけている、そういうことを繰り返しています。ある時には妬みや恨みが生まれ、またある時には落胆や劣等感が心の中を支配します。そういう思いの底には、自分こそが一番だ、一番になりたい、という思いが働いています。だれが一番偉いか、という議論は、自分こそが一番だ、という各自の主張を裏返しにしたものなのです。他の人がなすよいわざや奉仕を、一緒になって喜ぶことができません。むしろ何か奉仕において失敗があったり、うまくいかないことがあったりすると、声高に騒いで非難するということも起こりえるかもしれません。他の教会の伝道が奮っていると、一緒になってそのことを喜ぶことができなかったりします。すぐに自分の属する教会と比べて、いろいろ論評したくなったりするかもしれません。言葉でははっきり言っていなくても、実はみんな自分のことが一番大事だし、自分のことに関心があるのです。しかも自分の偉さ、大事さを、主イエスとの結びつきを持ち出して正当化しようとするのです。

3 ルカによる福音書は、これらの弟子たちの議論が、彼らの心の中で交わされていたような書き方をしております。こう考えることができます。弟子たちは、主イエスがおられないところで、誰が一番えらいかという議論を始めていたのです。やがて席を外しておられた主イエスが再び戻ってこられたので、みんなドキッとして黙りこくってしまった。けれどもまだ弟子たちの心の中ではさっきまでの熱を帯びた議論がくすぶっていた。人の心の中に何があるかを見通される主イエスは、その弟子たちの気持ちのわだかまりを感じ取られたのです。
その時主イエスは一人の子供の手を取って、御自分のそばに立たせたのです。主イエスと一人の子供、最も偉大なお方と最も取るに足らない小さくかよわい存在とが隣同士で並んでいる。実に印象的な光景です。この時代、子供は神の掟を知らないし、まして守ることのできない者であるとして、ユダヤ社会で軽んじられていました。子供とのおしゃべりに時間を費やすことは、怠けて昼近くまで惰眠をむさぼることや、昼から酒を飲んでいることと並んで、神の国に入る資格のない者がすることだ、と受け止められたりしました。もちろん、ユダヤ教は子供の信仰を育み、導く責任をとても大切に考えます。家族の中でも、町や村全体においても、信仰の営みの中に子供がきちんと場所を与えられていたと言うべきでしょう。けれども逆に言えば、ユダヤ教の社会において子供は、いつも教えられなければならない者、そのままでは何も分からないゆえに常に諭され導かれなければならない存在であった、ということも言えると思います。信仰の根本に関わることは理解できない、分かるためにはもっと成長して成熟してもらわないといけない。それゆえに、宗教教育がとても大事なものとして覚えられていたのです。けれども今、弟子たちの前に並んで立っているのは、この日頃自分たちが教え導いてあげなければならないと思っている小さな子供と、自分たちこそ教えられ、導いて頂かなくてはならない偉大なお方です。弟子たちがこの光景をどう受け止めたらいいのか、けげんな表情をして立ちつくしている姿が目に浮かびます。
そこで主イエスはおっしゃいました、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(48節)。「わたしの名のために」、というのは「わたしであるかのように」、という意味です。子供一人をまるで主イエスであるかのように受け入れることは、実際主イエスを受け入れることになるというのです。主イエスとその隣りに立っている子供とは、ある意味で同じような存在だというのです。交換可能なものだとおっしゃっているのです。そしてそのように主イエスを受け入れることはまた、主イエスをお遣わしになった父なる神の御心を受け入れることになるのです。

4 子供というのは大変正直です。それこそ、弟子たち以上に正直でしょう。自分が一番だ、自分が他の人よりも偉いんだ、子供同士でけんかをする中で、そういうことを臆面もなく言い合うでしょう。弟子たちのように、あるいは大人である私たちのように、小ぎれいで適当に飾った柔らかい表現でごまかしたりはしない。あるいは主イエスの眼差しをはばかりながら、心の中で議論を続けるような姑息な方法は取らない。あからさまに自分が大事なんだ、自分が偉いんだということを声高に言い合います。そういう意味では罪丸出しです。いやそこに自分の罪が現れ出ているということに気づいてもいないでしょう。大人たちから見れば、最も小さい者、神の国にふさわしくない者に違いありません。けれども、主イエスは実はそういう者こそ最も偉いのだ、とおっしゃる。なぜでしょうか。主イエスは子供たちは純真無垢だから偉い、あなたがたも子供たちのように素直になりなさい、とおっしゃったのではありません。むしろ自己本位でわがままで、時に人を傷つける残酷なことも平気で言ってしまう、罪丸出しの子供たちの姿を念頭に置いておられるのではないかと思うのです。自分たちの罪を認めるどころか、罪を犯していることにさえも気づかない、神の前に罪をさらけ出している存在です。大人のように自分でこの有り様をどうにか克服できると思ってもいません。もし神が御手を伸ばして救ってくださらなければどうしようもない存在です。自分の中には救われる可能性を何も持っていない存在です。神が恵みをもって向き合ってくださるかどうかにすべてがかかっているのです。そういう存在として、主イエスはこの子供を見つめておられる。そして主イエスが一人の幼な子としてこの世に来られたのは、ご自身がか弱き一人の子供に身をやつすことによって、今主イエスがおそばに立たせているこの子供に代表されている、人間の丸出しの罪をすべて引き受けてくださるためであったのです。ここに神の偉大な寛大さが現れています。子供を取るに足らない存在としてしか見られない人間とは対照的に、父なる神はご自身の独り子をさえ、十字架の死に引き渡すことをよしとするほど寛大なお方なのです。独り子を身代わりの死に引き渡す痛みをも忍んでくださる、心の広いお方なのです。そこまで低きに降られる神の愛を目の当たりにするのなら、自分たちのうちでだれが一番偉いか、といった議論がなおできるのか、できるはずがなかろう。主はそう問われるのです。
自分たちは子供よりもまだ信仰のことが分かっている、罪も救いも理解できている、この子供たちを教え導いてやることができる、そう思っているうちは、わたしたちはまだ主イエスのみ名によって子供を受け入れたことにはならないでしょう。そうではなく、自分も小さい、この罪丸出しの子供と全く同じだ、神の憐れみ以外に救われる道はない、罪がないのに僕の姿を取り、罪を担ってくださった主イエス・キリストにおすがりするよりほかはない、その一点に立ち続けることなくして、主イエスのみ名によって一人の子供を受け入れることはできないのです。

5 なおもヨハネが自分たちへのこだわりを語ります。主の御名によって悪霊を追い出している者を発見した。けれども、自分たちと一緒に主に従ってこようとしないのでやめさせようとした。ここでも「わたしたち」がでてまいります。「わたしたちと一緒にあなたに従っているか」がどうしても気になるのです。社会でよい働きをしている人の話を聞く時も、まずわたしたちはその人はキリスト者かどうかと、気にしたりしてしまいます。クリスマスが広く受け入れられているのを見ても、本当の意味が分かっていないのだ、と見下したり、結婚式をキリスト教式で挙げる若い人が増えても、それを伝道のチャンスとして受け止められないでいたりします。けれども主イエスはおっしゃいます。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(50節)。
 そもそもこの弟子たちは、前の40節で明らかであったように、悪霊に取りつかれた子供から、霊を追い出すことに失敗した弟子たちです。自分たちだって悪霊を追い出すことができずにいる弱い者であるのに、そのくせ自分たちとは違うグループの者、自分たちを尊重してくれない者たちが、主イエスの御名を掲げることを快く思えないのです。弟子たちは、主イエスとの特別なつながりを、既得権益のように、自分たちのグループの中だけの特権として独占していたいのです。しかし主イエスはおっしゃる、「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」。神は実に寛大なお方です。み心のだだっ広いお方です。そしてすぐみかたくなになったり、狭くなってしまうわたしたちの心を、いつも愛を注いで新しく押し広げ、自由にしてくださるお方なのです。

6 わたしたちの心は主イエスによりも、すぐに自分に関心を向けてしまいます。結局自分が一番大事なのです。だれが一番偉いか、と議論してしまいます。けれどもそこで主は子供とご自分を並べられて、私はこの子供のような罪丸出しの存在を救い出すために、幼な子として父なる神から遣わされてきたのだ、と語りかけられます。あなたがたもこの子供のように神の前で何も持っていない者であることを知りなさい、飾りつけられた言葉や心の中での独り言では決して隠しおおせない罪丸出しの存在であることを認め受け入れなさい、そしてただ神からの憐れみに寄りすがりなさい、神から遣わされたわたしが与えようとする十字架の救いにすがりなさい、今もわたしたちにそう語りかけてくださるのです。
 主イエスのお言葉に表れている神の寛大さは、繰り返し自分本位に陥り、自己満足に誘われる私たちの弱さを包み込み、いやしてくださいます。そこで神の前における私たちのあわれで悲惨な、真実の姿を暴き出します。しかしまた、そこで主イエスの十字架の愛に触れさせてくださり、新しい命を吹き込み、堅くこわばった、けちくさい魂を押し広げ、本当の愛と自由に生かしてくださるのです。今ここに、この神の寛大さを現す、見えるしるしとして、主の御からだと御血潮の食卓が備えられています。この糧をいただき、主イエスの愛に触れ、神の寛大さに心を押し広げられ、自分ではなく神の御心に生きることの望みを新たにしたいと願います。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、主の十字架への道行きの途中で、なおも自分たちの中でだれが一番偉いかと、性懲りもなく議論を続けてしまう私共であります。自分は悪霊を追い出すことに失敗していながらも、他の人があなたの御名によってこれに成功しているのを安んじた思いで見ていることができません。あなたの御心よりも自分のメンツやプライドにこだわります。主よ、どうか私たちを憐れんでください。ただあなたの愛に触れ、十字架の救いによって罪を清められ、復活の命に与ることなくして、何ものも私たちを解き放つことはできません。自由と愛のうちに生かすことはできません。どうか主イエスにおいてあなたが与えてくださった神の寛大さが、私共の心を治めてくださり、私共の狭い心をも押し広げて、あなたの寛大さの中に生かしてくださいますように。今与るこの主の食卓を通して、この希望を新たにさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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