「同行する神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第33章1-23節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第28章16-42節
・ 讃美歌 : 132、467
罪による契約の破綻
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書出エジプト記を読み進めています。出エジプト記は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民のもとに主なる神様がモーセを遣わして奴隷状態から解放して下さったこと、そして乳と蜜の流れる約束の地に向けての荒れ野の旅路を導いて下さったことを語っています。その荒れ野の旅の途中、シナイ山において、主なる神様はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。神様がイスラエルの神となり、イスラエルは神様の民となる、そういう特別な関係を結んで下さったのです。その契約の締結に当って、十戒を中心とする掟、戒めが与えられたました。エジプトの奴隷状態からの解放という神様による救いを受けたイスラエルの民が、神様の民として歩んでいくための指針がそれによって示されたのです。このシナイ山における契約によって、イスラエルが主なる神様の民として歩んでいくための足固めがなされたと言えます。シナイ山で神の民としての陣容を整えたイスラエルは、いよいよ約束の地に向けて力強く歩み出していく…、ということになるはずでした。ところが、モーセと従者ヨシュアが十戒を記した石の板を神様から授けられるために山に登って留守の間に、麓で待っていたイスラエルの民はとんでもない罪を犯してしまったのです。モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのではないか、と不安になった人々は、自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、祭司アロンは金の子牛の像を造ったのです。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻って来たのです。モーセはこの有り様を見て激しく怒りました。彼が手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束したのです。その約束に基づいて主なる神様は彼らと契約を結んで下さったのです。それなのに、その契約の印としての石の板をモーセが神様からいただいているまさにその間に、金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神様を裏切る罪をこの民は犯したのです。モーセは手にしていた石の板を砕きました。それは、民のこの罪のために主なる神様との契約が破綻し、ご破産になってしまったということを表しています。契約というのは要するに約束です。神様と民とが約束を交わして共に歩んでいくのです。聖書は神様と人間の関係をそういうものとして語っています。信仰を持って生きるというのは、神様と約束を交わして生きることなのです。その関係は、人間が約束を破ることによって破綻します。それは夫婦の関係と同じです。約束を交わして夫婦となった者が、その約束を破って他の人と関係を持ったりしたら、夫婦の関係は破綻するのです。イスラエルの民がしたこともそれと同じです。金の子牛を神として拝んだことによって、主なる神様との約束を破り、関係を破綻させてしまったのです。
同行しない神
そのことに対して主なる神様がお怒りになるのは当然です。先月読んだ32章には、主がその怒りによってイスラエルの民を滅ぼし尽くすと宣言なさったことが語られていました。モーセは、罪を犯した民に対して激しく怒りましたが、同時に、民を代表して主なる神様の前に立ち、憐れみと赦しを願ったのです。つまりモーセが神様と民との間に立って執り成しをしたのです。その結果、神様はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まって下さいました。そのことは32章33、34節の主のお言葉に示されています。主はこうおっしゃいました。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」。この中の「しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい」というところは、主がモーセに、イスラエルの民を約束の地へと導いて行けと命じておられるのですから、この民を滅ぼすことを思い留まったということです。けれどもこのお言葉は同時に、「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る」とか「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」ということも語っています。滅ぼすことはやめたけれども罪に対する罰は与える、と言っているのです。本日の33章の1節以下に語られている主のお言葉はこれの続きです。主はモーセにこうおっしゃっています。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」。これは先ほども申しましたように、この民を約束の地、乳と蜜の流れる土地へと導いて行け、というモーセに対する命令です。主はイスラエルの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに、「あなたの子孫にその土地を与える」と約束して下さったのです。その約束を果して下さり、その地に今住んでいる者たちを追い出して、彼らをそこに住わせて下さると言っておられるのです。そこだけを読むならばこれは喜ばしい知らせです。しかしここには同時に「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われています。これはその前の所の「わたしは、使いをあなたに先立って遣わし」とつながっています。さらに32章34節の「見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く」ともつながっています。約束の地へと向かうイスラエルの民に先立つ者として「主の使い」を送ると言われているのです。主の使いが先立って約束の地へと導いてくれる、それは喜ばしいことのように思われますが、実はそれは「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」ということです。つまり主なる神様ご自身はイスラエルの民と共に行っては下さらない、主ご自身が行く代わりに、主の使いが送られると言っているのです。これから約束の地へと向かうイスラエルの民の歩みに、主は共に行かれない、同行して下さらないのです。その理由もここに語られています。「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」、これが、主がイスラエルの民に同行なさらない理由です。「あなたはかたくなな民である」、その言葉は32章9節にも出てきていました。そこには「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である」とありました。そこに語られているのは、イスラエルの民は今、金の子牛の偶像を造って拝むという大きな罪を犯したが、実はそういうことは今に始まったことではない、ということです。この民は前々からかたくなな民だった。つまり神様のみ心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、自分の思いに強情に固執し、それを通そうと我を張る、そういうまことに扱いにくい不従順な民だということです。そういう民と共にいると、今回のようなことがまた起って、今度こそこの民を滅ぼしてしまうことになりかねない。だからもう同行するのはやめる、と主は言っておられるのです。つまり主はイスラエルの民にある意味でもう愛想を尽かしておられる、一緒にいるとろくなことがないと思っておられる、だから私はもう同行しない、代りに誰か使いの者を送るから、と言っておられるのです。これはイスラエルの民にとって悲しむべきお言葉です。ですから4節に「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」と言われているのです。そして6節までのところに、これ以降イスラエルの民は飾り、装身具を身に着けるのをやめたと語られています。彼らは主なる神様が共に行って下さらないことへの嘆き悲しみを、飾りを外すということによって表したのです。
モーセの執り成し
この深い悲しみ、嘆きの中で、モーセは再び主の前に立ちます。それが12節以下です。モーセがイスラエルの民のために主に執り成しをした、その続きがこの33章に語られているのです。モーセはこう言いました。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。モーセは先ず、「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」と、主が彼にイスラエルの民を約束の地へと導くようにお命じになったことを、「あなたは確かにそうおっしゃいましたよね」と確認しています。その上で、「しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません」と言っています。つまり先ほどの、「使いの者」を送るということがまだ実行されていない、ということです。私とその使いの者とで、この民を約束の地へと導いて行けとあなたはおっしゃった、そのお言葉を実行してください、とモーセは言っているのです。このモーセの言葉は、主のお言葉の中の、憐れみ、恵みの面のみを見つめ、それを強調しています。32章でもそうでしたが、主がモーセに「この民を率いて上れ」とおっしゃったのは、この民を今滅ぼすことはしない、という意味でした。積極的な恵みが語られていると言うよりも、怒りを押しとどめているお言葉だったのです。ところがモーセはそこに「お前がこの民を約束の地へと導き入れよ」という主の積極的な恵みのみ心を敢えて読み取り、確認しています。また主が「使いの者を送る」とおっしゃったのも、先ほど申しましたように、「私自身は同行しない」という宣言だったのです。しかしモーセは敢えてそこに、「使いの者を自分と共に遣わして約束の地への道を切り開いて下さる」という恵みを読み取っています。つまり本当は嘆き悲しまずにはおれない主のお言葉の中に残されている憐れみ、恵みの要素を見つけ出し、それを取り出して強調し、「あなたはこんな恵みを示して下さった、ありがたいことです」と言っているのです。さらに彼は、「あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました」とも言っています。今度は、主がモーセ個人に示して下さった好意、恵みを確認しているのです。主はモーセを名指しで選び、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放するために遣わして下さいました。そしてこのたびの民の罪の出来事においても、「私はこの民を滅ぼし尽くして、その代わりにあなたを大いなる民とする」とおっしゃったのです。つまり主はモーセには大きな好意を示し、恵みを与えて下さっています。そのことを確認した上で彼はこう言いました。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。これは要するに、私へのご好意を今こそはっきり分かるように示して下さい、ということです。あなたは私を名指しで選んで、イスラエルの民を解放し、約束の地に導くために遣わして下さいました。そのために使いの者を送るとも約束して下さいました。そのご好意を今はっきりと示して下さい、と要求しているのです。そしてそこに彼はつけ加えて「この国民があなたの民であることも目にお留めください」と言っています。私に好意を示して下さる時に、あなたが私に導けとおっしゃったこの国民、イスラエルの民をもそこに加えて下さい。この民があなたの民であることにも目に留めて下さい、と言っているのです。モーセはそのようにしてイスラエルの民のための執り成しをしたのです。そこで彼は、主なる神様の怒りと裁きの言葉の背後に隠されている恵みと憐れみのみ心を見つめ、それにひたすらすがり、また自分に対して主が示して下さっている好意を最大限に用いて、民に対する憐れみと赦しを願っています。誰かのために神様に執り成しをするというのはそういうことでしょう。その人は、苦しみ悲しみの中で、あるいは自らの罪の中で神様の恵みや慈しみを見失っているのです。しかし執り成しをする者が、神様の怒りや裁きの背後に隠されている恵み、憐れみ、赦しのみ心を見つめて、神様がそれを現して下さるようにと祈るのです。神様の隠された恵みのみ心を信じて見つめる信仰によってこそ、他の人のために執り成しの祈りをすることができるのです。
さてそのようなモーセの祈りに応えて主は「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」とおっしゃいました。主はここで、使いの者ではなく私自身があなたに同行する、そのようにしてあなたへの好意、恵みを示す、とおっしゃったのです。しかしそれは「あなたに」であって、あくまでもモーセに同行するということです。しかしモーセはそこでさらにこう言うのです。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」、それは、「神様あなた御自身が共に行って下さるべきなのは『わたし』ではなく『わたしたち』なのです、わたしを含めたイスラエルの民全体と共に行って下さい、それによってこそあなたのご好意が、恵みが示され、私と、あなたの民であるイスラエルが、地上の全ての民の中で特別なもの、主であるあなたに選ばれた神の民となることができるのです」ということです。モーセはそのようにして、主なる神様があくまでもイスラエルの民に同行して下さるように、執り成し願っているのです。このモーセの執り成しによって、主は17節でこうおっしゃいました。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。神様はついにモーセの願いを受け入れて下さったのです。つまりイスラエルの民と共に行って下さる、同行して下さると約束して下さったのです。
神が同行して下さるという恵み
この第33章は、神様が私たちの歩みに同行して下さるということこそが救いであり恵みである、と言っています。その恵みは、本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第28章の終わりの所にも語られています。復活した主イエスが弟子たちを全世界へと伝道のために派遣なさるに際して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さったのです。そのお言葉は私たちの教会の今月の聖句にもなっています。私たちは、主イエス・キリストによって、この世へと、それぞれの生活の場へと、この礼拝から派遣されて一週間を歩んでいくのです。その私たちの歩みに、主イエスが同行して下さると約束して下さっているのです。それこそが、主イエスを信じる信仰に生きる私たちに与えられている恵みであり、救いです。同行して下さる主イエスに支えられて、私たちは日々歩んでいくのです。しかし私たちはこの出エジプト記第33章から、主イエスが、また神様が同行して下さるというのはどういうことなのかをしっかりと聞き取らなければなりません。そうしないととんでもない勘違いに陥る恐れがあるのです。
主のみ手に覆われて
18節以下がその意味で大事です。主が彼の願いを聞き入れて下さるという恵みのみ言葉をいただいたモーセは「どうか、あなたの栄光をお示しください」と願いました。主なる神様が自分に好意を、恵みを示すと言って下さった、その恵みの神の栄光を見させて下さるように願ったのです。主はそれに応えて「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する」とおっしゃいました。「善い賜物」というといろいろな良い品物みたいな感じもしますが、これは主がご自分を恵み深い方として示して下さるということです。主が同行して下さるというのは、その恵み深さを示して下さることです。しかしそこには「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」というお言葉もつけ加えられています。この言葉によって主はご自分の自由を宣言しておられるのです。主が恵み深い方として共にいて下さる、それは主の自由なみ心によることなのです。ということは、私たちがそれを当然のことのように前提とすることはできないし、「なぜ自分にはその恵みが与えられないのか」と文句を言えるようなものでもないのです。私たちは、主なる神様の恵みを、自分の権利のように要求することはできないのです。20節のみ言葉がそのことを示しています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」。このみ言葉は、神様が共にいて下さる、同行して下さるというのは、実は恐ろしいことなのだということを示しています。罪人である人間は、神様の顔を面と向かって見ることはできないのです。そんなことをしたら、人間は死ぬしかないのです。聖なる神様の前で、罪人は生きていることはできないのです。この33章で主が、「この民と共に歩むと、途中で彼らを滅ぼしてしまうことになる」と言っておられるのはそういうことです。そもそも金の子牛を偶像の神として造り拝んだイスラエルの民は、このシナイにおいて神様の怒りによって滅ぼし尽くされるしかない者でした。主が共におられることによって、むしろそういうことが起ってしまうのが、人間の罪によって生じている現実なのです。ですから、主が共にいて下さる、同行して下さるというのは、ある意味で恐ろしいことです。しかし主は21節以下で、ご自身の栄光を示して下さる時に、モーセを岩の裂け目に入れ、主がその前を通り過ぎるまで、手で覆い、彼が主の後ろ姿のみを見て、顔を見ることがないようにして下さると言っておられます。主の栄光を見ることが滅びとなるのでなく、主の恵み深さを体験しつつ主と共に歩むことができるように、主ご自身がみ手をもって覆って下さるのです。
喜びと緊張感の中で
その恵みが民全体に対しても与えられることを示しているのが、7節以下に語られている「臨在の幕屋」です。この幕屋は、主が雲の柱の中でそこに降る場です。モーセのみがその中に入ることができ、主に伺いを立てる者は、モーセがその中で主と語り、示された言葉を聞くのです。また民はこの幕屋に雲の柱が降るのを見て、主を礼拝したのです。つまりこの幕屋は主なる神様がイスラエルの民の歩みに同行して下さるという恵みの印であり、その主を民が礼拝しつつ歩むために与えられたものです。「雲の柱」は主がそこに臨在しておられることを示すと同時に、主のお姿を人間の目から隠す働きをもしています。主のお姿を直接見ることは人間には出来ないからです。この幕屋が民の宿営の外に設けられたこともそれと同じ意味を持っています。この幕屋は主がイスラエルの民と共にいて下さる恵みを示し、民の礼拝の場となると共に、主のご臨在が民の滅びを招くのを防ぐ働きをもしているのです。
本日の新約聖書の箇所にあるように、私たちは主イエス・キリストの、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束を与えられています。主イエスが十字架の死と復活による執り成しの業を成し遂げて下さり、罪の赦しと新しい命を与えて下さったことによって、私たちは神の独り子主イエスと共に歩む恵みを与えられているのです。それゆえに私たちにおいてはもはや、主のご臨在が滅びを招くことはありません。その滅びは主イエスが十字架にかかって下さることにおいて全て背負って下さったのです。しかしだからといって、主が共にいて下さるという恵みを当たり前のこととしてはなりません。この恵みは「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という主の自由な恵みによって与えられているものです。そのことをしっかりとわきまえて、生きておられるまことの神様が同行して下さることの喜びと緊張感の中で礼拝を守りつつ、私たちの荒れ野の旅路を歩み続けていきたいと思います。