夕礼拝

敵を愛しなさい

「敵を愛しなさい」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第23章1-19節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章43―48節
・ 讃美歌 : 7、394

契約の書
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めております。前回は先月の18日でした。その日には、第21章12~36節を読みました。その時にも申しましたが、第20章22節から23章19節までのところには「契約の書」という見出しがつけられています。そしてその部分は(1)から(16)まで、16の項目に分けられています。前回はその項目の内の(3)(4)(5)を読んだわけです。本日はその最後の所、項目で言うと(11)から(16)を読むわけです。これも先月申しましたが、このような区切りや見出しは聖書の原文にはないのであって、翻訳の時に便宜的につけられたものです。しかし分かりやすい手引きとなっているので、この分け方に従って考えていきたいと思います。
 そしてこれも前回の復習ですが、この部分が「契約の書」と呼ばれているのは、この後の第24章に、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことが語られている、その場面と結びついています。その契約の締結に当たって、24章7節に「契約の書」が朗読され、民が「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行い、守ります」と言ったとあります。その「契約の書」が20章22節から23章19節までの部分であると考えられているのです。主なる神様とイスラエルの民とが契約を結び、イスラエルが神の民として歩んでいくに当たって、神様から与えられた掟を記したものが契約の書なのです。そういう意味では、20章の最初の十戒から「契約の書」が始まると考えることもできるのです。
 その「契約の書」の最後の所を本日読むわけですが、小見出しを見て分かるようにここには、「法廷において」「敵対する者とのかかわり」「訴訟において」「安息年」「安息日」「祭りについて」と、様々なことが語られています。最初の三つ、つまり(11)から(13)までは、人間どうしの関係におけるトラブルに関することです。最後の(16)「祭りについて」は主なる神様への礼拝に関すること、つまり神様との関係についてのことです。その間に「安息年と安息日」についてのことが語られています。そういう構造を本日の箇所に見ることができるでしょう。

三つの大きな祭り
 最後の「祭りについて」のところから見ていきたいと思います。ここには、イスラエルの民が主なる神様に対してどのような祭りを行うべきかが語られています。14節に「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない」とあります。主なる神様への祭りは年に三度行われるのです。祭りを行うとは、神様のみ前に出て、礼拝をすることです。ですから17節には「年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない」とあります。イスラエルの男子は、年に三度の大きな祭りにおいて、主なる神様の御前に出て、礼拝をすることが求められているのです。
 その三度の大きな祭りとは何と何なのかは、この箇所ではちょっと分かりにくい記述になっています。それを分かりやすくまとめて語っているのは、申命記の第16章です(306頁)。そこを見ていただくと、イスラエルの三大祝祭日とは何かが分かります。その16章のさらにまとめとなっているのが16節です。そこを読んでみます。「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」。この「除酵祭、七週祭、仮庵祭」がイスラエルにおける三つの大きな祭りです。本日の箇所で言うと、「除酵祭」のことは15節に語られており、16節前半の「畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭り」が「七週祭」、後半の「年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない」というのが「仮庵祭」のことです。それぞれの祭りの意味は今の申命記16章を読んだ方が分かります。「除酵祭」は「過越祭」と結びついており、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民が主なる神様によって解放され、自由を与えられたことを感謝し、記念する祭りです。エジプトからの解放は、主なる神様がエジプト中の初子、最初に生まれた男子を人も家畜も撃ち殺すという恐ろしいみ業を行って下さったことによってようやく実現しました。その時に、イスラエルの民の家では過越の小羊が屠られ、その血が戸口に塗られました。それが目印となって、主の使いはその家を「過ぎ越し」イスラエルの民の初子は守られたのです。この「過越の出来事」によってエジプトから解放され、救われたことを覚えてなされるのが「過越祭」です。その日には家ごとに過越の小羊を屠り、その血を戸口に塗り、その肉を家族みんなで食べる「過越の食事」をします。またその日から七日間、酵母を入れず発酵させていないパンを食べるのです。それが「除酵祭」です。それは、エジプトを脱出した日、生地を発酵させている暇もなく急いで焼いたパンを食べたことを記念しています。このように「過越」も「除酵」も、主なる神様によるエジプトの奴隷状態からの解放に関係する事柄であり、この二つが一体となった祭りが行われたのです。
 「七週祭」は、過越祭から七週目に行われます。それは5、6月ごろで、夏の麦の収穫が始まる頃です。この祭りは、モーセがシナイ山で十戒を中心とする律法を主なる神様から授かったことを記念する祭りとも言われています。つまり、出エジプト記において今私たちが読んでいるあたりのことを記念する祭りとなっていったのです。もともとは麦の収穫を祝う農業の祭りだったものが、主なる神様による救いの恵みと結びつけられていったということです。
 「仮庵祭」は秋の収穫の祭りです。これはエジプトを出たイスラエルの民が40年間荒れ野を旅していった、その生活を覚えるための祭りとして行われていきました。これも、収穫の祭りにそのような神様の救いのみ業を覚えることが結びつけられていったものです。

最上の初物を持って主の御前に出る
 イスラエルの男子は、一年の三つの節目の時にこれらの祭りに集い、主なる神様の御前に出て礼拝をしつつ生きるべきことがここに命じられています。その祭りにおいてどんな儀式を行うかが大事なのではありません。そういう細かいことはここには全く語られていないのです。繰り返し語られているのは、「主の御前に出る」ということです。主なる神様のみ前に出て、神様との交わりに生きることが求められているのです。それが、神の民として生きるということだし、信仰をもって生きることなのです。信仰を持つというのは、何かの思想や信条を持つことではなくて、神様のみ前に出て礼拝をしつつ生きることなのです。
 そこにおいて大事なことは、15節の最後にある、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」ということです。そのことは19節にも語られています。「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない」とあります。つまり、神様の御前に出て礼拝をする時に、手ぶらで来てはならない、ちゃんと捧げものを、しかも最上のものを持って来なさい、と言われているのです。これは、神様を礼拝することの根本に関わる大事な教えです。言い換えれば、神様と私たちの関係の基本的なあり方がここに教えられているのです。その教えの根本は、神様は私たちが自分のために利用できるような方ではない、ということです。神様を礼拝することによって、あれを得よう、これを与えてもらおう、という姿勢は根本的に間違っているのです。むしろ礼拝においては、私たちが神様に捧げものを持って行くのです。しかも「最上の初物を」と言われています。自分の得た最も良いもの、しかも最初に与えられたものを神様にお捧げするのです。自分があれを得よう、これを与えてもらおう、と思っていてはそんなことはできません。せっかく得たそれらは自分のものとして持っていたい、手放したくないものです。それを神様にお捧げすることこそが神様を礼拝するということなのです。そういう思いなしには、私たちは本当に神様を信じて生きることはできません。結局のところ、自分の願いや思いをかなえ、欲しいものを手に入れるために神様を利用することにしかならないのです。そこでは神様は私たちにとって「手段」でしかありません。さらに言えば便利な道具でしかないのです。道具ということは「モノ」ということです。神様をモノ扱いしてしまっているのです。そうではなくて、生きて働いておられる神様との交わりを築き、神様が私たちに命を与え、いろいろな恵みの賜物を与え、収穫を与えて下さっていることを感謝するという信仰に生きるためには、自分に与えられている最上の初物を捧げものとして携えて御前に出ることが必要なのです。

共に喜び祝う
 主の御前における礼拝はそのように最上のものを神様にお捧げすることによってなされるのですが、その祭りにおいて同時になされるべきことが、先ほどの申命記第16章に語られています。「七週祭」について語っている11節にこうあります。「こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい」。また「仮庵祭」についての14節にもこうあります「息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共にこの祭りを喜び祝いなさい」。収穫の最良のものを携えて主の御前に出てささげる礼拝は、家族と、いや家族だけでなく、自分の下にいる奴隷たち、さらには寄留者たち、つまり外国人でこの地に滞在している人々と、また孤児、寡婦などに代表される社会的弱者、貧しい人々と共に喜び祝うべきものなのです。つまりこの礼拝は、自分と神様とのみの間で成り立つものではないのです。自分が共に生きている人々、中でもとりわけ弱く貧しく苦しんでいる人々に目を向け、その人々も共に神様の御前に出て、共に喜び祝うことが求められているのです。ということはそこで、自分に与えられた収穫、実りをその人々と分かち合うということです。年に三度御前に出て祭りを行うようにという命令によって、神様はそういうことをイスラエルの民に期待しておられるのです。礼拝は自分一人が神様の御前に出ることによって成り立つものではありません。そこにおいて私たちの思いが、共に生きている周囲の人々、特に弱く貧しい人々に向けられ、自分に与えられているものを分かち合うことがなされていかなければならないのです。自分に与えられている最上の初物を捧げものとして携えて御前に出ることが大切だという教えはこのことと結びついています。最上のものを神様にお捧げしようという思いで礼拝がなされることによってこそ、それらを弱く貧しい人々と分かち合うことも可能になるのです。それらを自分のものとして持っていたい、手放したくないという思いでいるなら、人々と分かち合うこともできないのです。

安息年と安息日
 このように、主なる神様の御前に出てなされるべき祭り、礼拝についての教えは、共に生きる人々のことを意識させ、自分に与えられている恵みを弱く貧しい人々と分かち合うことを求めるものです。そのことは、本日の出エジプト記23章14節以下においてははっきりと語られてはいません。しかし、その前に語られていること、つまり「安息年と安息日」についての教えには、そのことが示されているのです。「安息年」の教えは、約束の地に入りそこに定住したなら、という前提のもとに語られているものですが、六年間耕作し収穫を得たら、七年目は土地を休ませ、休閑地とせよ、ということです。そのように定期的に土地を休ませることはその土地の力を回復させ、翌年からの収穫量を上げるために良いことです。けれどもここに語られているのはそのような生活の知恵ではありません。土地を休ませる目的は、「あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい」ということです。つまり放っておいてなお実るものは乏しい者たちに与えなさいということです。そのようにして、その土地から生ずる実りを、貧しい人々と、さらには野の獣たちと分かち合うのです。安息日についての教えにおいても同じようなことが見つめられています。六日の間仕事をし、七日目は仕事をやめて休む安息日とする、それは神様が六日かけて天地の全てをお造りになり、七日目にお休みになったことに基づく掟ですが、その安息日の目的がここでは、「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」と語られています。つまり一家の主人であるあなたが休むことによって、その下で使われ、働いている人々や家畜も休むことができ、元気を回復することができる、その人々の休みのためにあなたは仕事を休まなければならない、ということです。このように安息年や安息日を守ることは、共に生きている人々、特に弱い立場にあり、貧しく苦しんでいる人々を支え、養い、元気を回復させるためにこそ命じられているのです。神様の民として、神様を礼拝しつつ生きる、つまり信仰者として生きることは、このように、共に生きている人々にしっかり目を向け、その人々の弱さや貧しさを顧み、自分に与えられているものを分かち合ってその人々を支え、助け、元気づけるということと切り離すことができないのです。神様はそのような歩みを、イスラエルの民に、そして主イエス・キリストによる救いにあずかって生きる新しい神の民である私たちに期待しておられるのです。

正しい証言を
 これらのことを意識しつつ、その前の所に語られている三つのこと、「法廷において」「敵対する者とのかかわり」「訴訟において」を見ていきたいと思います。「法廷において」と「訴訟において」は、裁判の場面でのことです。そこにおいて、根拠のないうわさを流し、悪人に加担して偽証をしてはならないとあります。「偽証してはならない」は十戒においても戒められていたことです。そしてそれは「根拠のないうわさを流す」ということをも含むのだということは十戒についてお話しした時に申しました。またここには、「法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない」ともあります。多数者の意見に流され、「違う」と思いながら「長いものには巻かれろ」式に迎合してはならないのです。「空気を読む」ことを求める日本の社会においてはこれはなかなか難しいことであり、だからこそ大事なことでもあります。法廷に代表される、人の人生を左右するような場において、空気を読んでしまってはならないのです。またそれは同時に、「弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」ということでもあります。真実を追い求める場である法廷に、「かわいそう」という感情を持ち込んではならないのです。そのような感情によって左右されるところには、多数者に追随して判決を曲げる、ということが生じていくのです。つまりここでは、多数者に追随せず、感情に流されない証言をすることが求められています。それは、天地を造り、支配しておられる主なる神様を見つめ、その神様のまなざしの中で生きることによってこそできることです。神様から目をそらし、人間どうしの関係のみを見つめていく時に、その場の空気に流されたり、感情に左右されて真実を見失うことが起るのです。

寄留者の気持ち
 神様のことを全く忘れ去り、人間どうしの利害関係のみを見つめ、その中で自分の利益だけを追求するようになる所に、6節以下に語られている、偽りの発言によって判決を曲げて罪のない人を殺してしまうことや、賄賂を取ることが生じていきます。これらは自分の利益のために故意に嘘をつくことです。生き馬の目を抜くようなこの世の利害関係の中では、このような弱肉強食の世界が繰り広げられます。強い者が勝ち、弱い者はますますしいたげられていくのです。その弱い者の代表として9節では「寄留者」があげられています。12節の安息日のところにも出てきました。他国から移って来た人たちは、その地に地盤もなく、親戚や友人もおらず、土地の人々からはよそ者として仲間はずれにされ、という様々な弱さの中にあります。そういう弱者は真っ先に差別され、しいたげられていくのです。しかしあなたがたイスラエルの民の間ではそのようなことがあってはならない、とここに語られています。9節、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」。あなたがたは自分たちがエジプトで寄留者であり、よそ者としてしいたげられ、奴隷とされて苦しんできたではないか。だからそういう人々の気持ちが分かるはずだ。そこから解放され、救われた者として、同じような立場にある人々を慈しみ、守り、支えていくことこそ、主なる神様による救いにあずかった者としての生き方ではないか、と語られているのです。つまりこの裁判の場面についての一連の教えも、主なる神様によるエジプトの奴隷状態からの解放という救いの恵みを土台として語られているのです。

敵を愛しなさい
 そして最後に、4、5節の「敵対する者とのかかわり」のところを読みたいと思います。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」。まことに具体的現実的な、説明の必要のない分かりやすい教えです。主なる神様による救いにあずかり、奴隷状態から解放されて自由を与えられた者はこのように生きるのです。この教えが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第5章43節以下の主イエスの教え、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」の土台となっています。「敵を愛しなさい」という教えは、主イエス・キリストから突然始まったものではありません。既にこの「契約の書」において語られていたことなのです。主イエスは、この教えの通りに、神様に背き逆らい敵となってしまっている私たちを助けて下さいました。私たちの牛やろばが迷っているのを連れ戻して下さったのではありません。神様のもとから迷い出て自分では戻ることができなくなってしまっている私たち自身を、神様のもとに連れ戻して下さったのです。荷物の下に倒れ伏していたのは私たちのろばではありません。私たち自身が、罪の重荷に押しつぶされ、身動きできなくなっていたのです。その私たちを主イエスは愛して下さり、私たちのために人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちが罪を赦されて新しく生きるための道を開いて下さいました。私たちは、主イエス・キリストご自身の、この敵をも愛して下さる愛によって救われ、赦され、罪の奴隷状態から解放されたのです。主イエスの十字架の死と復活によって、神様は私たちと新しい契約を結んで下さり、私たちを新しい神の民、新しいイスラエルとして下さるのです。この主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みによって、私たちは新しく生きることができます。解放され、本当に自由に生きることができるのです。その解放、自由のしるしが、敵を愛し、迫害する者のために祈ることです。主イエスが私たちのためにして下さったその通りに生きることは、罪人である私たちにはできません。しかし、ここに教えられているように、自分に与えられている最も良いものを携えて神様のみ前に出て礼拝をすることによって、またそこにおいて共に生きている隣人のことを覚え、自分に与えられている恵みを、特に弱さや貧しさの中にいる隣人と分かち合っていくことによって、そして隣人との関係を人間の利害関係の中でではなく、常に神様のまなざしの中で築いていくことによって、私たちも、主イエスによって与えられた神様の愛に倣って生きる者とされていくのです。

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