「あなたがたの信仰はどこにあるのか」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第107編23-32節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章22-25節
・ 讃美歌:141、456
湖の向こう岸に渡ろう
ある日、主イエスは弟子たちと一緒に舟に乗りました。主イエスは弟子たちに言われました。「湖の向こう岸に渡ろう」。そこで彼らは船出します。湖とは「ゲネサレト湖」(5:1)のことです。ゲネサレト湖を渡って、「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」(5:26)に向かったのです。その途上で起こった出来事が本日の箇所で語られています。
ところで昔から舟は教会を表すシンボルでした。主イエスが共に乗っていてくださる教会という舟は、この世という大海原を航海しているのです。しかし教会という舟が船出するのは私たちの決意によってではありません。主イエスが弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」と声を掛け、船出したように、主イエスの決意によってこそ私たちは船出するのです。教会のイニシアチブ(主導権)は私たちではなく主イエスにこそあります。主イエスを通して示される神の御心こそが教会を船出へと導くのです。ですから私たちは時には渋々船出しなくてはならないことがあるかもしれません。「今、教会を取り囲む状況はとても厳しいから、このような計画は見合わせたほうが良いのではないか、もう少し状況が整ってから実行に移したほうが良いのではないか」と思うことがあります。しかし主イエスが「船出しよう」と言われるのであれば、それが神の御心であるならば私たちは船出するのです。あるいは「今こそ、この計画を実行に移すべきだ」と思うこともあります。しかし主イエスが船出を決意しないのであれば私たちは船出しないのです。教会のイニシアチブが主イエスにあるとはそういうことです。けれども私たちはこのことをなかなか認めたがりません。口では認めていると言っていても、しばしば自分たちの力で教会の営みをなんとかしようとしてしまうのです。私たちは神の御心に目を向けるよりも、自分の考えや思いにばかり目を向けてしまうからです。私たち一人ひとりが、自分の人生の主人を自分自身としてしまうように、教会もその営みの主人を主イエスではなく、そこに集っている人間としてしまうのです。だからこそ私たちはなによりもまず神の御心を求めなくてはなりません。主イエスが「船出しよう」と語りかけてくださるのを、私たちは耳を澄まして聞かなくてはならないのです。具体的に言えば、神の御心は礼拝で語られる神の言葉を通して私たちに示されていきます。ですから自分の聞きたいことには耳を傾け、聞きたくないことには耳を塞いでしまうのではなく、御心を求めて神の言葉を神の言葉としてしっかり聞いていくのです。また、教会の会議や話し合いにおいても、目に見えるその場に集っている人たちではなく、目に見えない主イエスこそがその会議や話し合いの本当のイニシアチブを持っている。そのことをよくわきまえることによって、私たちは教会の会議や話し合いの中で、主イエスが「船出しよう」と語りかけてくださるのを聞き取ることができるのです。私たちの声が飛び交う中で、主イエスの声を聞き取り神の御心を求めていくのです。
共にいてくださるのに、なぜ?
主イエスと弟子たちが乗った舟が湖を渡って行きます。そのうち主イエスは眠ってしまわれました。弟子たちの中には何人か漁師がいたので、舟を動かすのは彼らに任せていたのだと思います。すると「突風が湖に吹き降ろして来」ました。今でもゲネサレト湖ではよくあることのようです。そのために主イエスと弟子たちは「水をかぶり、危なくなった」のです。しかし主イエスはいぜんとして眠っておられます。そこで弟子たちは主イエスに近寄り、主イエスを起こして「先生、先生、おぼれそうです」と言いました。弟子たちの気持ちはよく分かります。聖書協会共同訳では、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と訳されています。今、まさに彼らは死にそうなのです。「このままでは死んでしまい」そうなのです。それなのになぜ、主イエスは眠っておられるのか。早く起きて助けてほしい。そのように思ったのです。眠っているとは、なにもできないということです。周りの人からすれば「なんの役にも立たない」のです。だから弟子たちは主イエスを起こそうとしました。
私たちは人生の中で多くの困難に直面します。ときには「このままでは死んでしまいそうだ」と思うほどの深い苦しみや悲しみに襲われることがあります。そのようなとき私たちは、主イエスが共にいてくださるのなら「なぜ、主イエスは助けてくださらないのか」と思うのです。私たちは主イエスが聖霊の働きによっていつも私たちと共にいてくださる、と信じています。しかし信じているからこそ、苦しみや悲しみの中にあって「なぜ、主イエスは助けてくださらないのか、なぜ、眠ったままなにもしてくださらないのか」と思わずにはいられません。「主よ、主よ、このままでは死んでしまいます、眠っていないで、起きて助けてください」と祈らずにはいられないのです。それだけでなく、「死んでしまいそう」なときに助けてくれないなら、起きてくれないなら、そのような主イエスは役に立たないとすら感じるのです。主イエスが私たちの歩みに共にいても、それではなんの役にも立たないと思うのです。
私たち一人ひとりの歩みにおいてだけではありません。教会の歩みにおいても、そのように思うことがあります。主イエスが共に乗っていてくださる舟が教会のシンボルと申しました。その舟がこの世という大海原を渡っていく中で、しばしば波をかぶり、ときには大きな嵐に襲われます。そのたびに教会は揺さぶられ傷つきます。教会は「このままでは死んでしまいそうだ」と思うような危機に直面することがあるのです。そのようなとき、この舟には主イエスが共に乗っていてくださるのに、「なぜ、なにもしてくださらないのか」と思うのです。
嵐の中にある教会
今、私たちの教会はコロナ禍という嵐の中にいます。この嵐の中で、教会の交わりが大きく損なわれています。コロナ禍によって教会に来ることができないために、また主日礼拝が二回に分かれているために、あるいは集会や愛餐会を行えないために、私たちの交わりが著しく損なわれているのです。ご自宅や病院や施設をお訪ねすることもなかなかできません。色々な奉仕の場も奪われています。大人だけではありません。教会に連なる子どもたちや青年たちの交わりも妨げられています。コロナ前は毎年夏に、子どもたちや青年たち向けの行事がありましたが、この二年間はほとんど行われていません。すべての世代で教会における交わりが妨げられているのです。交わりを持てなければ、お互いの関係を深めていくことができません。お互いの関係を深めていくことができなければ、その交わりを保っていくことも難しいのです。
この嵐の中で、教会から離れてしまった方がいます。救いを求めている方々が礼拝に出席しにくくなっています。私たちの教会でも礼拝出席の人数が減っていますが、規模の小さな教会が受けている影響はより大きくより深刻です。長期に亘るコロナ禍は、まさに教会が「このままでは倒れてしまいそうだ」、「このままでは死んでしまいそうだ」と思わずにはいられないような危機を引き起こしています。そしてこのコロナ禍はいつまで続くか分かりません。いつまで教会は嵐の中にいなくてはならないのかが分からないのです。そのような中にあって私たちは「なぜ、主イエスはなにもしてくださらないのか」と思わずにはいられないのです。このままでは教会の交わりがますます損なわれるのに、存続すら危ぶまれる教会もあるのに、教会という舟に共に乗っていてくださる主イエスは「なぜ、助けてくださらないのか」と嘆くのです。
あなたがたの信仰はどこにあるのか
弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言って主イエスを起こしました。私たちも「主よ、主よ、死んでしまいそうです」と言って主イエスを起こそうとします。そのような弟子たちと私たちに、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われるのです。私たちは主イエスに信頼し、主イエスを信じているから、主イエスを起こそうとするのでしょうか。「主よ、主よ、死んでしまいそうです」という私たちの言葉は、私たちの信仰を表しているのでしょうか。私たちの信頼のゆえに、私たちの信仰のゆえに、主イエスは起き上がってくださり、み業を行ってくださったのでしょうか。そうではありません。そうであるならば主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とは言われなかったはずです。私たちが主イエスを起こそうとするのは、主イエスがみ業を行ってくださる、主イエスが突風を静め、奇跡を起こしてくださる、とどこかで期待しているからです。私たちはしばしばキリスト教が「ご利益宗教」ではないと言います。自分の利益のために神を信じている人たちとは違うと思っています。しかし私たちは自分の願い通りのみ業を行ってほしいから、都合の良い奇跡を起こしてほしいから、主イエスを起こそうとするのではないでしょうか。自分の利益を求めてしまうのは他人事ではありません。私たちもそのような弱さを抱えているのです。
共にいる主イエスを信頼できない
主イエスは弟子たちと、そして私たちと共にいないわけではありません。主イエスは弟子たちと共に舟に乗っていてくださり、弟子たちがすぐ近寄れるところにいてくださいました。同じように主イエスは私たちのすぐ近くにいてくださいます。それにもかかわらず私たちは困難に襲われると、眠っている主イエスは役に立たないと思い、主イエスを起こそうとします。私たちは共にいてくださる主イエスを信頼することができないのです。昨日までの一週間を振り返るならば、共にいてくださる主イエスを信頼することがいかに少なかったか、と思います。主イエスが自分の側にいてくださらないかのように、側にいても役に立たないかのように、どれだけ思ったり振る舞ったりしたでしょうか。私自身を振り返っても、この一週間の歩みの中で、嘆くこと、不安になること、恐れることがたくさんありました。なにか大きなことがあったわけでもありません。ちょっとしたことなのに、不安や恐れに駆られ、嘆いてしまうのです。「先生、先生、おぼれそうです」、「主よ、主よ、死んでしまいそうです」と私たちが言うのは、私たちが共にいてくださる主イエスを信頼していないからです。共にいてくださる主イエスに信頼するより、自分の願い通りに主イエスがみ業を行ってくださることを期待しているのです。
主イエスの期待
では弟子たちは、そして私たちはどうすれば良かったのでしょうか。主イエスは私たちになにを期待していたのでしょうか。主イエスが期待していたのは、私たちが嵐の中にあっても舟を漕ぎ続けることです。舟の中が水浸しになっているなら、水を掻い出しつつ舟を前進させていくことです。なかなか前に進むことができないかもしれません。風によって押し返されることもあるでしょう。嵐がいつまで続くかも分かりません。舟を漕ぎ続けることに疲れてしまうこともあるでしょう。それでも共にいてくださる主イエスに信頼して、嵐の中にあって舟を漕ぎ続け、舟を前進させていくことを、主イエスは私たちに期待しているのです。コロナ禍という嵐の中にあって、主イエスが私たちに期待していることは、私たちが共にいてくださる主イエスに信頼し、教会の営みを前進させていくことではないでしょうか。なかなか前進できないこともあります。前進したと思ったのに、感染の再拡大で後退しなければならないこともあります。コロナ禍はいつまで続くか分からないし、疲れを覚えることもしばしばです。それでも主イエスは私たちが舟を漕ぎ続け、教会の営みを前進させていくことを期待しているのです。
神の言葉を聞き続けることによって
本日の箇所の前で、主イエスが「『種を蒔く人』のたとえ」を語っていたのを、私たちは思い起こさなくてはなりません。このたとえでは、神様がみ言葉の種を蒔いてくださっていることが語られていました。しばしば私たちはこのたとえを誤解して、私たちがみ言葉をしっかり聞いて実行することによって実を結ぶことができる、と考えてしまいます。しかし実を結ぶ力は神の言葉にこそあるのです。8章15節では「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」と言われていました。「立派な善い心」とは、神の言葉を神の言葉としてしっかり聞く心のことであり、「よく守り」とは、聞いた神の言葉を手放すことなくしっかり握りしめていることであり、「忍耐して実を結ぶ」とは神の言葉の力によって実を結ぶのを信じ、忍耐して待つということでした。神の言葉を神の言葉としてしっかり聞き続け、その御言葉を手放さず、御言葉の力によって実を結ぶのを信じ、忍耐して待つことによって、私たちは嵐の中にあっても舟を漕ぎ続けていくことができます。御言葉を通して主イエスが共にいてくださると示されることによって、嵐によって激しく揺さぶられても、水浸しになっても、共にいてくださる主イエスに信頼して舟を漕ぎ続けることができるのです。
違いはどこにあるのか
しかしそうなると、主イエスが共にいてくださると信じている人とそうでない人の違いは、どこにあるのでしょうか。主イエスが私たちに期待しているのは舟を漕ぎ続けることです。主イエスを信じていない人たちも、嵐に遭えば同じことをするでしょう。結局、主イエスを信じていても、信じていなくても、嵐の中にあって舟を漕ぎ続けます。なんとか嵐を乗り越えて目的地にたどり着くために舟を漕ぎ続けるのです。周りの人から見れば、どちらも同じことをしているに過ぎないのです。私たちの日々の歩みにおいても同じようなことが起こります。たとえば職場でなにか問題に直面したとき、主イエスを信じている自分もそうでないほかの同僚も同じように問題解決のために取り組みます。周りの人から見れば自分と同僚になんの違いもありません。また教会についても同じです。教会のことを知らない人から見れば、教会も社会にある一つの団体とか組織に過ぎません。教会が危機に直面して取り組んでいることは、ほかの団体や組織が行っている危機対策と大差ないのです。そうであるならば、主イエスが共にいてくださると信じていても、信じていなくてもなにも変わらないのでしょうか。確かに目に見える現実は、信じていても信じていなくても、大して違いがないかもしれません。しかし主イエスが共にいてくださる歩みと、そうでない歩みはまったく異なる歩みです。なぜなら私たちと共にいてくださるのは、私たちのために十字架上で自分の命を捨ててくださった方だからです。それほどまでに私たちを愛してくださる主イエスが共にいてくださるのです。たとえ眠っているように思えたとしても、なにもしてくださらないと思えたとしても、命を捨ててまで私たちを愛してくださる主イエスが共にいてくださるなら、なにを恐れる必要があるのでしょうか。なにも恐れることはないし、なにも不安になることはないのです。主イエスが共にいてくださる歩みは、恐れと不安から解放された歩みに違いないのです。
期待に応えられない私たちを見捨てない
弟子たちは、それほどまでに愛してくださる主イエスが共にいるにもかかわらず、突風に襲われ「死ぬかもしれない」という不安と恐れに駆られ、眠っている主イエスを起こしました。「なぜ、なにもしてくださらないのか」、「なぜ、助けてくださらないのか」と思ったのです。私たちも弟子たちと同じです。十字架で死に復活された主イエスが共にいてくださるのに、それぞれの歩みの中で、あるいは教会の歩みの中で、嵐に襲われるたびに「このままでは死んでしまいそうだ」と恐れ、不安になり、「なにもしてくださらない」と主イエスを疑うのです。しかし主イエスはそのような弟子たちと私たちを見捨てることはしません。主イエスの期待に応えて舟を漕ぎ続けることのできない私たちを「もうお前たちはだめだ」と切り捨ててしまわないのです。主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と、私たちを叱咤激励しつつ、「風と荒波とをお叱りに」なり、突風を静めてくださいます。私たちが共にいる主イエスを信頼できないにもかかわらず、主イエスは起き上がってくださりみ業を行ってくださるのです。
共にお読みした旧約聖書詩編107編28-31節にこのようにあります。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った」。確かに主イエスは私たちに舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかし主イエスは、その期待に応えられず「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ」私たちを決して見捨てることなく、「苦しみから導き出」してくださるのです。私たちが人生の中で遭遇する「嵐に働きかけて沈黙させ」てくださり、波を静めてくださるのです。主イエスが共にいてくださる教会という舟に乗って、私たちはこの世という大海原を航海しています。試練や困難という嵐に襲われるとき、主イエスは私たちが舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかしその期待に十分に応えられない信仰の小さい私たちを、共にいてくださる主イエスがいつも支え、守り、導いてくださっているのです。そして繰り返し私たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語りかけてくださり、「私がいつも共にいることを信じ、恐れることなく不安になることなく歩み続けなさい」と励ましてくださるのです。
主イエスのみ業を目の当たりにする
主イエスは風と荒波とをお叱りになり突風を静めました。その驚くべきみ業を目の当たりにして、弟子たちは恐れ驚き、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言います。私たちも幾度となく主イエスの驚くべきみ業を目の当たりにします。み業を体験するたびに今まで知らなかった新たな主イエスを知っていくのです。今までよりも、より大きな主イエスの愛に、より豊かな主イエスの恵みに気づかされ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と驚き、感謝しつつ、私たちは歩んでいくのです。
主イエスはいつも私たちと共に、私たちの教会と共にいてくださいます。嵐の中にあって、「なにもしてくださらない」と私たちが思うときも、共にいて導き、支え、守ってくださり、私たちの苦しみや悲しみを共に担ってくださっているのです。私たちは嵐に遭遇しても、共にいてくださる主イエスに信頼し歩んでいきます。いつ終わるか分からない嵐の中にあっても、私たちのために命を捨ててくださった主イエスが共にいてくださることに信頼し、私たちは舟を漕ぎ続けるのです。そのようにして私たちがこの世という大海原を航海する中で、私たちは繰り返し主イエスのみ業を目の当たりにし、主イエスの愛と恵みとに与っていくのです。