夕礼拝

生ける神に立ち返る

「生ける神に立ち返る」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第135編1-21節
・ 新約聖書:使徒言行録 第14章8-18節
・ 讃美歌:6、382

唯一の神  
 わたしたちが信じているのは、父、子、聖霊なる三位一体の神です。三つであり、一つである。これは理解したり、説明できることではありません。しかし、聖書がそのように語っており、わたしたち教会はこのことを信じています。三位一体の神は唯一の神であり、天も地も海も、その中にあるすべてのものも、見えるものも、見えないものも造られ、支配しておられる神です。  

 しかし、この神を知らないなら、人は自分たちでたくさんの神様を造り出します。今日の聖書に出てくるリストラという町は、当時はギリシャ文化の影響下にあった町ですが、そこではギリシャ神話が根付いていました。ギリシャにはあらゆる神々がいて、太陽にも、山にも、海にも、愛情にも、苦痛にも、夢にも、神様がいます。何でも神様になります。そしてこの神様たちは、喧嘩をしたり、嫉妬したり、人間と結婚したりもするのです。日本にも、八百万の神がいると言われるくらい、多くの神様がいます。こういった神の考え方は、とても似ているところがあるかも知れません。   
 今日ご一緒に聞くのは、そのような神々を信じる人々の町で、起こった出来事です。

異教の人々への伝道  
 パウロとバルナバは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、迫害に遭って次の町へ行って、また福音を宣べ伝える、というように伝道の旅をしていました。そうして、このリストラの町にたどり着きました。  

 これまで読んできたところを振り返ると、パウロたちは、まず町に入ったらユダヤ人の会堂を見つけて、そこで主イエスの福音について、説教していたことが分かります。はじめに外国に住んでいるユダヤ人たちに対して、語っていたのです。   
 ユダヤ人たちは、この世の造り主である唯一の神を信じています。旧約聖書をよく知っている人たちです。ですから、パウロは、その唯一の神が、聖書でユダヤ人たちに預言して下さっていた救い主こそ、イエス・キリストであり、この方の十字架の死によって人の罪が赦され、神がこの方を復活させて下さったことで、救いの約束が実現したのだ、と語ってきました。      

 しかしパウロは、この救いはユダヤ人のためだけのものではなく、主イエスを信じる者なら、誰でも、ユダヤ人でなくても、異邦人でも、救われるのだ、義とされるのだ、ということも語りました。実際に、異邦人にも主イエスの福音が伝わり、信じる者が興され、異邦人が多く集う教会が、アンティオキアで生まれました。そのアンティオキア教会から、パウロとバルナバは聖霊によって選ばれ、出発して、この伝道旅行をしているのです。   
 そしてこのことは、使徒言行録の1:8にあるように、主イエスご自身が、復活して天に上げられる前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と使徒たちに仰っていました。地の果てまで、世界中に、主イエスの救いが及ぶのだということを語っておられたのです。   
 しかしそのことは、自分たちだけが神に選ばれ、救われる民だと思っていたユダヤ人にとっては、つまずきになることでもありました。そして、主イエスの福音を語るパウロやバルナバを迫害したのです。      

 そうして、今回、パウロとバルナバは異教の神々を信じる人々の町へやってきました。いつもならまずユダヤ人の会堂に行きますが、この地には会堂がなかったようです。パウロはリストラの町で話をしました。この話とはもちろん、イエス・キリストの福音についてです。

足の不自由な男の信仰  
 さて、そこに、足の不自由な男が座っていました。「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」、というので、おそらくここまで人に連れてきてもらい、物乞いをして生活していたのです。後で出てきますが、近くの町の外にゼウスの神殿があったと書いてあるので、お参りに行ったりする人で賑わっている場所だったのでしょう。  
 その男が、「パウロの話すのを聞いて」いました。すると、パウロは「彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認めた」とあります。この時、一体何が起きたのでしょうか。  

 この男は、生まれつき足が悪く、これから治る見込みもありませんでした。だから、このまま毎日物乞いをして、一生を送っていく。この男が置かれた状況は、自分で努力してどうにかなるものでもなく、また人の力で変えることが出来るものでもありませんでした。男はその虚しさと弱さの中に座りこみ、生きる意味を見出すこともなく、喜びも、希望も、何も持たずに過ごしていたに違いありません。  

 しかしある日、二人の人がやって来て、その内の一人が話をし始めました。それはイエス・キリストという救い主についてでした。男はそれを聞きました。主イエスの十字架の出来事について、罪の赦しについて、復活について聞きました。その救いの知らせに耳を傾けました。そして、きっとこの男は、福音に心が動かされたのです。その方を信じる者は皆、救いにあずかれるという。この方は、信じるなら、自分も救って下さるのではないか。わたしの救い主となって下さるのではないだろうか。この男は福音を聞き、語られたことを受け入れ、主イエスに救いを求めた。そこから、この男の信仰が始まりました。  
 パウロは、その心の動きを見抜いたのでしょう。そして、それを「いやされるのにふさわしい信仰」だと認めたのです。福音を聞いて、受け入れること。聞いて、救いを求めること。主イエスはそれを、信仰だと認め、受け入れて下さる方です。   
 キリストを信じる者になることは、生活態度が清らかであるとか、聖書の知識を持っているとか、立派な人間であるということが条件なのではありません。むしろ、自分には何もない、何も出来ない、何も変えられない、そのような状況の中で、神にこそ、希望を見出すこと。福音を受け入れ、信じ、主イエスにこそ救いを求めて依り頼むこと。それが、信仰なのです。    

 そして、パウロが「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声でいうと、その男は躍り上がって歩き出した、とあります。これはパウロに癒しの力があったのではありません。14:3に「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」とあるように、ここでもパウロによって語られた福音を証しするため、主イエスご自身が、しるしと不思議な業を行って、恵みの言葉が確かなものであることを証しして下さったのです。いやしが救いそのものなのではありません。いやしは、この男に主イエスの救いが訪れた、ということの証しとして与えられたものです。生きる目的も喜びも持たなかった男は、主イエスを信じ、主イエスに生かされる者として、神を喜ぶ者として立たされ、新たに歩き出したのです。

二人にいけにえを献げようとする群衆  
 ところが、これを見ていた群衆は、パウロが語った恵みの言葉より、生まれつき足の悪い男が、躍り上がって歩いた奇跡の方だけに心を奪われました。   
 パウロは当時の標準語であるギリシャ語で語っていたはずですが、群衆はこの奇跡の出来事に興奮して、自分たちのリカオニアの方言で「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と叫びました。もしパウロがこの言葉を聞き取れていたら、この時点で否定し、人々を止めていたはずですが、おそらくパウロはこのリカオニアの方言を聞き取れなかったのだと思います。よく分からない言葉で人々が騒ぎだして、そのうち大変なことになっていきました。   
 人々はバルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼び、町の外にあるゼウスの神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を持って来て、群衆と一緒に二人にいけにえを献げようとしたのです。そこでパウロはようやく、事態を把握しました。それは自分たちが神に祭り上げられようとしている、ということでした。      

 ゼウスとヘルメスというのは、ギリシャ神話の神々です。このリストラの地域では、ゼウスとヘルメスが人間の姿をとって人々のところに降ってきた、という伝説がありました。昔々、貧しい老夫婦が、二人の旅人を、人間の姿をとったゼウスとヘルメスとは知らずに、丁寧にもてなしました。すると、その地域で災いがあった時に、この老夫婦はその親切の報いを受けて、ゼウスとヘルメスによって災いを免れた、という物語です。   
 癒しの奇跡を見た人々は、バルナバとパウロが、伝説のように、人の姿をとってやってきたゼウスとヘルメスだと思ったのです。神々はもてなさなければなりません。もてなしておけば、この神々は災いの時に助けてくれます。逆に、もてなさなければ、災いを下されるかも知れません。      

 しかし、このように人々は、神々をもてなすこと、拝むことで、神々に何かしてもらおうとしています。神々によって、自分たちの幸運を引き寄せようとしたり、災いを遠ざけ、平安を得ようとしたり、願望を叶えようとしています。まさに自分たちが、神々を自分の望み通りに動かそうとしているのです。自分たちに都合の良い神々を造り出すことや、命のない偶像の神を造って拝むことは、そのようにして人間の手に負えない力をコントロールしようとしたり、安心を得ようとしたり、願いを叶えようとしたりする、自己中心的な人間の思いを映し出しているのではないでしょうか。神々を造り、拝み、神々に願いを叶えさせ、神々を動かそうとする人間は、まさに自分自身が神のようになろうとしているのです。

生ける神に立ち帰れ   
 しかし、天も、地も、人間も、すべてをお造りになり、支配しておられるのは、真の神、ただお一人です。この方は、人間の願望に従わせられたり、人間の思い通りに動かされるような神ではありません。真の、唯一の神は、人間が見ることも、触れることもできず、計り知ることも出来ないお方なのです。   

 パウロとバルナバは、服を引き裂いて群衆の中に飛び込み、自分たちを神として拝もうとすることを止めさせました。このままでは神以外のものを神とする罪を、群衆に犯させることになってしまいます。服を引き裂くのは、悲しみや嘆き、また強い抗議の姿勢を表すものです。   
 またここにはパウロとバルナバにとっても、罪への誘惑があったかも知れません。パウロとバルナバは、神々としてあがめられたなら、大変なVIP待遇を受けることが出来たでしょうし、人々は何でも言うことを聞いてくれたでしょう。しかし、それは主イエスがなさって下さった御業、神の力を、自分のもののように奪い取ることになります。それもまた、大きな罪です。しかし二人は、そのようにはせず、ただ神にのみ栄光を帰し、自分たちは人々と同じ人間であると叫びました。   
 「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」   
 パウロとバルナバも、リストラの人々と同じ人間であり、神に頼らなければならない者、神に救われなければならない者なのです。   
 二人は自分たちが神のように扱われるのを強く拒否しました。そして、リストラの人々に、偶像や、人が造り出した空しい神々ではなく、真の神、生ける神を知り、立ち帰るべきだということ。そしてそのために、福音を告げ知らせているのだ、と語ったのです。      

 パウロは言います。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」   
 このことを語り、パウロとバルナバは、リストラの人々が自分たちにいえにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた、と書かれています。         

 神は、天と地と海と、その中にあるすべてのものをお造りになった方です。この方のみが神であり、造られた被造物は決して神になることは出来ません。また神を造り出すことも出来ません。しかしまさにリストラの町の人々は、すべての創造主である生ける神を知らず、神ならぬ神々を拝み、パウロが言うように、思い思いの道を行っていたのです。      

 しかしそれでもなお、神は恵みを与え、人々を養い、生かし、喜びを与えて下さっていました。天から雨が降ることも、実りの季節が来ることも、食物があることも、何もかも、すべてを造り、すべてを支配しておられる、生ける神が、恵みによって与えて下さっていたことなのです。この生ける神は、一方的に恵みを与え、喜びを与えて下さる方です。神は恵みによって人々の心を喜びで満たすことで、ご自身を現して下さっていたのであり、ご自分を証ししておられたのだと、パウロは言います。      

 しかしそれは過ぎ去った時代のことだ、とパウロは言っています。今は、新しい時代が来たのです。神は、今や決定的な仕方で、ご自分を現されました。それが、人となられて世に来られた、神の独り子、イエス・キリストです。人は自分から神を知ることは出来ません。ですから、神は御子である主イエスを遣わして下さり、この方によって、ご自身を、そして神の恵みを、はっきりと人に対して示して下さったのです。   
 主イエスは、ゼウスやヘルメスの伝説のように、仮に人間の姿になって、気まぐれにふらっと来られたのではありません。また、人々のもてなしを望まれたのでもありません。主イエスは、神の御子でありながら、神に逆らった人々の罪を負うために、そして、困難も苦しみも死も、すべてをご自分の身に引き受けて、十字架に架かって死んで下さるために、わたしたちと同じ、まことの人となって、世に来て下さったのです。      

 その主イエスが現して下さった神の恵みとは、神が、ご自分の御子の命を与えるほど、造られたわたしたち人間を愛して下さっている、ということです。主イエスの十字架の死によって、神を忘れ、逆らい、離れていた罪を赦して下さるということです。そして、神は主イエスを復活させて下さり、信じる者には、この主イエスの永遠の命に与らせ、復活の希望をも与えて下さるということです。   
 神は、遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じ、再び神のもとに立ち帰り、神と共に生きる者となりなさいと、わたしたちを招いて下さっているのです。この方は、生きておられ、愛して下さる神、わたしたちがご自分から離れることをお怒りになる神、わたしたちと関係を持ち、恵みと喜びを与えようと語りかけ、働きかけて下さる神なのです。      

 ですからパウロは、命のない、虚しい偶像の神々を離れ、この生ける神に立ち帰るようにと、主イエス・キリストの福音を告げ知らせるのです。主イエスが与えられた今、人はもう思い思いの道を歩むことはできません。主イエスによって、神のみ心を知る道、生ける神のもとに立ち帰る道は、はっきりと示されたのです。それは、この神が下さる恵みの言葉を受け入れること、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じることです。   
 足の不自由な男のように、何も出来なくても、何も持っていなくても良いのです。ただ、この方が自分を救って下さるという福音を聞いたなら、そのことを受け入れ、この方に救いを求め、依り頼むのです。その時、わたしたちは苦しみや、弱さや、希望のない所から、主イエスによって立ち上がらされ、復活し生きておられる主イエスと共に歩み出すことができます。この方にあって、世のどんな苦しみも、困難も、死をも乗り越える、希望と喜びの中を、新しく歩んでいくことが出来るのです。   
 それが、天地を造られ、わたしたちを愛し、恵みと喜びを与えようとして下さる、生ける神が示して下さっている道なのです。わたしたちは、この生ける神にこそ立ち帰り、この恵みへの招きを受け入れ、神と共に歩んでいきましょう。わたしたちは、その時、まことの神に応答する存在として、神のみを礼拝し、賛美し、もっとも人間らしく、活き活きと、神と共に在る喜びに生きる者とされるのです。

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