主日礼拝

主があなたを憐れみ

「主があなたを憐れみ」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第38章10-20節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第5章1―20節
・ 讃美歌:37、526、569

異邦の地、ゲラサ地方
 主イエスの一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着かれました。本日の物語がこのように始まります。湖とはガリラヤ湖のことです。夕方に主イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」(4章35節)と声を発せられ、一行はガリラヤ湖に漕ぎ出しました。しかし、その途中でガリラヤ湖に激しい突風が起こり、波がかぶって舟が沈みそうになった(4章37節)出来事が起こりました。そこで主イエスは風を叱り、「黙れ。静まれ」と命じられると凪になり、一行は向こう岸に渡る事が出来たのです。本日の5章はそのガリラヤ湖を渡られた所から始まります。主イエスの一行はガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着きました。ゲラサ人の住む土地とは、異邦人の住む土地です。異邦人の土地とは、まことの神から離れている場所ということです。神の民イスラエルの立場からすると、まだ福音の届いていない世界です。主イエスが湖を渡って辿り着いた場所はそのような場所でした。ですから、決して誰もが進んで行きたいような場所ではありません。けれども、主イエスは進んで行かれました。誰も好んで行くような場所ではなく、弟子たちも躊躇するような異邦人の場所に主イエスは「向こう岸へ渡ろう」と向かわれます。主イエスが促されるのです。主イエスに導かれて、弟子たちはこの場所へやって来ました。

汚れた霊に取りつかれた人
 そのような異邦人の土地で主イエスは一人の人と出会いました。2節には「すぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」とあります。「汚れた霊に取りつかれて人」とは、汚れた霊に支配されている男です。
 この「汚れた霊に取りつかれた人」は3節から5節にありますように「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。」とあります。更に「これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」墓場に住み、鎖や足枷を引きちぎり、夜昼叫びまわり、自分自身を傷つけておりました。これが汚れた霊に取りつかれた人の姿です。墓場に住みついていたとは、周囲の人々との交わりから断たれてしまっていたのです。誰も近づきそうにない場所に追い遣れていました。理由はこの男が、頑丈な鎖でも繋ぎ止められないほどの力を持っており、自分に近寄る者、触れようとする者をも傷つけていたのではないかと考えらます。そして、自分自身をも石で打ち叩いて傷つけていました。そのような自分を傷つける自傷行為も、自分の思いからしているのではありません。汚れた霊の力に支配されているからです。この汚れた霊の力というのは、破壊的な力であると言えます。人との交わりを断たせ、人から恐れられ、自らを傷つけようとする力です。この汚れた霊の破壊的な力により人との関わりを壊し、自分をも傷つける者とされるのです。この異邦の地で主イエスを最初に迎えた人物はこのような人物でした。人との関わりを絶たれ孤独な世界に捨て置かれていました。誰からもまともな人間としては扱ってもらえないような、汚れた霊に取りつかれた人でした。極限状態に陥ってもがき苦しんでいる人間の姿です。苦しみを抱えて、抑えつけられ、叫びを上げます。誰に向かってというのでもなく、何に対してというわけでもありません。自分でもどうしてよいか分からないのです。自分を繋ぎ止めている全ての鎖を引きちぎり、自分を縛り付けようとするあらゆる手かせ、足かせを打ち砕いて、自由を求めて叫ぶのであります。それは、本当には自由ではないからです。魂が縛られ、抑え付けられている。鎖で繋がれているように思えるので、それを引きちぎり、打ち砕いて、そして自由を求めて動き回ります。どんなに暴れても解決は見出されません。助けはますます遠のいて行き、孤立し、そしてただ自分独りの世界に閉じ籠らざるを得なくなります。誰からも認められず、愛されず、受け入れられず、そして誰をも寄せ付けず、愛さず、受け入れず、誰も助けられないまま、精神の荒廃へと追い遣られた、一人の人間の姿のです。主イエスはこの男のいる場所へ来られました。湖を渡り、嵐に会われこの場所へ来られました。そして、この男を見出しました。この男は主イエスが神の子であることを見破ったのです。神から遣わされて来られた方であると見破り、自虐的な言葉を投げ付けます。7、8節です。「いと高き神の子、かまわないでくれ。後生だから苦しめないでほしい。」この「かまわないでくれ」という言葉は元の言葉では「何か、わたしとあなたの間にあるのか」という意味があります。「わたし」と「あなた」との関係があるのか、と問いかけています。つまり、共通点は全くないということです。しかし、この男の言葉は彼の本心でしょうか。本当は主イエスさまに治してもらいたいという思いはなかったのでしょうか。しかし、この男はまるで逆のことを言います。自分の本当の気持ち、素直な気持ちは、この人の場合、何者かによって、心の奥に押し込められていました。彼自身は、まるで逆のことを叫んでいます。「どうかわたしに構わないでくれ、あっちへ行ってくれ!」。これもまた、汚れた霊によることです。

主は進まれる
 けれども主イエスはこの人に向かいます。主イエスは失われた、まことの自由に生きていない人間を取り戻すために遣わされました。この神から遣わされた方はまさに、自分を見失って、自分をさえ傷付けようとしているこの一人の人間へと進まれ、出会って下さいます。そして主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と言われました。主イエスは荒れ狂う精神の状態からこの男を救い出されます。この男のような「荒れ狂う精神の状態」とは特殊なことでしょうか。誰もがこういう状態に追い込まれる事があります。神を見失った人間の姿です。神との関わりに生きることのない人間の姿です。そのような人間が追い込まれた時に陥りかねない状態です。人間は神の前に呼び出され、その良き力に圧倒されます。神の前に呼ばれ、満たされる事なしには、悪しき思いを去らせる事は出来ません。心を静める事は出来ないのであります。我を忘れ、自暴自棄になり、自分で自分をコントロール出来なくなります。しかし主イエスはそのような人間の前に立ち、湖において自然の嵐を静められた主イエスは今ここで、人間を襲う嵐を静めようとされるのです。このたった一人の人間の中で荒れ狂っていたその嵐のすさまじさというものを、聖書はそれが豚の大群に匹敵するものであったという叙述によって私どもに明らかにしています。それほどにこの人は自分を見失い、自分で自分をコントロールする事が出来なくなり、危機的な状況に陥っていたのです。
 この孤独の中にいた一人の男に主イエスはこの人と出会われました。主イエスは今、交わりが断たれ、自分を見失って、自分さえ傷つけようとするこの人間と出会って下さいました。主イエスは、失われた人間を取り戻すために神から遣わされたお方です。主イエスは、荒れ狂うガリラヤ湖を渡られ、まことの神を知らない異邦人の住む地に来られました。誰もが関わりを避けていたこの男に、主イエスだけは関わりを持とうされるのです。この男は汚れた霊の支配下にあり、人との交わりを絶たれ、自らを苦しめる者でした。孤独の中におりました。主イエスは、このような男に対して絶たれた交わりを取り戻そうとされました。自分のことを傷つける者に近づこうとするものは殆どいません。その攻撃が自分の方へ向かってくるのではないかと心配します。このような、汚れた霊に取りつかれた男に近づく、交わりを持とうとする者はおりません。しかし、今汚れた霊に取りつかれた人に交わりを持たれる、唯一の方がおられるのです。今、目の前にいる「いと高き神の子」であるお方、主イエスであると告げます。信仰の告白です。

いと高き神の子によって
 主イエスはこの汚れた霊に取りつかれた人に「名は何というのか」とお尋ねになりました。「名はレギオン。大勢だから」と答えます。汚れた霊は自分の名前を主イエスに対して明らかにしました。名前を明らかにするということは、悪霊が自らの正体を明らかにしているということです。主イエスに対して、汚れた霊は降伏しているのです。「いと高き神の子」とは主イエスは汚れた霊を超えたお方であるということです。「レギオン」というのは、ローマの一軍団の名称です。4千人から6千人の兵士からなっていたと言われています。ですから、この悪霊は多数の、大きな力を持っていたと考えられます。主イエスが汚れた霊を超えたお方であるということは、8節、13節に汚れた霊を追い出す力を持ったお方であるということからも分かります。主イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」と言われると、その言葉通りになりました。4章39節でも、ガリラヤ湖の湖上で主イエスは弟子たちの命を脅かす嵐を「黙れ、静まれ。」という言葉をもって凪にさせました。主イエスのお言葉による力です。主イエスは私たちを脅かす力、汚れた霊をも支配させる力、権能をもっておられるお方です。主イエスはそのような権能、力を自分のためにではなく、この男のために用いられるのです。この「いと高き神の子」である主イエスとの出会いによって、この男は正気になったことが15節にあります。「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っている」とあります。主イエスによって汚れた霊の支配から、この男は解放されました。これまで、失われていたこの男の人間性が回復されました。この男は人の交わりが絶たれ、交わりを結ぶことが出来ませんでした。人間は一人で生きていくことは出来ません。他者を必要とする存在です。その他者との交わりの中で、人間は生かされ、成長をしていきます。愛情を受け、与え、友情を育みつつ歩みます。そのようなものから遠ざけられていた、この男が、主イエスの力によって再び交わりの中に取り戻されました。主イエスにおいて、そのような神の力が働いているのです。

主の憐れみによって
 そして、この話は続きます。12節以下の汚れた霊を追い出し、多くの豚を湖に溺れさせました。14節に「豚飼い」とありますので、この豚は彼らの所有物でした。豚飼いにとっては大切な財産です。生活の糧です。主イエスはなぜ、そのような豚を湖に溺れさせたのでしょうか。ある者は、主イエスはユダヤ人であり、ユダヤ人にとっては豚というのは汚れた存在だから、おそらく主イエスも豚を嫌っていたのであろうと説明をいたします。しかし、私たちがここで、見るべき事柄は豚の出来事ではなく、主イエスと汚れた霊に支配されていた男との出会いです。たくさんの豚がなぜ湖に飛び込んだのかということを考えるよりも、主イエスのなさった御業に目を向けたいものです。なぜなら、それは19節にもありますように「主憐れまれた出来事」だからです。主イエスが与えて下さった憐れみの出来事なのです。この汚れた霊に取りつかれていた男について、その一部始終を見ていた異邦の地の人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだしました。16節に成り行きを見ていた彼らは 「悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」とあります。このことから、人々の関心は汚れた霊に取りつかれていた男が正気になったことです。また、自分たちの財産である豚が犠牲になったということでした。人々は危険人物と見なされていた、「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしく」なりました。人々は、この男が主イエスとの出会いによって大きく変えられたということよりも、財産である豚が犠牲になったという自分の損失に目を向けてしまったのです。人々は、主イエスが一人の人間を交わりの中に取り戻され、癒されたということよりも、自分たちに損害を与える者であると思ったのです。主イエスは自分にとってマイナスになる存在だとしか見ることが出来なかったのです。人々は自分の損得に関することしか考えることが出来なかったのです。

平安に満ちて
 この汚れた霊に取りつかれた男は正気を取り戻しました。この男は静かになりました。主イエスの足元で正気に返ったのです。この男の周りには静けさがありました。平安に満ちていました。この出来事が人々に知らされます。するとそこに見たものは、墓場を住みかとするほどに荒れ狂っていた人が、我に返って静かに座っている、正気な姿です。人々は驚き、また恐れました。(15節)成り行きを見ていた人が事の一部始終を説明しました。それを聞いて人々は驚き、恐ろしくなりました。主イエスに対して自分達の所から出て行って欲しいと言い出した(17節)のです。これ以上面倒な事に巻き込まれたくないという思いがあったのでしょう。主イエスの力の前での人間の正直な姿です。主イエスは再び舟に乗り込み、その地を去ろうと致します。それを見て慌てたのは、主イエスによって平静な心を今取り戻したその人であります。18節では、「悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」のです。自分も一緒に行きたいと、そう願いました。自分も一緒に連れて行って欲しいと願ったのであります。その理由はありません。おそらく長い間の彼の奇怪な行動のゆえに、彼には帰るべき場所はなかったのではないでしょうか。彼を知っているその土地にはもはや彼を理解し、温かく迎え入れてくれる者など一人もいなかったでありましょう。彼の家族や親戚も、とうの昔に彼を見放していたに違いありません。自分も一緒に行かせて欲しい。そう願ったのは当たり前の事であります。しかし、主イエスはそれをお許しにはなりませんでした。そして彼に向かって言いました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ5:19)これが主の答えであります。主イエスは墓場ではなく、あなたには帰るべき家があるということを示されました。絶たれていた交わりに戻りなさいと言われます。そして、この新しく生まれ変わった人に、新しい使命をお与えになったのであります。それは自分の家に帰る事。自分の生きているその生活の場に戻る事。そしてその生活の場で、主の憐れみを知らせなさいという事であります。

自分の家に帰って
 「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない。」とあります。主イエスはここで、御自分が「主」であること、つまり神であられることを宣言されます。あなたを正気にし、癒しを与えたのは、他ならない「主」であるということのです。主イエスは男に神の偉大な御業を伝えなさいと、告げます。主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせるということが、この男に託された新しい使命なのです。この男は、汚れた霊に支配されていました。墓場を住みかとしておりました。墓場ということは、死の支配する場所です。また、汚れた霊とは、死の霊、死の恐怖で人を破滅させ、縛りつける霊です。この男は死んでいたも同然でありました。しかし、主イエスが交わりを取り戻して下さったのです。主イエスによって、この男は新しく生きるようになったのです。この男は悪霊の支配から解き放たれ、人々との交わりを取り戻されました。そして、死の支配から神の憐れみの支配へと移されたのです。死んでいたような者が再び交わりに生きるようになったのです。それはこの男が死から命へと移されたということです。主イエスがこの死を引き受けて下さったのです。主イエス・キリストとの出会いによって、人生が変革されたのです。主の憐れみによって変えられたのです。主イエスの憐れみが人をまことに生かすのです。「主があなたを憐れんで下さる」という言葉は、後の教会の言葉となって行きました。「キリエ・エレイソン」(主よ、我らを憐れみ給え)という教会の祈りの言葉となって言ったのです。そして、主の憐れみを知らされた者は、その憐れみにうちに新しい使命を与えられました。家族の者に証しをするということでした。そのような新しい使命に生きる者とされていくのだと伝えます。この日、主イエスは一人の人を救いへと招かれました。たった一人の救いのために、主イエスは遠い異邦の地にまで来て下さったのです。そのことは、私たちの住むこの国に、福音が告げられ、聖書が開かれているということと重なり合います。この人は主イエスの元を立ち去り、主イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めました。この「言い広める」と言う言葉は、「宣教する」教えを宣べる、ということです。主イエスが自分になさったことを教えました。

福音が広げられ
 主の憐れみを証しする者として、新しく生まれ変わった人生を用いなさいと、そのように主はこの人にも命じられたのであります。特別な所へ行って、特別な事をするという事が命じられているのではありません。あなたの家に帰り、これまであなたが生きてきたその生活の中で、主の憐れみに生きる者である事。主の憐れみによって生かされている者である事を、その存在を通して語りなさいというのであります。言葉で語らなくても、生き方で語る事は出来ます。そういう仕方で、主の憐れみを知らせなさい。それが新しい使命であります。その人は立ち去り、そしてそのようにしました。こうして福音が湖を渡り、異邦人の世界に始めて広まって行ったのであります。この荒れ果てた人生を歩んでいた人を通して、主の憐れみと神の愛の業が伝えられていったのであります。私達も同じです。神なき生活から贖われて、神と共に歩む人間になった。主から遣わされて、自分の遣わされている持ち場へと帰って行く人間になったのであります。

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