夕礼拝

目には目を

「目には目を」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第21章12-36節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章38-42節
・ 讃美歌 : 117、403

契約の書
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めておりまして、先月までは、第20章に語られていた「十戒」を丁寧に読んできました。その後の第20章22節から23章の終わりまでのところには「契約の書」という見出しがつけられています。そしてその部分は(1)から(16)まで、16の項目に分けられています。本日は第21章12~36節を読むのですが、そこは今の区分で言うと、(3)の「死に値する罪」、(4)の「身体の障害」、(5)の「財産の損傷」の三つの部分ということになります。このような区切りや見出しは聖書の原文にはありません。翻訳の時に便宜的につけられたものです。しかし分かりやすい手引きとなっていると言えるでしょう。
 ところで、この部分の全体が「契約の書」と呼ばれるのは何故なのでしょうか。それは24章の3~8節を読むことによって分かります。そこにはこうあります。「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」」。ここには、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことが語られています。その契約には、雄牛の血が用いられています。その半分が祭壇に振りかけられ、半分は民に振りかけられたのです。その血が「契約の血」と呼ばれています。これは、主なる神様とイスラエルの民が一つの血で結ばれることを表しています。そのようにして、神様が民と特別な関係を結んで下さることが契約を結ぶということなのです。そしてその契約が結ばれるに当って、7節に、「契約の書」を民に読んで聞かせた、とあります。それに対して民は「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と宣言したのです。その「契約の書」が20章22節から23章までの部分であると考えられているのです。あるいはこの契約の書は、20章の初めから、つまり十戒から始まっているとも考えられます。主なる神様とイスラエルの民とが契約を結ぶ、そこにおいて神様から与えら、民が行い、守るべき掟が契約の書の内容なのです。
 私たちは普通「契約の書」というと「契約書」を思い起こします。それは契約を結ぶお互いの間の合意事項、約束を確認するための文書です。しかしこの「契約の書」はそれとは違うものです。契約書は基本的に対等な関係で契約を結ぶ双方が交わすものですが、人間は神様と対等の関係で「契約」を結ぶことなどできません。神様にしてみれば、人間と契約を結ばなければ困ることなど本来ないのです。その神様が人間と契約を結び、一つの血によって結ばれた特別の関係に入って下さるというのは、イスラエルを選んでご自分の民として下さるという神様の恵み以外の何ものでもありません。その恵みを受けたイスラエルの民は、当然、その恵みに応え、神様のみ心に適う生き方を求めていきます。その神様のみ心に適う生き方を具体的に示す掟が契約の書に記されているのです。私たちの信仰も、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦し、新しい契約を結んで私たちを神様の民として下さっていることを信じ、その恵みに応えて、神様に従って生きていくことです。そういう意味で十戒やこの「契約の書」に語られていることは、私たちの信仰においても大切な意味を持っているのです。
 しかしこの「十戒」と違ってこの「契約の書」に語られていることは、かなり細かい、生活上の様々な事柄についての規定です。そしてそれは二千年以上前のパレスチナにおける生活を背景として語られていますから、今日の私たちの生活にはそぐわないことも沢山あります。そのためにこのような箇所はともすると、聖書の中で最もつまらない、無味乾燥な所として読み飛ばされてしまいがちです。しかしよく読めば、このような細かい規定の中にも、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さり、神様の民として生かそうとしておられる愛と、そしてその愛に応えていくための道が、具体的に示されているのです。それをご一緒に読み取っていきたいと思います。

死に値する罪
 12~17節は、小見出しによれば「死に値する罪」です。このようなことをした人は必ず殺されなければならない、死刑に処せられなければならない、という掟です。その罪とは、人を撃って死なせる殺人と、父あるいは母を打つこと、人を誘拐すること、そして父あるいは母を呪うことです。これらは、十戒の後半のいくつかの戒めと重なっています。第五の「あなたの父母を敬え」、第六の「殺してはならない」、そして、「人を誘拐すること」は第八の「盗んではならない」の本来の意味であるとも言われています。ですからこれらの罪はいずれも、十戒に示されている、神様の救いにあずかった者が隣人との間に保つべき人間関係の根本を損なうことなのです。殺人も誘拐も、神様のものである隣人の命を自分の欲望のために支配してしまうことです。父母は、神様によって自分の上に置かれた人です。両親を打ったり呪ったりするのは、神様がお与えになったその秩序への反逆なのです。つまりこれらのことは人間に対する罪であるだけでなく、むしろ神様に対する大きな罪なのです。それに対しては厳しい罰が与えられなければならない、と言われているのです。

故意か過失か
 しかし、殺人に対するその厳しい罰の中に、一つの例外が定められていることに気付きます。それは13節です。「ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる」とあります。これは、故意にではない、偶然の事故によって人を殺してしまった場合のことです。その場合には、その人は殺されるべきではない、逃れる所(それはよく「逃れの町」と呼ばれますが)が与えられるのです。14節は逆に「故意に隣人を殺そうとして暴力を振るう」場合です。その時には、「わたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」とあります。このようにこの掟には、人を殺した者は死をもって罰する、という厳しさと共に、心の中のこと、故意か偶然による過失かを見分けて、許されるべき者は許そうとする姿勢が見られるのです。

傷害事件について
 18~32節は、身体に対する傷害事件への対処の仕方が語られています。18、19節は、傷害事件が起った時、被害者が死ななければ加害者は許される、しかし被害者が仕事を休んだ分の損失と、治療費を払わなければならない、ということです。この掟には、傷害事件における罰をできるだけ軽くして、経済的損失の賠償のみに留めようという姿勢が感じられます。厳罰主義ではなく、許しを基本とする掟であると言えるでしょう。そして興味深いのは、20、21節にある、同じ傷害事件でも、自分の奴隷に対する傷害の場合です。奴隷制度は古代の社会において当然自明のことでした。ですから今日の感覚で、聖書も奴隷制度を認めているのはけしからん、といきまいても始まりません。むしろ、聖書が、当然と考えられていた奴隷制の中でどのような掟を語っているのかを正確に読み取ることが大事です。主人が自分の奴隷に傷害を与えた場合、一両日でも生き延びれば罰せられない、と言われています。その根拠として、「それは自分の財産だからである」と言われています。これは確かに、奴隷を主人の所有物として扱っているということです。しかしそのことよりむしろ「人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる」という掟に注目すべきです。これは要するに、奴隷に対しても、自由人に対する場合と同じように、殺したら殺人罪が適用される、ということです。つまり、「奴隷は自分の財産だから、殺してもかまわないのだ」ということは許されない、ということです。一両日生き延びれば罰せられない、というのは、そのようにして死んだ場合には故意の殺人とはみなされない、ということでしょう。このように、聖書の掟は、勿論奴隷を主人の所有物と位置づけていますが、しかし奴隷も一人の人間としてその命は尊重されなければならない、ということを語っているのです。

目には目を、歯には歯を
 22節以下には、同じ傷害事件でも、相手の体に癒すことのできない傷を負わせた場合のことが語られています。まず最初は妊娠している女性を打って流産させた場合です。その時は夫の要求する賠償を、仲裁者、つまり第三者の裁定に従って支払わなければなりません。23節は、その他の損傷がある場合です。これは妊娠している女性に対してのみでなく、一般に、人に傷を負わせた場合の掟として読むことができるでしょう。そこに語られているのが有名な、「命には命、目には目、歯には歯云々」という掟です。命を奪ったら自分も命を奪われる、目をつぶしたら目をつぶされる、歯を折られたら歯を折られる、というこの掟のことを「同害復讐法」と言います。与えた傷害と同じ傷害を復讐として与えられる、ということです。このような掟は今日の感覚からすると、大変野蛮な、残酷なことと思われるかもしれません。しかしこの掟の根本的な考え方は、復讐は受けた害と同じ害を与えるだけでやめておけ、ということなのです。人間の復讐心には際限がありません。子供のけんかでも、一発ぶたれたら二発ぶち返す、二発ぶち返されたら三発ぶち返す、とエスカレートしていくのです。初めは冗談だったのがそのうち本気のけんかになったりします。大人も同じでしょう。片方の目をつぶされたことへの復讐は、片方の目だけでは済まないのです。そのように復讐の心がふくれあがっていくことによって、人間関係が破壊され、最終的には殺人が起るのです。ほうっておけばそのようになる人間の憎しみの思いに、「復讐は受けた傷と同じ傷を与えることでやめておけ」と命じているのがこの掟なのです。この掟の精神はそのように、加害者に対する憎しみを一定の限度の中に押さえようということなのです。
 26、27節は、先ほどと同じように奴隷に対する場合です。主人が奴隷に治らない傷を負わせた時には、目には目、歯には歯という掟が適用されるのではなくて、その奴隷を自由にして去らせねばならないのです。ここにも、奴隷を一人の人間として尊重し、機会があれば自由を与えようとするこの掟の精神が現れています。
 28節以下は今度は、牛が人を突いて死なせた場合です。その牛は殺されるが、所有者に罪はないのです。しかしもしもその牛が、以前から突く癖があり、警告がなされていたのに適切に処置しなかったために事が起った場合には、所有者も牛と共に死刑に処せられるか、あるいは賠償金を支払わなければならないのです。ここにも、今日の言葉で言う「過失」があったのかどうかを判断して罰を定めようとする精神が伺えます。33、34節の、水溜めを掘ってそれに蓋をしないでおいたために家畜が落ちた、という事故についても、また35、36節の、ある人の牛が他の人の牛を突いて死なせた場合においても同じことが言えます。

隣人との良い関係のための掟
 このように見てくると、「契約の書」に記されている掟は、決して無味乾燥な、堅苦しいものではなくて、そこには隣人との間に良い関係を築いていくための具体的な指針が示されていることが分かります。良い関係の根本は、隣人の命を神様のものとして大切にすることです。奴隷の命も含めて、人間の命は神様のものなのです。それを自分の欲望のために奪ってはなりません。それは死をもって罰せられる重大な罪とされています。しかしその罰もただ形式的に行われるのではなく、それぞれの事情をきちんと把握し、故意になされたことなのか、過失による事故なのかを判断して、できるだけ許しを与えるべきことが語られています。そして何よりも、隣人の罪によって自分が傷を受けた時に、復讐の思いを一定限度内に留め、憎しみが過度にふくれあがっていくことを防ぐべきことが教えられているのです。「目には目、歯には歯」という掟は、そのためにあります。これは隣人から受けた傷と、それに対する怒り、憎しみを忍耐することを教えている掟です。そのような忍耐によってこそ、イスラエルの民は、神様に選ばれ、神様との特別な関係に生きる神の民として、隣人との間に良い関係を築いていくことができるのです。

憎しみの悪循環にストップを
 「目には目、歯には歯」というこの掟を、主イエス・キリストは、マタイによる福音書第5章38節で引用しておられます。主イエスはここで、旧約聖書の律法、つまり神様の掟のいくつかを引いて、「律法ではこのように教えられている、しかし私は言っておく」、という仕方で、その律法を乗り越えるような教えを語っておられます。「目には目、歯には歯」という掟も、そういう流れの中で引用されているのです。主イエスはこの掟をどのように乗り越えておられるのでしょうか。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。これは、一切復讐をするな、ということです。自分に悪を行う者に対して、同じお返しをすることすらもやめなさい、と言っておられるのです。そしてむしろ、右の頬を打たれたら左の頬をも向けて、両方打たせなさいと言っておられるのです。40、41節にも同じことが語られています。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。どちらも、人が不当に何かを求め、あるいは何かを奪おうとする時に、相手が求める以上のものを与えてやれということです。私たちはこの教えを読むと、「こんなことをしたらこの世は悪人の天国になってしまう」と思います。あるいは、このような教えは現実の厳しさを知らない理想論だ、と思うのです。しかしここで、あの「目には目、歯には歯」という掟が目指していたことをもう一度思い起こしたいのです。この掟は、誰かの悪によって傷を受けた被害者の復讐心、憎しみにブレーキをかけようとしていたのです。つまりこの掟は、傷害事件の加害者を減らし、悪人の天国にならないように、ということを目指している掟ではないのです。人を傷つけ、苦しめる悪人はいつの時代にも、どんなに厳しい罰則があっても、根絶されることはありません。それが人間の罪の現実であり、主イエスはそれを醒めた目で見つめておられるのです。その中で主イエスが語りかけておられるのはむしろ、そのような傷を受けた被害者に対してなのです。その人がどうするか、加害者に対する憎しみを燃え上がらせ、どこまでも復讐を遂げていこうとするのか、悪をもって悪に報い、憎しみをもって憎しみに報いることによって、さらに大きな悪と悲惨の中に陥っていくのか、それとも、そういう憎しみの思いをどこかで断ち切って、復讐がさらなる復讐を生むような悪循環にストップをかけるのか、主イエスはそのことを問うておられるのです。

右の頬を打つなら、左の頬をも
 「目には目、歯には歯」という掟は、復讐の際限なき拡大にストップをかけさせ、受けた被害と同じ害を与えるだけで留めさせようという教えでした。しかし、よく言われるように、人間は自分の受けた被害はとても大きく感じるのに対して、自分が人に与えた加害についてはとても小さく感じるものです。同じ事態も、被害者の感覚と加害者の感覚では全く違うのです。だから、一発ぶたれたら二発ぶち返す、ということが必ず起るのです。それゆえに「目には目、歯には歯」という掟は、その目指すところを実現することができないのです。主イエスはこの人間の現実をしっかりと見つめておられます。だからこそ、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とおっしゃったのです。そのことによってしか、人間の憎しみの思い、復讐が復讐を呼ぶ悪循環を断ち切ることができないからです。ですから、主イエスの教えは、現実を無視した理想論ではありません。むしろ人間の罪の現実を誰よりも深く見据えておられ、そこからの解放の道を示しておられるのです。

主イエスの足跡に従って
 主イエスはこの教えを、単なる教訓として、言葉の上で教えただけではありませんでした。むしろご自身が、この教えの通りに生きて下さったのです。主イエスは、神様の独り子、まことの神であられる方でしたが、私たちの罪を全て背負って下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。私たちは、主イエスを神とも救い主とも思わず、無視して、自分勝手な生き方をしてきました。そのような罪人である私たちによって、主イエスは幾度となく頬を打たれ、しかしその度に、もう一方の頬をも向けて下さったのです。下着を取ろうとする私たちに、上着をも与えて下さったのです。一ミリオン行かせようとする私たちのために、それを超えて二ミリオン、十字架の死に至る道を歩んで下さったのです。そのようにして主イエスは、私たちの罪のために犠牲となり、十字架の上で死なれました。そこで主イエスが流された血が、新しい契約の血となったのです。主イエスの十字架の死によって成し遂げられた罪の赦しの恵みによって、今や私たちは、神様と結び合わされ、新しい神の民、新しい契約の民とされているのです。それゆえに私たちも、この主イエスによる神様の恵みに応えて、主イエスに従って歩むのです。その私たちの歩みを導くのが、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えです。主イエスご自身が私たちのためにこのように歩んで下さった、そのみ足の跡に従って、神様の民とされている私たちが、一歩でも二歩でも、このように歩み出すことによって、憎しみ、復讐の悪循環からの解放が、先ず私たちから始まるのです。「契約の書」の掟が目指していたけれども実現できなかったことが、主イエス・キリストに従う私たちによって、この世界に実現していくのです。主イエスがその歩みの先頭に立って下さっています。十字架の主イエスのお姿を見つめつつ、主イエスの歩みの一歩一歩に自分の歩みの一足一足を重ねながら、憎しみの悪循環からの解放への道を歩んでいきたいのです。

関連記事

TOP