主日礼拝

目を覚まして祈れ

「目を覚まして祈れ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第21章29-38節
・ 讃美歌:4、140、577

主イエスの再臨による世の終わり
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めておりますが、第19章の後半に、主イエスがエルサレムに来られたことが語られていました。そこから、主イエスのご生涯の最後の一週間が始まります。その週の金曜日に、主イエスは十字架にかけられて殺される、いわゆる受難週が、主イエスのエルサレム入城から始まったのです。エルサレムに来られた主イエスは、毎日、神殿の境内で集まって来る人々に教えを語っておられました。そのことが、本日読まれた箇所、21章の終わりの所、37、38節に語られています。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。このようにして主イエスが神殿の境内で人々に語っておられたことが、20章と21章に記されているのです。本日の箇所はその終わり、しめくくりの部分です。21章に入って主イエスが語って来られたことは、この世の終わりについてのことでした。この世の終わりが近付いてくるとどんな徴があるのか、と問うた人々に対して主イエスは、戦争とか、暴動とか、大きな地震、飢饉や疫病といったことが起る、また、神様を信じ、主イエスに従って歩んでいる者に対する迫害が起り、そのために殺されてしまう者も出る、とお語りになりました。それらの恐ろしい出来事、大きな苦しみ、悲しみを、あなたがたはこの世の終わりに向けて必ず体験していくのだ、とおっしゃったのです。けれども、そこで主イエスが語られたことの最も大事な点は、それらの恐ろしい出来事、破局によってこの世が終わるのではない、ということでした。これらのことは必ず起り、あなたがたはその苦しみを体験する、しかし、それがこの世の終わりではない、終わりをもたらすのは、27節に語られていたように、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」という出来事なのです。「人の子」とは主イエスご自身のことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来る。それは、この週の内に十字架に付けられて殺され、三日目の日曜日の朝に復活し、そして四十日後に天に昇り、今は父なる神様の右の座に着いておられる主イエスが、その天から、父なる神様のみもとから、もう一度来られる、ということです。それを主イエスの再臨と言います。この世の終わりは、恐ろしい破局によってではなく、主イエスの再臨によって来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。

身を起こして頭を上げなさい
 ということは、この世の終わりは、基本的に、脅え、恐れ、それが来ないことを願うべきものなのではなくて、むしろ待ち望むべき事柄だ、ということです。そのことを語っていたのが28節でした。28節で主イエスは、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」とおっしゃいました。様々な恐ろしい出来事や迫害によって、この世の終わりを意識させられるなら、それは私がもう一度来る時が近いということだ、そしてそれは、あなたがたの解放の時が近いということだ、だから、脅え恐れて顔を伏せるのでなく、身を起こして頭を上げなさい、希望をもって私の再臨を待ちなさい、とおっしゃったのです。

主イエスの再臨は解放の時
 主イエスの再臨が私たちの解放の時であるのは何故でしょうか。それは、主イエスが「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」からです。「雲に乗って来る」というのを、孫悟空のように「きんと雲」に乗って、などと思わないでください。雲というのは聖書において、神様のご臨在を示すしるしです。つまりそれは「大いなる力と栄光を帯びて」というのと結びついて、主イエスが神としての力と栄光を帯びてもう一度来られることを語っているのです。神としての力と栄光を帯びてということは、この世の全てを支配し、また裁く方として、ということです。つまりいわゆる「最後の審判」をなさる方として主イエスはもう一度来られるのです。しかも、「人々は見る」とあります。それは、全ての人々がそれを見るということです。主イエスが神としての力と栄光を帯びてもう一度来られる時、そのお姿は一部の人のみではなく、全ての人が見るのです。そして全ての人がそのご支配に服し、裁きを受けるのです。そのことは既に、17章24節で語られていました。そこには「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」とありました。稲妻が大空の端から端へと輝くように、というのは、「突然」ということと「全ての人に明らかな仕方で」という両方の意味です。主イエスの再臨は、全ての人に明らかな仕方で起るのです。ですから、主イエスがもう一度来られたけれどもそのことを知らない人がいる、などということはないのです。だから「私が再臨のメシアである」などと言って現れて来る者はことごとくインチキなのです。主イエスは、全ての人間を支配し、裁く方としてもう一度来られ、全ての人に明らかな仕方で現れるのです。その日が私たちの解放の日であるのは、もう一度来られる主イエスが私たちの救い主だからです。主イエスは、罪に支配され、その奴隷となっている私たちを救うためにこの世に来て下さいました。そして私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスがもう一度来て、審きをなさるのですから、救い主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかって生きている者は、最後の審判においても、自分の罪のゆえに審かれ滅ぼされてしまうことはありません。そこで明らかになるのはむしろ、私たちの罪が既に赦されている、ということなのです。そして、赦されている今もなお私たちにまつわりつき、この世が続く限り私たちを支配し、引きずりまわしている罪の力がそこで完全に滅ぼされ、私たちは解放されるのです。つまり主イエスを信じる者にとって、最後の審判は罪からの完全な解放の時、救いの完成の時なのです。私たちは主イエスの再臨によるこの世の終わりを、この解放の時、救いの完成の時として待ち望みつつ生きるのです。

信仰の戦いを戦い抜く
 けれども、今も申しましたように、その救いの完成、解放に至るまでの間のこの世の歩みには、罪がなおまつわりついています。私たちの弱さもあります。そのためにそこには様々な苦しみ悲しみがあり、迫害もあるのです。つまり、主イエスを信じる信仰をもって生きることには戦いが伴うのです。主イエスはその戦いにおいて、共にいて下さり、守り支えて下さり、また語るべき言葉を与えて下さるのだ、ということが21章のこれまでの所に語られてきました。しかし勿論私たちも忍耐しつつ戦っていかなければなりません。その勧めが19節です。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われていました。つまり、主イエスの再臨によるこの世の終わりを見つめつつ生きる私たちの歩みは、身を起こして頭を上げ、希望をもって生きると共に、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていくという歩みでもあるのです。

神の国が近づいていると悟れ
 本日の29節以下において主イエスは、身を起こして頭を上げつつ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていく私たちのための勧めを語って下さっています。その勧めによってこの部分はしめくくられているのです。主イエスは一つのたとえによってその勧めを語られました。「いちじくの木や、ほかのすべての木」を用いてのたとえです。それらの木を見ていれば、葉が出始めれば夏が近いことがおのずと分かります。木の姿から、季節の移り変わりが分かるのです。これは、私たち日本人が最も得意としている感覚でしょう。しかしそれはたとえとして用いられているのであって、主イエスがここで語ろうとしておられるのは、31節の、「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」ということです。「これらのこと」、それはこの21章でずっと語られてきた、様々な恐ろしい出来事や迫害、世の終わりに向けての歩みの中で私たちが必ず体験する苦しみや悲しみです。これらのことが起こるのを見る時、私たちは、脅え、恐れ、うろたえて右往左往してしまいます。そのような私たちに主イエスは、葉が茂ってきたら夏が近いのを知るのと同じように、これらのことが起こるのを見たら神の国が近づいていると悟りなさい、とおっしゃったのです。神の国、それは神様のご支配という意味です。主イエスが神としての力と栄光を帯びて来られ、最後の審判を行われることによって、神様のご支配が確立、完成し、神の国が到来するのです。それこそが私たちの救いの完成です。つまり主イエスがこのたとえによって語っておられるのは、「これらのこと」つまり様々な恐ろしい出来事による苦しみや悲しみや迫害が起こるならば、神の国の到来による救いの完成が近い、だから、身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜きなさい、ということなのです。

神の言葉は滅びない
 32節には、「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」とあります。このみ言葉については、「すべてのこと」とは何か、「この時代」とはどいうことか、という疑問が生じます。「すべてのこと」は、世の終わりに向けて必ず起ると主イエスがおっしゃった恐ろしい出来事の全てでしょう。そして「この時代」は、「この世」と言い換えてもよいでしょう。つまりここに語られているのは、9節の「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」というみ言葉と同じことだと考えてよいと思います。この時代、つまりこの世が滅び、終わるのは、これらの恐ろしい出来事によってではなくて、主イエスの再臨によってなのだ、ということが繰り返されているのです。そしてそれを受けて次の33節が語られています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。このみ言葉によって主イエスは、身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜きなさいという勧めの最も根本的な根拠を示しておられるのです。ここで主イエスは、ご自分の再臨の時まではこの時代は滅びない、この世が終わることはない、と言っておられるわけですが、それは逆に言えば、主イエスの再臨によってこの世は終わり、天地は滅びる、ということです。私たち、特に日本人は、人間の営みは滅びていっても、天と地は滅びることがない、という感覚を持っているのではないでしょうか。「国破れて山河あり」と歌われているように、国に代表される人間の営みは失敗し、挫折し、滅びることがあるが、山や川、天地自然は存続していく、そのことによってある救済、慰めを得る、という感覚があります。しかしこのみ言葉は、最も磐石でありこれだけは滅びることがないと思われている天地も、滅びていくのだ、ということです。人間の営みのみが滅び終わるのではない、自然を含めたこの世界全体が、滅び、終わるものなのです。しかし、一つだけ滅びることのないものがある。それは「わたしの言葉」だと主イエスは言っておられます。「神様のみ言葉」と言い換えてよいでしょう。主イエスによって示された神様のみ言葉こそが、唯一、滅びることのないものなのです。み言葉は、神様のみ心、ご意志を私たちに語り示します。その神様のみ心、ご意志とは、独り子イエス・キリストを私たち罪人のための救い主としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって罪の赦しを与えて下さるというみ心であり、その主イエスを復活させ、ご自分の右の座に着かせ、そしていつか、神としての力と栄光を帯びた方としてもう一度遣わして下さる、そのことによってこの世を終らせ、私たちの救いを完成して下さる、というみ心です。この神様のみ心、ご意志を告げるみ言葉を信じるがゆえに私たちは「天地は滅びる」ということを受け止めることができるのです。そして、そこへと向かう中で起る恐ろしい苦しみ悲しみの現実の中でも、身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていくことができるのです。この21章に語られているこの世の終わりについての教えは、主イエスのみ言葉を信じることによってしか受け止めるすべはありません。その信仰なしには、これら全てのことは荒唐無稽な妄想でしかないのです。主イエスの再臨に希望を置いて、苦しみの中でも身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていくという歩みは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という信仰によってこそ成り立つのです。

心が鈍くならないように
 この信仰に生きるためのもう一つの勧めが34節以下に語られています。34節には先ず、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とあります。心が鈍くならないように、という警告です。心が鈍くなる、鈍感になる、それは、今申しましたこととの関係で言えば、神様のみ言葉に対する感覚が鈍ることです。天地は滅びるが、神様のみ言葉は決して滅びない、ということを見失い、神様のみ言葉よりも天地の方が、つまりこの世の中で盤石に見えるものの方が滅びないもの、頼りがいのあるものであるように思ってしまうことです。そうなると、この世のもの、ないしこの時代のトレンドに人生の基盤を置き、それに依り頼んで歩むことになります。その結果どうなるかが34節の続きから35節にかけてです。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」。つまり先ほど見たように、主イエスの再臨によるこの世の終わりが、突然、全ての人々に襲ってきて、頼りにしていたこの世のものは、天地も含めて滅び、終ってしまうのです。その本当の終わり、終末が来る前に、様々な恐ろしい出来事が襲って来ると主イエスは言っておられます。それらの災いは、私たちの目を、この本当の終わり、天地が滅びることに向けさせるためのしるしです。あの東日本大震災とそれによる大津波も、まさに不意に、罠のように襲ってきて、全てを押し流してしまいました。私たちはこの恐ろしい出来事を通して、「天地は滅びる」ということを知るべきなのであって、滅びないものは神様のみ言葉なのだ、ということへの鋭い感覚をこそ養っていくべきなのです。神様のみ言葉を聞き、そこにこそ信頼を置いて生きる信仰の感覚を鈍らせるもの、それが「放縦や深酒や生活の煩い」です。それらが具体的に何を指すのかは、人によって違うでしょう。この世を生きていく中で私たちが捉えられ、はまり込み、陥るものが、神様のみ言葉に信頼して生きる信仰の心を鈍らせていくなら、倫理的に特に問題がないことであっても、それらは「放縦や深酒や生活の煩い」に当るのだと考えるべきなのです。

人の子の前に立つ
 36節には、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」とあります。その日が不意に罠のように襲ってきて、この世と共に滅びてしまうようなことにならず、そこから逃れることができるようにこうしなさい、という勧めです。滅びから逃れて、「人の子の前に立つことができるように」と言われています。それはどういうことでしょうか。もう一度来られ、最後の審判をなさる人の子主イエスの前に立って、ちゃんと申し開きをし、自分の正しさを示して滅びではなく救いに入れていただくことができるように、ということでしょうか。そうではありません。私たちは、再臨の主イエスによる最後の審判において、自分の正しさ、清さ、立派さによって救いを獲得することができるような者ではないのです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られるその日は、私たちの解放の日だと言われていました。その解放は私たちの正しさや信心深さによって実現するのではありません。私たちは、生まれつき、神様をも隣人をも愛することができずにむしろ憎んでしまう罪人です。その罪は私たちを支配しており、自分の力でそこから抜け出すことができません。だから、最後の審判において、自分の正しさはどうか、と問われたなら、私たちが救われる可能性はないのであって、滅びるしかないのです。私たちの救い、解放は、その私たちの罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられるものです。人の子主イエスの十字架による罪の赦しに免じて、私たちは滅びから解放されるのです。ですから滅びから逃れることは、主イエスの前に正しい者として堂々と立つことによってではなくて、主イエスによって罪を赦された者として、その救いの恵みを信じ、ただそれにのみ依り頼む者として主イエスの前に立つことによってこそ実現するのです。つまり、私たちを救い、罪の赦しを与えて下さるというみ言葉を信じて、人の子主イエスの前に、主イエスを信じる者として立つことこそが私たちの救いなのです。世の終わりの、主イエスの再臨の時に、そのように主イエスを信じる者としてみ前に立つことができることをこそ、私たちは求めていかなければならないのです。そしてそのためには、私たちがこの世を生きている今、今日この日に、人の子主イエスの前に立つことが必要なのです。主イエス・キリストは、今、私たちがご自分の前に立つことを求めておられます。求めていると言うよりも、私たちを招いて下さっています。人の子主イエスの前に立つべき時は、世の終わりではなくてむしろ今なのです。

いつも目を覚まして祈りなさい
 そのための勧めが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということです。「目を覚まして」ということは、眠り込まないでということです。心が眠り込んでしまう、それは先ほどの、心が鈍くなるのと同じことです。神様のみ言葉に対する鋭い感覚が失われて、み言葉にこそ信頼するのでなく、この世の事柄、この時代を支配している力に目を奪われていくことです。そうなると、この世の事柄にはいつも目を覚ましていて、敏感に反応するのに、神様のみ言葉には全く反応しない、それによって心を動かされることがなく、変えられることがない、という眠り込んだ状態になります。そうならないために必要なことは祈ることです。祈るというのは、神様の、主イエスのみ前に立ち、目の前におられる神様に向かって語りかけることです。生活の中にそういう時を持つことによってこそ、私たちは今生きている日々の生活において、主イエスの前に立つことができるのです。つまり祈ることこそ、主イエスの前に立つことです。そういう意味で、私たちの信仰には祈りが大切なのです。と言うより、信仰とは祈ることなのです。祈ることなしに信仰は成り立たないのです。目を覚まして祈りなさいとありますが、祈っていることこそが、信仰において目を覚ましていることなのです。目を覚まして祈り、いつも主イエスのみ前に立ちつつ生きることによってこそ私たちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というみ言葉を信じて、苦しみの中でも身を起こして頭を上げ、主イエスの再臨による救いの完成を待ち望みつつ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていくことができるのです。

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