「貪りは罪の根源」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章17節
・ 新約聖書: コロサイの信徒への手紙 第3章1-11節
・ 讃美歌 : 165、504
むさぼってはならない
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めておりまして、今、第20章に語られている十戒を一つずつとりあげています。本日はいよいよその最後、第十の戒めです。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」。これが第十の戒めですが、最初の「隣人の家を欲してはならない」という一文が全体を代表しています。これは以前の口語訳聖書では「隣人の家をむさぼってはならない」でした。「欲する」よりもこの「むさぼる」の方がよく分かる、適切な訳だと言えるでしょう。隣人のものを貪ること、それを自分のものとしようとすること、一言で言えば「貪欲」が戒められているのです。
心の奥底にある思い
貪り、貪欲を戒めるこの教えによって十戒はしめくくられるのですが、この戒めは、第八の戒め「盗んではならない」と内容的に重なるようにも思われます。第八の戒めについての説教において、「盗んではならない」は、単に人のものを盗む、泥棒することを言っているのではなくて、むしろ人そのものを盗む、つまり誘拐とか拉致によって奴隷化することを禁じているのだ、ということを申しました。第八の戒めは、人間の自由と尊厳を守り尊重すべきことを教えている戒めなのです。その点において、本日の第十の戒めとは区別されると言うことができます。しかし、その隣人の自由と尊厳を守ることの中には、隣人のもの、隣人に所属するものをその人のものとして尊重し、それを自分のものとしようとしてはならない、ということが含まれるわけで、そういう意味ではやはり内容的にかなり重なっている、あるいは、第八の戒めが語っていることの一部が第十の戒めにおいて繰り返されている、と言うこともできます。だから第八があれば第十はなくてもよいのではないか、とも感じられたりするのです。果してそうなのでしょうか。第十の戒めがあること、それによって十戒がしめくくられていることにはどんな意味があるのでしょうか。それを知るために、この第十の戒めを教会が伝統的にどのように理解してきたかを見てみたいと思います。宗教改革者カルヴァンが書いた「ジュネーヴ教会信仰問答」の問214に、この第十の戒めの意味がこのように語られています。「主は他のもろもろの戒めによって、われわれの心情と意欲を規律しようとなさったのでありますが、ここで主はさらに、われわれの思いにも律法を課そうとなさるのであります。この思いとは、あるおさえがたい欲望や願いを包含しますが、一定の意欲にまではなっていないものであります」。つまりこの戒めは、具体的な意欲にまではなっていない、その前の段階の、あるいはもっと根本的なところにある「思い」を問題としているのだ、ということです。この解説を受け継いだ「ハイデルベルク信仰問答」は、この戒めで神は何を求めておられるのかという問いに対してこう答えています。「神の戒めのどれか一つにでも逆らうようなほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ。かえって、わたしたちが、あらゆる悪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです」。つまり、ジュネーヴ教会信仰問答においてもハイデルベルク信仰問答においても、この第十の戒めは、「盗み」と並ぶ一つの罪としての「貪り」を禁止しているのではなくて、神の戒めに背く「ほんのささいな欲望や思い」を問題にしている、と理解されているのです。ですから第十の戒めは、その他のいろいろな戒めと並ぶもう一つの戒めではなくて、それらの戒めに背いてしまう私たちの心の奥底にある思いを問題としているのであって、そこに「貪り、貪欲」があることを指摘しているのです。つまり第十の戒めは、十戒全体を視野に置いて、そこに指摘されている罪の根本を示している、そういう意味で十戒全体を代表する戒めであり、まさに十戒のしめくくりに相応しい戒めなのです。
貪りは罪の根源
使徒パウロもそのことを語っています。新約聖書、ローマの信徒への手紙第7章7節にこのように語られています。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」。ここでパウロは、イスラエルの民に神様が与えて下さった律法の果した役割について語っています。その律法の中心が十戒です。その十戒の代表としてパウロは、「むさぼるな」という第十の戒めをとりあげているのです。彼はここで、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」と言った上で、それを言い換えて、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と言っています。そのように言うことによってパウロは、「むさぼるな」という第十の戒めに、律法全体、十戒全体を代表させているわけですが、それは、「貪り、貪欲」こそが私たちの犯す罪の代表である、ということです。罪の本質は貪りにある、貪りこそ、全ての罪の根源だ、ということをパウロは語っているのです。
貪りから殺人が
私たちの犯す様々な罪の根源に「貪り」がある、そのことを聖書はいろいろな事例によって示しています。人間の最初の罪は、創世記第3章において、アダムとエバが、神様から「食べてはいけない」と言われていた禁断の木の実を食べてしまった、ということですが、そこで起ったのは、「お腹が空いたのでつい手を出してしまった」というようなことではなくて、人間が、神様のもとで、神様に従って生きることを窮屈なこと、不自由なことと思い、そこから自由になろうとした、自分が主人になって、自分の思いによって生きていこうとした、ということです。つまり主人の座を神様から奪い、自分のものにしようとしたのです。それは神様に対する人間の「貪り」です。神様のものを自分のものにしようとしたのです。最初の人間の最初の罪の本質に「貪り、貪欲」があったのです。その貪りは、神様にのみ向かうのではありません。他の人間、共に生きるべき兄弟に対しても向けられていきます。そこに様々な罪の現実が生じていくのです。創世記第3章のすぐ次の第4章に語られているのは「カインとアベル」の物語、人類最初の殺人の話です。兄カインは弟アベルへの嫉妬のゆえに弟を殺しました。「嫉妬」というのは、人の持っている良いもの、人に与えられている神様の祝福や賜物を妬み、それを奪おうとする思いです。つまり嫉妬は人に対する貪りなのです。この貪りから殺人の罪が生じるのです。
貪りから姦淫が
また、サムエル記下の第11章に語られているダビデ王の罪を考えてみたいと思います。それは、自分の忠実な部下だった将軍ウリヤの妻バト・シェバに欲望を抱き、ウリヤをわざと戦死させて自分の妻にしてしまった、という罪です。これはまさに、第十の戒めに語られている「隣人の妻」に対する貪りです。ところでこの戒めを読むと、妻が男女の奴隷や家畜と並んで夫の所有物とされていることに抵抗を覚えるかもしれません。それは勿論当時の社会において一般的だった感覚によることで、この戒めが妻は夫の所有物だと主張しているわけではありません。見つめられているのは、隣人の妻への貪りの罪によって、隣人の、また自分自身の、家庭、夫婦の関係が破壊される、ということです。十戒の第七の戒めは「姦淫してはならない」ですが、姦淫はこの隣人の妻に対する貪りの罪です。ダビデはその貪りによって、姦淫と同時に殺人の罪も犯したのです。
貪りから偽証が
列王記上第21章に語られている出来事も、貪りによって生じた罪の事例です。そこには、アハブ王とその妃イゼベルとが、ナボトという人のぶどう畑を奪ったことが語られています。王であるアハブが、その畑がないと飢え死にするわけはありません。彼がその畑を欲したのは、それが彼の宮殿のすぐ隣にあって、それを菜園にしたかったからです。全く自分勝手な欲望によって、彼は隣人の畑を貪ったのです。そのために彼は、偽りの証人を立ててナボトを訴えさせ、有罪にして死刑にしてしまいました。ここでも、貪りによって殺人の罪が犯され、同時に第九の戒めに語られている「偽証」の罪が犯されているのです。「偽証」の根本にも「貪り」があることがそこに示されているのです。
良い交わりへの招き
今見てきたいくつかの事例の中に、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない」という、十戒が隣人との関係について戒めている全ての罪が出てきています。第十の戒めは、これらの罪の根本に、人間の貪りの思いがあることを語っているのです。ですから私たちは、殺人や姦淫や盗みや偽証といった表面に現れる罪を犯さなければそれで十戒を守っている、罪から遠ざかっている、とは言えないのです。私たちの心の中に、自分が主人になり、自分の欲望を満たそうとする貪り、貪欲、嫉妬などがあるなら、それが具体的な行動となってはいなくても、罪の温床が既に私たちの中にあるのです。第十の戒めは、この、様々な罪を生み出す根本である貪りと戦っていくことを求めています。ハイデルベルク信仰問答が、この戒めは「わたしたちが、あらゆる悪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということ」を求めていると言っているのはそのことです。この戒めによって私たちは、私たちの心の中にある貪りの思いと戦い、隣人の家を、隣人の妻や夫を、あらゆる隣人のものを、その人のものとして尊重し、それがその人のものであることを喜ぶことを促されています。それは言い換えれば、隣人との本当に良い交わりへと招かれているということです。貪りの思いが根底にある中では本当に良い人間関係は生まれません。貪りの思いから解放されることこそが、隣人との真実な交わり、本当に良い関係の鍵なのです。
惨めな人間
その貪りからの解放は何によって与えられるのでしょうか。「貪ってはならない」という第十の戒めが与えられていることによって貪りからの解放が得られるわけではないことを私たちは知っています。先ほど読んだローマの信徒への手紙第7章でパウロが言っていたように、「貪るな」という律法によって私たちはむしろ貪りの罪を知るのです。「貪るな」と言われれば言われるほど、神様と隣人とに対する私たちの貪りはふくれあがっていくのです。貪ってはいけないんだ、貪るまいとする私たちの努力などは、私たちの心の奥深くにある貪りの思いの前では吹けば飛ぶようなものです。先ほどのローマの信徒への手紙第7章の続きの15節でパウロは、「わたしは、自分のしていることが分かりません」と言っています。貪りに陥ることなく善をしようという思いはあっても、実際にしていることは貪りから生じる悪でしかない、という現実が彼を苦しめているのです。その苦しみは24節の、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」において極まっています。貪りに支配されてしまっており、罪のもたらす死へと向かうしかない自分の惨めさを自分ではどうすることもできないのです。そこには、貪りからの解放を自分の力、努力によって得ることはできない、という事実がはっきりと示されているのです。
貪りからの解放への扉
しかし次の25節でパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言っています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という嘆きが、突然神への感謝に転換しているのです。ここに、貪りからの解放への扉が開かれています。その扉は、私たちが何かをすることによって開かれたのではありません。「わたしたちの主イエス・キリストを通して」、神が開いて下さったのです。主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの恵みによって、貪りからの解放への扉が開かれたのです。その救いは、神様の独り子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられました。神様を押しのけて自分が主人となろうとし、隣人に与えられているものを妬み、自分もそれを手に入れなければ気が済まないという貪りに生きてしまう私たちの罪を、神様は主イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さったのです。そして、赦して下さっただけではなく、主イエスを死者の中から復活させ、新しい命を与えて下さったことによって、私たちをも新しく生かそうとして下さっているのです。主イエスの十字架の死による罪の赦しを信じた者は、主イエスが復活して新しい命を生きておられる、その命にあずかって私たちも新しく、罪赦された者として、貪りから解放された者として生かされていくことをも信じるのです。
キリストと共に復活する
本日共に読まれた新約聖書の箇所、コロサイの信徒への手紙の第3章1節に「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とあるのは、そのことを語っています。「あなたがた」と語りかけられているのは、教会の信仰者たち、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリストの十字架による罪の赦しの恵みをいただき、そしてキリストの復活にあずかって新しい命を生きている者たちです。それはある意味で、キリストと共に復活させられたということです。生まれつきの旧い自分はもう死んで、新しく生まれ変わった自分とされているのです。貪りからの解放は、この、キリストと共に復活させられ、新しく生まれ変わることにおいてこそ与えられるのです。それでは、キリストを信じ、洗礼を受け、新しく生まれ変わって生きるとはどういうことでしょうか。1節の後半には、「上にあるものを求めなさい」と言われています。また5節には「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」と言われています。新しく生まれ変わって生きるとは、地上的なことを捨て去り、上にあるものを求めつつ生きることです。その捨て去るべき地上的なことの中に、貪欲があります。それは捨て去るべきものの一つと言うよりも、先ほどから見てきたように、地上的な罪の根本がこの貪欲なのです。主イエス・キリストを信じてその救いにあずかって生きる者は、貪欲を捨て去り、上にあるもの、天に昇って父なる神の右の座に着いておられるキリストをこそ求めて生きる者へと新しく生まれ変わったのです。
貪欲は偶像礼拝
しかしどうしてそのようなことが可能なのでしょうか。それを示してくれるのが、5節の最後の「貪欲は偶像礼拝にほかならない」という言葉だと思います。これは不思議な言葉です。貪欲、貪り、他の人のものを欲しがることがどうして偶像礼拝なのでしょうか。この言葉が教えているのは、貪欲の根本には、私たちが何を礼拝しているか、誰の前に膝まづき拝んでいるか、ということがあるのだということではないでしょうか。神様に対する貪欲、貪りにおいて起っているのは、私たちが神様をないがしろにして自分が主人になり、自分の思い通りに生きようとすることです。その時私たちは、まことの神を礼拝するのでなく、自分が神となって生きるという偶像礼拝に陥っているのです。また私たちが人に対して嫉妬し、人に与えられているものをどうしても自分のものにしたくなる時、私たちはそのものを神として拝んでいるのです。それを得ることができなければ自分は生きていけないと思ってしまうもの、それが自分にとっての神です。私たちは貪りにおいて、いろいろなものを神として拝んでしまっているのです。その対象は財産だけではありません。学歴であったり地位や名誉であったり、自分が重んじられ、大切にされるという感覚、言い換えれば自分の誇り、プライドが満足させられることであったりするのです。貪欲とは、それらのものを神としてしまうことであり、そういう意味でまことの神でないものを神として拝む偶像礼拝なのです。
貪りから解放して下さるイエス・キリスト
主イエス・キリストは、この偶像礼拝から私たちを救い出して下さる方です。どのようにしてか。私たちに、生けるまことの神を示し、その神を礼拝することができるようにして下さることによってです。私たちは、「偶像を拝んではいけない」といくら言われても、それによって偶像礼拝から解放されることはありません。「貪るな」と十戒によって言われても貪りから解放されないのと同じです。しかし主イエス・キリストは、十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦し、そして復活して新しい命を生きる者となることによって、私たちに新しい命を与えて下さるのです。主イエスの十字架の死によって貪りの罪を赦された私たちは、主イエスの復活によって、神の子イエス・キリストを礼拝して生きる者へと新しくされるのです。「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」というのはそのことを言っているのです。洗礼を受け、キリストと共に復活させられた者は、上にあるものを求めつつ生きるのです。上にあるものとは、1節の後半に語られているように、神の右の座についておられるキリストです。そのキリストを求めるとは、キリストの名を呼び、礼拝しつつ生きることです。キリストを求め、キリストを神と崇めて礼拝していく時に、私たちは、3節にあるように、私たちの本当の命が、キリストと共に神の内に隠されていることを知らされていくのです。神の内に隠されている本当の命、神の恵みによって生かされる命を礼拝において示され、与えられていくことによって、私たちは、もはや地上的なものを必死になって求めなくてもよくなります。地上のあれこれを獲得しなければ生きていけないという思い、即ち貪欲から解放されるのです。つまり、本当に恵み深い愛をもって私たちを生かして下さっている神様を礼拝する者となることによってこそ、神様以外のものを礼拝する偶像礼拝から解放され、それと同時に貪欲からも解放されて生きることができるようになるのです。パウロが、「(貪りに捕えられた)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という嘆きから、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という感謝へと大きな転換を遂げることができたのは、主イエス・キリストによって罪の赦しを与えられ、主イエスの復活にあずかる新しい命を与えられたことによってです。この転換によってパウロは、「貪るな」という十戒の掟によっては得られなかった、貪りの思いからの解放を与えられたのです。
今、もう一度新たに
十戒は、前半において私たちと神様との正しい関係について、後半において私たちと隣人との正しい関係について教えています。そのどちらにおいても、「貪りの思いから解放されること」が土台です。そういう意味で第十の戒めは、まさに十戒全体をしめくくるに相応しいものです。人間の社会は、ある意味で貪りの思いによって進歩発展してきました。より豊かになり、より便利で快適な生活を獲得しようという思いによって、技術は進歩し、経済は活発になり、文明が発展してきたのです。しかし特に現在、そのように豊かさを求めて築かれてきた社会のひずみがはっきりと現れて来ており、豊かな者と貧しい者の格差が増大し、人と人とのつながりも失われて、様々な問題が顕在化しています。資源やエネルギーの問題において、豊かさを求めることの限界も明確になってきているように思います。そのような社会を生きている私たちにとって、今最も切実な課題は、「貪りの思いから解放されること」なのではないでしょうか。およそ三千年前に十戒のしめくくりとして与えられた「貪ってはならない」という戒めを、私たちは今日、もう一度新たに受け止め直さなければならないのではないでしょうか。そして、この戒めが貪りの罪に捕えられた惨めな私たちの姿を示すだけでなく、私たちが本当に貪りから解放されて生きるようになるのは、神様の独り子イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、主イエスの復活にあずかる新しい命によってです。貪りの思いからの解放の大切さを示されるにつけ、主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと新しい命の福音の恵みも、よりはっきりと示されていくのです。