主日礼拝

ともし火に照らされて

「ともし火に照らされて」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第33章10-11節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章21-25節
・ 讃美歌:18、515、461

主イエスの思い
 本日はご一緒に新約聖書マルコによる福音書第4章21節から25節を通して神様の御言葉を聞きたいと思います。本日の箇所は主イエスが語られた譬えです。ここには、ともし火、升、寝台、秤など、当時の人たちが、日常生活の中で使用していたものが取り上げられております。しかし、ここで主イエスが明らかにされているのは、この世のものをはるかに超えた神の救いの御計画であり、神様の真実です。
 主イエスは23節において「聞く耳のある者は聞きなさい。」(23節)とおっしゃっています。この言葉と同じ言葉が、少し前の9節にも記されております。「聞く耳のある者は聞きなさい。」この9節の「聞く耳のある者は聞きなさい。」という主イエスのお言葉は主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬えと結びついております。この種蒔きの譬えの中で主イエスは語られました。主イエスの弟子たちと一緒にいた周りの人たちは主イエスに種蒔きの譬えの意味を尋ねました。12節にありますように、主イエスは答えられたのです。その内容は譬え話を聞いた人たちが「『見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』ようになるため」だと言われました。これは旧約聖書のイザヤ書第6章9節から10節からの引用です。預言者イザヤは預言者として神に召され、神から遣わされて民の元へ行き、神の言葉を告げました。しかし、民はそのイザヤを通して語られる神の御言葉に耳を傾けなかった、聞かなかったという出来事を示しています。預言者イザヤは自分が神の言葉を語れば語るほど、民の心が頑なになり、聞かれないという現実に直面をしました。主イエスがこの預言者イザヤの言葉を引用されたのは、主イエス御自身がそのような現実に直面をしておられたからです。主イエスの周りには主イエスの話を聞こうとして大勢の群衆がとり囲んでいました。しかし、主イエス御自身もまた御言葉が聞かれない現実を経験されていたのです。しかし、主イエスはなおそこで「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9、23節)と言われます。この主イエスのお言葉は「分かる者だけが、理解できる者だけ聞きなさい」という投げやりな言葉ではありません。主イエスは「是非、聞いて欲しい。聞く耳を持って欲しい。聞く耳を持ってくれ」という主イエスの願いが込めた言葉を語りました。主イエスは御自分の語る御言葉が聞かれないという現実に対しても、なお希望を捨てないでおられたのです。

信仰は聞くことにより
 主イエスの御言葉を聞くこととは一体どういうことでしょうか。使徒パウロはローマの教会に宛てた手紙の中でこのように言いました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙第10章17節)。キリストの言葉、主イエスの御言葉を聞くことによって、信仰は始まるのです。私たちは、自分が聞きたいこと、自分が語ることから始めてはいないでしょうか。私たちは色々な思いや願いや求める心をもって、色々な理由で教会に来ております。慰めや癒しを求めて、人生の問題の解決を求めて、あるいは救いを求めて、自分の人生をより充実して歩むための知恵を求めて、真理を求めて、交わりを求めて、色々な思いをもって教会に来ております。私たちは様々な求め、求める心を抱えてやって来ます。
 しかし、私たちは礼拝に集いそのまま、何かを要求する姿勢に留まり続けることはできません。主イエスの御言葉を聞き、見える御言葉である聖餐を受け取ります。礼拝の中心にあるこの二つの恵みがはっきりと現しているように、私たちが徹底的に受け身になるところから、信仰は始まります。信仰を持つ、信じるというのは主体的な行為です。このように、信仰を持つ、信じるという決断を伴う態度決定は、「聞く」という非常に受け身に徹するところから始まるのです。

神の語りかけによる成長
 私たちが聞くのは、何よりも、神が語ってくださる言葉です。主なる神に名前を呼ばれたサムエルという人が旧約聖書サムエル記上第3章10節に出てきます。ある時、サムエルは主なる神に「サムエルよ」と名前を呼ばれました。サムエルは祭司エリに教えられたとおりに答えました。「どうぞお話ください。僕(しもべ)は聞いております」(サムエル記上3章10節)。主がお話しくださるからこそ、僕(しもべ)は聞くことができます。私たちは神が語ってくださるからこそ、聞くことができるのです。神が語られる言葉を聞くことから信仰が始まるのです。神の言葉そのものである主イエス・キリストが私たちと共にいてくださる限り、私たちは聞き続けることができます。私たちの信仰の生活において「成長する」こととは、「聞く」ことから「語る」ことへの成長ではなくて、むしろ、「聞く」「聞き続ける」という一点における成長です。聞いたこと、学んだことを語ること、アウトプットして、生かすのではありません。信仰は、聞くことから始まり、聞き続けることの中で深められ、成長をしていくのです。これが信仰における成長です。
 主イエスが、マルコによる福音書の第4章で私たちに求めておられることは、まさに、この「聞くこと」です。第4章には、「聞く」という言葉が、集中的に出て来ます。本日の与えられた短い箇所の中でも、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)、「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)と言われます。「聞く」ということは、私たちに集中力を求めます。私たちの周囲には様々な言葉が氾濫しています。そのような現代の社会の中で、神の言葉を聞くために、私たちは耳だけではなくて、目も、心も、体全体を集中させなければなりません。主イエス・キリストは、私たちの中に、そのような集中と緊張を求めておらます。その上で大切なこと本日の箇所で譬え話として教えらます。

たとえによって
 主イエスは言われました。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」(21節)。ともし火とは、当時の人々の生活を考えてみますと、生活上の必需品でした。大きな品物ではありませんが、これがないと生活が成り立たないという重要なものです。当時、ともし火は夜通し灯されていたようです。夜の生活は、この ともし火がないと全くの暗闇だったようです。主イエスは、人間の日常生活を実によく見ておられた感じがします。その生活の要のものを見抜き、たとえに使って、神の国の話をされました。主イエスに招かれ、救われ、神の国に生きるとはどういうことかを生活の要である、ともし火を使って語っています。
 ともし火が燭台の上に置かれる、というのは、何を意味しているのでしょうか。同じマルコによる福音書の中で、主は先だって言われました。4章11節にこのようにあります。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4章11節)。「たとえ」というのは、普通、話を分かりやすくするために用いられます。

神の奥義
 主イエスは多くのたとえを使って、集まって来た群衆 にお教えになりました。たとえは話を分かりやすくするだけではありません。それは何かを 隠す謎であるとも言えます。神の国の秘密が「たとえ」で示される、というとき、むしろ、人々の目には隠されていることを意味するようです。「秘密」と訳されているのは、「ミュステーリオン」「ミステリー」という言葉です。「秘密」というと怪しげに聞こえるかもしれません。かつての口語訳聖書では、「奥義」と訳されております。「神の国」すなわち「神の支配」の奥義は、外の人々に対しては隠されているのです。しかし、奥義は、ただ隠されるためにあるのではありません。やがてはすべての人に明らかにされ、知られるためにあります。「ともし火」は、升の下や寝台の下に隠されるためにあるのではなくて、むしろ、燭台の上に置かれてすべての人に見られるため、またすべての者を照らすために持って来られるものです。それと同じように神の国、すなわち、神の支配は、すべての人に知られ、すべての人を照らし、すべての人を生かすためにもたらされるのです。

顕に、公にされるために
 主イエスはここで、第4章の主題である神の国、神の支配を、ともし火にたとえておられます。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」。ここに出てくる「升」は、元来は穀類を量るためのもので、ユダヤの家庭にはどこでも備えてあったもののようです。そして、ただ穀類を量るだけではなくて、ともし火を消すときにも用いられたのです。当時の窓の無い家では、ともし火を消すとき、煙が家の中に立ちこめないように、升をかぶせました。ともし火を升の下に置く、というのは、せっかくつけた、ともし火を消してしまうことになります寝台の下の置くと、消えることはないとしても、暗い部屋を照らすための明かりとしては全く役に立ちません。ともし火は、燭台の上に置いてこそ明かりとしての役目を果たします。主イエスが宣べ伝え、証ししておられる神の国、神の支配は、隠されたままであっては意味がありません。顕わにされ、公にされる必要があるのです。

光であるお方
 主イエスは「ともし火を持って来る」と言われました。この「持って来る」とは元の言葉で直訳すると「ともし火がやって来る」と言う意味です。「ともし火」を誰かが持って運んで来るのです。「火」という明るさが近づいてくるということです。これは、譬えですので「ともし火」は何かを指し示しています。ヨハネによる福音書第1章9節に、このようにあります。ヨハネは、暗闇を照らす命の光について証して言いました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1章9節)。暗闇を照らす命の光、すべての人を照らす光、この世に現れた光、それは、主イエス・キリストご自身のことです。ともし火と言うのは、覆われ隠されるためにではなく、高く掲げられ、輝くものです。暗闇を照らし、明るくするのが光の役割です。ともし火は来るのです。ともし火、ここではすなわち、神の国は、主イエス・キリストの到来と共にやって来ました。その命の光である、ともし火を齎すのは主なる神です。神の国の奥義は、さまざまなたとえを用いて語られています。種蒔きのたとえ、ともし火のたとえ、また先に進むと、ひそかに成長する種のたとえ、いろいろなたとえで語られるのです。しかし、それらのたとえが究極的に指し示しているのは、主イエス・キリストご自身であります。主イエス御自身がそのように覆われ隠されるためにではなく。高く掲げられ暗闇に輝くために来られました。主なる、父なる神が主イエスをそのようなものとして据えられました。どのような力が、主イエスの輝きを覆い隠そうとしても、あるいは主イエスにおいて示された神の救いの御業の前進を妨げようとしても、それは人間の力では不可能です。光は輝くために来るのです。主イエスはこの世を救うために来られたのです。そして、この目的は必ず実現するのです。主イエスこそは、蒔かれた種であります。そして、この世に来た、ともし火であり、神の国の奥義なのです

隠されて
 神の国の奥義とは、神の国の秘密であり「ミュステーリオン」「ミステリー」です。覆い隠されているものです。使徒パウロは、コロサイの教会に宛てた手紙の中で言いました。「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。・・・・その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(1章26―27節)。栄光の希望であるキリストにおいて、神の秘められた計画が明らかにされています。私たちすべての者を命の光で照らし、救いの恵みの中に招き入れようとする神のご計画は、神の支配の奥義であるキリストにおいて現されています。そして、また同時に、このキリストのお姿の中に隠されているのです。世に来られたイエス・キリストのお姿は飼い葉桶の中に寝かされた小さな弱い赤ちゃんでした。また主イエスの歩まれた現実は主の語る御言葉が聞かれないという現実でした。そしてついには十字架にかけられ殺されました。その惨めな弱々しいお姿の中に、まさに神の奥義が隠されております。確かに、このお方が世に来られたことによって、神の国、神の支配は既に世に来ているのです。主イエスはその宣教の第一声に言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・14)。この力強い宣言を聞いた人たちは、主イエスに期待したに違いないと思います。その権威ある教えを聞き、不思議な力ある業を目にして期待を膨らませたのです。ついに神の支配が始まった。ローマ帝国の支配を打ち破り、自由な王国が再建される時が来た。自分たちの生活を解放してくれる政治的リーダーとして期待しておりました。しかし、このともし火が置かれた燭台は、十字架でした。むごたらしく処刑された惨めで無力な十字架の姿の中に、神の力、神の支配は、隠されつつ現されたのです。

死を超えて
 主イエスの言われた通りです。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」そのようにして、あらわれにされるべきものが、あらわにされる時、わたしたちに問われるのは、自分が何を聞いているか、ということであります。私たちは本当に聞くべきもの、聞くに値するものを聞いているでしょうか。耳に入ってくる様々な音や言葉を聞き続けて、何の変化も自分の内側に起こらなかいのであれば、聞いていないのと同じあります。主は言われました。「何を聞いているかに注意しなさい」この「注意しなさい」と訳されている言葉は通常「よく見なさい」と訳される言葉です。主イエスは、私たちが聞いている言葉をよく、注意して「見なさい」と言われるのです。それは、主イエス御自身を見なさいということではないでしょうか。生ける神の言葉として、暗闇を照らす光として、私たちのところに来て下さった主イエス御自身を「よく見なさい」ということです。私たちの歩む、どのような時でも、なお聞くべき言葉があります。どのような時でもとは、たとえ死の現実に直面をしても、私たち見るべきお方、聞くべき言葉があります。悲しみと嘆きの中で、死の力に呑み込まれ、信仰も望みも萎えてしまいそうになるときにも、私たちはなお見ることができる、聞くことができます。燭台の上に置かれたともし火、十字架のキリストのお姿を見るのです。十字架の言葉を聞くのです。私たちの罪をすべてその身に背負い、十字架の死によって罪を贖ってくださった救い主の姿を仰ぐとき、死の棘である罪は抜き取られ、死は、よみがえりへの通過点として、望みの道につながります。主に結ばれて死んだ者は、死を超える復活の命の望みの中に委ねられるのです。惨めで無力な十字架の中において、神の栄光を見るのです。十字架の贖いのゆえに、罪と死の支配の中から救い出され、神の恵みによる愛と命の支配の中に移されていることを知るのです。

更に与えられ
 24節には、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 とあります。神の国、神の支配は、逆らう者を滅ぼし尽くすような激しさをもって現れたのではありません。この主イエスのお言葉は、厳しい審きの言葉ではありまえん。まことに大きな豊かな神の恵みを語る約束の言葉であります。もしそうなら、私たちは皆、自らの罪のゆえに滅ぼされ尽くす存在です。神の支配は、神の独り子である主イエスに愛において現されました。この愛は、逆らう者をも愛し抜き、罪人を義人へと造りかえる恵みの支配として現されました。そして、十字架の愛において現れました。そして、多くの実りを生み出します。一粒の小さな種が、自ら地に落ちて死ぬことによって、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。それが神の計算です。これが神の秤です。私たちの秤は小さすぎるのではないでしょうか。私たちは神の恵みの力を侮ってはなりません。自分の秤ではなく神の秤に委ね、自分の言葉ではなく神の言葉に聞き従うことによって、私たちのただ中に、神の支配が現されていくのです。私たちはその神の言葉をこそ、耳を傾けて聞き続けるのです。自分の目で見ている自分が本当の自分なのではなく、神が見てくださる自分こそが、本当の自分であることを知ります。信仰を与えられ、その神の秤によって自分自身を見ることができる者は、更に豊かに与えられます。しかし、そのように自分自身を見ることができない者は結局、今も持っているものさえも失ってしまうのです。主イエスはこの言葉を語りながら、主が願っていることは、私たちが持っているものを取り上げられることではありません。更に与えられ、豊かに与えられて生きることを主は願っておられます。十字架と復活の主イエスに出会い、御言葉の慰めにあずかることができるのです。新しい1週間の歩みも、神の恵みにもとに置かれ、御言葉を聞き、主のお姿を仰ぎ見ながら、信仰の歩みへと進んで行きたいと願います。

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