主日礼拝

ダビデの子、ダビデの主

「ダビデの子、ダビデの主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第132編1-18節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章41-44節
・ 讃美歌:16、309、506

興味ない話?
 本日のこの礼拝において、ルカによる福音書第20章41~44節をご一緒に読むのですが、先ほどの朗読を聞かれた皆さんは、あるいは前もって本日の箇所を読んで来られた皆さんはどう感じられたでしょうか。「今日の所は何を言っているのかよく分からない」と思った方が多いのではないでしょうか。聖書には、読んだだけで何かを示され感銘を受けたり、あるいは深い意味はよく分からないながらも、そこに語られていることのあるイメージを捉えることができる箇所もありますが、全くイメージがつかめない、何を言っているのかが見えてこない、という箇所もあります。本日の箇所などは後者の方、「何のこっちゃ?」と首をかしげたくなるような所だと思います。そしてここは、意味が分からないだけでなく、あまり興味も湧かない箇所でもあるかもしれません。深い意味はともかく、「メシアはダビデの子か、ダビデの主か」という話がなされていることは読めば分かります。でもそんなことは私たちにはどうでもよい、関係ない、それが正直な感想ではないかと思います。けれども、教会が神の言葉と信じている聖書にこのことが語られているのですから、自分とは関係ないと最初から決めつけないで、しばらくこの話にお付き合いを願いたいと思うのです。

攻守所を替えて
 先ず、今読んでいる第20章がこの福音書においてどういう流れの中にあるのかを振り返って見たいと思います。主イエスは19章の後半で、エルサレムに入られました。それは即ち、主イエスのご生涯の最後の一週間が始まったということです。主イエスはこの週の木曜日の夜に逮捕され、金曜日には十字架につけられて殺されるのです。それは民衆がこぞって「イエスを十字架につけろ」と叫ぶようになることによってですが、この20章においてはまだ、人々は主イエスの教えを喜んで聞いています。毎日エルサレムの神殿の境内で教えておられた主イエスのもとに多くの人々が集まり、その話を喜んで聞いていたのです。20章のこれまでの所に語られていたのは、ユダヤ人の宗教指導者である祭司長や律法学者、長老たちが、主イエスを何とかして陥れ、破滅させよう、あるいは民衆の人気を失墜させようとして悪意ある質問を投げかけてきた、という話です。その問いに主イエスは見事にお答えになり、逆に彼らのことを当てつけたようなたとえ話をお語りになりました。彼らは結局主イエスを陥れることができなかったのです。27節以下には今度はサドカイ派の人々が現れて、自分たちの主張を主イエスに認めさせようとする問いを投げかけましたが、それに対しても主イエスが見事に答えたので、彼らも黙ってしまったと40節にあります。そのようにこれまでの所には、主イエスと敵対する者たちとの間の論争が語られていました。しかし誰も主イエスに勝つことができず、皆黙ってしまったというのが40節までの所なのです。本日の41節以下には、今度は主イエスの方から彼らに問いかけていかれたことが語られています。攻守所を替えてと言いますか、今度は主イエスの方から攻勢に出たのです。

メシア=キリストとは誰か
 そこで主イエスが取り上げたのは、人々が「メシアはダビデの子だ」と言っていることについてです。ここに「メシア」という言葉が出てきますが、これは原文においては「クリストス」です。つまり、日本語では「キリスト」と表記される言葉です。新共同訳聖書はその「キリスト」を「メシア」と訳しました。メシアというのは、「油を注がれた者」という意味の、旧約聖書に出てくるヘブライ語の言葉です。油を注ぐというのは、香油を頭に注ぐことであり、神様によってある大事な務め、任務を与えられることを示す儀式です。例えば王として立てられる時に油が注がれたのです。その「油を注がれた者」という意味のメシアという言葉が、次第に、神様が遣わして下さる救い主を意味するようになっていきました。主イエスの当時、人々はメシアと呼ばれる救い主を待ち望んでいたのです。その「メシア」という言葉がギリシャ語に置き換えられたのが「クリストス」つまり「キリスト」です。ですから新共同訳が「クリストス」を「メシア」と訳したのは、翻訳ではなくて元のヘブライ語の言葉を持ってきた、ということです。しかし「キリスト」とのつながりが見えなくなってしまっているという点で、これは適切な訳とは言えません。前の口語訳聖書は「キリストはダビデの子だ」となっていました。しかし新共同訳が「メシア」と訳してくれたおかげで、「キリスト」というのが単なる名前ではなくて、旧約における「メシア」、油を注がれた者、つまり救い主を意味する称号だという説明がしやすくなったとも言えるので、ある意味で有り難いことでもあります。いずれにしても、主イエスはここで、メシアあるいはキリスト、つまり救い主とは誰であるか、という問題を取り上げておられるのです。それが、これまでの論争の中心テーマです。律法学者たちが悪意ある問いによって人々の前で明らかにしようとしたのは、イエスは来るべきキリスト、救い主ではない、ということでした。民衆が主イエスの話を喜んで聞いていたのは、この方こそ来るべきキリストではないか、という期待があったからです。彼らはその期待を打ち砕こうとしたのです。イエスはキリストではない、ということが明らかになれば、人々へのイエスの影響力は失われるのです。

メシアはダビデの子
 ですからここでの問題の中心は、主イエスが来るべきキリスト、救い主であるのかそうでないのか、ということなのですが、そのことを逆に問いかけていくのに際して主イエスが、「どうして人々は『メシア(つまりキリスト)はダビデの子だ』と言うのか」という問いを発しておられることに、本日の箇所のポイントがあり、また難しさもあります。このことを考えていくわけですが、先ず、「メシアはダビデの子だ」と人々が言っていることの背景を知らなければなりません。ダビデとは勿論、昔のイスラエル王国の栄光と繁栄の基礎を築いた最も偉大な王ダビデです。来るべきメシア、キリスト、救い主がそのダビデの子であるというのは、ダビデの子孫として救い主が生まれる、という預言によることです。本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として詩編第132編を選びましたが、その中にもその預言が出てきています。11、12節に「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から/王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。』」とあります。これはもともとは、ダビデの子孫が主なる神様の教えを守るならその王朝は永遠に栄える、という約束の言葉ですが、イスラエルの人々はここに、ダビデが王であった頃の栄光と繁栄をイスラエルに回復してくれるまことの王、救い主の誕生の約束を見、救い主はダビデの子孫として生まれるという期待をふくらませていったのです。救い主キリストはダビデの子、ダビデの子孫として生まれる、というのは、当時のユダヤ人たちの常識となっていました。主イエスはそのことを取り上げて、それに疑問を呈するような問いかけをなさったのです。

メシアはダビデの主
 そのために主イエスは旧約聖書の言葉、ダビデが歌ったとされる詩編の言葉を引用しておられます。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と』」。ここに引用されているのは、詩編第110編の1節です。これも、来るべきメシア、キリストについて語っているものとして読まれてきた詩です。「主は、わたしの主にお告げになった」というところは、「主」という言葉が重なっていて分かりにくいですが、この二つの「主」は別の存在です。最初の「主」は主なる神様です。次の「わたしの主」の「わたし」はこの詩を詠んでいる詩人ダビデであり、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるのが救い主のことです。主なる神様が、その「わたしの主」に対してお告げになったのが「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」というみ言葉です。つまり主なる神様が、「ダビデの主」である救い主に、敵への勝利を与えて下さり、彼をご自分の右の座に着かせて下さるのです。そのようにして主なる神様の力によって救い主が立てられることをダビデが預言して歌っているのが110編なのです。
 この詩を引用することによって主イエスが指摘しておられるのは、44節にあるように、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」ということです。来るべきメシア、キリストのことを、ダビデが「わたしの主」と呼んでいる。だから救い主キリストは「ダビデの主」である。そのことを指摘することによって主イエスは、いったいキリストはダビデの子なのか、それともダビデの主なのか、と問いかけておられるのです。これは先ほど申しましたように私たちにとってはどうでもよい事柄であり、また聖書的に言ってもあまり意味のない問いです。キリストが「ダビデの子」であるというのはダビデの子孫として生まれるということであり、そのキリストが神によって立てられる救い主であり、神の右の座の着く者であるならば、一人の人間であるダビデがその方を「主」と呼ぶのは当然のことです。そのことを詩編132編も、ダビデは神の僕であり、神の前で謙遜に生きた人だった、という仕方で語っています。ですから、キリストはダビデの子でありつつダビデの主であられる、という聖書の記述には何の矛盾もないのです。

キリストを判定する?
 それでは主イエスはなぜこのような、無意味とも思われる問いをお語りになったのでしょうか。それは主イエスがここで「ダビデの子」「ダビデの主」という言葉に特別な意味を込めておられるからです。「ダビデの子」というのは、今見てきたようにダビデの子孫という意味ですが、それはダビデの王位を受け継ぐ者、ダビデの業績、働きを継承する者、という意味でもあります。「キリストはダビデの子」と言った場合、救い主キリストはダビデ王の働きを受け継ぐ者だ、ということになるのです。それは見方を変えると、ダビデの働きを受け継ぐ者であってこそキリスト、救い主だと言える、ということにもなります。つまり、その人がキリスト、来るべき救い主であるか否かは、その人がダビデ王の働きを受け継いでいるかどうか、ダビデの後継者たるに相応しい歩みをしているかどうかによって判断される、ということになるのです。すると次は、それを判断するのは誰か、が問題になります。それは聖書に詳しい人、ダビデの業績についてよく知っている人である、ということになり、それは当時で言えば、祭司長、律法学者、長老たち、あるいはサドカイ派の人々といった、ユダヤ人の宗教指導者たちとなります。彼らが、ダビデ王の業績についての知識に照らして、この人はダビデの子と呼ばれるに相応しいからメシアであるとか、この人はそうではないとかの判断を下すことができる、「キリストはダビデの子である」という言葉は、受け止め方によってはそういうことにつながっていくのです。そして実際、彼らは聖書についての知識という権威によって、主イエスを、「これはメシアではない」と判断していました。その判断に基づいて、メシアでないイエスをメシアだと思っている人々の誤解を解くために、悪意ある問いによってイエスを陥れようとしていたのです。つまり彼らは、「ダビデの子」とはこういう者だという自分たちで設けた基準によって主イエスのことを判断していたのです。「キリストはダビデの子である」という人々の常識は、このことの拠り所となっていたのです。
 このことをもう少し一般化して言うとこうなります。ダビデは彼らにとって、およそ一千年前の歴史上の人物です。その業績を基準として「ダビデの子」であるかどうかを判断するというのは、過去の出来事、事例、それについての知識を基準として、来るべき救い主について判断を下す、ということです。簡単に言えば、ダビデ王はこうだった、ということが基準になるのです。それは、「以前はこうだった」という昔のことを判断の基準とする、ということです。「昔はこうだった、以前はこうした」ということが基準となり、それを踏襲することだけが考えられ、それと違うことに対しては「前例がない」という官僚的な、と言うと官僚の人には失礼かもしれませんが、そういう反応になるのです。当時のエルサレムの宗教指導者たちが主イエスに対して取ったのはまさにそういう態度でした。イスラエルの過去の歴史についての、あるいはダビデ王についての自分たちの知識によって、彼らは主イエスを拒んだのです。しかしそこで起っていたことは、彼ら自身そんな自覚は全くありませんでしたが、自分たちが主人となり、自分の思いや考えを基準とする、ということです。ダビデ王の働きを受け継ぐのがダビデの子だというのは正しいことですが、しかしそのダビデ王の働きとは何かを決めるのは自分たちであり、自分の考えに合う者のみを、これはダビデを受け継ぐ者に相応しい、としていったのです。主イエスが、「メシアはダビデの子だ」という人々の常識に疑問を呈するような問いを投げかけたのは、彼らの陥っているそのような実態に対してだったのです。

キリストはあなたの主
 主イエスはここで、詩編の言葉を引いて、ダビデ自身がメシア、救い主を「わたしの主」と呼んでいることに目を向けさせておられます。それは、ダビデにとって救い主が子なのかそれとも主なのか、ということではありません。主イエスは、ダビデが主と呼んでいるキリストはあなたがたにとっても主ではないのか、と問うておられるのです。あなたがたは、これはダビデの子として相応しいとか相応しくないなどと言って救い主キリストを判断する権威が自分たちにあると思っている、しかしそれは神がお遣わしになる救い主に対する正しいあり方か、あなたがたが救い主として認めるとか認めないというのでは、主人はあなたがたで救い主があなたがたの僕ということになるではないか、しかし神が遣わすキリストはむしろあなたがたの主なのであって、あなたがたはその方に従うべき者ではないのか、そう主イエスは問うておられるのです。この問いは、私たちに対しても問われています。私たちも、自分の中に基準を設け、それに照らして主イエスのことを判断し、救い主として受け入れることができるとかできないなどと考えていることがあります。あるいは主イエスのこういう教えは納得できるがこれは受け入れられない、と判定していることもあります。そこでは主人は私たちであり、私たちが自分の基準で救い主を判定しているのです。つまり主であられるはずのキリストが見失われているのです。

自分の主である方と出会う
 「メシアはダビデの子だ」というそれ自体は正しいことが、間違って受け取られてしまう時、過去の出来事や事例、そこから生じる常識を基準として私たちがメシア、キリストのことを判定するようなことが起ります。それは言い換えれば、自分が体験や知識に基づいて得た考え方を基準としてキリストのことを判断する、ということです。過去の出来事というのは客観的に存在しているわけではありません。それはその人なりの受け止め方を通して「昔はこうだった」という記憶となり、それが物事の判断の基準となるのです。ですから結局そこでは自分の考え方、感じ方が基準となるのであって、つまりは自分自身が主人となって全てのことを判断するということになるのです。そういう自分なりの判断基準や価値観を持つことはある意味で大切なことです。それがなければ自主性を持った一人の人間として生きることはできません。けれども、キリスト、救い主との関係、つまり信仰においては、そのような姿勢はむしろ妨げとなります。神様が遣わして下さった救い主との出会いは、自分の主である方との出会いです。救い主は、自分が主人となり、自分の基準で判断できる相手ではなくて、むしろその方の前で膝まずき、服従し、その方によって自分を変えられていく、そういう出会いと交わりこそが、救い主を信じることであり、その救いにあずかることなのです。裏返して言えば、救い主と出会い、信じて生きるようになる時に、私たちは、自分の体験した過去の出来事、「昔はこうだった」という記憶から解放されるのです。それらの過去の出来事や体験によって培われてきた自分の考え、感覚、価値観、常識から自由になるのです。そういうものを基準とすることをやめて、神様が行なって下さる新しい救いのみ業を心を開いて待ち望む者となるのです。ダビデが、来るべきキリストを「わたしの主」と呼んでいるこの詩の意味はそこにあります。自分の働きを受け継ぐだけの者ではない、つまり自分が体験して知っている範囲の中だけの働きをするのではない、自分が全く知らない、考えたこともない、新しい救いのみ業が、この救い主を通して行われる、そのことを信じ、期待しつつ、ダビデは救い主を「わたしの主」と呼んだのです。そういう信仰の中で彼は、主なる神様が救い主に告げたみ言葉を聞くことができたのです。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」。つまり主なる神様が、救い主メシア、キリストに敵対する者たちに勝利して下さり、彼をご自分の右の座に着かせて下さる、そういう救いのみ業を神様が成し遂げて下さるという預言を聞くことができたのです。

主のみ業を待ち望む
 ダビデのこの預言は、主イエス・キリストの十字架と復活において実現しました。主イエスの十字架の死と復活、昇天は、神様に敵対して人間を支配している罪と死の力に対して神様が勝利し、主イエスをご自分の右の座に着かせて下さったという出来事です。ダビデの預言はこのことによって成就実現したのです。そのことによって、罪の力に支配されていた私たちに赦しの恵みが与えられ、また私たちにも、主イエスの復活にあずかって新しい命、永遠の命に生きる希望が与えられたのです。ダビデが預言したこの救いにあずかることができるのは、ダビデと共に、救い主キリストを自分の主と信じ、自分の過去の体験や知識、常識をはるかに越えたその救いのみ業を受け入れることによってです。つまり自分が主人であることをやめ、主イエスをこそ主人としてそのみ前に膝まずき、従う者となることによってなのです。そのような信仰において私たちは、主人である主イエスがこの私のために行なって下さる新しいみ業を心を開いて待ち望み、それによって自分を変えられていくことができるのです。そのようにして私たちは、今も生きて働いていて下さるまことの救い主イエス・キリストと共に歩む者となるのです。
 この時は主イエスの教えを喜んで聞いていた人々は、数日後には、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶようになりました。イエスこそ救い主かもしれない、と期待していたのに、その歩みが自分たちの思いとは違うことが明らかになったからです。彼らは、過去の体験によって培われてきた自分の考え、感覚、価値観、常識から抜け出すことができなかったのです。自分の考えに基づいてキリストを判断しようとすれば、そのように必ず失望、幻滅します。今日の私たちにおいては、東日本大震災の悲惨な状況の中で、神様の恵みなどどこにあるのか、神は愛であるなどというのは嘘だ、という失望、幻滅に陥るということかもしれません。しかし、私たちは主人ではない、私たちはキリストを救い主に相応しいかそうでないかと判定するべき者ではないということを認め、主イエスが実現して下さる救いを信じ、心を開いてそれを求めていくならば、主イエスは私たちの思いや考えを越えた仕方で、新しい救いのみ業を私たちの上に行なって下さり、罪と死の力に打ち勝つ者として下さるのです。

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