夕礼拝

祝福の継承

「祝福の継承」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第25章1-34節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙 第9章10-18節
・ 讃美歌 ; 120、457
 

信仰の父アブラハム
 創世記の第12章以来、私たちは「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの生涯をたどって来ました。アブラハムは、イスラエルの民の最初の先祖です。 この人から、神様の民イスラエルの歩みが始まったのです。それは言い換えれば、神様による救いの歴史が始まったということです。彼は75歳にして、 神様の約束のみ言葉を受けて旅立ちました。その約束のみ言葉が創世記12章の1~3節にあります。そこを読んでみます。「主はアブラムに言われた。 『あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。 これは祝福の約束です。アブラハムはこの約束を信じて、生まれ故郷を離れ、神様の示す地に向けて旅立ったのです。それが彼の信仰の旅立ちでした。 そこから、神の民イスラエルの歴史、救いの歴史、信仰の歴史が始まったのです。それゆえに彼は「信仰の父」なのです。

アブラハムの死
 本日ご一緒に読む創世記25章には、そのアブラハムの死と埋葬のことが語られています。7~10節です。「アブラハムの生涯は百七十五年であった。 アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。 その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、 アブラハムは妻サラと共に葬られた」。アブラハムは、75歳で旅立ってから百年間、信仰の旅路を歩み、175歳で、長寿を全うして息を引き取ったのです。 安らかな大往生であったという印象を、ここを読むと受けます。さすがに信仰の父の最期だ、私たちもこのような穏やかな最期を迎えたいものだ、と思うのです。

三つの系図
 けれども、7~10節を挟んでこの25章に語られている事柄は、そのような印象とは全く違う現実を示していると言わなければなりません。 この25章は、三つの系図から成り立っています。1~6節が第一の系図、12~18節が第二の系図、19節以下が第三の系図です。 この三つの系図はそれぞれ、アブラハムが関係を持った三人の女性を通しての、彼の子孫の系図です。第一の系図はケトラという女性に関するものです。 この人はここで初めて登場します。1節の「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」をそのまま読めば、この人は妻サラの 死後迎えた後妻だろうかと思いますが、6節には「側女」とありますから、むしろサラの存命中にアブラハムが側女とした人ではないかと考えられます。 第二の系図はハガルとその子イシュマエルに関するものです。12節にあるようにハガルはもともとサラの女奴隷でしたが、なかなか子供が生まれな かったサラが、彼女によって子供を得ようとしてアブラハムに与えたのです。そして生まれたのがイシュマエルでした。イシュマエルが生まれるとサラは、 もともと自分が言い出したことなのに、ハガルたちをいじめた、という話を私たちはこれまでのところで読んできました。このハガルとイシュマエルの子孫と、 先のケトラの子孫が、イスラエルから見て東の方、即ち今日のアラビア半島やメソポタミア地方に住む諸民族の先祖となった、と本日の箇所は伝えているのです。 ここには、イスラエルの民が、周辺の諸民族のことを、自分たちと同じアブラハムを父祖とする腹違いの兄弟と考えていたことが示されています。 しかしそれは兄弟として友好関係があったということではありません。むしろここに語られているのは、自分たちイスラエルこそ、アブラハムの正妻である サラの生んだ子イサクの流れをくむ者であって、アブラハムの正当な後継者は我々だ、という主張なのです。5、6節がそのことを語っています。 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから 遠ざけた」。これはつまり、側女の子たちには何がしかの贈り物を与えて、跡継ぎであるイサクから遠ざけた、ということです。ここには、同じ父の腹違いの 兄弟である子供たちの間の対立、抗争が暗示されています。兄弟であることは、ここでは仲が良いということではなくて、むしろいつも争い、対立があること を意味しているのです。18節に語られているイシュマエルの子孫の姿がそのことを代表的に示しています。そこには、イシュマエルの子孫が「互いに敵対 しつつ生活していた」とあります。これはイシュマエルの子孫のみのことではなく、アブラハムの子孫である全ての民族に共通して言えることです。同じ父 を持つ兄弟でありながら、互いに対立し、際限なく争い合っていく人間の姿がここに示されているのです。そしてこの対立、争いの源は、他ならぬアブラハムです。 彼が文字通り全ての種を蒔いたのです。自分自身が原因となって引き起こされたこの争い、対立の現実の中で彼は死んだのです。アブラハムの死は、 7~10節だけを読めば穏やかな大往生ですが、その周囲にはこのように、彼が引き起こした対立、争いが渦を巻いているのです。聖書は、信仰の 父アブラハムの生涯を、決して美しい理想的な聖なる歩みとして美化していません。むしろ徹底的に世俗的な人間、欲望もあればえこひいきもする、 そういう問題だらけの人間としてアブラハムを描いているのです。つまりアブラハムは、私たちと全く同じ、罪と汚れに満ちた人間なのです。 この問題だらけのアブラハムを、神様がどういうわけか選び、祝福して下さったのです。好意を持って語りかけ、恵みを与えて下さったのです。 そのことによって彼は神様を信じて生きる者となることができたのです。私たちも全く同じです。罪と汚れに満ちた、問題だらけのこの私を、 神様がどういうわけか選び、好意をもって語りかけ、恵みを与えて下さった、その神様の祝福によって私たちは神様を信じる者となることができるのです。 アブラハムはそういう意味で私たちの「信仰の父」なのです。

祝福の継承
 アブラハムが死を迎えるにあたって一番気にしていたことは、誰が自分の 跡継ぎとなるか、ということでした。彼は正妻であるサラの産んだただ一人の子イサクを最も愛して、彼に自分の全てのものを受け継がせようと努力しました。 それが先ほど読んだ5、6節です。自分が原因である兄弟間の対立の中で、イサクを跡継ぎとして立て、その権利を守るために出来る限りのことをしたのです。 しかし、イサクがアブラハムの跡継ぎになったのは、このアブラハムの配慮や努力の結果ではありませんでした。イサクこそアブラハムの後継者であることが はっきりと宣言されているのは11節です。そこにこうあります。「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」。神様がイサクを祝福な さったのです。このことによって、イサクは他の兄弟たちとはっきりと区別されて、アブラハムの跡継ぎとなったのです。アブラハムの後継者になることは、 正妻の子として生まれることによって自動的に実現することでもなければ、アブラハムに最も愛されることによってなることができるのでもありません。 主なる神様が、アブラハムに与えた祝福をその人にもお与えになることによって初めて、その人がアブラハムの後継者となるのです。つまりこの継承は、 「祝福の継承」なのです。アブラハムは今も申しましたように、多くの問題をかかえた、罪に満ちた人間でした。理想的な聖なる人などではなかったのです。 そのアブラハムが、神様の民イスラエルの先祖となることができたのは、ひとえに、神様の祝福によることでした。神様が彼を選び、好意と喜びをもって み顔を向けて下さったのです。罪と汚れに満ちており、それゆえに苦しみに満ちており、妻をも、他の女性たちをも傷付け、子供たちどうしの対立、争いを 引き起こした彼の生涯が、にもかかわらず、この神様の祝福のゆえに、救われているのです。支えられているのです。私たちの人生を本当に支えるもの、 それは神様の祝福です。神様が、自分という人間を選び、好意を持って語りかけ、恵みを与えて下さっているということです。この神様の祝福があれば、 どのような苦しみや悲しみの中にあっても、自分の罪によって人を傷付けてしまったという後悔に苛まれていても、私たちは自分に絶望してしまうことなく、 なお前向きに、積極的に生きることができるのです。この神様の祝福が、今やイサクにも与えられました。それが、アブラハムからイサクへの継承なのです。

祈りの姿勢
 さて19節以下は、イサクの系図です。20節には、イサクが40歳でリベカと結婚したことが語られています。この結婚の詳しいいきさつが、 前回読んだ24章に語られていました。それによればリベカは、神様がイサクに与えて下さった伴侶だったのです。しかし21節には、「イサクは、 妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった」とあります。イサクは自分たち夫婦に 子供が与えられるようにと祈り、主なる神様がその祈りを聞き入れて下さったのです。私たちはここを注意深く読まなければなりません。26節には、 リベカが子供を産んだ時、イサクは60歳であったと書かれています。40歳でリベカと結婚したイサクは、60歳でようやく子供を得たのです。 イサクは主に祈り、その祈りは主に聞き入れられた、と簡単に書かれていますけれども、この祈りが聞き入れられ、実現するまでには20年の年月が かかっているのです。イサクは20年間祈り、そして聞き入れられたのです。私たちは、神様に様々なことを祈り求める時に、あるいは他の人のために とりなし祈る時に、余りにもせっかちに結果を求めてはいないでしょうか。すぐに結果を求め、それが得られないと失望し、祈ることをやめてしまうこと がいかに多いかと思います。しかしそれは祈りの姿勢が間違っているのです。イサクは20年間祈り続け、そして聞き入れられた。このことが教えているのは、 20年ぐらい祈り続ければ神様も願いを叶えて下さる、ということではありません。そうではなくて、神様は、私たちに本当に必要なことを、必要な時に、 与え、実現して下さるのだ、ということです。その「必要な時」は20年後かもしれないし、1分後かもしれません。いずれにしても神様は、本当に必要な時に、 必要なものを与えて下さる、そのことを信じて祈り続けること、それこそが、私たちの祈りの正しい姿勢なのです。

エサウとヤコブ
 イサクの祈りは聞き入れられ、とうとうリベカはみごもり、双子を産みました。長男はエサウ、次男はヤコブと名付けられました。ここから、 アブラハムの場合と同じように問題が始まりました。どちらの息子がイサクの跡継ぎとなるのか、という問題です。エサウとヤコブは全く対照的な二人です。 エサウは生まれた時から赤くて、つまり血色が良くて、全身が毛皮の衣のようでした。彼は27節にあるように「巧みな狩人で野の人となった」のに対して、 ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。あくまで一般論ですが、エサウの方は男性的、ヤコブの方は女性的なタイプです。 28節には「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した」とあります。エサウは父イサクに、 ヤコブは母リベカに気に入られ、かわいがられたのです。二人が成長していくに従って、どちらがイサクの跡継ぎとなるのかがこの家族の大きな問題と なっていきました。29節以下には、そんな中である日起った出来事が語られています。ヤコブが天幕の周りで煮物をしているところに、エサウが 疲れきって野原から帰って来たのです。狩りをしてきたのでしょう。ヤコブの作っていた煮物は34節によれば「レンズ豆の煮物」で、それは赤い色をしていました。 エサウは「その赤いものを食べさせてほしい」と願います。するとヤコブは、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。長子の権利、 それはイサクの跡継ぎとなる権利です。ヤコブはエサウからそれを奪い取ろうとしたのです。エサウは、体力はあって明るいけれども少し頭は足りないと いうタイプだったようで、ヤコブの計略に簡単に乗ってしまいます。「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、一皿の煮物と 引き換えに長子の権利をヤコブに譲ることを誓ってしまったのです。この話を読んで分かるように、ヤコブは、ただ穏やかなだけの人ではありません。 むしろ陰険な陰謀家です。彼はずっと、長男エサウから長子の権利、つまりイサクの跡取りとなる権利を奪い取ろうと虎視眈々と狙っていたのです。それは 実は生まれた時からだった、ということが、26節の、ヤコブが生まれた時エサウのかかとをつかんでいたということによって示されています。兄を引っ 張って何とかして自分が前に出ようとする思いがそこに見て取れるのです。ヤコブはそういう人でした。ですからこの日、エサウが狩りから帰って来たら ヤコブが煮物をしていたというのも、決して偶然ではないでしょう。ヤコブはエサウがお腹をすかして帰って来る頃合いを見計らって、彼の好物を 料理していたに違いないのです。

神の選びによって
 こうしてヤコブは、策略をもって、というほどの策略でもありませんが、単純なエサウを陥れて、長子の権利を奪いました。もしもこのことによって ヤコブがエサウをだしぬいてイサクの跡継ぎとなったのだとしたら、これはまことに後味が悪いいやな話です。しかし、本日の箇所が語ろうとしているのは そういうことではないのです。ヤコブは確かにイサクの跡継ぎとなります。アブラハム、イサク、ヤコブというのが、イスラエルの民の先祖の系譜なのです。 しかしそうなったのは、ヤコブがエサウを出し抜いて長子の権利を奪ったからではありません。あるいは、ヤコブを愛する母リベカの思いと、エサウを愛する 父イサクの思いとのせめぎ合いの中で、母の思いが通った、ということでもありません。ヤコブがイサクの跡を継ぐことは、神様のご意志、ご計画によること だったのです。そのことが23節に語られているのです。胎内に双子がいることを知ったリベカが、主の御心を尋ねたのに対して、主なる神様はこうお告げに なったのです。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に 仕えるようになる」。エサウもヤコブもまだ母親のお腹の中にいた時に、つまりヤコブがエサウのかかとをつかんで生まれてくるよりも前に、エサウが一皿の 煮物と引き換えに長子の権利を譲り渡してしまうよりもはるか以前に、神様が、エサウではなくヤコブをイサクの跡継ぎとすることを決めておられ、 「兄が弟に仕えるようになる」と告げておられたのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第9章11、12節は、このことを このように言い表しています。「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げら れました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」。ここに語られているように、 これは神様による「自由な選び」ということです。彼らがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、神様が片方を選び、もう一方を 退けておられるのです。これは私たちにとって大変つまずきに満ちた、分かりにくい教えです。しかし私たちはこのことの意味するところをしっかりと 受け止めなければなりません。それは、神様の祝福を受け継ぐ者となることは、人間のいかなる思いや意志にも、実力にも、性格や資質にも、あるいは 信心深さや清さ正しさにもよらないのであって、ただ神様の恵みのみ心のみによるのだ、ということです。ヤコブは、祝福の継承者となるに相応しい何か を自分の中に持っていたのではありません。彼は、兄をうまく出し抜いて長子の権利を奪うことができたから祝福を与えられたのではないし、逆に、 そのようないやらしいことをする陰険な性格のゆえに祝福を与えられなかったのでもないのです。彼が祝福の継承者となったのは、ただ神様の自由な 選びの恵みによることだったのです。そして振り返って見れば、それは彼の父イサクの場合も同じでした。イサクがアブラハムの跡継ぎとなったのは、 正妻の子だったからでも、父アブラハムに最も愛されたからでもありません。そのような人間の事情や思いによってではなくて、神様の自由な選びによって、 イサクもヤコブも、祝福の継承者となったのです。アブラハムもまたそうであった、ということを私たちはこれまで見てきました。彼も、多くの問題をかかえた、 罪に満ちた人間であったのに、神様がどういうわけか彼を選んで下さり、祝福の約束を与えて下さったことによって、「信仰の父」となったのです。
 それゆえに私たちは、「神様の自由な選び」という教えにつまずいてはなりません。この教えにつまずき、これを受け入れないということは、 神様の祝福を受け継ぐためには、それに相応しい何かを自分の内に持たなければならない、と主張することなのです。しかし私たちの中のいったい誰が、 神様の祝福を受け継ぐに相応しいものを自分の内に持つことができるでしょうか。しかし聖書は、祝福の継承は、私たちの相応しさによってではなくて、 神様の恵みによる自由な選びによって与えられると語っているのです。神様の選びを信じるというのは、祝福を受け継ぐのに全く相応しくない、 罪と汚れに満ちた、いろいろと問題を引き起こしてばかりであるこの私が、それでもなお神様を信じて、祝福を受け継いで生きることができるとを 信じることなのです。それは神様が、どういうわけか私を選んで下さり、好意をもって語りかけて下さり、なぜだか分からないがこの私に恵みを与えて 下さっているからでしかあり得ないのです。

神の自由  
神様の自由な選びを信じるとは、神様の自由を認めるということです。ローマの信徒への手紙第9章の15節には「わたしは自分が憐れもうと思う者を 憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉が引用されています。誰を選んで憐れみ、慈しむかは、神様の自由なのです。私たちの救いは、 この神様の自由なご意志にかかっているのです。先ほどから、「どういうわけか」と言っているのはそういう意味です。私たちには選ばれる理由が分からない、 それは神様の自由な決断だからです。この神様の自由ということに私たちが不安を覚えるとしたら、それは、私たちがその自由を、私たち人間の自分勝手な 自由に引き寄せてとらえているからです。もしも私たちの救いが、誰かある人間の自由に委ねられているのだとしたら、それはまことに不安な、不確かなこと だと言わなければならないでしょう。私たち人間は、与えられている自由を、しばしば大変身勝手に、気まぐれに用いるものだからです。しかし神様は、 ご自分の自由を、私たちをひたすら愛するために用いて下さるのです。なぜそう言うことができるのか。それは、主イエス・キリストを見つめることに よってです。神様は自由な愛によって、ご自分の独り子イエス・キリストを、一人の人間としてこの世に遣わして下さったのです。この世に来られたまことの 神であられる主イエスは、自由な愛によって、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪は、神様の怒りを引き起こします。 そこには祝福ではなくて呪いが生まれるのです。主イエスは自由な愛によって、私たちの罪と、そのもたらす呪いを全てご自分の身に引き受けて、十 字架にかかって下さったのです。この主イエスの自由な愛による十字架の死によって、私たちが受けるはずの呪いは取り去られました。そして神様は主イ エスを復活させて下さることによって、私たちに、新しい命に生きる祝福を与えて下さったのです。主イエスの十字架と復活によって、私たちが受ける はずの呪いは祝福へと変えられたのです。主イエスの十字架と復活を見つめる時、私たちは、神様がご自分の自由を、私たちを愛して、祝福を受け継がせ るために用いて下さったことをはっきりと知ることができるのです。神様はこの自由によって私たちを選び、語りかけ、恵みを与えて下さっています。 神様がどういうわけか私を選んで下さった、それは私たちの中にはその理由は全く見当たらない、ということです。しかし、主イエス・キリストを見 つめるときに、その理由ははっきりするのです。それは、神様が私たちを心から愛して下さっている、ということです。神様は、私たちがどんなに祝 福に価しない者であっても、自由な愛によって選んで下さり、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦して下さり、永遠の命の祝福を受け継がせ て下さいます。アブラハムからイサクへ、そしてヤコブへと継承された神様の祝福が、今、主イエス・キリストによって、私たち一人一人にも与え られているのです。

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