夕礼拝

良いことを主に

「良いことを主に」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第103編1-13節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章1-9節
・ 讃美歌 ; 299、567

 
十字架への歩み
マルコによる福音書の第13章には、主イエスの教えの締めくくりとも言える、終わりについての教えが語られていました。続く14章からは、主イエスが、いよいよ十字架へと赴かれる場面が記されて行きます。主イエスの御受難が本格的に始まるのです。1節、2節には祭司長、律法学者たちが、計略を用いてイエスを捕らえて殺そうとたくらむ姿が記されています。又、本日お読みした箇所の直後、10節、11節には、弟子の一人であるイスカリオテのユダが裏切りを企てるということが記されています。主イエスが十字架の死に引き渡されようとしているのです。本日お読みした箇所には、その御受難の最初に、ベタニアにあるシモンの家で起こった、一人の女が、主イエスの頭に香油を注いだという出来事が記されています。ここには、わたしたちの奉仕とはどのようなものなのかが記されています。この女の姿には主イエスに奉仕をする姿、仕える姿勢を示されて行きたいと思います。

御心としての十字架
 一節には、「さて、過越祭と徐行祭の二日前になった。」とあります。過越祭とは、ユダヤ人の三大祭りの一つです。この時、主イエスを殺そうとしていた祭司長や律法学者たちは、主イエスを捕らえて殺すのは、「祭の間はやめておこう」と考えていました。主イエスの周りにはいつも人々が集まっていました。もし、そのような中で主イエスを捕らえたら、主イエスを慕い、支持する人々が騒ぎ出すことにもなりかねないと考えたのでしょう。自分たちが憎んでいる主イエスを、なるべく人目に付かない形で消し去ってしまおうと考えたのです。しかし、実際は、祭司長、律法学者たちの企み通りにことは運びません。主イエスは、この祭の最中に、大勢の群衆が見つめる中で十字架につけられたのです。主イエスの周りにいた群衆は、主イエスを支持するどころか、「十字架につけろ」と叫ぶようになります。結局、祭司長や律法学者の思い通りにはならなかったのです。そのようになった理由として覚えておかなくてはならないことは、主イエスの十字架の死が父なる神さまの御心だったのだということです。過越祭とは、イスラエルの民が出エジプトの時の神様の救いを記念する祭です。主に言われた通りに犠牲の羊の血を鴨居と柱に塗ってあった家を神様が滅ぼすことなく過越して救って下さったのです。この過越祭の中で十字架に付けられたというのは、主イエスが、過越の小羊として、人々を罪から救うために殺されたということなのです。人々の計略にもかかわらず、主イエスが祭の中で十字架に付くことになったということには、主イエスの十字架の死が、人間の策略や、思いの実現ではなく、神さまの救いの御支配の実現であったことが示されています。マタイによる福音書の並行記事で主イエスははっきりと、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」とお語りになっているのです。十字架は、確かに人間の計画によって進められて行きますが、根本的には、それは人間の計画の実現ではなく、主イエスが意志していたことであり神様のご計画の成就なのです。

一人の女の奉仕
 この神様の御心の成就である十字架にいよいよ赴くという時に、一人の女が、主イエスの頭に香油を注ぎます。シモンの家で、皆で食事をしていた時のことです。「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」というのです。香油を頭に注ぐというのは王が即位する時の儀式です。又、救い主を意味するキリストという言葉は「油注がれた者」という意味です。つまり、この女の行為は、主イエスを王として、又、自らの救い主、キリストとする行為なのです。この女は、主イエスを自らの救い主として受けとめ、仕えたのです。
 この時、女が注いだ香油は、300デナリオン以上の価値があるものでした。1デナリオンが当時の労働者の日給に相当する額ですから、300デナリオンというのは労働者の年収にも匹敵する程のお金です。それ程の価値ある香油を、惜しげもなく、主イエスの頭に振りかけたのです。ここで覚えておかなくてはならないことは、多くの人々にとってと同様、この女にとっても、このお金は非常に大きなものであったということです。この女が、人一倍お金持ちで、有り余る中から、300デナリオンの香油を主イエスに注いだというのではないのです。女にとって、この香油は、最も大切にしていたものであったに違い在りません。先祖代々受け継いできたものであったかもしれません。それを主イエスに捧げたのです。ここで、この女がいかに多額のものを捧げたかが注目されているのではありません。8節で、主イエスは「この人は出来るかぎりのことをした」と仰っています。主イエスを慕い、この方に仕えるために、自分のなし得る最高のことをしたのです。そのことの結果が、300デナリオンの香油を注ぐという行為となったのです。ここでは、何よりも、自分の出来る限りのことをして、主イエスに仕えた女の姿勢が見つめられているのです。

人々のとがめ
 しかし、それを見ていた人の何人かは、この女の行為を素直に受け入れることが出来ませんでした。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言ったのです。そして、彼女を厳しくとがめたのです。この人々は、女のしたことを「無駄」と感じました。何故、女の心からの奉仕を共に喜ぶことが出来なかったのでしょうか。それは、この人々が、この女の行為を、人間的な思いによって見つめ、判断したからです。女の行為を表面的にのみ見つめ、それを自分の価値観、損得勘定や、人間の思いに従って判断したと言って良いでしょう。300デナリオンという価値に注目し、こんな無駄をするのであれば、もっと他に使い道があったはずだと言うのです。
 わたしたちは、ここで、この女をとがめた人々を、なんとひどい人々だと思ってしまうことは出来ません。この人々は確かに、人間的に見れば真っ当なことを言っているのです。労働者の年収にも等しい香油を主イエスに注いでしまうというのは人間的に考えるならば、「無駄」とも取れる、行きすぎた行為だと言わざるを得ません。馬鹿げた行為であると言われて仕方ないのです。
 そもそも、奉仕において大切なのは、そこでどのようなことが行われたかということではありません。ただ、自らを捧げようという思いから、出来る限りのことをしようとする時に、真に仕えるということが起こるのです。そして、そのような思いの結果として行われた行為は、主イエスに仕えようという思いがない所で表面的に受け取られると、全く無駄に見えることがあるのです。

困らせる
 彼らは、ここで、「貧しい人々に施すことができたのに」との理由を語っています。これは最もらしい理由です。しかし、彼らは本当に貧しい人々のことを思っていたのではありません。ただ女の奉仕の姿勢を非難するためだけに、このようなことを語っているのです。主イエスは、人々に、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とお語りになります。結局、この人々の言動は、主イエスに奉仕をした女性を困らせるだけのものだったのです。「貧しい人に施す」というのは良いことです。この女は、当然、貧しい人に救いの手を差し伸べることが大切であると考えていたに違い在りません。しかし、この時、この女は、主イエスに対して精一杯の奉仕をしたかったのです。にもかかわらず、助けを必要としている貧しい人に施すということを持ち出されて、本来なすべきことをしていないと言わんばかりの非難をされれば困ってしまうのは当然です。
 この人々の女を困らせる発言は、わたしたちと無縁ではありません。わたしたちも時に、人々の奉仕や信仰の態度を見て、とやかく言ったり、実際に言わないまでも、あれこれと思いめぐらすことがあります。そのようなことの背後で、結局、その人と同じような形で仕えられない自分を正当化するために、最もらしい理由をつけて、主イエスに奉仕をする人を困らせているということがあるのではないでしょうか。この女のように出来る限りを主に捧げるということはなかなか出来ないことです。どこかで、自分自身の中に神様に捧げることが出来ないものを持っているのです。そのような者にとって、この女の行為は、ある抵抗を生むのです。ここで人々は、自分たちとは異なる奉仕の姿勢に触れ、そのように振る舞うことが出来ない自分自身を正当化しようとしているとも取れるでしょう。そのために考え得る最も全うな理由が「貧しい人々に施す」ということだったのです。

「良いこと」
 ここで、主イエスは、この女の行為をはっきりと「良いこと」と仰っています。主イエスは、この女に、「何と無駄なことをしたのか」とは仰らないのです。この女の奉仕を受け入れて下さるのです。「良いこと」というのは「すばらしい」とか「美しい」という意味がある言葉です。先ほども申し上げたように、主イエスに対する奉仕、神に捧げることは、人間的に見たら、無駄で意味の無いことに見えることがあります。しかし、その人間的に馬鹿げているとしか言いようのない、振る舞いを、美しいと仰って下さるのです。人が何と言おうと、神が「良いこと」と言って下さることこそ真の奉仕なのです。
 女を非難した人々がどのような人なのかは定かではありません。しかし、マタイによる福音書では「弟子たち」となっています。この人々の中には、主イエスに仕えて来た弟子たちも含まれていたことでしょう。この人々は、確かに、主イエスに仕えるということが良いことであると考えていたに違い在りません。しかし、そこに人間の思いが入ってしまったのです。表面的な行いを見て、経済的な判断を加えて、300デナリオンの価値がある者を惜しげもなく捧げてしまうなんてとんでもないという思いになったのです。そのような人間的な判断に従う時に、主イエスが「良いこと」と受けとめて下さっている奉仕も良いものではなくなってしまうのです。彼らからしてみれば、無駄なことでしかないのです。
 もちろん、主イエスに仕えるとは、この女にとって300デナリオンが意味するのと同じ額のものを、主に捧げなくてはいけないと言うのではありません。仕えることにおいて、人間的な判断や思いが支配し、そのことによって、奉仕をする隣人までも困らせるに至る、わたしたちの罪が見つめられているのです。その上で、ただ、主イエスに仕えたいという思いからなされた奉仕であれば、どのようなものでも、主は「良いこと」と仰って下さることが見つめられているのです。

貧しい人はいつもあなたがたといる
 主イエスは、7節で、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と仰います。これは、主イエスがこれから十字架で死に、世を去ってしまうということを念頭において語られている言葉です。主イエスは間もなく世を去ってしまうのです。ですから、主イエスに対して香油を注ぐのはこの時にしか出来ないことなのです。ここで主イエスは、ただ自己正当化のために隣人に対する奉仕を持ち出す人々を非難しています。隣人に仕えようと思えばいつでも出来るのです。おそらく、ここで女をとがめた人々は、たとえ自分が300デナリオン持っていても、貧しい人に施すことはなかったでしょう。隣人への奉仕を最もらしい理由にして、神様への奉仕をとがめる人々は、そもそも、本当に仕える思いをもって隣人に仕えることも出来ません。主イエスに捧げることと、隣人に仕えることのどちらが良いことかが比べられることがあります。しかし、そのような所では、人に仕えるにしても神に仕えるにしても、本当に良い奉仕は生まれません。本当に主イエスに奉仕をする、自らを神に捧げるということなくして、聖書が語る意味で、隣人に仕えることは出来ないからです。神様に対して捧げることの中で本当に他者のために生きる道が開かれていくのです。それがない所で、いくら他人に良いことをしようと思っても、それはせいぜい、自分の善意に従って親切に振る舞うということでしかありません。神に自らが救われたということの感謝から、神様に自らを捧げようという思いが生まれるところでこそ、神様への奉仕として、他者に仕えることが出来るのです。そこで隣人への奉仕も愛あるものになって行くのです。先ず何よりも、主イエスに対して、捧げるべきなのです。主イエスご自身が「良いこと」として受けとめて下さるような奉仕がされる中で、始めて、貧しい人々、自分の周りの隣人にも本当に「良いこと」が出来るのです。

埋葬の準備
 続く8節で主イエスは、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃっています。この奉仕が、主イエスの埋葬の準備であると言うのです。しかし、この女は、埋葬の準備をしようとして、主イエスに香油を注いだのでしょうか。そうではありません。確かに、周囲では、主イエス殺害の計画が進められています。しかし、まだ生きている人に、埋葬の準備のために、香油を塗ることはありません。この時、主イエス以外の誰一人として、十字架という神様の御心を知る者はいなかったのです。ですから、この女も、「御心によれば主イエスは十字架に付けられてしまうのだから香油を塗って差し上げよう」と考えたのではないのです。この女は、ただひたすらに主イエスに仕えたいという思いから精一杯のことをしたのです。それを主イエスが受けとめて下さり、これは埋葬の準備だと仰って下さったのです。この女の振るまいが、主イエスの十字架という神様の御心が進められていくために欠かせない一つの出来事となったのです。9節には、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とあります。この言葉を、ここに奉仕の姿が記されている大切なことだからこそ語られなければならないのだという意味で取ることが出来ます。しかし、ここで更に、見つめたいことは、この奉仕が、主イエスによって、御業の実現のための一幕とされたということです。精一杯奉仕をしたこの女の業が主なる神の御業の中に加えられた、福音の一部とされたということです。だからこそ、この女の行為は、主イエスについて語られる時に共に語られるのです。

御心に仕えて
 わたしたちが主に仕えるとは、この女のようにして捧げることです。それは、300デナリオンという価値あるものを捧げなくてはいけないということではありません。神様に捧げる時、人間の価値判断や、思いによって左右されてはならないということです。ただ、主に対する出来る限りのことをしようという思いによって行うということです。そこから生まれる振る舞いは、時に人間的な価値判断から見れば、全く、馬鹿げているとしか言いようのないものかもしれません。しかし、主イエスからすれば、それは良いことなのです。更には、神様のご計画、御心の成就のための準備なのです。わたしたちは、神様の御心を知り尽くすことは出来ません。自分の思いに従って、神様の働きはこのようなものだから、自分はこれだけのものを神様に捧げようと自分で考えることは出来ないのです。そのことを忘れ、神様への奉仕が、人間の思いや常識によって判断されるのであれば、そこで行われることは、人間の業でしかありません。神様の御心がどこにあるのか、どのようなものであるのかはっきりと示されていなくても、わたしたちが、ただ仕える思いをもって出来る限りをする時に、それを神様が必ず用いて下さるのです。出来る限りの奉仕を主イエスの方が受けとめて下さり、御心のために用いて下さるのです。

主イエスの奉仕を受けて
 主イエス御自身は、この後、十字架に付けられ、その命を捧げて、わたしたちに仕えて下さいました。罪人のために、ご自身の命を捧げることほど無駄に思えることはありません。しかし、人々に対する愛の故に、神さまの救いの御業を成し遂げて下さったのです。わたしたちはその恵を覚えて、主に仕えるのです。わたしたちも出来る限りをしようという思いになるのです。そのようにして自らを捧げる時に、神様の御業、神様のご計画のための働きに加えられるのです。今わたしたちが与えられている福音を伝えるという働きを考えても、このことは大切です。この女が示している奉仕の姿勢がない所では、伝道が進むということはあり得ないでしょう。そこで多額の献金が捧げられたとしても、それが人間の価値判断や思いによってなされるのであれば、そこで主の御業がなされることはありません。ただ主に対して出来る限りをしようという思いからなされた奉仕であれば、それは、どんなものでも、主から見て「良いこと」、「美しいこと」なのです。そして、そのような奉仕は、必ず、御業のために用いられるのです。

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