夕礼拝

わたしは主である

「わたしは主である」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第6章28節-7章13節
・ 新約聖書: エフェソの信徒の手紙 1章15節―23節
・ 讃美歌 : 136、484

行きつ戻りつ
 エジプトで奴隷とされ、苦しめられているイスラエルの民を救い出すために、主なる神様はモーセを選び、召し、お遣わしになりました。私たちはこれまで、出エジプト記を読み進めてくる中で、モーセがどのようにしてイスラエルの民の指導者となり、エジプトからの脱出の導き手となったのかを見てきました。モーセは、自分の意志でそういう働きをしていったのではありません。若い日にそのような志を立てて立ち上がったこともありましたが、その業はたちまちにして挫折し、彼は逃亡の身となったのです。そのような志などとうに忘れ、自分と家族のことだけを考えて暮らしていたモーセに、ある時神様が語りかけ、彼をエジプトからの解放の指導者として立て、お遣わしになったのです。彼は、自分にはそんなことをする力はとうていありませんと神様の召しに抵抗しました。しかし神様は彼を丁寧に説得して、なだめたりすかしたりして、エジプトへと派遣なさったのです。出エジプト記はこのあたりのことを行きつ戻りつしながら語っています。5章には既に、モーセとその兄アロンがエジプト王ファラオのもとに行き、イスラエルの民を去らせるようにと交渉を始めたことが語られていました。しかし先月読んだ6章では、場面が戻って、神様がモーセに現れて、イスラエルの民を奴隷状態から解放する使命を与えたことが再び語られていました。このような行きつ戻りつが起るのは、もともとは別に伝えられてきた物語がモザイクのように継ぎ合わされて出エジプト記が構成されているからだということを先月申しました。本日の箇所にもその影響が見られます。ここには、モーセが神様に、自分にはとてもそんな使命を果たす力はありません、と抵抗したこと、それに対して神様が、彼に助け手を与えると告げて下さったこと、また、エジプト王ファラオの前で、彼らが神様から遣わされたことを証しする奇跡を行う力を与えて下さったことが語られています。しかしこれらのことは皆、既に第4章で語られていたのです。ですからここを読む私たちは、既に一度読んだことをもう一度戻って聞かされているという感じを受けるのです。けれども、先月の所もそうでしたが、基本的には同じ出来事であっても、その内容にはかなりの違いがあります。同じ出来事でも、違った視点から見た時には別の側面が見えてくるのです。出エジプト記は、もともとは別の物語だったこれらの話をも生かして語ることによって、モーセが神様に召され、遣わされて出エジプトの指導者となったことの意味を立体的に描こうとしているのです。

唇に割礼のない者
 本日の箇所、6章28節以下に先ず語られているのは、モーセが、エジプト王ファラオを説得するような力は自分にはありません、と言っていることです。彼は30節で、「わたしは唇に割礼のない者です」と言っています。この言い方は12節にもありました。モーセは、「自分は唇に割礼のない者だ」という自覚を持っていたのです。唇に割礼があるとかないとかいうのは勿論一つのたとえであって、唇の割礼という儀式があったわけではありません。割礼というのは、ユダヤ人の男子が、神様の民イスラエルの一員であることの印として体に受ける儀式です。イスラエルの男子は皆割礼を受けているのです。ということは、イスラエルにおいては「割礼がある」のが本来の姿であって、「割礼がない」というのは異常なことです。そういう意味では、「唇に割礼がある」というのは、特別に弁舌が巧みだということではなくて、人と自然に、普通に話ができるということを意味していると思われます。逆に「唇に割礼がない」というのは、話が下手だとか、人前で話をすることが苦手だ、というようなことではなくて、人と普通に話をすることができない、という意味だと考えられるのです。そこから、モーセには何らかの言語障碍があったのではないか、具体的には吃音だったのではないか、とも考えられています。そういう可能性もあるのです。このような可能性を考えることは、私たちにとって一つの大きな慰め、励ましとなるのではないでしょうか。私たちはそれぞれに、いろいろな人間的な弱さ、欠点を持っています。障碍をかかえて生きている人もいます。そのために、あれができない、これができない、という自分の限界を思い知らされ、挫折感や劣等感に苦しむことがあります。しかしモーセも、そのような者の一人だったのかもしれないのです。けれども神様は、そのような弱さ、欠点、あるいは障碍をかかえている者をも用いて下さるのです。ご自分の民を奴隷の苦しみから解放するという大事な救いの働きの中で、そのような者を選び、召し、遣わして下さるのです。神様は全能の方、どんなことでもできる方です。その全能の力はこのように発揮されるのです。私たちのどんな弱さや欠け、障碍、あるいは罪をすら用いて、救いのみ業を実現して下さる、神様が全能であるというのはそういうことなのです。

神と人間の出会い
 さて7章1、2節に、モーセに対して語られた主なる神様のお言葉があります。「自分は唇に割礼がない」と躊躇するモーセに神様は助け手を与えて下さるのです。それは兄アロンです。アロンがモーセの助け手として立てられたことは4章において既に語られていました。そこにおいては、モーセがもともと弁の立つ方ではなかったのに対して、アロンは雄弁な人だったということになっています。そういう意味でアロンはモーセの欠けを補う者として立てられたのです。しかしこの第7章が見つめているモーセとアロンの関係はそれとは違うものです。1節で神様はこう言っておられるのです。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」。あなたは神の代わりとなり、アロンはあなたの預言者となる、つまりモーセとアロンの関係が、神様ご自身と、神様のみ言葉を預かって人々にそれを告げる預言者の関係になぞらえられているのです。似たようなことは4章の16節にも語られていました。そこには「彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」とあったのです。これは本日の7章と同じことを言っているように見えます。けれども4章と7章とでは前提が違います。4章では、同胞であるイスラエルの民をどう説得して、モーセが本当に神様から遣わされたことを納得してもらえるか、ということが問題でした。しかし本日の箇所では、「あなたをファラオに対しては神の代わりとし」とあるように、見つめられているのはエジプト王ファラオとの対決の場面です。イスラエルの民を奴隷として苦しめているファラオの前で、イスラエルを解放せよという神様のみ言葉、要求を告げるのです。このファラオとの対決において、モーセは神様ご自身の代わりとしての、そしてアロンは神様のみ言葉を告げる預言者としての役割を与えられたのです。このことは、どちらの方が弁舌が巧みだというような人間の能力や資質の問題ではありません。神様はモーセとアロンをこのように立て、遣わすことによって、この対決がもはや人間と人間、エジプト人とイスラエル人の対決ではなくて、神様ご自身と、神様に敵対し、神としてあがめず従おうとしない人間との対決であることを示そうとしておられるのです。

ファラオが思い知らされたこと
 表面的に見ればこれは、エジプト王ファラオと、イスラエルの民の代表であるモーセとアロンとの対決であり、交渉です。しかし実はそれは、神様ご自身と人間との出会いでありぶつかり合いであり対決なのです。神様と人間との出会い、ぶつかり合いがこのように表向きは人間と人間との出会い、ぶつかり合いにおいて起る、ということを私たちは誰もが体験しています。私たちが神様と出会い、そのみ言葉を聞き、信仰を持ち、その救いにあずかっていく時には、必ずこのようなことが起っているのです。つまり私たちは神様と出会うと言っても、そこらの街角で出会うわけではありませんし、天から直接神様の声を聞くわけではありません。神様との出会いは、必ず、人間との出会いの中で起るのです。その人間は私たちが教会の礼拝に出席するきっかけを作った誰かでもあるし、そのようにして教会に来てみたところ、礼拝においてお話をしていた牧師でもあります。私たちはそのような人間との出会いの中で、最初はそうと気付かずに、しかし次第に、神様ご自身との出会いを与えられていくのです。神様がそれらの人間を通して、私たちに語りかけて下さるのです。モーセのように無言で、存在そのものによって神様を証ししている人もいれば、アロンのように、神様の言葉を伝える預言者としての役割を果たしている人もいます。そのような人間たちが神様によって用いられて、私たちは神様と出会い、信仰を与えられていくのです。ここに語られているのは、ファラオに対して、モーセとアロンはそのような役割を果たす者として立てられたということです。彼らを通して、主なる神様ご自身が、ファラオと出会い、向き合い、ぶつかり合っていかれるのです。私たちがそうであったように、ファラオも最初は、自分が出会っているのはただの人間だと思っていました。しかも、取るに足りない、卑しい奴隷の代表だと思っていました。そんなやつらの言うことに耳を貸す必要はない、要求を受け入れるなど以ての外だ、せいぜい厳しく弾圧してやればじきに大人しくなる、と思っていました。しかし彼はこの後、多くの災いによって思い知らされていきます。彼が思い知らされていったこと、それは、奴隷だと思って馬鹿にしていたイスラエルの民が思いの外強く、不撓不屈の精神で自由を求めていること、ではありません。ファラオは、自分は主なる神と対決しているのだということを、モーセとアロンという人間を通して、今自分が出会い、向き合い、対決しているのは、生けるまことの神なのだ、ということを思い知らされていったのです。

わたしは主である
 私たちが神様と出会い、信仰を与えられていく場合にもそうですが、自分が出会い、向き合っているのが生けるまことの神様なのだということに、人間はなかなか気づかないし、それを認めようとしません。エジプト王ファラオもそのことをなかなか認めようとしませんでした。そのために彼は、そしてエジプトの人々は、数々の災いを体験することになります。そのことがこの7章の14節以降に語られていきます。そこに語られているのは、災いによって苦しみを受ける、その苦しみの中で、自分は神様と対決しているのだ、神様が自分に、従うことを求めておられるのだ、ということを思い知らされていく、しかし、その災いがやみ、苦しみが過ぎ去ると、すぐにそのことを忘れてしまい、再び自分の思い通りに歩もうとする、ということの繰り返しです。そういうことを何度も繰り返し、そして最後に、自分にとって最も大切なものを失うという体験をすることによって、ついに彼は屈服するのです。敗北を認め、イスラエルの民の解放を認めるのです。彼が認めたのは、イスラエルの民への敗北ではありません。ファラオは、主なる神様への敗北を認めたのです。自分が対決し、抵抗していたのは、生けるまことの神であったことを認めたのです。そういうことが起ることを、本日の箇所において主は既に予告しておられます。5節です。「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。イスラエルの民のエジプトからの解放が実現する時、それはつまり、主なる神様がそのみ手を伸ばしてイスラエルの人々をエジプトから導き出して下さる時です。その時ファラオは、そしてエジプトの人々は、「わたしが主である」ということを知るようになるのです。今モーセとアロンを遣わし、ファラオと、そしてエジプトの人々と出会い、ぶつかり合い、対決しておられる方こそが、生けるまことの神、主であるということを彼らが知るようになる、ということこそが、イスラエルの民のエジプト脱出という出来事において起ったことの中心なのです。

蛇になった杖
 しかしそこに至るまでにはまだまだ紆余曲折があります。それは、人間が、「わたしは主である」という神様のみ言葉を受け入れようとせず、それに抵抗していく日々が続くということです。具体的には、モーセとアロン対ファラオの対決がまだこれから始まるのです。8節以下には、その対決の第一ラウンドが語られています。14節から先は、先ほど申しましたように、主なる神様によってエジプトにもたらされる災いの話です。しかし8節から13節に語られているのは、災いの話ではありません。ここには、主なる神様がモーセとアロンに与えて下さった指示が示されています。ファラオが、「神がお前たちを遣わしたというならその証拠に奇跡を行なって見せろ」と言ったなら、アロンの杖をファラオの前に投げよ、そうすればそれは蛇になる、と神様はおっしゃったのです。そのような奇跡を行う力を神様は彼らに与えて下さったのです。このことも、私たちは既に4章の最初の所で読んで知っています。そこには、杖が蛇になることと並んで、手を懐に入れると重い皮膚病になっており、もう一度入れるとそれが治っている、という奇跡、さらにナイル川の水を血に変えるという奇跡を行う力を神様が与えて下さったことが語られていたのです。本日の7章10節以下は、杖が蛇になる奇跡が実際にファラオの前で行われたことを語っています。4章で与えられた力が実際に発揮された場面です。しかし11節を読むと、ファラオはこの奇跡を見ても動揺していません。彼はエジプトの賢者や呪術師、魔術師たちを召し出して、同じことをさせるのです。彼らの投げた杖も蛇に変わったのです。つまりファラオは、それくらいのことは我々エジプト人にもできる、ということをモーセとアロンに示したのです。せっかく神様が与えて下さった奇跡の力も役に立たなかった、と彼らががっかりしかけたその時、「アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ」。アロンの杖が変わった蛇は、彼ら魔術師たちの杖が変わった蛇を、杖は複数ありましたから蛇たちを、全て飲み込んでしまったのです。これは要するに、アロンの杖が魔術師たちの杖に勝ったということであり、モーセとアロンによって示された主なる神様の力が、エジプトの魔術師たちの魔術に勝利した、ということです。モーセとアロン対ファラオの対決、実は主なる神様とファラオとの対決の第一ラウンドにおいて、このような主の力の圧倒的勝利が示されたのです。しかし、13節にあるように、「ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった」。それゆえに、対決は第二ラウンド以降へと続いていき、数々の災いがエジプトに下されることになったのです。

混沌の力への勝利
 このように、この蛇になった杖の話は、主なる神様の力がエジプトの魔術師たちの力、つまり人間の力、人間の業である魔術、呪術よりも強いことを第一に語っているわけですが、しかしそれだけではなく、ここにはさらに深い意味が込められています。その意味は、この7章での「蛇」という言葉の意味から見えて来ます。実は原文においては、この7章の「蛇」という言葉は、4章の「蛇」とは別の言葉なのです。この言葉を辞書で引くと、「海の巨獣(大きな獣)、竜」とあり、次に「蛇」という意味が出てきます。7章の「蛇」は「海の巨獣、竜」とも訳せる言葉なのです。この言葉が使われている他の箇所としては、詩編74編13節があります。そこにはこのように語られています。(909頁)「あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれました」。この「竜」が本日の箇所では「蛇」と訳されている言葉です。この詩編74編13節は何を語っているのでしょうか。「あなたは、御力をもって海を分け」というのは、創世記1章9節の、神様が天地創造のみ業の中で、地を覆っていた水を集めて、海と陸地の境を定めたことを指しています。全てを覆っていた水を制御して、乾いた地、陸地を出現させ、植物や動物、そして人間が暮らすことのできる場所を確保して下さったのです。このことに象徴されているように、水あるいは海は、聖書において、混沌の力を表しています。それは秩序ある世界を飲み込み、滅ぼしてしまおうとする力です。天地創造のみ業とは、神様がその混沌の力を制御して、その境を定め、人間が生きることのできる秩序ある世界を造り、混沌の力からそれを守って下さる、というみ業なのです。「御力をもって海を分け」というのはその神様のみ業のことを言っています。そして詩編74編13節は、この神様のみ業を、「大水の上で竜の頭を砕かれました」と言い換えているのです。つまりこの竜、本日の所での蛇は、神様が造り、守って下さっている秩序ある世界を押し流そうとする混沌の力の象徴です。その竜の頭を神様が砕き、それに打ち勝ったこと、つまり混沌の力に対する神様の勝利を、この詩編は歌っているのです。これ以上は引用しませんが、他にも、この言葉がそういう意味で用いられている箇所があります。このことを考え合わせる時、本日の7章8節以下の話は、神様の力の方が魔術より強い、というだけではない、もっと深い意味を持っていることが見えて来るのです。つまりこの出来事において、詩編74編13節に語られているのと同じことが見つめられているのです。エジプトの魔術師たちの杖が変わった蛇、それは、主なる神様が創造し、支配し、保ち、守っておられるこの世界、だからこそ私たちが生きることができるこの世界の秩序を破壊し、飲み込もうとする混沌の力を表すものです。その蛇を、アロンの杖が変わった蛇が飲み込んだのです。それは主なる神様が、天地創造の時にして下さり、今もして下さっているように、この世界を滅ぼそうとする混沌の力に勝利し、それを制御し、私たちを守って下さっているということなのです。裏返して言えば、ファラオがイスラエルの民を解放しようとせず、エジプトの魔術師たちの魔術を用いて主なる神様に敵対していることの背後には、神様によって造られ、保たれ、支えられているこの世界の秩序を破壊し、混沌の大水によって押し流そうとする人間を超えた力が働いているのです。モーセとアロン対ファラオの対決は、単なる人間どうしの対決ではなくて、神様の恵みのみ業によって守られ支えられているこの世を支配し、混乱させ、恵みから引き離そうとしているこの世の力に、神様が立ち向かい、勝利して、この世界を守って下さったという出来事だったのです。

主イエスによる勝利
 本日は共に読まれる新約聖書の箇所として、エフェソの信徒への手紙の第1章15節以下を選びました。ここは、主なる神様が、独り子イエス・キリストにおいて、今申しましたこの世の力と戦い、勝利して下さったことを語っている箇所です。20、21節にこう語られています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。ここには、私たちを支配下に置き、神様から引き離そうとするこの世の様々な支配、権威、勢力、主権あるいは名との、主なる神様の対決、戦いが語られています。神様は主イエス・キリストを復活させ、天においてご自分の右の座に着かせることによって、この戦いに勝利なさったのです。この世には、私たちを支配下に置き、神様から引き離そうとする様々な力がうず巻いています。私たちはそれらの力に誘惑され、捕えられ、翻弄されて、神様の恵みから遠ざかり、罪に陥り、そして神様をも隣人をも憎み、悲しませ、傷つけ、最終的には死の力に支配されていく者です。しかしその私たちのために、主なる神様は独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスはそのご生涯と、とりわけ十字架の苦しみと死において、私たちを支配している罪の力と戦って、勝利して下さったのです。そして父なる神様は、主イエスを捕えた死の力を討ち滅ぼして、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、新しい命に生かして下さったのです。そして神様はこの主イエス・キリストを頭とするキリストの体である教会へと私たちを招き、導いて下さいました。教会において私たちは、聖霊の働きによって心の目を開かれ、主イエスにおいて神様が私たちのために成し遂げて下さった勝利と、それによって私たちに救いを与えて下さる神様の絶大な力を知らされているのです。この世には、私たちを神様の恵みから引き離し、混沌の深淵にひきずり込もうとする蛇がうようよしています。私たちは今週もその蛇たちの中に出かけて行き、その脅かしにさらされつつ歩むのです。しかし、主なる神様は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、既にこれらの蛇に勝利しておられます。この世を支配する蛇は、神様のみ力によって既に飲み込まれているのです。だからそれらが私たちを飲み込んでしまうことはもはやないのです。救い主イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様の勝利が明らかになり、イエス・キリストこそ主である、と全ての人が知るようになる日が必ず来るのです。アロンの杖がエジプトの魔術師たちの杖を飲み込んだという出来事によって、神様が私たちの心の目を開いて下さり、神の招きによってこのような希望が与えられていることを、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせて下さるように、祈りましょう。

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