主日礼拝

つまずかない人は幸い

「つまずかない人は幸い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第7章18―23節
・ 讃美歌:12、169、463

洗礼者ヨハネの問い
 本日ご一緒に読みます新約聖書の箇所、ルカによる福音書第7章18節以下の冒頭に、「ヨハネ」の名前が出てきます。これはいわゆる「洗礼者ヨハネ」のことです。ルカ福音書は、主イエスの誕生の物語に先立って、このヨハネの誕生のことを丁寧に語りました。ヨハネの誕生と主イエスの誕生が織り成されるように語られていたのです。このヨハネは成人して荒れ野に住み、人々に罪の悔い改めを迫りました。彼はヨルダン川で人々に、悔い改めの印としての洗礼を授けたのです。その様子がこの福音書の第3章に語られています。彼は、「わたしより優れた方がこの後来られる。私はその方のために道を整える者に過ぎない」と語りました。つまり彼が悔い改めを説き、洗礼を授けていたのは、「来るべき方」の到来を予告し、人々の心をその方へと向けるためだったのです。しかしヨハネは、領主ヘロデの怒りをかい、牢に閉じ込められてしまったと3章20節にあります。主イエスが活動をお始めになった時、ヨハネは既に獄中に捕えられていたのです。ヨハネのもとにも多くの弟子たちがいました。その人々が、獄中のヨハネに主イエスの活動のことを伝えました。18節に「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」とあります。「これらすべてのこと」とは、主イエスの教えや活動についての全てのことという意味でしょうが、直接には、7章においてこれまで私たちが読んできた、主イエスの一言で百人隊長の僕の重い病が癒されたこと、またナインの町のやもめの一人息子が生き返ったことを指していると言えます。主イエスがこれらの奇跡を行なったことがヨハネに知らされたのです。本日の箇所は、そのヨハネから一つの問いが、二人の弟子たちに託されて主イエスのもとに寄せられたことを語っています。それは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という問いでした。

ヨハネと主イエス
 ヨハネはどうしてこのような問いを主イエスに投げかけたのでしょうか。ルカによる福音書の流れからすると、これは不思議なことだと言えます。ルカは、先ほど申しましたように、ヨハネの誕生と主イエスの誕生を関係づけて語っています。そしてヨハネの母エリサベトと主イエスの母マリアとは親戚であり、いわゆる受胎告知を受けたマリアがヨハネを身ごもっていたエリサベトを訪ねた、ということを語っています。その時エリサベトは、マリアの胎内に宿っている子こそ救い主であるという信仰を言い表わしています。また父ザカリアも、生まれてくる子は救い主の道備えをする者となる、と歌っています。ヨハネは両親のこのような信仰の中で生まれ、この信仰によって育てられたのです。ですから彼は、自分が道を整える「来るべき方」とは主イエスのことだという思いをはっきりと持っていたはずです。マタイ福音書はそのことを語っています。つまり主イエスが洗礼を受けるためにヨハネのもとに来た時、ヨハネは「私こそあなたから洗礼を受けなければならないはずの者なのに、これではあべこべです」と言って思い止まらせようとしたのです。ルカ福音書はヨハネのこういう言葉を語っていませんが、しかしルカの描くヨハネは、主イエスこそ「来るべき方」であることをよく知っていたはずなのです。

ヨハネの信仰告白?弟子たちのための問い?
 このことから、ヨハネが弟子たちに託して主イエスに伝えさせた言葉は、問いではなくて、ヨハネの信仰告白だったと考える人もいます。ヨハネの言葉は、必ずしも疑問文として読まなければならないものではありません。「あなたこそ、来るべき方です。他の誰を待つことがありましょうか」と訳すこともできるのです。つまり後半は、問いの形をとっているけれども、むしろ強調、確信を語る文章、ということです。このように読むなら、ヨハネは獄中から弟子を遣わして、主イエスへのこの信仰告白を語ったのだ、ということになります。あるいは、これを疑問文として読むけれども、それはヨハネ自身が、主イエスこそ「来るべき方」つまり救い主なのかどうかに確信が持てなくなって、動揺して、「本当にあなたを信じてよいのか」と問うてきたのではなくて、これはヨハネが弟子たちを教育しようとして語った問いだ、という解釈もあります。つまりヨハネは、自分では主イエスこそ救い主だと信じており、だから人々が自分に従うのではなくて主イエスにこそ従って行くことを願っているのだけれども、主イエスが現れ活動を始めた今になってもまだヨハネに従っている弟子たちがいる。その弟子たちの中には、ヨハネこそ救い主だと考えている人々もいる。そこで、その弟子たちを主イエスのもとに送り、この問いを語らせることによって、主イエスこそヨハネが予告した来るべき救い主であり、本当に従って行くべきなのはヨハネではく主イエスなのだということを分からせたい、という思いで弟子たちにこの問いを託したのだ、という解釈もあるのです。

ヨハネの動揺
 これらの解釈はいずれも、ルカによる福音書における洗礼者ヨハネの、主イエスの道備えをした人という人物像の首尾一貫性を語っているわけで、それなりに魅力のある解釈だとは思います。けれども私は、これらの解釈はやはり違うだろうと思うのです。別の言い方をすれば、洗礼者ヨハネの人物像にそれほど首尾一貫性を求めなくてもよい、彼が生涯変わることなく、全く動揺することなく、主イエスこそ「来るべき方」、救い主であられるという信仰にしっかりと立ち続けた、と考えなくてもよい、と私は思うのです。ヨハネは今、牢獄の中にいます。権力者ヘロデの一存で捕えられ、監禁され、いつ殺されてしまうか分からない状況にいるのです。実際、ヨハネはこの牢から二度と出ることなく首を切られて殺されてしまいます。マタイ、マルコ福音書はヨハネの最後のエピソードを語っていますが、ルカは、9章7節以下で、彼がヘロデによって首を切られて殺されたという事実のみを伝えています。本日の箇所に語られている出来事からほどなくして、ヨハネは殺されてしまったのです。そのような現実の中で、ヨハネは主イエスの活動について伝え聞きました。そしてこの問いを弟子たちに託したのです。そこにヨハネ自身の切実な問い、あるいは動揺があったと考えることは、決して不自然ではない、むしろ当然のことだと思うのです。

あなたは本当に私の救い主なのか?
 ヨハネはここで何を問うているのでしょうか。言い換えれば、彼の動揺、心の揺れとは何だったのでしょうか。この問いを表面的に読めば、「私が到来を予告し、人々に待ち望み備えるようにと示していた『来るべき方』、救い主とはあなたのことなのですか、それともそれはあなたではなくて、別の救い主をなお待っていなければならないのですか」ということになります。つまり、主イエスは本当に救い主なのか、それとも違うのか、という問いです。けれども、ヨハネの心にある本当の問いは、それとはいささか違うのではないでしょうか。ヨハネが問うているのは、本当の救い主は誰なのか、ではなくて、主イエスよあなたは本当に私の救い主なのか、ということだったのだと思うのです。彼は獄中で主イエスの活動のことを聞きました。主イエスが病気の人を癒したり、死んでしまった人を復活させたことを聞いたのです。主イエスが救い主としてのそのようなすばらしい働きをしておられることを知ることによって、彼の心の中で、かえって一つの問いが大きくなっていきました。それは、このような大きな力を持っている方である主イエスが、それでは自分に対しては何をして下さるのだろうか、という問いです。病人を癒したり死者を復活させることは人間業ではありません。神様の力が主イエスに働いているからこそ出来ることです。だから彼がかねてから語っていた、主イエスこそ「来るべき方」、救い主であられるという信仰は正しかったのです。しかしそうであるとしたら、その救い主、神の力によって奇跡を行い、人々を苦しみ悲しみから解放している主イエスは、今牢獄に捕えられ、いつ殺されるか分からない日々を送っているこの自分に対しては何をして下さるのだろうか、どのような救いをこの自分に与えて下さるのだろうか、ヨハネの問いはそういう意味なのではないでしょうか。この問いは次のように言い換えることができるかもしれません。来るべき方、救い主がいよいよこの世に来られ、現れた、それはつまり神様による救いが既に決定的に始まったということです。しかし今自分は牢に捕えられ、殺されようとしている。このギャップをどう理解したらよいのか。獄中にあり、殺されようとしている、という自分の現実の苦しみと、救い主がこの世に来られた、という喜びの知らせとはどう結びつくのか。このような問いが、ヨハネのこの問いの背後にはあるのではないでしょうか。

私たちの問い
 これはヨハネにとって非常に切実な、深刻な問いです。救い主に先立って遣わされ、その道備えをしたヨハネもまた、このような動揺を体験しているのです。そしてそれは、私たちがしばしば味わう動揺であり、私たちが発する問いでもあると言えるのではないでしょうか。教会の礼拝に集っている私たちは、聖書とその説き明かしである説教を通して、主イエス・キリストこそ私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった救い主であられる、という知らせを聞いています。私たちは直接主イエスにお会いしたわけではなく、その話を伝え聞いているのみです。ヨハネも、少なくとも伝道の活動を始めてからの主イエスには会っていません。直接主イエスのみ言葉を聞いたり、奇跡を見たりはしておらず、弟子たちを通してその話を伝え聞いただけです。そういう意味で獄中のヨハネと私たちとの間にはある共通点があります。そして私たちも、ある意味でヨハネと同じ問いを持つのです。イエス・キリストのみ言葉やみ業は確かにすばらしい、力ある方だということも分かる、しかしこのイエスは、この私に今何をしてくれるのだろうか、この私が今苦しんでいること、抱えている問題、背負っている悲しみに対してどんな救いを与えてくれるのだろうか、人々のための救い主であっても、この私が今切実に苦しんでいる事柄において救いを与えてくれないならば、私のための救い主とは言えないではないか、イエスよ、あなたは本当に私の救い主なのですか、そういう問いを、私たちも抱くのではないでしょうか。洗礼者ヨハネの問いをこのように理解する時に、それは私たちにとって非常に身近な、自分自身の問題となるのです。これをヨハネの信仰告白や、弟子たちの教育のための問い、と解釈するならば、私たちとは関係のない、立派な偉い人の話で終わってしまうでしょう。

主イエスの答え
 さて、このヨハネの切実な、実存のかかった問いに対して主イエスはどうお答えになったのでしょうか。22、23節に、主イエスのお言葉があります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。主イエスは、ヨハネの問いに正面から答えてはおられません。「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに、「そうだ」とも「違う」ともお答えになっていないのです。その代わりに主イエスがヨハネに伝えなさいと言っておられるのは、この弟子たちが見聞きしたことです。21節には、丁度その時にも、主イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、目の見えない人を見えるようにしておられたところだったと語られています。あなたがたが見聞きしたこれらのことをヨハネに伝えなさいと言われたのです。主イエスご自身がそれをまとめておられます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。私がこれらのことを行なっていることをあなたがたは見聞きしている、それをそのままヨハネに伝えなさいと主イエスはおっしゃったのです。

主イエスのみ業
 「目の見えない人は歩き」から「耳の聞こえない人は聞こえ」までは、病気や障碍の癒しのみ業です。これらは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第35章の8節以下に語られていることの実現であると言えます。このイザヤ書35章は、主なる神様によって完成する救いの有り様を描いているところです。神様による救いが完成する時、人間の現在の病や障碍などの苦しみの全てが解消され、喜びと平和に満ちた世界が実現するのです。主イエスのみ業によってこの救いの完成が既に始まっているのです。そしてこれらの癒しのみ業をしめくくるのが「死者は生き返り」です。病や障碍の行きつく先は死です。人間を支配している病などの苦しみからの救いは、究極的には死の支配からの解放、復活なのです。その救いが主イエスによってもたらされている、それはこの直前の11~17節の、やもめの一人息子の復活の話において語られたことです。そのことをヨハネに伝えよと言われているのです。

貧しい人は福音を告げ知らされている
 これらの病の癒しや死者の復活をさらにしめくくる形で、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と語られています。福音が告げ知らされること、それこそが、主イエスによってもたらされている救いの中心なのです。そこには、主イエスによって語られたみ言葉、教えが含まれています。数々の奇跡、癒しのみ業も、この福音を告げ知らせるためになされたのです。貧しい人に福音を告げ知らせることこそ、父なる神様が主イエスをこの世にお遣わしになった目的です。そのことは、4章18、19節の、ナザレの会堂で主イエスが朗読なさった聖書の言葉にも記されていました。4章18、19節。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。この言葉を朗読した後、主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになったのです。神様が、貧しい人、苦しみや悲しみの中にある人に、救いの到来を告げる福音、喜びのおとずれを知らせて下さる、そのことが主イエスによって実現しているのです。このことをヨハネに伝えなさい、と主イエスはおっしゃったのです。

わたしにつまずかない人は幸いである
 しかし、先ほども申しましたように、これらは、ヨハネの問いに対する正面からの答えではありません。これらのことは、ヨハネも既に弟子たちからの報告を聞いて知っているのです。そして先ほど見たように、ヨハネの思いの深みを見つめるならば、人々が病を癒されたり、死んだ者が復活したりしていることは分かった、しかし、この私、今獄に捕えられ、まさに殺されそうになっているこの私に対して、主イエスよあなたは何をして下さるのか、という問いがここにはあるのです。この問いへの答えは、これらのことによってはまだ与えられていないのです。
 主イエスがヨハネのこの切実な問い、彼の心の底からの叫びに向き合い、お答えになった言葉は、23節の、「わたしにつまずかない人は幸いである」というお言葉だと思います。つまずく、という言葉は聖書において、信仰に関わる言葉として用いられています。それは神様を信じることができなくなってしまうこと、信仰を失ってしまうことを意味していますが、そのつまずきには二種類あります。一つは、私たちが人をつまずかせてしまう場合、つまり人を傷付けてたりすることによって、その人が信仰を失い、神様への信頼を失ってしまうような場合です。もう一つは、私たちが主イエスにつまずき、信じることができなくなる、主イエスを受け入れることができなくなるというつまずきです。この箇所では勿論私たちが「つまずく」ことが見つめられています。主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れ、信頼することができなくなる、というつまずきの危機の中に、今ヨハネはいるのです。私たちも、「イエスよ、あなたは本当に私の救い主なのですか。今苦しみ悲しんでいる私に、あなたは何をして下さるのですか」という問いを抱く時、ヨハネと同じように、主イエスにつまずく危機に直面しているのです。

つまずきを乗り越える道
 これは信仰にとって深刻な、重大な危機です。主イエスはこのつまずきの深刻さをよく理解しておられます。そして、このつまずきを乗り越える道がどこにあるのかもご存じなのです。このつまずきは、主イエスこそが救い主であられることをあの手この手で証明して見せることによって乗り越えられるものではありません。また、私はあなたのその苦しみに対してこういう救いを与える、あなたの抱えている問題をこのように解決する、ということを示すことによって乗り越えられるのでもありません。主イエスのみ業、その中心は、貧しい人、苦しみや悲しみ、弱さの中にいる人が、福音を、神様の救いの到来を告げ知らされ、その事実を体験している、そのことをありのままに示すことにしか、このつまずきを乗り越える道はないのです。しかし主イエスのみ業が示されればそれでつまずきが乗り越えられるわけではありません。主イエスの救いのみ業と自分の苦しみの現実はどう関係するのか、この私のこの苦しみをどうしてくれるのか、という問いはなお残るのです。しかしその中で主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語りかけておられるのです。これは私たちに対する問いかけでもあります。あなたは、私が行なった業によって貧しい人々に福音が告げ知らされているという事実の中に、あなた自身の救いを見るのか、それとも、自分が今具体的に抱えている問題が自分の願うように解決されることにしか神の救いはないと考え、私をあなたの救い主とは認めないのか、という問いです。この問いに対して、自分の問題の解決のみが救いだ、と答えるなら、私たちは主イエスにつまずくのです。しかし、主イエスによって実現した事柄の中に自分の救いがあると信じるなら、私たちはつまずきを乗り越えて主イエスの救いにあずかることができるのです。主イエスのこの問いかけの前に立ち、それに答えることにしか、私たちがつまずきを乗り越える道はないことを、主イエスはご存じなのです。

幸いへの招き
 「わたしにつまずかない人は幸いである」と主イエスはおっしゃいました。このお言葉は、私たちへの問いかけであると同時に、「幸いである」という祝福のお言葉でもあります。主イエスのみ業、主イエスが成し遂げて下さったことの中に自分の救いがあることを信じ、受け入れる者は幸いだ、ということです。主イエスが成し遂げて下さったこと、それは、神様の恵みによる救いの知らせである福音を告げ知らせることです。その印として、病が癒されたり、死者が復活するという奇跡が起りました。しかし主イエスによって成し遂げられた最大のみ業、最大の奇跡は、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことであり、主イエスを捕えた死の力を父なる神様が打ち破って主イエスを復活させて下さったことです。この主イエスの十字架と復活において、私たちに対する神様の救いが、私たちを罪と死の支配から解放し、神の子として新しく生かして下さる恵みが実現しているのです。ここに神様の救いを見つめることができる者は幸いです。ここに実現している救いは、私たちがこの世の人生において体験する様々な具体的な苦しみや悲しみ、人間の力ではどうすることもできない困難、行き詰まり、挫折の中で、私たちを支え、生かし、希望を与えるものだからです。その希望は、この人生を越えた、死の彼方にまで及ぶ、永遠の命の希望です。ヨハネは、獄中で首を切られて死にました。しかし彼は、「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスのみ言葉によって、つまずきを乗り越え、主イエスが成し遂げて下さる救いと、永遠の命への希望の中で、幸いな者、神様の祝福を与えられている者として生涯を歩み通すことができたのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」というみ言葉によって、私たちも、この世のいかなる苦しみ悲しみによっても失われない、死の力にも打ち勝つまことの幸いへと招かれているのです。

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