夕礼拝

なぜ殺してはならないのか

「なぜ殺してはならないのか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章21-26節
・ 讃美歌 : 120、469

容易い戒め?
 「殺してはならない」という十戒の第六の戒めからみ言葉に聞きたいと思います。私たちは、この戒めは十戒の中で最も守るのが簡単だ、と感じているかもしれません。他の戒め、例えば先月読んだ「父母を敬え」については、それがなかなか十分にできていない現実があると感じる、あるいは次の「姦淫してはならない」も、それを破ってしまいそうな衝動にかられることがあったりする、それに比べて、「殺してはならない」という戒めは、これまで一度も破ったことはないし、これからも、普通に生活していけば破ることはないだろうと私たちは思っているのではないでしょうか。しかし他方で、世の中の常識でもあり、法律でも定められているこの戒めが、いとも簡単に破られており、殺人事件が毎日のように起っているという現実をも私たちは見ています。それはいったいどういうことなのだろうか。どうしてこんなことになっているのだろうかととまどいを覚えずにはおれません。そのような現実の中で、この第六の戒めは私たちに何を語りかけているのでしょうか。

「不殺生戒」との違い
 この戒めについて、最初に一つ確認しておかなければならないことがあります。それは、この戒めと、仏教における、殺生を禁じる戒め、いわゆる「不殺生戒」との違いです。殺してはならないという教えは仏教にもあるのです。私たちの感覚には、むしろこの仏教の教えの方がしみついているのかもしれません。仏教における「不殺生戒」とは、全ての生き物、生きとし生けるものの命を奪ってはならない、ということです。それに対して十戒の「殺してはならない」は、人間を殺すこと、殺人の禁止です。仏教においては動物を殺すことも人間を殺すことも同じレベルで捉えられています。ですから、仏教的感覚の中では、肉や魚を食べることにもあるうしろめたさ、申し訳ないという感覚が伴うのです。浜では鰯の大漁を祝っているが、海の中では鰯の仲間が葬式をしている、という内容の詩を読んだことがありますが、まさにそういう感覚が「不殺生戒」と結びついているのです。しかし聖書からはそういう感覚は生まれません。聖書においては、動物の肉は神様が人間を養うために食物として与えて下さっているものですから、勿論乱獲はいけないけれども、適度にそれらをとって、感謝をもって食べればよいのです。聖書は、人間とその他の動物との間に決定的な違いを見ているのであって、「殺してはならない」という戒めは、もっぱら人間のことなのです。

人間関係についての戒め
 それは別の言い方をすれば、この戒めが問題にしているのは、私たちの人間関係なのだということです。人と人との交わりがどのようなものであるべきかがここに教えられ、示されているのです。十戒は前半と後半に分けられ、前半には神様との関係についての教え、後半には人間どうしの関係についての教えが語られている、ということを学んできています。そして一般的な理解においては、前回の第五の戒め、「父母を敬え」から後半の人間関係についての教えに入ると言われています。しかし先月申しましたように、第五の戒めは、前半の、神様との関係を教える部分に属するという考え方も成り立ちます。そのように考えるなら、本日の第六の戒めが後半の人間関係についての教えの冒頭にある、ということになります。「殺してはならない」ということこそが、人間どうしの関係の基本だ、と言うこともできるのです。

なぜ人を殺してはならないのか
 そもそもなぜ、人を殺してはならないのでしょうか。しばらく前にそういうタイトルの本が出て話題になりました。世間において、なぜ人を殺してはならないのか、という問いに対する答えとして語られるのは、「一人の人間の命は地球よりも重い」ということだったり、命は一度失われたら取り戻すことができない、ということだったりします。しかしそれに対しては、先ほどの仏教的感覚からすれば、人間の命の重さと、牛や豚の命の重さはどう違うのか、という問いが生じるでしょう。失われたら取り戻すことができないのは動物の命も同じなのに、どうして人間を殺すことだけが罪になるのでしょうか。「誰でも自分が命を奪われることはいやだ、だから人にもそうういことをしてはいけないのだ」とも言われます。しかしそれなら、死にたいと思っている人なら殺してもよいのでしょうか。他人ではなく自分を殺す自殺ならよいのでしょうか。改めて考えてみると、「なぜ殺してはならないのか」という問いに十分納得のいく答えをすることは大変難しいことなのです。

神にかたどって造られた人間
 十戒が「殺してはならない」と言う時、その根拠は、人間の常識や感覚ではありません。十戒は神様のみ言葉なのであって、根拠は神様のみ心です。その神様のみ心は、創世記の第9章6節に示されています。ここは「ノアの洪水」の後、神様が人間を祝福して下さった言葉ですが、6節にこうあります。「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。「人の血を流す」それは殺すということです。人を殺す者は人に殺される、つまり人を殺してはならないということです。その理由は、「人は神にかたどって造られたからだ」と言われています。神様は人間を、ご自分にかたどって、似せてお造りになったのです。その「かたどって」とか「似せて」というのは、外面的な形のことではありません。その意味は、神様との交わりを持つことができる者、神様の相手として、ということです。人間は、神様の相手、パートナーとして造られたのです。聖書はそこに、他の動物たちとは違う人間の特別性、人間の尊厳を見つめています。人間の命が他の動物の命と違って地球よりも重いのは、人間が他の動物よりも特別に優れているからではなくて、神様が人間を、ご自身との交わりの相手としてお造りになったからなのです。だから、人を殺してはならないのです。人を殺すことは、その人を相手としてお造りになった神様のみ心を踏みにじることなのです。人間の命は、神様が彼をご自分の相手とし、交わりを持つためにお与えになったものなのですから、それを奪い、殺すことは、その人を生かしておられる神様のみ心に反逆することなのです。要するに、人間の命は神様がお与えになった神様のものだ、ということです。だから、自殺も含めて、いかなる殺人も禁じられているのです。

人間関係の主人は誰か
 そしてこのことが、先ほど申しましたように、私たちの人間関係の基本なのです。「殺してはならない」という戒めによって神様は、私たちの人間関係、交わりが、「人の命は神様のものであるから、人間はこれを奪ってはならない、自分のであれ他人のであれ、与えられている命を大切にしなければならない」ということを基本、土台として営まれていくことを求めておられるのです。つまり、私たちの全ての人間関係は、神様こそが主人である、という土台の上に築かれていかなければならないのです。このことを無視して、人間関係において自分が主人になってしまおうとすること、それが人間の罪です。その罪が殺人を生むのです。創世記は最初の人間アダムとエバの息子たちの間で最初の殺人が起ったことを語っています。第4章の「カインとアベル」の物語です。カインとアベルは共に、自分が働いて得た産物を神様に捧げました。しかし神様は、アベルの捧げものを喜んで受け入れましたが、カインの捧げものはお受けになりませんでした。そこに、人間どうし、共に生きている兄弟どうしの間で、ある人がある人よりも恵まれ、うまくいく人といかない人という違いが生じる、という事態が描かれています。カインはそのことによって、自分よりも恵まれ、うまくいっているアベルに対して嫉妬、ねたみを抱き、怒り、弟アベルを殺したのです。カインの怒り、嫉妬の思いは私たちにもよく分かります。どうしてあの人はあんなに恵まれているのに、自分はうまくいかないのか、あの人と自分の間にどんな違いがあると言うのか、という思いは私たちをしばしば苦しめます。けれどもそこでカインがしてしまったことは、そのような人間関係における不公平、トラブルから生じる不満、怒りを、自分で清算してしまったということです。カインは、弟との関係に自分で決着をつけてしまった、自分がその関係の主人になってしまったのです。そこに弟殺しという殺人が起ったのです。私たちが、人との関係において、例えば嫉妬の思いにかられて何かを語り行う時、このカインと同じことをしているのではないでしょうか。人との関係の中で自分が主人になって、自分の怒りや悔しさの決着をつけようとする時、私たちはこの交わり、関係の主人が神様であり、自分が怒りを覚え、憎しみを覚えてしまっているその相手の命もまた神様のものであることを忘れてしまうのではないでしょうか。その結果、私たちの交わり、人間関係は壊れ、失われていくのです。そのことは既に「殺してはならない」という神様の戒めに反することであり、実際に人を殺すことと本質的には同じことがなされているのです。

主イエスの教え
 この戒めの持っているそのような広がりを、主イエスはマタイによる福音書第5章21節以下で語っておられます。本日共に読まれた箇所です。その21、22節にこのようにあります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。兄弟に腹を立てること、「愚か者」と言うこと、それらは全て人を殺すことと同じだ、と主イエスはおっしゃるのです。人との交わりにおける、怒り、人を見下し蔑む言葉、悪意ある非難の言葉、陰でささやかれる批判、中傷の言葉、それらの全ては、私たちが交わりの主人を取り違えていることの印です。この交わりの主人は神様であり、私たちが交わりを持っている全ての人の命も神様のものであり、神様が生かしておられるのだから、その命を損ない、傷つけることは神様に対する反逆なのだということが忘れ去られ、自分の怒り、嫉妬、悪意、批判の思いが神様に代わって主人となってしまっているのです。そういう私たちの思いや言葉や行動によって、人間関係はおかしくなり、崩壊していくのです。物理的に人を殺す殺人は、そのような思いや言葉の延長線上にあるのであって、本質的には同じことが既になされているのです。この主イエスのお言葉を読むならば、私たちはもはや、「自分はこの戒めを破ったことはない」などと言うことはできないでしょう。この第六の戒めは、普通に生活をしていれば自然に守ることができるような容易いものでは実はなくて、むしろ私たちは日々これを破り、人を殺している者なのだと言わざるを得ないのです。

良い交わりを築く
 「殺してはならない」という戒めのこのような広がりを示すことによって、主イエスは私たちに、単に殺人の罪を犯すなということだけではなくて、私たちの日々の人間関係、交わりが、神様を本当に主人として整えられていくことを求めておられるのです。私たちの交わりを支配しなければならないのは、私たちの怒りや嫉妬や悪意や批判の思いではなくて、神様が私たち一人一人を、ご自分に似せて、神様と交わりを持つことができる相手として造って下さった、その神様の恵みのみ心なのです。その神様が私たちの人間関係の主人となって下さることによってこそ、私たちの交わりは、人を傷つけ、殺すようなものではなくて、お互いに相手を生かし合うことができるものとなるのです。マタイ福音書5章の続きはこうなっています。23節~26節。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。勧められているのは「和解」です。仲直りです。失われた交わりを回復し、新しい良い交わりを作り出すことです。「殺してはならない」という戒めは、そういう積極的な広がりを持っているのです。この戒めを本当に守ることは、人を殺さない、人の命を損なうような、怒りや悪意による言葉を語らないということのみでなく、むしろ人と本当に良い交わりを結んでいくこと、和解すること、お互いを生かし合う祝福された関係を築いていくことなのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、この戒めの解説において、このことを次のように言い表しています。問107「しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか」。答「いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです」。この文章もよく味わうべきものです。「殺してはならない」という戒めによって神様が断罪しておられるのは、殺人という外面的な罪だけでなく、むしろ私たちの心の中でそれを生み出していく「ねたみ、憎しみ、怒り」の思いです。そして神様が私たちに望んでおられるのは、隣人を自分自身のように愛し、隣人に対して忍耐強くあり、平和を作り出し、寛容、慈愛、親切を示していくことであり、敵と思える人に対しても善を行うこと、悪をもって悪に報いることをせず、善をもって悪に勝ち、和解と良い交わりを実現していこうとすることなのです。私たちの人間関係の主人が神様ならば、そういう交わりが築かれていきます。そうなっていないならばそれは、私たちの交わりにおいて、依然として私たちの嫉妬や怒りや憎しみが支配しており、人を殺すことがそこで行われているのです。

罪の赦しの恵みの中で
 私たちの実際の交わり、人間関係はどうでしょうか。「カインの末裔」と言いますが、まさに私たちはカインと同じように、自分の嫉妬や憎しみや怒りに支配され、神様を自分たちの交わりの主人とせずに、自分がその主人になろうとしています。そのために、心の中で毎日のように殺人を繰り返しているのです。「殺してはならない」という戒めは、そういう私たちの罪を明らかに示し、悔い改めを求めています。しかし私たちは、この人を殺す罪からどのようにして逃れ、抜け出すことができるのでしょうか。カインの末裔である私たちに、救いはあるのでしょうか。カインの物語において、神様は、殺人を犯し、地上の放浪者とならなければならなかったカインに、一つのしるしをお付けになりました。それは、彼に出会う人がだれも彼を撃ち殺すことのないためのしるしです。神様は、殺人の罪を犯したカインの命を、そのしるしによって守られたのです。そのことが示しているのは、罪人に対する神様の赦しの恵みです。神様は、人を殺してしまう罪人に対しても、その命を大切に守って下さる方なのです。カインにつけられたこのしるしは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを指し示しています。カインの末裔である私たちが、人を殺す罪から解放されるとしたら、それはこの「罪の赦し」による以外にはありません。主イエス・キリストは、日々人を殺しつつ生きている私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、人を殺す罪の思いをどうしようもなく抱いてしまう私たちが、赦され、神様の救いにあずかるのです。この主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって、私たちは、隣人に対する嫉妬や憎しみや怒りや批判の思いから解放されるのです。そしてこの主イエスの父なる神様を、自分たちの交わりの主人としてお迎えすることができるのです。その時私たちの心は隣人に対して開かれ、隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、良い交わりを築いていくことができるのです。

社会の問題に対して
 「殺してはならない」という戒めは、このように豊かな広がりをもって私たちの歩みを照らす道標です。この戒めの本当の意味と豊かさと広がりは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ明らかになります。その救いの恵みの中でこそこの戒めは、私たちの心の奥深くにある、人に対する怒りや嫉妬や憎しみの思いに光を投げかけ、そしてその罪の赦しをいただいて新しく生きる私たちの生活を導く道標となるのです。しかしこの戒めはそのように私たち一人一人の心の中、内面を照らし、一人一人の生活の道標となるだけではありません。この戒めは、私たちが築く社会の姿、そこにおける人間のあり方にも光を投げかけ、道標となります。それはこのように言うこともできます。この戒めは、私たちが自分に与えられている人間関係において、神様こそが主人であられることを覚え、それに基づいて交わりを築いていくことを求めていると先ほど申しました。その私たちの人間関係の範囲を、家族、親しい友人たち、知人たち、と次第に広げていくことによって見えてくるのが、私たちの生きるこの社会なのです。この戒めは、社会という広い人間関係もまた、神様が主人であられるという土台の上に築かれていくべきことを教えているのです。そのことを見つめていく時に、この戒めはこの社会の様々な問題を私たちが考え、関わっていくための道標となります。「殺してはならない」という戒めと直接間接に関わる社会の問題は数多くあるのです。先ほど少し触れたのは自殺の問題です。毎年三万人もの人々が自ら命を断っているというこの社会において、私たちはこの戒めを真剣に受け止めなければなりません。自分の命も他者の命も共に、神様のもの、神様に与えられたものとして大切に思い合えるような人間関係を築くために、また一人一人が本当にそのように思えるような社会を築くために努力していくことが求められているのです。またこの戒めは、妊娠中絶の問題や死刑制度の問題、さらには戦争の問題とも深く関わってきます。これらの一つ一つの問題について、この戒めから導き出される結論は一つではありません。例えばこの戒めから、だから戦争は絶対にいけない、と簡単に言うことはできないのです。現にこの戒めを持ちつつイスラエルの民は戦争を繰り返してきました。キリスト教の歴史においても、この戒めが戦争を禁止しているとは理解されてきませんでした。つまりこの戒めは個人の間での殺人について語っているのであって、国家間の戦争については語られていないと理解されてきたのです。それを間違った解釈だと決めつけることはできません。しかし今日、核兵器に代表されるように、戦争の及ぼす影響は昔とは比較にならないくらい増大しています。そういう状況の中で、「殺してはならない」という戒めを私たちは新たに受け止め直す必要があると言えるでしょう。さらには今日では、主権国家どうしの戦争とは全く違う形での戦いが世界各地で起っています。戦争とは何か、ということ自体が変ってきているのです。そういう新たな状況に直面している私たちが、これからの世界のあり方を考えていく上で、立つべきしっかりとした土台となるもの、それが「殺してはならない」というこの第六の戒めであると言えるでしょう。

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