主日礼拝

洗礼を受ける主

「洗礼を受ける主」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章1-7節
・ 新約聖書: マルコによる福音書第1章9-11節
・ 讃美歌:6、538、277

イエスは来た
 本日はマルコによる福音書の第1章9節から11節までの御言葉を共に聞きたいと思います。聖書における福音書の主人公と言うのは主イエス・キリストです。けれども、マルコによる福音書第1章から8節までのところで洗礼者ヨハネのことが書かれております。洗礼者ヨハネが旧約聖書に預言されていたように、救い主の道備えをする者として現れて、人々に洗礼を授ける活動をした、ということが語られてきたのです。そしてヨハネは自分よりも優れた方、聖霊で洗礼をお授けになる方が、後から来られると予告をしました。それは勿論、主イエスのことです。ヨハネはこのように、人々の心を、これから登場する主イエスへと向けさせ、主イエスを迎える準備をさせるという働きをしたのです。そのような準備を経て、いよいよ本日の9節から、主イエスが登場します。いよいよ主人公が登場するのです。マルコによる福音書において、福音書記者マルコはこれから描く主イエス・キリストをこのように紹介しております。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来てヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」原文ではもっとおごそかな言い回しになっております。直訳をすると「そして起こった、その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て」とあります。この冒頭の「そして起こった」という言葉に注目したいのです。イエスがガリラヤのナザレから来る、ということが起こった、そこに一つの大事な出来事が起こっている、という意識がこの言葉には込められております。マルコは何気なく主イエスの登場を語っているのではないのです。まさにこのことによって、1節にあるように「神の子イエス・キリストの福音」が始まった、そのような大事な出来事として、イエスがお育ちになった町ナザレから来た、ということを語っているのです。「イエスは来た」。それはどこへ来たのでしょうか。マルコによる福音書には、いわゆるクリスマスの出来事は語られておりません。他の福音書のマタイによる福音書とルカによる福音書は、主イエスがこの世にお生まれになったこと、しかもそれが、神様の御業であり、神様の独り子が人間となってこの世に来て下さったという恵みの出来事であったことを、物語として描き出しています。つまり、主イエスがその誕生においてこの世に来られた、ということを見つめているのです。けれどもマルコによる福音書ではそのようなことを語られていません。イエスがどのように誕生したか、また洗礼を受けるまでの日々をどのように過ごされたのか、と言うことを描いても良いかと思われます。けれどもそのようなことについては何も語っていないのです。マルコが「イエスは来た」という出来事として見つめているのは、その誕生ではなく、主イエスがどこへ来たのか、と言うことを見つめております。主イエスは、ガリラヤのナザレから、ヨルダン川で洗礼を受けるためにヨハネのところへ来たのです。そして洗礼を受けられたのです。マルコにとって、主イエスが洗礼を受けられたこ出来事こそ、「イエスは来た」というおごそかな出来事が起こった。マルコはそのように語っているのです。

この世に来られた
 主イエスはヨハネから洗礼を受けるために来られた。これは大変、謎のようなことです。ヨハネが授けていた洗礼と言うのは、4節にあるように「罪を赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。人々は、ヨハネのところに来て、自分の罪を言い表し、その赦しを願って洗礼を受けたのです。そのような罪人が受ける洗礼を、神の子である主イエスが受けるとはどういうことでしょうか。またヨハネはイエスのことを「自分よりも優れた方であり、自分はかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、自分が授けているような水の洗礼ではなくて、聖霊による洗礼を授ける方だ」とこのように語ったのです。ヨハネよりも優れた方であり、むしろ洗礼を授けるべきお方である主イエスがヨハネから水による洗礼を受けた。本来ならば立場は反対のはずなのです。主イエスがヨハネから洗礼を受けられたという事実は、教会の最初の頃から、信仰者たちを悩ませてきました。マタイによる福音書では、主イエスがヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に来られた時、洗礼者ヨハネは慌ててイエスを思いとどまらせようとしました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに。」と言う言葉から分かります。主イエスを神の子、救い主と信じる者たちにとって、主イエスが洗礼を受けられたと言う事実は謎に満ちていたのです。そのような謎に満ちた出来事をマルコはあえて、正面に据えているのです。主イエスが洗礼を受けられた出来事にこそ意味がある、としたのです。このことこそ、主イエスの、私たちのこの世界への登場である、とマルコによる福音書は語っているのです。

天が裂けて
 主イエスが洗礼を受けられたということを、マルコはどのように受け止めているのでしょうか。その手がかりは、主イエスの受洗の直後に起こったことの中にあります。主イエスが「水の中からあがるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になった。」とあります。「水の中からあがると」というのは、当時の洗礼は、全身を川の水につける、というものだったからです。すると、すぐとあります。この言葉は、洗礼とその後の出来事とが結びついていることを語っています。その後の出来事というのは、「天が裂けて、霊が鳩のように主イエスの上に降ってきた」ということです。「天が裂ける」というのは、イザヤ書63章19節に出て来る言葉です。「あなたの統治を受けられなくなってから あなたの御名で呼ばれない者となってから わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」とあります。「どうか、天を裂いて降ってください」というこのような祈り願いがあります。その願いは苦しみの中から発せられています。「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。」とあります。主なる神様とは違う力が、既に長い間自分達を支配している、神様の御名によって呼ばれる、神様の民としての歩みを奪われてしまっている、それは即ち、天が閉ざされて、神様との交わりが失われてしまっている苦しみです。そのような苦しみの中であります。神様に祈り願い、どうか天を裂いて降ってください、私たちをもう一度統治して下さい、私たちをあなたの民として下さい、と祈り願っているのです。「天が裂けて、霊が鳩のように降った」という言葉は、この祈り願いがかなえられたことを表しています。「霊」は神様の霊、聖霊です。その霊が鳩になぞらえられるのは、創世記1章2節に由来することです。そこには、「神の霊が水の面を動いていた」とありますが、この「動いていた」というのは、鳥が羽を広げて動くという言葉です。天地創造において、聖霊が鳥のように降り、地を覆っていた、その聖霊の働きの下で地は次第に秩序ある世界へと形造られていったのです。またこの鳩は、創世記8章において、ノアの洪水の話の中に出てきます。ノアが箱舟から鳩を放った、すると鳩はオリーブの葉をくわえて戻って来た、それによって神様の怒りの水が引き、新しい地が現れ始めたことがわかった、という話です。今見た二つの箇所のいずれも、神様が新しい恵みの御業をして下さる、という場面に、鳥、鳩が登場してくるのです。霊が鳩のように降ったのも、このような、神様の恵みの御業が、今新しく始まろうとしているということを表していると言えるでしょう。主イエスの洗礼において神様の新しい恵みの御業が始められている。その霊が降ったのは、主イエスの上にその霊が降ったのです。神様の新しい恵みの御業は、主イエスにおいて始まったのです。この時、主イエスの上に降った聖霊によって、後に主イエスは聖霊による洗礼を授けて下さるのです。それが、8節のヨハネによって預言されていたことであり、ペンテコステの出来事、教会の誕生において実現したのです。ペンテコステに至る恵みが、今この主イエスの受洗において、主イエスの上に聖霊が降ることにおいて始まったのです。そして更に11節には聖霊が降ると同時に、天から主イエスに語りかける声が聞こえた、ということが記されています。聖霊が降ったことによって、主イエスは特別な使命、任務へと立てられたのです。その使命、任務の内容が、この天からの声によって明らかにされているのです。

わたしの愛する子
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの語りかけは、いくつかの旧約聖書の言葉をその背景に持っていると思われます。「あなたはわたしの愛する子」という言葉については二つの箇所が考えられます。一つは詩編の第2編の7節です。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。』」この詩は、王様の即位の時に歌われたものです。神様が王の即位において、その王を「お前はわたしの子」と呼んで下さる、それによって、王はその国を支配する権威を神から与えられるのです。この箇所からこの言葉を理解するならば、主イエスはこの時、聖霊を与えられて、まことの王として立てられた、主イエスによって、神様の恵みのご支配が確立するのだ、ということになります。それは、先ほどのイザヤ書63章19節の「天を裂いて降ってください」という願いの実現ともつながることです。しかし、この詩編第2編7節には「愛する」という言葉はありません。それは、もう一つの箇所から来ているものと思われます。それは創世記22章2節です。創世記22章というのは、イスラエルの民の先祖アブラハムが、ようやく与えられた一人の子イサクを、「焼き尽くす献げ物」として献げよ、と神様に命じられたという場面です。その時、神様は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを献げよ」とお命じになったのです。「愛する子」という言葉は、このアブラハムの話を思い起こさせます。神様は本日の箇所においても、主イエスに「あなたは、アブラハムにとってのイサクのように、私の愛する独り子だ」と語りかけられたのです。そしてそれは同時にアブラハムがその最愛の独り子イサクを殺して献げなければならない、という苦しみを受けたように、神様が独り子イエスの命を犠牲にするという苦しみを背負われる、ということを示しています。アブラハムの場合は、神様が最終的には、イサクの身代わりの子羊を備えて下さったのです。けれども神様の独り子主イエスは、むしろ私たち罪人の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さったのです。

わたしの心に適う者
 後半の「わたしの心に適う者」という言葉についてです。この言葉の背景にあるのは、先ほどお読み頂いたイザヤ書の42章です。1節にはこのようにあります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」とあります。「わたしの心に適う者」という言葉は、この「わたしが喜び迎える者」から来ているのです。このイザヤ書42章は「主の僕の歌」と呼ばれる一連の詩が集まる箇所です。このイザヤ書42章は「第二イザヤ」と呼ばれる預言者の「捕囚の民」に宛てられている言葉であります。遠くバビロンに連れ去られて、そこで捕らわれの身であり、捕囚の憂き目にあっている人々への言葉であります。そのような捕らわれた人々に「神の僕」について語るのです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」悪しき支配を打ち砕く、そして神の民を解放する、神の正義を国々の間に樹立すると、言うのです。このような救い主こそ、人々が期待する救い主、神の僕であると、捕囚の民は思ったことでしょう。けれども、続く2節よりこのようにあります。「彼は叫ばす、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」悪しき力、支配に対して、武力でもって解放をもたらす救い主と言うのは、誰もが期待をし、考えつく救い主であります。けれどもこの神の僕は、人々が思い描く救い主とは全く異なるものでありました。力をもって力を制するのではなく、弱い者の弱さを担いながら、けれども人の目には見えない、最も深いところで、確実に神の救いの御業を遂行するのであります。この神の僕によって、神の救いの歴史が始められて、そして担われていくのです。この神の僕こそ、神が選び、御心に適った者として喜び、その者の上に、神の霊が注がれるのです。神の霊が注がれる方こそ「神の僕」なのであります。この時、解放されようとしている捕囚の民はまさに「傷ついた葦」のようでありました。「暗くなってゆく灯心」そのものではなかったでしょうか。傷ついた葦を力ずくで引き抜いて、別の場所に移し変えようとすれば、かえって傷口は広がり、すぐに息絶えてしまうでありましょう。今にも消えそうな灯心に、少しでも強い風が吹いたならば、たちどころに火は消えてしまうでありましょう。捕囚の中にいる人間はまさにそのような傷ついた葦であり、暗くなっていく灯心のような存在なのであります。そのような傷つき易い、消えそうな人間を生かし、慰め、癒す中で救いを齎す道を切り開いて下さった方が神の僕であります。捕らわれの中にいる全ての民に対する、神のなさる救いの業であります。

神の僕
 民の救いのための、主なる神様の御心を行う僕が立てられ、その働きによって救いが成し遂げられていく、ということが歌われていくのです。続いて「彼の上にわたしの霊は置かれ」とあるように、神様の霊がその人の上に降って、その人が神様の御心に適う主の僕として立てられるのです。このことを前提にして読めば、「わたしの心に適う者」という言葉は、主イエスの上に聖霊が降ることによって、主イエスがこの「主の僕」として立てられたことを語っていると言うことができるのです。その主の僕はどのように神様の御心を行なっていくのでしょうか。「主の僕の歌」のクライマックスはイザヤ書53章です。主の僕は、人々の罪を背負って苦しみを受け、殺される、私たちの思い描く救い主ではなく、人々の罪を背負って苦しみを受け、殺されることによって自らの贖いの献げ物としてささげるのです。その犠牲によって、私たちに平和といやしとを与えられるのです。主イエスはまさにこのような「主の僕」として立てられました。聖霊によって与えられた主イエスの使命、任務は人々の罪のためにご自分を犠牲として献げ、贖いの御業を成し遂げるということだったのです。主イエスが洗礼を受けられた時に響いたこの天からの声は、主イエスをそのような「主の僕」として立て、その使命を与えたのであります。主イエスは与えられた使命に進まれました。それは十字架への死へと向かう歩みであります。

一つとなって
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、主イエスが神様の愛する独り子であられ、その独り子が私たちの罪を背負って身代わりとなってご自身を犠牲にして下さるということ、その神様の独り子の犠牲による贖い、罪の赦しこそが、神様が私たちに与えて下さる新しい恵みの御業なのであるということを言い表しているのであります。主イエスは聖霊によって、そのような新しい恵みの御業を行なう使命へと立てられたのであります。神様の愛する独り子が、私たちの罪の赦しのためにご自分の命を犠牲にして下さる贖い主として登場したのであります。
 主イエスは、ご自分のために洗礼を受ける必要はありませんでした。ヨハネの言葉にもあるように、むしろ洗礼を授けるべきお方なのです。けれどもその主イエスが「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をお受けになったのは、主の僕としての使命を引き受けるためでした。先ほどのイザヤ書53章の12節に「彼は罪人のひとりに数えられた」という言葉があります。主の僕は、自分は罪のない者であるのに、人々の引き受け、罪人として裁きを受けるのです。彼が罪人のひとりに数えられることによって、本来罪人である私たちが、赦され、救われるのです。主イエスが洗礼をお受けになったのは、主イエスがご自身を悔い改めるべき罪人の立場に置き、罪人の独りになって下さった、わたしたちと一つになって下さったということなのです。主イエスはそのような方として、この世に来られ、洗礼を受けられたのであります。主イエスが洗礼を受けて下さった、そこに私たちの福音の初めがあるのです。その福音は主イエスのご生涯において、十字架の死と復活において、完成をされたのです。その主イエスによって完成された救いに与るために、私たちは洗礼を受けます。私たちの受ける洗礼は主イエス・キリストの十字架と死と復活の恵みあずかり、キリストの体なる教会へ加えられるのです。主イエスが罪ある人間が受けるべき洗礼を共に受けて下さったことにより、私たち罪人と一つになってくださったのです。神様が愛する独り子を私たち罪人の中に遣わして下さり、その御子イエス・キリストが私たちの罪を背負ってくださり、私たちが受けるべき十字架の死を引き受けてくださったのです。そして、私たちに赦しと命をお与えくださったのです。その方と共に始まる1週間を歩んで参りましょう。

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