「わたしはある」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第3章13-22節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章21-30節
・ 讃美歌 : 157、447
白羽の矢
エジプトを逃げ出し、ミディアンの地に身を寄せ、そこで家庭を持ち、しゅうとであるエトロの羊の群を飼う者となっていたモーセに、ある日主なる神様が現れて、奴隷とされ苦しめられているイスラエルの民をエジプトから解放するためにあなたをエジプトへと遣わす、とおっしゃいました。そのことを語っている出エジプト記第3章の始めのところを先月この夕礼拝において読みました。神様がモーセに使命をお与えになったみ言葉は3章10節に語られています。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。
このように神様に白羽の矢を立てられたモーセは、しかしすんなりとそれを受け入れたわけではありませんでした。11節からは、神様の召しに対するモーセの抵抗が始まります。モーセは先ず、「わたしは何者でしょう」と言いました。彼は既に以前に、苦しめられている同胞をエジプト人の手から救い出そうとして立ち上がったことがあったのです。しかし当のイスラエルの人々に受け入れられず、エジプトを逃げ出してミディアンの地に逃れて来たのです。そういう挫折を経験していたモーセは、自分などにはイスラエルの民をエジプトから救い出すような力はとうていない、自分にはとてもそんなことはできない、と思っているのです。それに対して神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束なさいました。「わたしが必ずあなたと共にいて、あなたを支え、導き、助けるから、この使命を負ってほしい」と神様がモーセを説得しておられるのです。
モーセの不安
そこまでのところを先月読んだのですが、本日の13節以下でモーセは神様に新たな問いを投げかけています。13節に「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります」とありますが、これは、「神様から与えられた使命を引き受けました、おっしゃる通りにイスラエルの人々のところへ参ります」という素直な承諾の言葉ではありません。この後を読んでいけばそれが分かります。モーセが言っているのは、「わたしがイスラエルの人々のところへ行くとして」ということです。その場合、こういうことが問題になります、と言っているのです。その問題とは、彼が「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言った時、人々は「その名はいったい何か」と問うに違いない、ということです。これは要するに、イスラエルの人々に信じてもらえるだろうか、というモーセの不安です。先ほど申しましたようにモーセは以前イスラエルの人々のために立ち上がったことがあった、しかし彼らに受け入れられずに逃げ出したのです。そのモーセがノコノコ帰ってきて、「先祖の神が私を遣わされた」と語っても誰も信じないだろう、人々は「お前を遣わしたその神の名は何というのか」と問うに違いない。それは、お前を遣わしたというその神はいったい誰なのか、それは本当に我々イスラエルの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神なのか、ということです。そしてそれは要するに、モーセが本当に主なる神様から遣わされたのだという証拠を示せ、ということです。つまりモーセは、自分が神様から遣わされたのだということを人々にどう証明し、納得してもらったらよいのか、という不安を訴えているのです。
神の名を問う
このモーセの不安が、神様の名前を問うという形で訴えられていることが、本日の箇所の最大のポイントです。ここでモーセは、「人々があなたの名を問うたらどう答えたらよいのでしょうか」と言っています。神様のお名前を問うのはイスラエルの人々で、自分はそれに答えなければならないから、神様のお名前が知りたい、と言っているのです。しかしこの問いは、本当はモーセ自身の問いです。神様のお名前を本当に知りたいと思っているのは実はモーセ自身なのです。名前を知ることは、相手のことが本当に分かるために欠かすことのできない要素です。名前を知ることによってこそ、相手と自分との間に本当の関係が、交わりが生まれるのです。匿名の関係というのは本当の関係ではありません。そこには、人格的なつながりはないのです。モーセは今神様と出会い、神様によって重大な使命、任務を与えられようとしています。その神様との間に、本当に人格的な関係、交わりが生まれなければ、その任務を果たすことはできません。イスラエルの人々よりも誰よりも、最も神様のお名前を知りたいと思っているのはモーセ自身なのです。
神様は既に6節で、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とご自分のことを語っておられます。イスラエルの民の先祖たちと契約を結び、彼らの神となられ、イスラエルをご自分の民として下さった生けるまことの神様が、今、モーセに現れて下さったのです。そういう意味でこれは神様がモーセにご自身のお名前を示して下さった、自己紹介をして下さった、ということができます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というお名前が既に示されているのです。しかしモーセはここで改めて神様のお名前を問うています。それは、神様が今イスラエルの民に対して新しいみ業を行おうとしておられるからです。エジプトで奴隷とされているイスラエルの民を解放し、エジプトから導き出す、そういう新しい救いのみ業のために、神様はモーセを派遣しようとしておられるのです。この神様の新しい救いのみ業において、神様と民との間に新しい関係が、交わりが打ち立てられます。この新しい関係、交わりの中で、神様のお名前も新しく示されるのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というお名前も、神様がイスラエルの民の最初の先祖たちを選び、彼らと契約を結んで下さったという恵みのみ業の中で示されたものでした。今神様は、奴隷とされ苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから救い出そうとしておられる、その新しい恵みのみ業においてどのような新しいお名前を示して下さるのか、モーセはそれを問うているのです。そのお名前を示すことによってこそ、神様が今や新しい救いのみ業を行おうとしておられることをイスラエルの民に示し、納得させることができるのです。
神様のお名前とその救いのみ業とはこのように結び合っています。神様のお名前を新たに知らされるとは、新しい救いのみ業にあずかることです。神様の新しい救いのみ業にあずかることによって、私たちは神様のお名前を新たに示され、そのお名前が表している新しい関係を神様との間に与えられるのです。そういう意味では、神様のお名前を問うたこのモーセの問いは、私たち一人一人の問いでもあります。私たちも、神様のお名前を知りたいと願っているのです。それは単なる好奇心からではありません。神様と本当に出会い、その救いのみ業にあずかることは、つまり神様を信じて神様との交わりに生きる者となることは、神様のお名前を知らされ、そのお名前を呼びつつ生きる者となることなのです。
わたしはある
モーセはこのような切実な思いをもって、神様にお名前を問いました。主なる神様はその問いに答えて、お名前を示して下さいました。私たちが神様のお名前を真剣に求め、問うていく時に、神様はそれに答えて、お名前を示して下さるのです。神様がモーセにここで示して下さったお名前は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」でした。このお名前をどう訳すかは、聖書を翻訳する人々を悩ませてきました。以前の口語訳聖書では「わたしは有って有る者」となっていました。これらの訳から分かるように、「有る、存在する」という言葉がこのお名前の中で二度繰り返されています。「有る」という言葉が核となるお名前が示されたのです。
このことの意味を正しく理解しなければなりません。「有る」という言葉が二度用いられているのは、神様は「有る」のだ、存在しないのではなくてちゃんと存在しているのだ、ということを強調するためではありません。「わたしはある」を「わたしは存在する」と理解してしまうと、このお名前の意味を正しく捉えることができないのです。聖書の言葉、ヘブライ語において、この「有る」という言葉は、ただ「存在する」という静的な、つまり静かな動かない有り様を言っているのではありません。これはもっと動的な、言い換えれば意志的な意味を持つ言葉です。ある英語の訳ではこのお名前を、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」と訳していますが、これが、このお名前に込められた思いを最もよく表現した訳ではないかと思います。つまり神様はここで、「私は存在するのだ」と言っておられるのではなくて、「私は意志をもって行動し、その意志を実現する」と言っておられるのです。神様のそのご意志とは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、約束の地カナンへと導く、ということです。そのご意志が17節にこのように言い表されています。「あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した」。神様が今やこういう決心をもって行動を開始しておられる、ということが、「わたしはある」というお名前に込められ、示されているのです。この神様のご意志によって、モーセは立てられ、遣わされていくのです。
歴史を背負う神
神様はこのお名前に続いてモーセにこう言われました。15節。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名」。ここには先ほどの、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というお名前が再び示されています。その先祖たちの神がわたしを遣わしたのだとイスラエルの人々に言え、というのです。その後に「これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名」とある「これ」というのは、どちらの名前のことを言っているのか、「わたしはある」というここで示された名前なのか、それとも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という先祖たちに示された名前なのか、はっきりしません。それはどちらか一方ということではないでしょう。大切なのはこの二つともがお一人の神のお名前であることです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である方が、つまり先祖の神である方が、今モーセに、「わたしはある」という新しいお名前を示し、新しい救いのみ業を開始して下さっているのです。逆に言えば、今「わたしはある」というお名前のもとで、新しい救いのみ業を意志をもって始めておられる神様は、イスラエルの先祖たちと契約を結んで下さった神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なのです。この二つのお名前が結びつけられることによって、今新たに救いのみ業を行おうとしておられる神が、ご自分をイスラエルの民の過去の歴史と結びつけて下さっているのです。神様がお名前を示して下さるというのは、そのように、神様がご自身を民とその歴史に結びつけて下さるという意味を持っています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というお名前を示して下さったことによって、主なる神様は、ご自分がイスラエルの民の歴史を背負い、その民の歩みに責任を持って関わって下さる方であると宣言して下さったのです。その神様が今、「わたしはある」というお名前を示して下さることによって、イスラエルの民を奴隷の苦しみから解放するという新しい救いのみ業を始めて下さるという意志、決心を表明して下さったのです。お名前を示して下さることによって、神様はイスラエルの民との間にそれだけ深い、特別な関係を結んで下さるのです。
私たちが神様を信じて生きる信仰者となることにおいても、これと同じことが起ります。私たちが神様のことを、ただ「神様」としてのみ意識している間は、その神様は私たちにとって言わば匿名の存在であり、そこには先ほど申しましたように深い人格的な関係はありません。神様は多分いるだろうとただ漠然と思っていることは、信仰と呼べるような神様との人格的な交わりではないのです。私たちが本当に神様を信じるようになるのは、神様が具体的なお名前を示して下さり、私たちの歩み、人生と具体的に関わって下さり、この私をご自分のものとして背負い、救って下さるご決意を示して下さることによってなのです。その時神様は匿名の存在ではなくなります。具体的なお名前を持った方となります。漠然とした神様ではなくて、この私の神となって下さるのです。
主の名をみだりに唱えてはならない
神様がこの私の神となって下さる、というのはきわどい言い方です。それは神様が私の所有物のようになってしまう、ということにもつながりかねないからです。古代の世界には、相手の名前を知ることによってその相手を自分の支配下に置くことができる、という考え方がありました。相手の名前を知り、呼ぶことは、相手を理解することであると同時に、相手を自分の所有物にし、支配してしまうことにもつながるのです。それゆえにあの十戒の第三の戒めが与えられていったのです。「主の名をみだりに唱えてはならない」。神様のお名前をみだりに唱えるとは、自分の所有物のように、自分のために利用してしまうことです。それが戒められているのですが、そもそも神様のお名前を自分のものとして好き勝手に利用してしまうようなことが起るのは、神様がお名前を民に示して下さったからです。お名前を示さず、民とは距離を置いて、深く関わらずに匿名の神として遠くから支配していれば、そんな危険はなかったのです。しかし主なる神様は敢えてお名前をイスラエルの民に示し、この民と深く関わり、その歩みを背負い、この民の神となって下さいました。お名前がみだりに唱えられ、冒涜され、利用されてしまうかもしれない危険を敢えて犯して下さったのです。そこに、神様の私たちへの大きな愛があるのです。
神のご意志
「わたしはある」というお名前は、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」と訳すことができる、と先ほど申しました。そこには神様の強いご意志が示されています。そのご意志は、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救って下さるというご意志であるわけですが、それと同時にこれは、神様が、自らの意志によってのみ有る、つまり私たち人間の思いに支配されたりコントロールされるようなことはない、ということでもあります。モーセは、自分が本当に主なる神様から遣わされたのだということをイスラエルの人々に信じてもらうための証拠が欲しいと思って神様のお名前を尋ねました。それを知っていれば人々に自分のことを信じてもらえると思ったのです。そういう意味ではモーセの心の中に、神様のお名前を自分のために用いようという思いがあったと言えるでしょう。神様はそのような罪をはらんだ問いにもしっかりと答えて、お名前を示して下さったのです。しかしそのお名前は「わたしはある」「わたしは自分が有ろうとする者として有る」だったのです。これは、神様がお名前を示し、新たな救いのご意志を表明して下さったということであると同時に、人間がそのお名前を自分の支配下に置いて都合よく利用するようなことを断固として拒むというご意志の表明でもあります。神様はご自分のお名前を示して下さる時に、このみ心、ご意志をも私たちにお示しになるのです。名前を知ることは、相手を理解する第一歩です。名前を知ることで、相手のことをより分かるようになります。神様との間でもそれはそうです。お名前を示されることによって私たちは神様のことをよりはっきりと分かるようになるのです。しかしその「分かる」というのは、私たちがそれを自分の知識の一部としてしまい、自分のコントロールの中に置いて、必要な時にだけ出してきて用いることができるような、私たちの所有物となってしまうことではありません。私たちは神様のことをそのような意味で「分かる」ことはできないのです。神様はあくまでもご自分が有ろうとする者として有られる方なのであって、私たちのちっぽけな知識や常識や理性の中に収まってしまうことはないのです。私たちが神様のことを分かるというのは、知識を学んで理解することとは違います。神様のことが分かるようになるのは、神様のみ前に膝まづいて礼拝をすることの中でこそです。神様を敬い、み前にひれ伏して拝み、従っていくことの中でこそ、私たちは神様のお名前を示され、その救いのみ業にあずかることができるのです。
新しい救いのみ業とみ名
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてイスラエルの民の先祖たちにご自身を現して下さった神様は、モーセに、「わたしはある」というお名前を示し、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放する新しい救いのみ業を告げて下さいました。イスラエルの民は、この神様のご決意によって立てられ遣わされたモーセによってエジプトの奴隷状態から解放され、乳と蜜の流れる約束の地カナンへと導かれたのです。その主なる神様が、今や私たちのために、新しい救いのみ業を行なって下さいました。そのみ業によってこそ、神様がイスラエルの民を選び、彼らと契約を結ぶことによて約束して下さった祝福が成就、実現したのです。モーセを通して行われたエジプトの奴隷状態からの解放がひな型として指し示しているのは、この新しい救いのみ業なのです。その新しい救いのみ業は、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しました。この新しい救いのみ業の中で、神様のお名前も新しく、私たちに示されているのです。そのお名前とは「イエス・キリスト」です。神様は私たちに、今やこのお名前によってご自身を示し、救いを与えて下さっているのです。主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、今神様は私たちと深く関わり、私たちを背負い、私たちの神となって下さっているのです。この主イエス・キリストの十字架と復活において、「わたしはある」というお名前によって示された神様の救いの恵みは実現しました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第8章21節以下にそのことが語られています。その23、24節にこうあります。「イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる』」。
イエス・キリストは、「わたしは上のものに属している」とおっしゃいました。「上のもの」、つまり天に属する、わたしはまことの神だということです。そのことが、「わたしはある」という言葉に言い換えられています。主イエスこそまことの神であると信じることは、主神様がモーセに現れてお告げになった「わたしはある」というお名前が、主イエスにおいて実現していると信じることなのです。出エジプトの出来事においては、イスラエルの民をエジプトにおける奴隷の苦しみから解放することが、このお名前に込められた神様のご意志でした。しかし今や主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪と死の支配から私たちを解放して下さる神様の恵みのご意志が示され、実現したのです。「わたしはある」というお名前をモーセに示し、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」と宣言なさった神様は、このご意志を実現するために、まことの神でありながらイエス・キリストという一人の人間となってこの世に来て下さり、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、私たちを罪と死の支配から解放して下さる救い主となって下さったのです。
私たちは、この主イエス・キリストのもとに今集められています。イエス・キリストのもとに集い、イエス・キリストと共に歩むことによって、具体的なお名前をもって私たちの人生と関わって下さり、この私をご自分のものとして背負い、救って下さる神様との交わりを与えられます。このイエス・キリストのみ前に膝まづいて礼拝し、イエス・キリストに従っていくことの中で、私たちは神様のことが、その恵みが、本当に分かるようになるのです。神様を自分の知識の一部にしてしまうような分かり方ではなくて、私たちのちっぽけな知識や常識や理性をはるかに越えた神様の恵みによって罪の力から解放され、本当に自由になって、神様と隣人を愛して歩み、また主イエスの復活によって与えられている肉体の死を越えた復活と永遠の命の希望に生きる者とされるのです。