夕礼拝

救い主が生まれた

「救い主が生まれた」伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第7章14節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第2章8-14節
・ 讃美歌:259、265

 今日の朝に行われましたクリスマス礼拝を、教会全体で、大変な喜びをもって守りました。クリスマスというと、イエス・キリストの誕生日として考えられているのですが、本当を言うとイエス・キリストが12月25日にお生まれになったのかというと、そうではないようです。しかし、何月何日に生まれたかはわからないのですが、間違いなく確かなことが一つあります。それは何月何日かは、分からないけれども、「イエス様が誕生をした」ということ、そしてその誕生の「日」があったということそれは確かです。言葉を替えていいますと、イエス・キリストというお方は、神話や伝説の中の人物ではなくて、まさに歴史上の実在の人物であったということです。どうしてそういうことを、強調して言うのかと言いますと、イエス様が本当に歴史上の事実として、この世に生まれたということは、実はわたしたちの生きるか死ぬるか、救われるか滅びるかということに直接かかわりがあることだからです。イエス・キリストの誕生について、それが何を意味するかということについて知るために、今日共に聞いた天使の言葉を再度聞いて見たいと思います。ルカによる福音書の2章の10節以下です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」ここにクリスマスをなぜわたしたちが祝うかということの意味が、しっかりと言い表されています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」「今日」という日が12月25日であったかどうかということは分かりませんけれども、この「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われる「今日」という日があったということです。そしてそれは、このわたしたちが住んでいる地球上のある一点において起こった、まさに歴史の事実です。そしてそ、その一人の幼な子の誕生は、あなたがたのための救い主の誕生であったと言われております。わたしたちはクリスマスにあたって、この言葉をしっかり受け止めることが、クリスマスを本当に祝うに当たって大事なことです。

 ここに「あなたがたのために」とあります。この「あなたがた」というのはいったいだれでしょう。もちろん、この言葉は、この知らせを聞いたユダヤの羊飼いたちに言われている言葉です。ですから羊飼いたちのために生まれたということは当然であります。しかしこの「あなたがた」という言葉は、そこにいた羊飼いだけを意味しているかどうかと言えば、イエス様はその数人の羊飼いのために生まれてきたわけではないのです。この羊飼いは、その代表です。どういう人を代表しているか、羊飼いは当時の政治的な、社会的な状況の下で一番しわ寄せを受けている貧しい人たちでありました。彼らの生活が明るく、楽しいものになるという希望は、どこにもなかったのです。生きていく毎日が、苦労の連続でありました。現にこの時にも、人々が家で休んでいる時に、羊と共に野原で野宿をしていた、そういう人たちであります。そういう人たちを選んで、天の使いがこの「あなたがたのために救い主がお生れになった」という知らせを持って来たのです。

 では、その「あなたがた」とはだれでしょうか。羊飼いに代表される「あなたがた」とはだれでしょう。それを知るために、わたしたちは、後に成長なさって人々に福音を語られた、そのイエス様御自身の御言葉を聞いてみたいと思います。それはマタイによる福音書11章28節の言葉であります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは、ベツレヘムの馬小屋の中で生まれた独り子が、成長して大人になった時に、御自身の口から語られた御言葉です。イエス様は、この「イエス様が呼びかけておられる人たち」のために来られたのです。それは、疲れた者、重荷を負って苦労している人たちです。羊飼いたちもそうでした。労苦と重荷を背負い疲れた者でした。しかしイエス様がこの福音を語られたのは、羊飼いにだけではありませんでした。イエス様は、ユダヤの国々をまわって、あちこちの村々でそういう人を見つけ、そういう人に呼びかけられました。「あなたはとても疲れている。疲れきっている。わたしのもとに来なさい」そういうふうにして呼びかけられて、本当の休息を与えられ、平安を与えられた人たちのことが、福音書にいくつも書いてあります。イエス様は、疲れた者、重荷を負って苦労している人たちのために、救い主として来られた、そういうことをわたしたちは今日ここで、もう一度しっかりと心に留めたいと思います。

 そして、そのイエス様はただ同情したり、慰めの言葉を語ったり「わたしはあなたの味方ですよ」というようなことを言って励ますために来たのではなくて、「救い主」として来られたのです。世界中の人たちが、このイエス様の誕生を喜び祝っています。「そんなことは分かりきっている」と、わたしたちは思います。しかし、わたしたちは、本当にこのイエス様はわたしの救い主であるということを受け取っているでしょうか。クリスマスにあたって、わたしたちがもう一度確認をしなければならないことは、このことだと思うのです。毎年毎年クリスマスをお祝いしますけれども、その度に一年の自分の生活を省みて、そして現在の自分を省みて、わたしは本当にイエス・キリストをわたしの救い主として受け止めているだろうかということを、確かめてみることが大事だと思います。わたしたちがどうあろうと、イエス様が救い主としてお生まれになったということは、これは間違いのない事実です。けれども、わたしたちがイエス様のことを救い主として知らなかったら、いったいどうなったでしょう。イエス様がお生まれになった時に、この羊飼いたちは天使からその知らせを受けている。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」という知らせを受けて、それを信じている。そしてそのイエス様を見るために出かけて行きました。そして彼らは、自分のために救い主が生まれたということを知ったのです。この羊飼いたちが知ろうが知るまいが、イエス様が生まれたということは変わりありません。けれども知らなかったら、いったいわたしたちの中に何が起こるでしょう。イエス様はわたしたちの罪をあがなうために十字架についてくださいました。信じようが信じまいがイエス様の十字架という事実はあります。けれどもだれも知らない、だれも信じなかったら、イエス様が十字架についたということは、わたしたちにとって救いになるでしょうか。キリスト教の救いというものは、キリストによる事実と、それを宣べ伝える福音とがいつでも一つになっています。わたしたちのために救い主が生まれたという事実と、あなたがたのために救い主が生まれましたという知らせとが、いつでも一つになってわたしたちの所にまいります。ですからわたしたちはその知らせを聞いて、その事実の本当の意味を知り、それを自分のこととして受け取るのです。わたしたちがこの知らせを本当に受け取らなければ、イエス様がせっかく救い主としてお生まれくださったことが、その人にとっては何も意味がないことになります。その人の生活はちっとも変わらないでしょう。イエス様の事実について語られたこの知らせを、わたしたちが本当に受け取る時に、わたしたちはそこに神の救いを見ることができます。神様が、どんなにわたしたちを愛してくださっているか、たとえ現在どんな困難な、惨めな状態に置かれていても、神様がそのわたしたちを忘れてはおられない、わたしたちの救いのために、わたしたちの祝福のために、心を砕いていてくださるということを知ることができます。全能の神が、わたしのこの小さな存在を本当に心に留めていてくださる。旧約聖書のイザヤ書49章16節を見ますと、神様がイスラエルの名前を自分の手のひらに彫りつけたと書いています。わたしたちの名前が神様のお身体に、そして御心にも深く、彫りつけられている。そういうことがこのイエス・キリストの誕生においてわたしたちに告げられているのです。

 3.11があった2011年のあの年に、何かもうわたしたちは、今、自分の造り出したものでだんだん死の中に追い詰められていくような、そういう感じを受けました。かつて人類は、科学というものは無条件にいいものだと、そう思ってきました。その科学が神様にとって変わるような時代もありました。神様を捨てた人間の力で造り出したものがあるということ。そして、人間が造り出した者の中には、人間の罪があらわれることが多くある。そしてその物の中には、わたしたちの罪がその物にも根を張っている。人の力が小さい間には、それは目に付かないのですけれど、それがだんだん大きくなってくると、その全く無害だと思われていた自然科学の中にも、どうしても人間の罪が入り込み、根を張っていることがだんだん明らかになってきました。やっぱりわたしたちは、生きている上で、大なり小なり問題に出会う。その問題の多くは、このわたしたちの罪が生み出したものです。神様を忘れ、神様を主とせず、自分を主とする。そして自分を主として、自分の自由と益だけを豊かにするものだけを選び取っていく。そんな中で文明が発展して行きました。旧約聖書が人類の最初に、罪の問題を持ってきているということは、これは大変深い洞察なのです。そしてその罪から、知恵と力の文明が生まれている、そういうふうに旧約聖書は世界を見ています。世界中の賢い人たちが何とかして、この人間が滅びることから、正しい道へ返ろうとして努力しているのですけれども、もう泥沼に足を取られたように、どうしようもない力でだんだん悪が大きくなっているようにわたしは感じてしまいます。

 そういう中で、もう一度クリスマスのメッセージを静かに聞き、わたしたちが神様に立ち帰るとは、どういうことなのでしょうか。「あなたがたのために、きょうダビデの町に救い主がお生れになった」この3.11以後の時代、巨大な文明が人間を押しつぶそうとするこの時代に、このクリスマスのメッセージは意味を持っていると受け止められるでしょうか。わたしたちはこのメッセージは遠い昔の人たちへの単純な慰めの言葉だとしてはいないでしょうか。わたしたちはここで問われていると思います。「本当にあなたは、イエス様を自分を救う、世界を救う、救い主と信じますか。」人が宇宙への移住も考えるこの時代に、原子の力を解放する人間の知恵の前で「あなたは本当に、イエス・キリストが世の救い主であり、わが救い主であるということを信じますか」と、問われていると思います。「本当に信じます」と、心の底から言えるでしょうか。そういう深い問題に出会わない時に、わたしたちが「キリストを救い主と信じます」と言うことは、やさしいことです。けれども、どうしようもない困難の中に置かれて、深い問いかけを受けた時に「そうです」と言うことができるということは、大変難しいことです。もし、この暗い、恐怖が支配する現実の中で、本当にイエス様がそれを解決してくださると、信じ、告白することができるとするならば、それはまさに、神様がわたしたちの中に起こしてくださった奇跡としか言いようがありません。それは聖霊なる神様に導かれなければそれは、告白できません。だから、本当にこのメッセージを受け止め、信じ、告白し生きるために、まずわたしたちは聖霊なる神様の導きを祈りたいと思います。

 パウロがローマの信徒への手紙の1章で「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と言っています。あの時にパウロは、何も知らないで井の中の蛙のようになって、こんな大きなことを言ったのではありません。彼は、人間の叡智、知恵の塊のようなギリシャの文化を知っていました。そして、彼はまたローマ帝国のあの巨大な力を知っていました。その前で彼にとってのイエス・キリストとはいったい何だったでしょう。十字架につけられて死んでしまった一人の囚人であります。その一人の囚人を世の救い主と信じる。ギリシャ人も、ローマ人も、ユダヤ人もみなこのイエス・キリストによって救われるということを、宣べ伝える福音を恥としないと言っています。どうでしょう、わたしたちはこの現代の文明の中で、本当に福音を恥としないで、宣べ伝えていけるでしょうか。これは、今日この時代に生きているクリスチャンに問われている問題であり、また神様からこの福音を証し、宣べ伝えよと託せられている大きな役目です。最後に、もう一度わたしたちは、このクリスマスの夜に響きわたった御使いの言葉を、本当に自分のメッセージとして受け止めたいと思います。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 わたしたちは今「しるし」を持っています。それがどんなに大きな救いであるか、現実には目に見ておりません。しかし神様がこの世をお見捨てにならず、心に留めてその救いのために、充分な備えをしておられるという「しるし」を、この独り子の誕生の中に見て信じたいと思います。

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